●14  明治時代以降の大石寺と、創価教育学会の戦争観などについて | ラケットちゃんのつぶやき

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●14  明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


■明治時代


 大石寺は江戸時代後半には、前述の如く金貸業をしていたが、日本の寺社の多くでなされていた。
 幕府の権力を背景に、大石寺も例外でなく、金が返せないときは担保の田畑を取り上げ、それを小作人に貸しつけ年貢米を取っていた。

 こうして敗戦後の農地解放まで大石寺は広大な田畑を有していた。
 その多くは、金貸しをして農民などから取り上げた土地である。
 日蓮の布教精神はうかがうべくもなかったという。

 幕末の1865年(元治2年)2月28日、第53世日盛の代に大石寺は又も大火事で、客殿、六壺、大坊などを焼失した。
 日盛はこの後、行方不明となり、隠尊の第51世日英が留守を預かった。


 例えば日蓮は火事について、王舎城事(御書P1137)という、次のような遺文を遺している。

「焼亡の事委く承つて候事悦び入つて候、大火の事は仁王経の七難の中の第三の
火難・法華経の七難の中には第一の火難なり、 
夫れ虚空をば剣にてきることなし水をば火焼くことなし、聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし、
例せば月氏に王舎城と申す大城は在家・九億万家なり、七度まで大火をこりてやけほろびき、万民なげきて逃亡せんとせしに大王なげかせ給う事かぎりなし、其の時賢人ありて云く七難の大火と申す事は聖人のさり王の福の尽くる時をこり候なり、然るに此の大火・万民をば・やくといえども内裏には火ちかづくことなし、
知んぬ 王のとが・にはあらず万民の失なりされば万民の家を王舎と号せば火神・名にをそれてやくべからずと申せしかば、さるへんもとて王舎城とぞなづけられしかば・それより火災とどまりぬ、
されば大果報の人をば大火はやかざるなり」

《鎌倉極楽寺の火災のこと、委しく承り、悦んでおります。大火の事は仁王経には七難の中の第三、法華経には七難の中の第一にある火難である。
虚空を剣で切ることはできない。また水を火は焼くことはできない。(同様に)聖人・賢人・福人・智者を火は焼くことはないのである。
たとえば、インドに王舎城という、大城があって、民が九億万世帯いた。この大城は七度も大火が起こって焼け亡びた。万民は嘆いて、この国から逃亡しようとした時、大王は限りなく嘆いた。そのときひとりの賢人がいて言った。「七難の一つである大火という事は、聖人が去って国王の福運が尽きるときに起こるのである。しかるに、今起きている大火は、万民の家は焼いても、王宮には火は近づいていない。これは王の過失ではなく万民の過失による。だからこれらは、万民の家を王舎と名づければ、火神はその名に恐れて焼くことはできないであろう」と。王はそうかもしれないと思い、万民の家は「王舎城」であると名づけてみると、それ以後、火災は止んだ。つまり、大果報の人を大火は焼かないのである。》

『これは国王已にやけぬ知んぬ日本国の果報のつくるしるしなり、
然に此の国は大謗法の僧等が強盛にいのりをなして日蓮を降伏せんとする故に 弥弥わざはひ来るにや、
其の上名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ
候ぬ、又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて 阿鼻の炎にもえ候べき先表なり、愚癡の法師等が智慧ある者の申す事を用い候はぬは是体に候なり、不便不便、先先御文まいらせ候しなり。」

《ところが今度の鎌倉極楽寺の火災では王の御所だけが焼けた。これは日本国の果報が尽きる前兆である。
この日本国は大謗法の僧等が強盛に祈って日蓮を降伏させようとするが故に、ますます災いが起こるのであろう。
そのうえ、名というものは本体を顕すものであるに、良観という謗法の聖人が鎌倉中の上下万人の師となっている。両火のうち一火は自身に留って極楽寺が焼けて地獄寺となった。また一火は鎌倉に飛び火して御所を焼いた。また、この一火は現世の国を焼くうえに、未来には日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえる先表である。愚癡の法師たちが智慧ある者の主張を用いない結果が、このありさまである。まことに不便なことでる、不便まことである。このことについては先々お手紙を差し上げてあります。》




 時代は明治。
 明治政府は明治元年、日蓮教団を一致派と勝劣派に統合、同9年に勝劣派を興門派、妙満寺派、本成寺派、八品派、本隆寺派に分けた。このとき大石寺は、富士五山、安田妙本寺、京都要法寺、伊豆実成寺とともに日蓮宗興門派となった。
「いわゆる『邪宗・日蓮宗』である興門派の『同門』として宗派を形成していたのである。興門派管長は、各本山の持ち回りであった…中略…宗門・大石寺は長い間〝謗法の管長〟の支配下にあったのである。また、大石寺の日布、日応が管長であったときも〝謗法の教団〟を管理していながら〝善導〟も〝破折〟もしなかった」(不破優著「地涌からの通信 別巻②、1993/11/28 はまの出版、P127-8)

 興門派は明治32年、本門宗と改名した。
 大石寺は明治33年9月、はじめてここから独立し「日蓮宗富士派」となった。
 このとき寺院数87、住職47人、檀信徒は約5万8千人という小さな教団であった。

 不破優の前掲書(「地涌からの通信」別巻②歴史遍)には、その後も、明治37年日ロ開戦に、時の法主・日応は「義戦を起こし給ふ」等々、率先して戦争促進の「訓諭」(2月15日付)や「皇威宣揚征露戦勝祈禱會」などを行い、信徒の浄財を軍資金として献納、「戦勝守護の御本尊」1万幅を配布。明治45年に「日蓮正宗」と公称、創刊した「大日蓮」には念仏、親鸞を讃嘆する論文があり、機関誌「大日蓮」「白蓮華」の広告には日蓮上人の御影、日蓮上人御真筆御本尊織込純金襽、祈禱秘要録、説教百座要集、木魚の宣伝文が氾濫、また浄土真宗、大谷派議制局、本派本願寺事務所が推薦する薬の広告などがみられるとある。

 「無数ある謗法、教義逸脱のなかには打算的な利潤追求を目的とするものが目立つが、なかには当時の時代社会に対応しなければならない一面があったことも理解できないわけではない。だが、そうした条件を考慮しても、なおかつ、容認できない謗法が多すぎる。
 牧口初代会長、戸田第二代会長が入信したのは昭和三年。謗法を糾弾して大聖人の仏法を復興させ、広宣流布していこうとの勇気ある決断であった。
 この年には〇〇坊主・阿部日開が策略をめぐらして猊座を〇〇取り、その子供である…中略…日顕(当時は彦坂信夫、昭和三年に信雄と変更、母は彦坂スマ)が得度した」(前掲書P132、〇〇は敢えて隠す)


 明治5年に出された太政官通達により僧の妻帯が許された。
 江戸時代においては、女犯の罪を犯した坊主は晒し者にされ遠島の刑などに処せられたが、明治の時代になって、政府による廃仏毀釈の政策により、僧の妻帯は自由となった。
 大石寺門流も、僧の妻帯を受け入れた。

 日蓮は遺文にて、妻帯については以下のように述べている。
 「世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず 只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち 螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり、是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも 少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つて・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賎・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にのせられて留難に値うべしと 仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候、」(四恩抄、御書P936)
《世も末になり、妻子を持っている僧も人の帰依を受け、魚や鳥を食べる僧でも同様だろうか。日蓮はそのような妻子を持たず、魚や鳥も食べず、ただ法華経を弘めようとする失によって、妻子を持たずして犯僧の名が国中に満ち、螻や蟻さえも殺さないのに悪名が天下にはびこってしまった。恐らくは在世の釈尊を諸の外道が毀ったことに似ている。これはひとえに法華経を信ずることが、他人よりも少し経文通りに正しく信を向けたがゆえに悪鬼が世間の身に入って、嫉妬するのであるかと思われる。そう考えればこれはどの卑しく無智・無戒の僧である自分のことが二千余年も以前に説かれたところの法華経の文に載せられ、必ず留難に値うだろうと仏が記し遺されたことの嬉しさはいい尽くし難いことである。》


 日蓮の弟子で、大石寺開山の祖・日興も、自ら「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」と念を押している「二十六箇条御遺誡」には、僧の妻帯と女犯について、
「先師の如く予が化儀も聖僧たる可し、但し時の貫主或は習学の仁に於ては設い一旦の媱犯有りと雖も宗徒に差置く可き事」と戒めている。

 第56世日亨は「富士日興上人詳伝」で
「開山上人がこの法度に『先師の如く聖僧たるべし』と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埓破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埓を誡めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥ずる有羞僧を見て、かえって身心相応せぬ虚偽漢と罵り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着ているだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埓ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる」と、憤っている。

 この日蓮の遺風は、大石寺においてもうすれていた。


 かつての江戸幕府は、女犯に対する刑罰は厳しく、住職は島流し、所化僧は晒し者にされ寺から追放された。僧の女犯など、綱紀粛正は権力によって保たれていた。

 寺請制度によって民衆救済意欲が消滅していた仏教界の僧たちは、明治政府の解き放った、国の神道を国の礎におき、天皇を現人神と位置付け、富国強兵をはかる国策の手のひらに乗せられて、妻帯を許され、瞬く間に堕落していったのである。
 僧は剃髪以外は在家と同様に妻帯し、鳥、魚、牛の美食に溺れ、禿人と化していった。

 さらに、「妻帯することで血族を形成し、一族で宗門を隴断する者が出始める。その悪弊は、今日の日顕宗に如実に現れている」(不破優著「地涌からの通信26」1993/10/29 はまの出版、P46)

 第55世日布の代には、高僧の中で五重塔の銅瓦を売り飛ばし、寺内で酒盛りをする者もいたという。
 日布も、国柱会幹部に戒壇の大御本尊を御開扉させるなどした。



 大正時代に入り、第57世日正は、大正10年の日蓮聖誕七百年を記念して、日蓮宗身延派や顕本法華宗など「邪宗」と合同し、天皇に請願した結果、大正11年10月13日、天皇より日蓮に「立正大師」という号が下された。
 これを記念し、東京・築地の水交社で日蓮宗身延派管長・磯野日筵を導師として勤行をしたが、その席に日正も参列し導師に随ったのである。


 これらも、日蓮の述べている
 「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書)
に該当するのだろうか。
 その後の歴史も、日蓮の遺文、とりわけ「立正安国論」の様相が、繰り返されてきていると考えるのは私だけだろうか。
 

 翌大正12年、東京は未曾有の関東大震災により壊滅的打撃を受けた。

 その後の大正時代、大石寺の秩序は乱れていったという。
 大正14年秋から翌年春にかけて、第58世日柱に対するクーデターが起きた。
 その黒幕は、後に第60世法主となった日開であるという。

 勤行中の日柱上人を銃声に擬した音をさせるなどして脅し、何とか退座させようとしたり、強迫まがいのことが次々とおこなわれた。
 この騒ぎは、警察の介入でやっと仲裁され、第59世法主を選挙で選出する事態になったが、その結果日柱の得票はわずか三票しかなかった。
 日柱を退座させたクーデター派には、後の第60世日開、第61世日隆、第64世日昇などがいたという。


 こうした下剋上の彼らを、立正大学の安永弁哲が「板本尊偽作論」(1956/6/10、多摩書房)の、日蓮正宗歴代管長裏面史の篇で、日蓮の遺文を引用・根拠として、罰論の構図でおおいに酷評したが、皮肉なことに、こうした下剋上の彼らを師と仰ぐ末流が、現在、法主への「信伏随従」が日蓮正宗の本義と主張しているのである。(現実とはまったく真逆な主張であろう)

 加えて、この「板本尊偽作論」の日蓮正宗歴代管長裏面史を付録掲載した、福島泰照(隈部大蔵)の創価学会への批判書「創価学会公明党の解明」は、創価学会が出版妨害した著書に名を連ねており、1960年代末から1970年代にかけての言論出版妨害事件後も、彼、隈部大蔵は月刊ペン記事で創価学会批判を繰り返した。
 1976年(昭和51年)6月11日に創価学会側より池田大作と女性会員2名のへの名誉毀損で刑事告訴。隈部は逮捕・起訴された。このいわゆる月刊ペン裁判においても創価学会が司直に手をまわしたり、逆に被告側に2000万円を渡したりして、様々な策謀をしたことで有名となり、これだけでも内外ともに関わった者たちによる数冊以上の著作出版がある。
 この裁判は原審で懲役10カ月、執行猶予1年の有罪判決だったが、最高裁審議差戻、差戻第2審高裁で罰金20万円という、無罪に近い軽微な判決となった。隈部は更に最高裁に上告したが、1987年(昭和62年)に本人が死亡し、11年に及ぶ審理は終了した。


 話を戻す。
 「昭和に入ってからは、日開がサボタージュの糸を引き、第五十九世日亨上人の法務を頓挫させ、ついに念願の第六十世の“法王”となる。昭和三年のことである。
 さかのぼれば、日開は第五十七世日正上人から第五十八世日柱上人への代替わりのときから猊座を狙って策謀していた。このため、このときの相承は在家の信者を仲介におこなわれた。
 日開は“法主”になる前、常泉寺の下働きの女性に子供を生ませながら、隠し子としておき認知しなかった。“聖僧”の体面を繕っておきたかったのだろう。
 だがこの日開、“法主”となるとすぐ子供を認知した。認知された子供が日顕である。日顕は、日開の子供として昭和三年八月に得度している。
 これらの歴史を見るとき、大石寺の歴史を“富士の清流”と、とりたてて自慢することが、いかに史実に反することであるかを知ることができる。邪宗顔負けの腐敗、堕落、そして内紛である。」(不破優著「地涌からの通信26」1993/10/29 はまの出版、P46)




■牧口常三郎の帰依

 1928年(昭和3年)、56歳の牧口常三郎は、日蓮正宗常在寺の法華講、三谷素啓に折伏され、大石寺門流となった。
 三谷素啓は直達講(日蓮正宗)の講頭で、「立正安国論精釈」を著している。
 三谷に牧口を紹介したのは、直達講にいた藤本秀之助で、後に出家して蓮城房となり、牧口と同じく神札を謗法としたため逮捕され、獄死した人物である。

 続いて、28歳の戸田城聖も日蓮正宗に入信する。

 1929年(昭和4年)9月、日開は、昭和6年の宗祖日蓮大聖人第650遠忌執行のため遠忌局を設置し、寄付を集めた。千円以上は「賞与大漫荼羅及永代尊号」、五十円以上は「大漫荼羅」、二十円以上は「尊号」、二十円以下「賞状」を授与する旨、布告した。

 
 同1929年(昭和4年)2月、牧口常三郎の学説は「創価教育学」と名づけられた。
 9月には牧口が、小冊子『小学校長登用試験制度論』を著した。

 世界では同年10月24日、ニューヨーク株式の大暴落と共に、世界恐慌が始まった。

 1930年(昭和5年)5月、戸田は『推理式指導算術』を発刊した。
 同年11月18日、『創価教育学体系』第1巻が発刊される。
 後に創価学会は、この日をもって創価学会創立の日と定めた。


 1931年(昭和6年)日蓮650遠忌法要が、日蓮宗各派などの日蓮門下によってそれぞれ各地で行われた。
 日蓮門下は、田中智学が申請文を起草して、文部省と宮内省に『立正』の勅額を申請した。
 1931年(昭和6年)7月頃から歓喜寮の堀米泰榮住職(後の第65世日淳)と牧口常三郎の交流が始まった。

 9月18日、石原莞爾を主導者とする満州事変が勃発。
 10月1日、日蓮門下は宮内省で『立正』の勅額と沙汰書を受け取り、勅額拝戴式が池上本門寺で、翌日には身延山久遠寺にて行われた。
 国柱会の田中智学は『満蒙解決』を発表、11月15日、明治会を招集、明治神宮前で満州事変の解決を祈念し、『明治会新国民運動が皇国の重大時局に対し新に特殊運動を起す宣言』を公表した。
「智学は満州事変を『日本建国の大精神を発揚すべく、皇祖建業の首長たる世界絶対平和の実現第一歩を開くべき、天の計ひ』ととらえ、『日本国体学』をもって、満州事変の道義性を保証し、『全世界の道義的統一』を訴えた。
そして政府当局、軍部当局、枢機当局、帝国議会、各派政党、知識階級、財力階級、労働階級、新聞雑誌、教化階級の各方面に時局対応の行動を要請し、これらの各方面と国際連盟に電報を発している」(大谷栄一著「近代日本の日蓮主義運動」2001/2/20,P388-389)

 1932年(昭和7年)1月28日、上海事変勃発。
 1932年(昭和7年)3月31日、牧口会長は教職を離れたが、国柱会の会合へも参加していたという。
 5月、牧口を折伏した直達講講頭の三谷素啓が死去、直達講は解散となった。

 5月15日には五・一五事件が起き、6月には特別高等警察部が警視庁に設置された。
 軍部が中国大陸への侵略を進めるに従い、国家権力は国民に対する統制をいよいよ厳しくする。

 1933年(昭和8年)2月4日、長野県赤化事件での教員が一斉検挙、3月27日に日本は国際連盟を脱退した。この脱退にあたり日開は、
 「本宗々徒タルモノ宜シク 聖旨ヲ奉戴シ 佛祖遺訓ノ宗義ニ基キ堅實ナル信念ヲ振作シ奉公ノ赤誠ヲ抽ンデ勇往邁進 不撓不屈専ラ時艱ノ匡救ニ努メ進ミテ國運ノ進展ニ貢献シ以テ聖恩ニ奉酬センコトヲ旃レ勉メラルベシ」(昭和八年四月八日付「訓第貮拾號」より一部抜粋)
 と訓諭した。

 同年11月1日、後に日蓮正宗内を攪乱し、狸祭り事件の被害者となったところの僧、小笠原慈聞が、日蓮正宗同心倶楽部を結成した。
 昭和9年2月21日、小笠原は月刊誌『世界之日蓮』を発行し、神本仏迹論を称え、国家神道の下に日蓮教団を統合ことを喧伝していた。

 1934年(昭和9年)6月20日、牧口の弟子であった戸田城聖は、日本小学館(後の日本正学館)を設立した。
 1935年(昭和10年)牧口・戸田の二人だけだった創価教育学会は、「創価教育学会々則要項」が『創価教育学会体系梗概』に掲載され、組織的な活動が始まった。
 同年6月11日、水谷日隆が第61世法主となった。

 1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件勃発。
 同年3月29日、昭和3年の選挙で日開と「猊座」を争った有元廣賀が死去すると、欠員となった日蓮正宗布教監に、神本仏迹論を称えた小笠原慈聞が就任した。
 
 1937年(昭和12年)1月27日、創価教育学会では東京・品川での座談会で、約100人の会員名簿が作られた。

 同年7月7日、蘆溝橋事件が勃発、日本軍は中国大陸へ進攻、12月23日には南京を占領、翌1938年(昭和13年)に入って徐州、武漢へ、戦火は中国全土に広がった。

 同年11月3日、日恭が第62世法主となった。
 第61世水谷日隆は、妾を囲っていたなどのスキャンダルを暴かれ、宗内大混乱の内紛で退座を余儀なくされ、病弱ということで、二年余で退座した。
 この日隆が入寂したのは、10年後、戦後の昭和22年3月のことであった。
 昭和20年6月17日、日恭は終戦を間近にして起こった大石寺客殿からの大火事で焼死するが、皮肉なことに第63世日満への相承は日隆によってなされている。


 国家権力による宗教弾圧はますます強化され、4月5日に「ひとのみち教団」への一斉検挙、10月20日には「新興仏教青年同盟」への一斉検挙がおこなわれた。
 翌1938年(昭和13年)国家総動員法を施行、日本軍は徐州、武漢へ、戦火を中国全土へ広げた。
 同年11月21日、「天理ほんみち」が宗教弾圧を受け、幹部らが一斉検挙された。

 1939年(昭和14年)4月8日には宗教団体法が公布され、翌年4月1日より施行された。同法が国会に提案されるにあたり、松尾宗教局長は次のように語っている。
 「もしも宗教団体あるいは教師等が教義の上から、わが国にをいて神社参拝を拒むような、あるいは人を参拝させないような、もしもそういう不料簡な真似をするようでございますれば、それは明らかに安寧秩序を紊す者である。少なくとも公益を害するといったようなことに相成ろうと存じますので、その点はひとつ本法によって厳に律して行きたい」
 この法律は、勝戦に向け、国家神道に各宗教を従わせ、国民精神を結束させる目的で制定されたものである。

 1940年(昭和15年)、軍部が宗派合同に向けて圧力をかけ、宗教団体の所轄官庁である文部省が宗派合同を促した。
 日蓮宗への合同は、軍人会館を中心に日蓮主義者と称する軍人と、日蓮宗の策謀家達によって進められていたもので、小笠原慈聞は水魚会の一員となってこれに画策し、大石寺を身延派に合同させようとしたが、創価教育学会は、日蓮正宗が日蓮宗身延派などに合同させられないよう、政界要人への運動をおこなったという。

 「当時の日蓮正宗は、ささいな隙でも狙われていた状態で、何かがあれば、国家、軍部の強権によって、身延と合併させられるのは、目に見えていたのである。
 このとき、もし、宗門として『神札』拒否を押し通せば、正宗僧侶として立派であったという称賛はされたであろう。しかし、日蓮正宗は身延派に合併させられ、総本山大石寺は身延派の支配下に置かれたことであろう。
 渡辺日容尊能師(慈海師)も、決して臆病であるはずはないが、何よりも御当職の日恭上人、御隠尊の日亨上人の御同席ということに、その意を汲まなければならない。
 あくまでも『神札』を受け取ることを拒否すれば、その最高責任者である日恭上人、日亨上人にも投獄の危険が迫る。お二人の御法主上人が御身を惜しまれるはずはないが、御尊体が投獄に至れば、血脈断絶の危機に及ぶのである。
 また、大石寺が身延の支配下に置かれれば、何よりも戒壇の大御本尊が、身延の支配下に置かれることになる。
 戒壇の大御本尊を他宗の支配下に置き、血脈断絶に至る以上の大謗法が、ほかにあろうか。血脈付法の御法主上人のお立場として、果たしてこのようなことが許せるであろうか。
 日蓮大聖人、第二祖日興上人以来、謗法厳戒の“針金宗門”にとって、『神札』を受け取ることは、また信徒にそれを勧めることは、断腸の思いでなくて何であろうか。
 身延との合同問題では、日恭上人が危険を御承知で文部省に出向き、必死の御決意を披瀝されて、ようやくことが収まったのである」(日蓮正宗時局協議会・資料収集班一班作成「神札問題について」より)



 1941年(昭和16年)3月10日には治安維持法「改正」法が公布された。
 その第七条には、
 「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ」
 と定められた。
 伊勢神宮の大麻を奉斎拒否することも、これ以降は神宮冒涜の一つと見られることとなる。
 治安維持法という悪法によって、国民は強制的に国家神道に思想統制された。


 同年12月8日午前3時19分、日本は真珠湾攻撃を開始、米英に宣戦布告し、太平洋戦争に突入した。
 これに際し、第62世日恭は、次のように『訓諭』を出している。
 「本日米國及英國に對シ畏クモ宣戰ノ大詔煥發アラセラレ洵ニ恐懼感激ニ堪エズ惟フニ我帝國ガ暴戻ナル蒋政權ヲ膺懲シ東亞新秩序ノ建設ニ着手シテヨリ既ニ四年有餘漸次其ノ實ヲ擧ゲ今ヤ日滿支三國ハ友誼愈々厚ク共榮ノ樂ヲ偕ニス然ニ英米兩國ハ此ノ實ニ眼ヲ蔽ヒ終始重慶政權ヲ援助シテ我ト相鬪ハシメ幸ヒ帝國ハ御稜威ノ下忠勇無双ノ陸海軍アリニ既ニ戰端開始第一日ニ於テ驚嘆スヘキ戰果ヲ擧ケラル我等感謝ニ堪エス戰ノ前途亦以テトスルニ足ルモノアリ併シ乍ラ今次ノ大戰ハ四圍ノ状勢ニ鑑ミ長期ニ亘ルハ免レサルトコロ我等ノ一大覺悟ヲ要ス(以下略)」

 このように、日蓮正宗も、法難を避け、他の日蓮教団と同様、戦争賛美へ同調していく。
 これは、日蓮の法難に対する姿勢や、京都の不授布施派が散っていったこととは対極的であり、日寬教学が繁栄した後の寛政の法難でみられた大石寺の態度となんら変わらない、時の権力への迎合であった。

 「残念ながら、登座後の日恭や、それに追随する日蓮正宗のほとんどの者たちは、“法華経の行者”としての絶対的確信に立てず、我が身の安寧のためにたやすく国家権力に屈服し、法義を曲げていくのである。
 それは、日蓮大聖人の弟子として、もっとも恥ずべきことであった。
 『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(教行証御書)」(前掲書P71)



■創価教育学会の戦争観

 一方、戸田城聖が著作した1962年和光社出版の妙悟空著「人間革命」(P315~316)には、当時の様子が次のように語られている。
 ここで巖さんとは戸田城聖、牧田先生とは牧口常三郎のことである。
(現在、入手できるところの、1972年聖教新聞社出版の聖教文庫-26 戸田城聖著小説「人間革命」上・下巻以降では、設立当初から反戦平和を掲げてきたと主張する建前上、この多くの部分は削除・隠蔽されている。
 なお、以下の引用では、言語表現も当時の言葉づかいのママとした)

「紅い血
 …
『巌先生!やつたねえ!』
『うん! やつたな』…
日本の陸海軍が米英に向かつて火蓋を切り、海の荒鷲がハワイ方面の米国艦隊や航空兵力に決死的大空襲を敢行して、午後八時四十五分までに判明した戦果の大本営発表があつたのだつた。…
巌さんがコップを手にしてそういつて、おでん屋の店先に笑いの渦が巻いた。」
「『森田君、ぼくは日本が米英と火蓋を切つたと知つたら、途端に、前線へ行きたくなつたよ』
 福島政雄は台の上へ乗り出して、森田正一を見ている。
『ああ、ぼくもそうなんだ。今度は支那を相手の戦争とは違うような気がしてね。ひどく興奮したよ』
 正一はおでんを食べながら真剣な顔になつている
『は、は、は……正ちゃん、今朝は滅茶苦茶に口笛を吹いたね。貞一が吃驚して眼を覚したものな』
 巖さんにそういわれて、正一は顔を赤くして頭を掻いた。
『けれど、共産主義者や社会主義者のように、日本より外国の方が好きな連中や、国籍を喪失しているような自由主義者や、米英の底力を知つていて、日本が支那事変で国力を消耗しているので、この上、戦争は無理だと判つている人などは別として、一般の日本人は米英を相手に日本軍が火蓋を切つたと知つた瞬間、不安はあつても、来るものが来たという感じで、スーツ! となつたのじゃないかね。頭で考えるのではなく、なにか、身体でさ。本能のようなものが頭を抬げたんじやないかね。地球の向う側のヨーロッパからはるばるこの東洋へ来て、鉄砲や大砲や火薬で威嚇したのは、西洋人だからな』
 巖さんは眼鏡を光らして正一と政雄を強く見ている。
『その通りだ!』
 向うの方で叫んだ者があつた。
『支那事変でも、さんざん、米英に邪魔されてきたんだ!』
『もう、あつしだつて我慢してはいないよ。ねえ、巖先生、それが日本人でしょう』
 おでん屋の親父が、なにか頬張つたらしく口をもぐもぐさせて、巖さんの前へきた。
『けれど、米国は大きな国だし、英国は本国は小さいが、大きな領土を持つているし、支那事変みたいに簡単には行かんだろうな。おい、正ちやん、酌をしてくれ』
 巖さんは正一の前へ盃をつきだした。」

 ここには、戦前の創価教育学会の理事長戸田城聖とその後輩たちの、太平洋戦争を賛美する様子が如実に語られている。
 折伏により、会員が増加していた反面、戦争への同調姿勢は、戦争にわいていた一般民衆と同じで、前述した『日本国体学』の影響もあった。

「巖さんが社長をしている平和食品会社の…中略…、矢平修一は支配人をしている。彼は牧田城三郎に指導されている創価学会の幹部の一人で、信州の生れ、共産党員から仏教へ転向……という珍しいコースを辿つていて、人間を不幸にする共産党攻撃では第一人者であつた」(前掲書P376)
(聖教文庫本、下巻P158では、さすがにここでの「人間を不幸にする」を、削除している)



 ちなみに矢平修一のモデルとなった矢島修平は、戦前の長野県での「教員赤化事件」に連なった人物である。牧口常三郎が共産党員であった教員、矢島修平を創価学会に改宗させ、警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ連れて行って、共産思想から転向したことを伝え念押して保証した。
 
 教員赤化事件では、政府が共産党弾圧の後始末として、既存の宗教に改宗させる施策をしていた。
 牧口常三郎は、同じ治安維持法で弾圧されている共産党の党員を改宗させる為に、政府と協調した行動を取っていた。この人たちの折伏を政府の政策の一部として引き受けていたのである。つまり戦前は、政府と親しい関係にあった。
 牧口は当時の創価教育学会の機関紙「新教」の1935年12月号に、「全国数万の赤化青年転向指導のために」として寄稿し、長野赤化教員事件に関与していた(宮田幸一のホームページ参照)
 創価三代を永遠の師匠と祭り上げる今の創価学会では一切、会員には隠蔽している歴史である。


 1942年(昭和17年)9月に神本仏迹を称え、軍部に迎合し、大石寺を日蓮宗合同へ策謀していた小笠原慈聞が擯斥となった。

 同年10月10日、日蓮正宗の「住職教師教会主管者」宛に出された院達(宗務院の正式通達)は、文部次官より日蓮正宗管長宛の「通牒」に触れている。
 「神嘗祭当日神宮遥拝に関する件
神嘗祭当日遥拝時間の設定に関しては客年十月八日付官文三七八号を以て通牒致したる処聖戦下愈々神嘗祭ノ真意義を周知徹底せしむるの要有之付貴(学、校、所、会)職員をして当日午前十時を期し一斉に各在所に於て神宮を遥拝せしむる様可然御配意相煩度」
 ここで神嘗祭とは、毎年10月17日に行われる伊勢神宮の収穫祭のことで、国家神道の重要行事の一つである。現人神である天皇が伊勢神宮を遥拝し、また宮中三殿の一つである賢所で親祭を執り行う。
これに対し、院達では
「趣旨を檀信徒一般に徹底せしむる様周知方可然御配意相煩はし度」
 と、檀信徒への徹底を通達している。
 この意義を「周知徹底」するということは、国家神道の教義の流布であり、また10月17日当日は午前10時を期して、檀信徒に伊勢神宮を遥拝するように、宗務院は僧侶に命じたという。

 10月16日には創価教育学会では創価教育学会本部において堀米泰榮・歓喜寮住職に対し、大石寺が国家諫暁するよう申し入れ、激論となったが、宗門側は時期尚早として創価教育学会の主張を退けた。

「緒戦の陸海軍の大戦果にもかかわらず、アメリカ軍は次第に反攻に転じ、進歩した科学と豊富な物量をもつて次第に日本軍を圧倒しはじめ、開戦後一年も過ぎる頃からあわただしい空気に包まれていた。創価教育学会は昭和十二年に発会して、当時(昭和十七年頃)は会員が三千人に発展していたが、牧口会長はこのように未曽有の非常時局を救う道は、日蓮正宗の広宣流布以外にないこと、従つて今こそ国家諫暁しなけれなならないと仰せ出さる」(富士宗学要集9、429-430)

 
 戸田城聖全集第四巻(1965年,和光社)には、聖教新聞に連載された戸田城聖著の小説「人間革命」が収録されている。そのP513、P515では、小説と名をうってはいるが、戦争に勝つためには国家諫暁すべきという牧口常三郎(牧田先生)の言葉が、以下のように見られる。

「『国家諫暁だね。陛下に広宣流布の事を申し上げなければ日本は勝たないよ。これを御本山に奏請して、東京僧俗一体の上に国家諫暁をしなければ国はつぶれるよ。並大抵でない時に生まれ合わしたね』」(P513)

「みんなが帰った後で巖さんが牧田先生の側へ来ると、先生は北村さんと話していた。
『先生、それでは二、三日うちに文部省へ行って様子を聞いて参りましょう。下手にやっては困りますからね』
『この日本の大戦争を勝たせる為には、どうしても広宣流布しなければ勝てっこはない。先ずこの時こそ天皇陛下が自ら目覚められて、尊い御本尊を拝まなくてはならん。それを申し上げる事は第一番の忠義ではないか。丈夫というものは成し難いものを成すものである』」
北村さんは商人であった…中略…
『承知致しました。必ず文部省へは近々行って参ります』」(P515)


 牧口の国家諫暁は、戦争に勝つためということであった。
日本中が日蓮正宗に改宗すれば、米国との戦争に勝てるという信念であった。
鎌倉時代、日蓮の時代に、二度のモンゴル襲来を打ち返した、通称「神風」が、今回もタイミングよく吹くなどという非科学的超自然現象を、校長職でもあった彼は、本気で信じていたことになる。
 ここに、牧口自身の、日蓮仏法への誤った理解(非科学的理解、アニミズム)を、戦争観とともに見ることが出来るが、この「神風」は、多くの日蓮主義者をはじめ、当時の戦争に関わる者たちの期待でもあっただろう。

 これを受けて同書P545-546では、「戦争に打ち勝てる」とか、「広東への地下工作」云々のような、侵略戦争としての太平洋戦争に勝つために国家諫暁をするという牧口の悲願を、なんとしても達成しようと叫ぶ戸田城聖(巖さん)の決意が見られる。(以下の〝 〟部分)

「学会幹部の人々十二、三人が二階の大広間に集まっていた…中略…巖さんは一同をキッと見て、
『日清戦争でも日露戦争でも一本の筋があったように思えるのだが、今度の支那事変ではぬかるみに入ったのではなかろうかと思われてならないのです。外は戦争の事から内は国家の事、又宗教界をみても混乱を重ねているではありませんか。
牧田先生がいろいろなすっていらっしゃるが、我々も牧田先生の心を心として、この混乱から国家も民衆も救おうではないか。それに日蓮正宗の信心に対する半信半疑を捨てて、
宗教の力でこそ、〝この戦争に打ち勝てる〟という大信念をもって、一大折伏戦に入ろうではないですか。
この議題のもとに大いに討論していただきたいと思うのです。できる事なら〝我々の手で、広東、かんしんの地下工作までものりだしたいと思うのだが〟、きたんなくご意見をきかせてください』
 この議題を中心にして二時間にわたる討論の結果、各自各自の事業をしっかりやりとげて、その余力を以って〝大いに国家に協力し〟、その力をより高く働かして大折伏闘争に入ろうと決意した」


 ここには、他の『日本国体学』を謳う日蓮主義者たちと同様、ひたすら戦争に勝つために日蓮の信仰を貫こうとする創価学会の姿勢があらわに描かれていて、今日の創価学会が掲げている戦争反対・平和のイメージは微塵もない。

(当然に、現在発売されている戸田城聖著の小説「人間革命」は、電子版も含めて、上記の記載は削除され、現在の創価学会の主張に合わせて、都合よく改竄されたものである)

 

 P15へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰