●10 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ | ラケットちゃんのつぶやき

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●10  要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ



このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。

要法寺との通用
日精時代の造像と法主信仰
国家権力に屈し、日蓮本仏論へ
造像廃止への流れ
三鳥派日秀による混乱
日宥と将軍家天英院、日蓮本仏論への期待


■要法寺との通用

 こうして、左京日教が、「本因妙抄」の他に「百六箇抄」「産湯相承」等の相伝書を教学の根本に据え、人材難のため若年で当座した法主を教育し、大石寺のその後の教学に大きな変革をもたらしていくのである。

 この流れの中で、1575年に継いだ14世日主は、大石寺として板マンダラを、本門戒壇、一閻浮提総与の御本尊として、初めて世に述べた。
「大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊、法体付属」(「日興跡条々事示書」)
 重須の北山本門寺6世日浄が1494年に、日有が「未聞未見の板本尊を彫刻した」と指摘してから、100年近く経ってからのことであった。


 一方、政治の中心であった京都においては、1536年(天文五年)7月、比叡山延暦寺の衆徒18万人によって、日尊の上行院、その弟子日大の住本寺を始め、日郎門流の等、京都の法華宗21寺すべてが襲撃され、焼失した。(天文法華の乱)
 後に1550年(天文19年)16寺体制で復活したとき、造像論・法華経一部読誦論の主唱者である日辰によって上行院・住本寺が合併され要法寺として再建された。

 法華宗諸寺とは「一致派・勝劣派ともに法理一統」とし、「一味同心して弘教する」等という盟約までなされた。

 再び繁栄した日辰は勢いに乗って、富士門流を統一しようと、富士五山へ通用を働きかけてきたが、左京日教によって育てられていた大石寺の時の法主は、これを断った。

 一方、京都では天文法華の乱の6年後、京都に戻って栄えていた要法寺では、日辰が教義を根底から変更し、釈迦仏中心の本尊を立てて、以降も、経済的安定があり、盛んに造像を行なっていた。
 日辰が最も批判したのが左京日教であるという。

 一方大石寺はその後経営難と人材難に陥り、その打開のため、1587年、京都の要法寺20世日賙に対し、3世日目の本尊を贈与して通用を申し出た。
 これに応えて要法寺日賙から日興の本尊が大石寺に贈られ、両山一寺の盟約が成立する。
 そして大石寺は要法寺から法主の派遣を受け入れることになった。 
 盟約では、事実上、大石寺が要法寺傘下に入ることであった。
 今風に言えば、親会社が経営不振に陥って、金持ちの関連会社の支援を受け、そこから社長を受け入れるようなものであろう。

 時の大石寺14世法主、日主は断腸の思いだっただろう。33歳で退座して下野蓮華寺に隠居した。
 また、要法寺から派遣されて法主となった15世日昌も、要法寺に反発する大石寺の檀家・宗徒から歓迎されず、苦労したあとがみられる。

 要法寺からの法主の派遣は1594年15世日昌、16世日就、17世日精と続き、以下18世日盈、19世日舜、20世日典、21世日忍、22世日俊、そして23世日啓が、大石寺出身の24世日永に相承する1707年までで、9代、113年間に及んだ。



 この1594年は室町幕府滅亡後、京都に上った秀吉が太政大臣になった翌年で、社会的にも混乱時期であった。
 翌年の1595年(文禄四年)には、京都において秀吉から大仏建立のために各宗から計千名の僧を出すよう命がくだったが、その出欠をめぐって受不受論争が起きた。
 日蓮は権力に屈することなく、権力からの供養も受けることはなかった。

 謗法の徒からの布施を受けないことは日蓮の遺文にもあり、日蓮が生涯にわたって貫いた教えでもある。

 ここでは、謗法の信徒のために経をよみ、見返りに供養を受けることが日蓮の教えにかなうかどうかで、大論争となったのである。

 前述したが本満寺日重たち受派は、謗法供養の不受につき、権力者だけは例外とする王侯除外論を展開、対して妙覚寺日奥たち不受派は、あくまで日蓮古来よりの、他宗からの供養不受を貫き、これに出席しなかった。
 両者は秀吉の死後1599年(慶長4年)にも、大阪城において、浄土宗の信者であった徳川家康の面前で対決した。

 権力を諫めた不受派は、家康の弾圧により日奥が対馬に流罪となり、他の不受派も散っていった。


 こうして、権力の弾圧に対し、生き残り優先の教団擁護論と、教義の妥協を目的とする教義時宣論が、処世術となっていく最中であった。


 こうした弾圧は、日昌の時代、京都から離れていた大石寺には直接の影響はなかったが、要法寺からの派遣である次の日就、日精へと続くにつれて、江戸幕府の寺社奉行による支配、受派となった要法寺の造像の影響が大石寺やその末寺に及んでくることになる。

 「安土・桃山時代から江戸時代にかけて、京都の要法寺から約百年、九代にわたり大石寺貫首となるべき人が大石寺に来た。第十五世日昌上人などは、三十二歳で大石寺に来て、三十四歳で登座した。 貫首の座(猊座)を空席にしないために、苦心惨憺している様子がうかがわれる。
 要法寺から来た大石寺貫首のうち、とりわけ第十七世日精が大石寺に要法寺流の邪義を持ち込んだ。 日精は「法華経一部読誦」「釈迦仏造立」などの邪義をかまえた。」(地涌からの通信第691号)

 1630年、幕府は不受派弾圧のため、受派身延対不受派池上の対決を江戸城で行わせ(身池対論)、領袖であった日奥は再び対馬流罪となったが、配流前に死去したので遺骨が対馬に送られた。

 池上の日樹も流罪、対決した他の高僧も追放となった。


■日精時代の造像と法主信仰

 こうした江戸時代、次に大石寺を継ぐことになった日精は、大きな勢力を持つ阿波国主蜂須賀至鎮公夫人である敬台院の帰依を受けて、寛永8年(1631年)頃には江戸の法詔寺の住職であった。
 日精は、翌1632年に、大石寺本門戒壇堂(現在は御影堂)建立に際して、法詔寺において日就より相承して大石寺17世法主となる。
 そして、戒壇の板マンダラを本門戒壇堂(御影堂)に移して公開したのである。
 翌1633年年法主を日盈に譲る。
 この日盈の時代の1635年(寛永12年)10月12日、大石寺は大火事となり、本堂・山門・坊舎など多くを焼失し、大きなダメージを受けた。
 時代は身延山久遠寺が、幕府権力を背景に日蓮系不受派寺院を次々と支配下に置き始めていた最中であった。
 日盈は法主になって5年後の1638年(寛永15年)病気で遷化する。
 日精はその後、再び大石寺法主と江戸法詔寺の住職を兼ねることになったが、養母敬台院の意に背いたことで、両方の寺を退出し、江戸下谷常在寺に移った。

 敬台院は日精の書写本尊に対して
 「この日精筆の曼荼羅は見る度に悪心が増して来るので、大石寺衆中に帰します」
 という。
 この巨大な権力を持った大檀那は、自らの意に叶う法主を次々に大石寺住職とし、意に背くものは首のすげ替えをした。
 大石寺は火事で多くを焼失していた上、法主不在、住職不在の非常事態となり、江戸時代の御朱印免許が受けられない、廃寺の危機となった。

 そこで、敬台院が法詔寺の日感に相談して日舜を後継と定めた。
日舜は、寛永18年(1641年)に大石寺に入り、その後、日精の指名も相承もないのに本尊書写をするなど、法主の務めをしていた。

 その一方、身延山久遠寺は幕府を背景に不受派の寺を屈服させ、次々に末寺とした。
 富士五山への圧迫も続き、大石寺は態度を不明確にしていたが、19世日舜の時の1641年(寛永18年)、ついに寺請制度を進める江戸幕府の権力や身延の圧力に屈して、66石8斗5升余の朱印状(下賜米を受ける書)をもらい、日蓮の教義を大きく曲げ、受派として禄の供養を受けたのである。


 こういった時代背景の中、若い35歳の法主日舜のことを、後見人の日感は心配し、大石寺の4人の有力檀家に書状を送り、日舜への無条件の信伏随従を説く。
「日舜はいまだ御若年あるので、寺内の僧侶や檀家はきっと軽々しく接しはしないかと気を揉んでいます。…別して大石寺は金口相承と申して、この相承を受けた人は学不学によらず、生身の釈迦・日蓮と信ずる信の一途を以って、末代の衆生に仏種を植えしむることと大切にしています。…御相承を受けて、貫主として決まった以上は、一山の僧俗 皆 貫主のいいつけに随い、決して貫主の座上を踏むようなことがないよう、信の一字の修行を行なってください」(日感書状、前掲書P191)

 その日感も、数年後には追放されてしまう。

 日舜がようやく19世の法主となったのは正保2年(1645年)で、かの有名な島原の乱(1637年)の鎮圧の後であり、敬台院と和解した日精から、ようやく正式な血脈相承を受けたのである。

 この、まさしく「法主信仰」と呼ぶしかない状況は、1603年成立した江戸幕府、寺請制度も絡んで、さらに補強されていった。
時代の暴力的主従関係・絶対服従の関係は、こうした信仰の世界にも及んでいった。


 とりわけ、日精について重要な点は、大石寺門流に造像が始まったことである。
 ただし、末寺のみで、大石寺では造像しなかった。
 「寛永年中法詔寺の造仏千部あり。時の大石の住持は日盈上人…中略…法詔寺の住持は日精上人」(百六箇対見記)とあり、法詔寺では大がかりな造像を行なった。
 新たな布教が禁止され、自らを讃嘆し他宗を批判することを禁じられた寺請制度の下、寺の存続の為に限られた檀徒・信徒からできるだけ多くの供養を受ける目的もあったのであろう。

 日精が江戸下谷常在寺に移り、正保2年(1645年)大石寺法主を日舜に譲った後も、遷化までの45年間、日精の周りには多くの武士や多様な人々が集まって、彼の説法を聞いた。
 大石寺門流への影響も強く、大石寺の日蓮・日興の御影像、細草壇林の本尊、大石寺御影堂本尊、甲斐有明寺の日有御影も、日精の造立である。

 後に「日寬」と名を変えて法主になる伊藤市之進が、出家を決意したのは、日精の最後の説法を聞いたからであった。



 日精著「家中抄」の日就伝には、「寛永九年十一月、江戸法詔寺に下向いて、直受相承をもって予に授け、同十年二月二十一日没したもう」とあるが、日蓮正宗の資料では、日就の位牌・過去帳・墓碑すべて寛永九年二月二十一日没なのであり、相承の時期はすでに没していたことになって、矛盾が生ずる。
 そこで日蓮正宗では、日精の相承時期を寛永九年一月とし、「家中抄」の「十一月」記載は、「一月」の誤写であるという。
 これをあげて、関慈謙は、
 「写した人が一に十を足して十一とすることがありえようか…中略…血脈相承には空白が絶対にあってはならないという無意味な固定観念からである」(前掲書P173)と述べている。



 「長い宗門史の中には、内証血脈を忘れた表面的な外相一辺倒の血脈観ではどうにも説明のつかないことがあるということを証明しているに過ぎない。表面だけにとらわれた金口嫡々の相承など、すでに先師自らが否定されているように、とうの昔にない。またそれが血脈の真意義でもない。
 日蓮正宗史の中の私たちが触れたくないような暗いできごとは、いくら蓋をしてもいつかは誰かによって白日のもとにさらされるものである。私たちはこの際虚心坦懐になってもう一度日蓮正宗伝燈の内証血脈というものを見直すべきではないか…中略…
 歴史上の表面上の血脈に断絶があったにしても、それによって宗祖の仏法が断絶するわけではない。宗祖の慈悲は、自覚するしないにかかわらずいつでも私達一切衆生に流れている。私達が信の一字をもってそれを自覚するとき、そこに血脈は流れるのである。
 日蓮正宗の先師に自ら表面上の血脈否定の言辞があるのは、血脈の真意義がいかなるものかよく理解されていたからである」(関慈謙、前掲書P196-197)


■国家権力に屈し、日蓮本仏論へ

 更に、次の代の日典は、1665年(寛文5年)幕府が寺領を供養として下付するとして、各寺に請書の提出を命じたとき、公に「受派」であるとの証文を出し、謗施を受け取った。

「一、指上げ申す一札の事、御朱印頂戴仕り候儀は御供養と存じ奉り候、此の段不受布施方の所存とは各別にて御座候、仍って件の如し。
 寛文五年己八月廿一日
        本門寺、妙蓮寺、大石寺
御奉行所。」(富士宗学要集8)

 日蓮の教えに背を向け、謗施を受けて生き延びる。
幕府の権威におもねり、謗施を受けながら伽藍を整えていく。
こうして大石寺も、日蓮の精神に目をつぶり、皮相的な繁栄の道を選んだのである。

 「大石寺は日蓮大聖人の弟子としての法義を捨て、国家権力の威迫の前に名実ともに屈服したのであった。日奥の率いる京都妙覚寺はなどとは比べるべくもない不甲斐なさであった…中略…それ以降、大石寺は幕府より下される寺領などを御供養であるとし、謗施をもって生活することに甘んじたのであった」(地涌からの通信別巻2、不破優著、1993/11/28 はまの出版 P89-90)


 「大石寺においても幕府公認の寺院として、宗旨人別帳の作成と葬送儀礼の執行を通して檀家制度を遵守していたことに変わりはなかった。
 ただし、檀家制度の確立と身延の隆盛のなかで、大石寺をはじめとする富士門流(大石寺・妙蓮寺・西山本門寺・北山本門寺・小泉久遠寺の五寺を中心とする)は厳しい規制を敷かれ、勢力は振るわなかった。幕府が本山格に作成・提出を命じた寛永の末寺帳によれば、富士五山は身延の末寺として組み入れられてたのである。当時大石寺は江戸にあった本妙寺という身延派の寺院の配下にあり、大石寺から派生した異流義の三鳥派(十七世日精の弟子・三鳥日秀を派祖とする)の取調べや金沢における大石寺信徒の法難での取調べに本妙寺が介在している(『富士宗学要集・九巻』)ことからも、日蓮教団の中では、きわめて弱小な存在であったのである。それに対して身延山久遠寺は、幕府の宗教政策に便乗、協力し、幕府の圧倒的な権力のもとに教団の頂点に立つことに成功、ついに総本山格として君臨したのである。
 しかし、その栄光の代償として身延のとった方針は、布教禁止の甘受、自賛毀他の放棄、他宗信者(将軍は浄土宗徒であった)供養の寺領拝受(謗法供養となる)というきわめて重大な制法無視の暴挙に等しいものであった。この身延の変節に対して、謗施は絶対に受けないという立場の不受派は身延堕獄論をもって対抗し、幕府の激しい弾圧の前に壊滅の運命をたどる。
 身延の信徒にあってもこの妥協的・自己保身的な本山の体質に納得できず、不信感は根強いものがあった。このような反対勢力に対して身延は日暹(二十六世)・日境(二十七世)・日奠(二十八世)の三代貫主が、それこそなりふりかまわぬ幕府訴訟を繰り返し、幕府の絶大な力を頼んで排除していくという、きわめて非宗教的な戦略のもとに身延覇権を実現していったのである。
 身延は大石寺をはじめとする富士五山にも不受派禁制の幕府の命にしたがい、国主供養の一筆を取ろうとしている。これに対し富士五山は、はじめは不受義に立って抵抗した。しかし、寛文五年(一六六五)幕府は不受派撲滅の挙に出て、寺領を供養として受け取れば、その証として朱印状を発行する方針を打ち出す。これによって寺領供養を拒否した不受派寺院は弾圧の前にことごとく散っていったのである。大石寺をはじめとする富士五山はやむなく朱印状を受理し、謗法供養不受の立場を捨てて、王侯除外論を甘受するにいたったのである。時に大石寺は要法寺系の二十世・日典上人の時代であった。」(日本人の仏教観と檀家制度 小林正博 潮 1991/4号)


 「そもそも、寛永十二(一六三五)年に大石寺が焼失した原因は何だったか。…中略…それは言うまでもなく、仏の法が失われ、守護の善神が去ったからである。
大石寺では焼失の三年前に戒壇の大御本尊を御影堂に安置し公開した。時来たりて本化国主到来の日まで堅く護らなければならない大御本尊を、広宣流布の日を待たず公開したのであった。
 このとき大石寺貫主は、第十七世日精であった。日精はこのほかにも造仏読誦という邪義まで構えていた。
そのため、大石寺は焼失したのである。ところが当時の大石寺の者たちは、謗法を犯したことを懺悔滅罪するどころか、幕府権力にすり寄り、謗施を受けることによって再び繁栄しようと考えたのである。
 大石寺は、膨大な謗施を江戸幕府から受けることにより、寛永十二年の大火で焼失した建物のほとんどを再建する。だがこのとき焼失した五重塔(宝塔)の再建は、寛延二(一七四五)年まで待つことになる」(地涌からの通信別巻2、不破優著、1993/11/28 はまの出版 P139)

 不破優は、現日蓮正宗の歴史を上記のように批判しているが、後述するように、この流れや大石寺内の考えを確実に受け継いで日蓮本仏論を主体とする教学を確立した日寬については、日蓮を御本仏とする自らの主張と相反するためか、巧妙に批判を避けている。


 日精から特に日寬、そしてそれ以降の大石寺の態度は、日蓮正宗や創価学会では、ほとんど取り上げられたことがないが、それは日蓮本仏論が確立された背景が、ことのほか不都合な歴史であったためである。
 それは、法難を受けた不受派が謗法の布施は受けないという日蓮の精神を純粋に貫いて散っていくのを横目で見ながら、自らは全く逆の、謗法の権力から布施を受けて生き永らえてきたからだ。
 日蓮のたび重なる法難の生涯、また、熱原の農民が法難に散っていった歴史を、日蓮本仏論と共に讃嘆する以上、何としても隠しておかねばならない、極めて都合の悪い史実なのであった。

 日蓮は、立正安国論において、鎌倉幕府に対し「設い五逆の供を許すとも謗法の施を許さず」(御書P29)と諫暁した。
 日蓮は、松葉ヶ谷、小松原にて、何度も命を狙われ、「今度 頚を法華経に奉りて」(種種御振舞御書、御書P913)龍ノ口の刑場へ向かい、熱原の農民たちの殉教の態度(熱原の法難)を見て、「余は二十七年なり」(聖人御難事 御書P1189)と、出世の本懐を遂げたとした。
 この聖人御難事において、日蓮は、法難の厳しさへ覚悟を促され、法難を受けている熱原の農民への指導として、現地の鎌倉で対応する日興たち門下に、
 「彼のあつわらの愚癡の者ども・いゐはげまして・をどす事なかれ、彼等にはただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定とをもへ ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、をそろししと・いわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ」
《かの熱原の愚癡の者たちには、強く激励して、脅してはならない。彼らには、法華経のために、ただ断固として思い切れ、善くなるのが不思議であり、悪くなるのが当然と思え、ひもじいと思ったら餓鬼道の苦しみを教えよ。寒いというなら八寒地獄を教えよ。恐ろしいというなら鷹に狙われた雉、猫にあった鼠を他人事と思ってはならないと教えよ》
と、指示している。

 また、同様な文証はいくらでもある。
 「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(御書P1282)
 「彼れ彼れの経経と法華経と勝劣・浅深・成仏・不成仏を判ぜん時・爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず何に況や其の以下の等覚の菩薩をや、まして権宗の者どもをや、法華経と申す大梵王の位にて民とも下し 鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし」(御書P1282)
 「世間の法とは国王大臣より所領を給わり官位を給うとも夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云うなり」(御講聞書)
 《世間の法とは、国王や大臣から所領を受け、官位をもらっても、それには染められず、謗法から供養を受けないことを「世間の法に染まらず」というのである》

 京都の不受派は、この日蓮の「法」を弘める精神を貫き、謗法の者からの布施を断固拒否して、弾圧の下に散っていったのである。
 これらは、歴史上においても、法を貫く精神・行動においても、讃嘆するべきものである。

 創価学会は、折伏経典においてこの不受派に対し、
 「その教義は身延系統と同じく本迹一致の邪義である」(折伏経典、1961/5/3 創価学会 P175)
 と、一蹴ている。


 これに対し、受派は、大石寺も含まれるが、結果として権力におもねり、殉教精神を捨てたのであり、日蓮仏法の観点に立てば、
 「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし 我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは 螢火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり 烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。」(佐渡御書 御書P961)と、日蓮が度々指摘している、修羅の諂曲や畜生の態度と指摘されてもしかたがないのである。

 そして、日寬の日蓮本仏論をはじめとする大石寺の教学の確立には、頭では分かっていながらこうした不甲斐ない歴史を歩みつつある自らの教団を正当化・正統化するためでもあったであろうことは想像に難くない。
 そして、この教学を論じる上で、決して見逃してはならない点である。
 これを見逃すと、結果として日蓮の「法」に対する態度、殉教精神を一段蔑むことにもつながり、日蓮門下と名乗る誠実な弟子とは言えなくなるであろう。


 「さて、日寛上人の一代前の第二十五世日宥上人は、焼失した三門を再建するため徳川幕府から大木七十本の供養を受けた。大石寺は寛永十八(一六四一)年に幕府から「朱印」を供養としてもらうことを了承している。
 大石寺は信仰していない者から謗施を受けていたのである。三門再建にあたり、大木七十本を幕府からもらい受けたのは、謗施に慣れ親しんだが故である。
…中略…
大石寺は、宗祖の教えに背き命脈を保っていたのだ。」(地涌からの通信第691号)

 日蓮本仏論を確立したという、次の26世日寬は、日宥とほぼ同世代を生きたので、当然にこの状況に実質的に参画していることになる。
 日寬は、1711年、学頭として連蔵坊に入り、日蓮の御書や天台学を講義していた。1726年日宥よりも3年早く遷化するまで日蓮本仏論などの日寬教学を展開し続けたが、その期間は大石寺の三門等が、謗施を受けて再建されていく最中であったことに注目すべきである。

 国家権力に屈し、その国家にとって都合の良い、差しさわりの無いアニミズムへと、教義が次第に傾いていった帰結が、依法不依人とは対極の「日蓮本仏論」であった。


■造像廃止への流れ

 要法寺系の第21世大石寺法主日忍の遷化により、1860年(延宝8年)22世法主として要法寺から派遣されたのは日俊であった。
 日俊は若くして要法寺29世日詮の弟子となったが、細草檀林に学び、第8世能化となっていた。
 日俊は日辰・日精の造像に不審を抱いていたのだろう。
 大石寺の檀家は要法寺に対して日俊を要請したという。


 時代は身延山久遠寺が幕府の宗教政策に加担し、1670年の授不受論争で池上本門寺などを末寺に加えるなど、勢力を拡大していたが、折伏を捨ててた代わりに本尊として鬼子母神・十羅刹女信仰を取り入れ、これが盛んに流行となって、富士五山へ影響していた。
 実際、北山本門寺には十羅刹堂ができ、大石寺門流にも動揺が広がっていた。
 さらに、後述するが、他門から日精の弟子となり、その後破門された日秀は相承をすべて請け取ったと主張、造像と本因妙抄・百六箇抄を根底とする本因妙思想に依った日秀書写本尊が多数出回り、日精も彼と対立たが布教がますます盛んになり、大石寺門流内で大きな問題となっていた。

 日俊は、要法寺系法主ではあったが、こうした、自門流から三鳥派へ拡大した本因妙思想、元来の造像義、外部からの鬼子母神信仰などに対抗するため、抜本的な法門教学の見直しに迫られていたのである。

 そこで日俊は、数年の法主時代に、日精の遷化を待って、大石寺末寺から仏像を次々と撤廃しはじめ、やがて一掃した。

 日俊著「法華取要抄記」を関慈謙は、下記のように挙げている。
 「自宗の元祖の教訓であるというだけで、伏して信じて本師に執着するのはあさましいことである。捨劣得勝は仏法の通制なれば、たとえ我が厚恩の師の教訓であっても、邪義ならば捨てるべきである。日俊はたとえ宗祖日蓮・二祖日興の御筆なりとも、自分自身に納得がいかなければ、吟味の上で捨てるべきである。けれども、玉は磨くに従って光を倍し、紅は染まるに随って色が鮮やかになる。
日蓮・日興の御義の玉は、吟味するに従って、いよいよ甚深の義分明なり。ありがたし、信ずべきなり」

 日俊は造像撤廃の最中又は終了後に、再び造像義の要法寺へ招請されたが、これを断り、大石寺23世法主を日啓に相承して隠居した。

 その後を相承した日啓に早速待っていたのは、造像撤廃に対する北山日要の難くせである。
 1689年(元禄2年、日精遷化6年後)、長年にわたって犬猿の中であった北山(重須)本門寺である、その15世日要は、大石寺隠居日俊と法主日啓を、数年にわたって御制法に背き、自讃毀他、奇怪の布教をしているとして寺社奉行に訴えた。
 その内容は、彼らは、北山の法華経一部読誦は無間地獄、素絹五条以外一切の袈裟・衣は謗法売僧、曼荼羅の書き様が師敵対、鬼子母神造立は謗法堕獄と言い、本門寺は無間地獄の山、檀那は無間の罪人と悪口している云云…同門流の小泉久遠寺の仲裁等で一旦和解したが一か月後に再度悪口し、特に鬼子母神造立については、他門の供養を受け堕獄の根源と主張して幕府の御朱印状を否定し、禁制の不授布施であるというものである。
 これに対し大石寺は奉行所に「陳情」を出す。
 法華経一部読誦は謗法ではない、素絹五条以外は謗法ではないが富士五山は薄墨五条の袈裟が伝燈である、曼荼羅の書き様を詮索したことはない、鬼子母神造立については関与していない云云…中略…造仏堕獄というのも事実無根のいいがかりである…中略…
 大石寺は京都要法寺より9代の住職を迎え、現在も通用は続いているが、その要法寺は造像を行なっていて、これに対して造仏堕獄と悪口したことはない…というものであった。
 北山日要は後日訴えを取り下げて、以後両寺は互いに一切非難しない旨の一札を奉行所に提出し和解した。
 更に翌年の1690年には、今度は小泉久遠寺が奉行所に、大石寺を悲田派(幕府が禁制とした不受布施派の一派)の疑いがあると注進する。
 日啓は西山本門寺20世日円と相談して難局を乗り切ったが、これらは対応次第によっては、たいへんな事態になっていたと思われる。

 要法寺系の最後の法主であった日啓も、こうした大石寺を取り巻く様々な難局を乗り切るためには、法門上の根本的問題を解決するしかなく、それには本来の日蓮の教えに回帰する以外にないことを理解していたようである。


■三鳥派日秀による混乱


 日精の弟子の中に、三鳥日秀がいた。
 1676年(延宝8年)前後、18世日精が大石寺を引退して江戸常在寺にいる頃、三鳥院日秀は日精の弟子となり、おそらく常随給仕していたのだろう。
 日秀は日精に本因妙抄や百六箇抄などの相伝書の書写をゆるされた。
 だが、その中の本因妙思想を自分自身に適応し、自身を釈迦や日蓮に匹敵する本仏、もしくはそれを乗り越えた本仏という流儀を立てた。
 本因妙抄を原理に、自己を本仏とし他人を信伏随従させ、自ら本尊書写も行う。
その4-5年後、彼は結局、日精に破門された。
 その後彼は三鳥院日秀と称し、大石寺の相承をすべて受け取ったと主張し、江戸・相模・伊豆・駿河方面に教えを弘めた。
 江戸常在寺日永に対しても三鳥派は二回ほど徒党を組んで同心を迫ったが、日永は断固拒否したという。
 1706年(宝永3年)三鳥派が富士山麓に本山の伽藍を建立しようとして、大量の資材が箱根の関所を通過などしたため、新寺の建立や異流義を禁止していた幕府の目に留まった。
 幕府から問い合わせのあった身延山久遠寺の33世日亨は、三鳥派が大石寺流の法義であって、大石寺法主日精から相承されたと主張していることから、その年の9月頃、大石寺の触頭の丸山本妙寺を通じて大石寺に問い合わせた。
 10月5日、大石寺23世日啓は江戸常在寺日永を通じて幕府に、日秀は25年前に破門された他門流からの改宗者であって、以後改宗者は門流内へは入れない旨の返答を出す。その後大石寺として決して三鳥派と連座しないよう、幕府対策へも指示を出している。
 同年12月、三鳥派は幕府に摘発され、同19日、出家の弟子7人は流罪、妙蓮寺日性と妙典寺以下16人追放、宗仙18人脱衣追払、慶印寺日善追院など、50人近く処罰された。
 このとき富士五山の一つである妙蓮寺は、三鳥派の布教活動を黙認し、三鳥日秀の葬儀を庵室に赴いて行い埋葬していたとして、第23代日性が追放され、その末寺の妙典寺も三鳥派の布教に協力したとして住職が処罰されたので、ともに無住となる一大事となった。
 また西山本門寺の檀家も連座による処罰者があったが、大石寺は幸運なことに全くお咎めがなかった。
 幕府の指示により妙蓮寺の後住は妙蓮寺を除く富士五山で決められ、日永の弟子日寿が翌年1707年、妙蓮寺24世となった。
 幕府は、三鳥派を不受派とともに禁制宗教とした。


 大石寺はその年1707年の11月、要法寺系の最後の法主であった日啓が遷化し、大石寺末寺の常在寺で貢献していた日永が24世法主となる。
 三鳥派騒動後、造像撤廃後、様々な混乱の中、大石寺出身であった24世日永は、わずか2年で日宥に相承して隠居となるが、その日宥時代に、かつてなかった繁栄を迎えるのである。

 1709年(宝永6年)登座した第25世日宥は、細草檀林の24世能化であった。
 彼は日寬より4歳年下である。
 日寬は、この前年の1708年、細草檀林の26世能化になったばかりだった。
 日宥も日寬も、こうした大石寺の難局の中にいたのである。


■日宥と将軍家天英院、日蓮本仏論への期待

 日宥は、続家中抄(富士宗学要集5,P275)の日宥伝には、寛文9年生まれ、幼年に江戸小梅常泉寺の日顕の弟子となり、細草檀林に学び24世化主となった。
 その常泉寺の大檀那天英院の「猶子」とある。
 天英院は、徳川幕府第6代将軍家宣の正室で、「猶子」とは実親子ではない2者が親子関係を結んだときの子(Wikipedia)である。
 つまり、日宥は、将軍家と親子関係なのであった。

 天英院は、寛文6年京都生まれ、父は近衛前関白太政大臣基煕、母は人皇百九代後水尾院の第一の皇女で、征夷大将軍文昭家宣公の御台所なり(前掲書P277)とある。
 幼名は煕子(ひろこ)、乳母は日宥の師である常泉寺日顕の母となっている。
 つまり、天英院は日顕と同じ乳を飲んで育てられた間柄で、大石寺への帰依は、この関係からとなる。
 日宥とは年の差3歳。何か特別な人間関係、TVドラマなどにもなりそうな詮索等をしてしまいそうではある。
 1679年(延宝7年)煕子は14歳で、徳川綱豊と結婚する。
 徳川綱豊は後に徳川第6代将軍家宣となり、煕子は大奥の最高実力者となるのである。
 常泉寺日顕は煕子の護持僧として西山本門寺末寺の江戸芝上行寺に入り、その後小梅常泉寺の住職に登る。
 綱豊・煕子の長女豊姫は誕生2カ月の短命で、上行寺にいた日顕が葬儀・埋葬。
 煕子は子宝に恵まれず、実家から近衛家煕の娘政姫を養女に迎えるが1704年死別、葬儀は当時細草檀林の能化だった日宥と日顕の弟弟子の日善が行い、常泉寺に埋葬する。
 その4年後の1709年(宝永6年)第5代将軍徳川綱吉が没し、夫の綱豊が家宣と改名して第6代将軍となる。
 その直後、日宥が41歳で大石寺25世法主となった。
 日宥は将軍に単独で挨拶できる独礼を許される。
 そして大奥の最高権力をにぎった煕子は豊姫と政姫の菩提寺である常泉寺に、30石の朱印と寺地3400坪を寄進、翌年には江戸城本丸の客殿を解体して常泉寺に寄進、更に本堂造営のために1500両を寄進、そして本山である大石寺に、1712年、三門造営のための黄金1200粒と富士の材木を寄進する。
 大石寺三門がこうして始まったが、その年の10月に将軍家宣が没する。
 煕子には実の子がいないので、家宣側室の月光院の子、家継が第7代将軍となった。
 煕子はその後天英院と称したが、大奥では月光院が次第に力を持つようになる。

 一方、日宥は三門が完成した翌年1718年(享保3年)、日寬に相承して隠居。
 日寬の後の27世日養のとき(享保8年)大石寺の客殿が完成。
 ここにきて大石寺は、末寺とともに他の富士門流を凌駕する未曽有の栄華となった。
 それは日宥が徳川将軍家の縁に浴したことが何よりも幸運であったといえる。


 この状況を、不破優は次のように指摘している。
 「日蓮正宗大石寺に参拝すると…中略…朱も鮮やかにどっしりと構えた三門は見事なものがある。
しかしこれは、正徳二(一七一二)年、総本山第二十五世日宥上人のとき、大石寺は三門造営のために、黄金千二百粒と、天領である富士山の材木七十本を幕府より受けた(『日蓮正宗富士年表』による)ことによりできたものである。
富士大石寺の入口に偉容を誇る三門は、今日まで『富士の清流』の象徴とされてきたが、確固たる歴史から見れば、それは日蓮大聖人の法義を捨て、謗施を受けて命を永らえてきた大石寺の屈辱のモニュメントであったのだ。
 徳川幕府の統治政策下にあって、寺社奉行に連なる寺院は、民衆を統治するために大変に大きな役割を果たした。寺院は民衆を支配する幕府の代務機関と化し、思想警察、市(区)役所的役割を担わされた。
民衆の間にキリシタンなどの、徳川幕府にとって危険な思想が発生しないかをたえず監視し、「寺請証文」という社会的な身分証明書を寺院が発行することによって、幕府は寺院を通して民衆の心的内面を管理し支配することに成功した。寺院は民衆支配の権限を幕府より分与され、それを代行することによって、己の権威権力を保ち、民衆の上に君臨したのである。
また、民衆の改宗は幕府によって禁じられた。このことによって、各宗派寺院とともに、幕府権力にすがっている限りは絶対的な生活の保障を得ることができた。幕府の権勢を背景に、民衆にかしずかれ崇められる。そこには、宗教者としての根本的な腐敗が横たわっていた。
また一方で幕府は、民衆支配を代行する各宗派の僧侶の腐敗をもっとも怖れた。だが、ここでいう腐敗とは為政者から見た腐敗で、為政者側は布教をせず社会の秩序を乱さず妻帯せずして、そこそこの生活をする僧を望んだのである。もし、僧侶に対し庶民が不信を持てば、幕府がもっとも危惧するキリスト教の蔓延という事態すら惹起しかねない。「お上」である幕府に対する庶民の不信にもつながる。そこで幕府は、寺社奉行を通して各宗派を監視した。ことに、僧侶の風紀紊乱には目を光らせたのである。それでも、寺内に女性を引き込むなどの腐敗は横行した。この僧侶の統率にあたっては、本末関係(本山と末寺の絶対的な秩序立て)が大いに利用された。
大石寺が三門を建てるにあたり、徳川幕府の正室に莫大な黄金をもらい、寺社奉行により特別に材木を下賜された事実は、大石寺が国家権力による民衆支配の忠実な代務者であった側面を浮き彫りにする。
日蓮大聖人は鎌倉幕府のためには祈らなかった。人々の幸福のためにのみ法を説いた。
…中略…
佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った宗祖日蓮大聖人に対し、鎌倉幕府は寺を寄進しようとした。だが、宗祖は、鎌倉幕府による寄進の申し出を峻拒されている。しかるに、その末流たる大石寺の僧侶たちは、徳川幕府より材木を得、将軍の正室より黄金をもらうことによって、あの大きな三門を造り得たのだ。
今日、大石寺への登山者を偉容をもって迎える三門は、日蓮正宗信徒にとって誇りうるべきものではなかった。それは、江戸幕府統治下にあって権力におもねっていた頃の残滓でしかなかったのだ。
正しき仏法による民衆救済を叫んで国家権力と一人対峙し、死罪・流罪の極刑に処され身命を奪われんとした宗祖日蓮大聖人の教えと、いまにそびえる三門は、その依って立つ思想性のうえで完全に乖離するものである。
三門に象徴されるのは、現在、信徒に対し「お目通り適わぬ身」などといってはばからぬ日顕宗僧らの権威的体質である」(前掲書P92-93 )

 本山だけでなく末寺も幕府権力と癒着して繁栄していたという指摘が前掲書P95~100にある。
「謗法の者から布施を受けないとして、不受布施派の多くの寺が徳川幕府から徹底弾圧を受けていた頃、常泉寺は幕府から謗施を受けて潤い、随所に「葵の紋」を飾り権勢を誇っていた。
それも、大旦那・天英院から寄進された観音像、毘沙門像、四天王像を堂を造って祀り、その他、邪宗の寺から移した鬼子母神まで祀ってある。
まさに、謗法まみれの常泉寺である。謗施にありつくために、日蓮大聖人の教法を忘れ去ってしまった売僧の姿がそこにある。この常泉寺のありさまを見れば、身延派などの邪宗とどこが違うのかと思われる。
先に、天英院からの供養も謗施ではないかと記したのは、以上の理由からである。
天英院は、どうやら日蓮大聖人の教法を理解していなかったようである。というより、富士大石寺派の僧のいずれも、大檀那に真実の日蓮大聖人の仏法を教えなかったのではあるまいか。」(前掲書P99)


 徳川幕府による寺院の本末帳は寛永9~10年(1632~1633年)に作成され、現存する本末帳が内閣文庫に保存されているが、ここには大石寺の末寺帳はない。
 この末寺帳がほぼ完全な形でつくられたのは天明6年(1736年)以降であり、その写本が水戸市影考館文庫に保存されている。
 ここには確かに「大石寺派寺院本末帳」とあるが、同時に小泉久遠寺、北山本門寺西山本門寺、光長寺などとともに「法花宗勝劣派」として記載されていて、大石寺は「法花宗勝劣派」に属する寺院だった。
 当時は「法主」の名称は「嗣法」となっていた。
 浅間神社に安置する御本尊を書写した富士大石寺嗣法もいた。
 33世日元である。
 富士宮市東井出の浅間神社には、1764年(宝歴14年)の、脇書に「本地久遠実成釈尊垂迹富士浅間宮」等と認められた御本尊があり、それに「富士大石寺三十三嗣法 日元」の判があるという。(前掲書P126-127より)



 続いて、驚くべきことに、大石寺は、天英院から受けた供養で三門を再建した後、その余剰金で金貸業を営み、その利息を貯めて五重塔の再建資金にしていた。

 1838年(天保9年)大石寺が伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門に差し出した古文書「口上覚」の中に、五重塔再建に関する記述がある。
「其の餘金貸附の利銀相積り、永享年中、五重之宝塔迄再建仕候」
(その余剰金の貸付利息が積もり積もって、永享年中、五重塔まで再建つかまつり候)

 これより以前、第26世日寬は、遺言状にて
「覚。
一、金子二百両、但八百粒なり、右は日寬が筆のさき(先)よりふり(降)候御本尊の文字なり、今度是を三宝に供養し奉り永く寺附の金子と相定め候畢んぬ、され(然)ば御本尊の文字変じてこ(黄)がね(金)とならせ給へば此のこがね(黄金)変じて御本尊とならせたまふ時此の金を遣ふべし、さ(然)なき(無)時堅く遣ふべからず、後代の弟子檀那此の旨守らるべきなり
 享保十一丙午年六月十八日 日寬。
 老僧中、檀頭中」(富士宗学要集8)
 と記している。

 しかし、日寬のこの願いもむなしく、その後の大石寺は相変わらず「民衆を収奪の対象としながらその一方で権力者に媚びることにより、自己の繁栄を期すのである」(不破優、前掲書P141)


 更に、五重塔再建後もその残金で金貸しをしていた。
 「右残金を以て御祠堂田と為し相求め置き候。回徳金を貸附け置候」(口上覚)
 また、
 「近年、打ち続く凶作之上、天保五年四月八日、富士山より大水押し下り御祠堂田、多分に流失仕り、修覆も行き届かず、誠に以て難渋仕り候」(口上覚)
 凶作、1834年(天保5年)の大水により田畑は流失、修復も出来ない状況で、大石寺は奉行所に泣きつく。
 「併せて御威光を以て是迄利銀不納も御座無く候えども、当時之世柄にては、萬一滞り之儀、御座候節は、愁訴奉るべき儀も、御座有るべき候間、其の節は何卒格別之御慈悲を以て、御取り立て成し下し置かれ候らはば、有り難き仕合せと存じ奉り候」(口上覚)
 大石寺は、これまで幕府権力の「御威光」を背景に金貸業を営んできたので、貸し付けた「利銀」の滞納もなかったが、貸付金の返済が心配になり、返済が「萬一滞り之儀」の場合は「何卒格別之御慈悲を以て」貸付金を取り立てて欲しいと嘆願している。


 「大石寺は大聖人の法を説くでもなく、幕府からの下賜金や信徒からの御供養を、貧しい庶民へ貸し付け、人々の膏血をしぼりとっていたのだ。
 信徒からの御供養は、御本尊様に対してなされたものである。その信徒からの御供養を民衆から収奪するための元資とし、民に貸し付け金儲けをし私腹を肥やす。挙句に金貸しがうまくいかなくなれば代官所に「御慈悲」を請い、呻吟する民からの強権的取り立てを要請する。
 苦悩に喘ぐ民を救うため、身命を懸けて権力に立ち向かい立正安国を願った日蓮大聖人の精神が、この大石寺のどこにあるだろうか。…中略…
 御塔橋を渡った杉木立に囲まれた高台に建っている五重塔は、高利に喘ぐ民の歎きによって建立された建造物だったのである。折伏弘教の精神を忘れ去り再建されたこの五重塔が、宗門が繁栄の依拠としていた幕府権力の崩壊とともにさびれていったのは故なきことではない。」(前掲書P142-3)




 三鳥派日秀の話に戻る。
 大石寺は、幕府から問い合わせがあったとき、日秀は破門されたのだから関係がないと申し出ていたのである。
 三鳥派は江戸幕府に禁制とされた。
 その後幕府は、訴えらえた日秀一門を異流義として、さらにその門下を弾圧した。
 彼の布教にかかわった他の富士五山の寺も取り調べを受けた。

 日秀の南無妙法蓮華経本尊に南無することは、日秀に帰命することになる?とされたが、科学的にはどうなのか。
 再現性は保たれるため、富士門流の観点では異流儀で間違いとなるであろうが、南無妙法蓮華経を法則とみれば、これも科学的には正解である。
 日秀は、本因妙思想をよりどころとして、自身を釈迦・日蓮を超えるものとして位置付けていた。
 これにより、三鳥派とは、三超派ともいわれている。


 師弟関係では、弟子が師匠を乗り越えて、師匠以上に素晴らしい姿になっても、弟子は弟子であって、師匠は師匠である。
 日秀がこの相対関係をきちんと踏まえていれさえすれば、日蓮が架空の久遠実成の釈尊を超えて凡夫本仏を称えたのと同様の論理を、きちんと相伝していたことになる。
 このままでは後の日蓮本仏論から見れば、彼の主張は師敵対の増上慢となることは自明である。
 が、師弟関係までも逆転させていれば、後述する日蓮本仏論と同様に、師敵対の論理となるであろう。


 ところで、日秀の書いた曼荼羅について、日秀に帰命するかしないかは、ひとえに信仰する側の姿勢にかかっている。
 信仰者が、法則としての南無妙法蓮華経に帰命する意思で唱題すれは、依法不依人であるかぎり、曼荼羅の作者が日秀であっても、日蓮の教えに則ることになる。
 信仰者が、依人不依法の思いであれば、日秀に帰命することになる。
 この論理は、後述する日蓮本仏論と同様である。


 三鳥派日秀の騒乱はこの後も続くが、これだけに限らず、江戸幕府の寺請制度による、不受派・キリスト教・新宗教・異流義等への弾圧、布教禁止などの宗教政策が絶対的圧力となって寺の存続を脅かしていたのである。
 大石寺は、生き延びるためにも折伏を排除する、そして日精から始まっていた造像を排除し、処施術も含めた日蓮教学の統一、そしてこれ以外の考え方を一掃する必要性に、迫られていたのであろう。

 そして、そのたどり着いたところが、人間・日蓮を奉るアニミズム――当時、日蓮信者にとってはだれの目にも明らかであるが、自分たちが不本意ながらも日蓮の教えに本質的に背いているという良心の呵責に対する、自分たちの正当化と慰めの役割をも同時に果たすべき期待が込められた――「日蓮本仏論」であった。



P11へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰