●15 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺 | ラケットちゃんのつぶやき

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●15 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺

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☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P15,  神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
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■神札問題

 1943年(昭和18年)2月、ガダルカナル島にて一万六千余人(大本営発表)の兵が玉砕したが、大本営は、これを目的を達た撤収「転進」として国民に発した。

 4月18日には、連合艦隊司令長官:山本五十六がソロモン諸島ブーゲンヴィル島付近で戦死、5月30日、アッツ島の日本守備隊が全滅。戦局は一層厳しくなっていく。
 日本軍は、太平洋の制空権・制海権を失い、占領地や海外と本土の間で双方への物資補給等が行えず、日本国内はあらゆる物資が欠乏し、国民生活が窮乏していった。
 日本は戦闘員補給のため、学徒の出陣を決定し、10月22日、神宮外苑にて学徒出陣壮行会を行った。
 こうした中、政府は伊勢神宮の遥拝、神宮大麻(神札)の奉祀などを国民に強制し、国家神道により、言論、思想、宗教、経済等あらゆる分野にわたり統制した。
国民に「神州不滅」を刷り込み、侵略戦争を「聖戦」としながら、一直線に戦争を遂行していった。
 だが、創価教育学会は神札(神宮の大麻)を受け取り祀ることは、謗法であるとして、取らないよう会員に徹底した。さらには、新入会者の家にある神礼などを謗法払いさせ、破毀焼却させた。


 「牧口会長は今こそ国家諫暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向かつてきたが、時日の問題で総本山からは、堀米部長がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諫暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は『一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である』と主張なされた」(富士宗学要集9、P430)


 4月、戸田城聖が社長であった平和食品(株)の専務である創価教育学会理事・本間直四郎他一名が、経済統制法違反の疑いで逮捕された。
 その後、幹部の北村宇之松が神田警察に経済統制法違反の容疑で逮捕された。この容疑では無罪となったが、別件で留置され、結局、翌昭和19年12月22日まで、池袋警察署、警視庁、巣鴨拘置所と所を変えながら投獄されている。
 5月、日時不明だが、創価教育学会の会員が折伏した相手の神札を焼却したことで、相手が警察に訴えた。牧口はこれを指導したとして逮捕されたのである。このときは、一週間後釈放された。


 6月に入り、創価教育学会の牧口会長ら首脳は、大石寺より登山を命じられた。
牧口会長らは大坊において、日恭および堀日亨立ち会いの下、庶務部長の渡辺慈海から「『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意」を受けた。
 牧口常三郎は、神札甘受を、
 「その場では暫く柔らかにお受した、が心中には次のように考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神国だ、神風が吹く、一億一心となって神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆う者があると、国賊だ、非国民だといつて、特高警察や憲兵のつけねらう所となつた、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的であつて、信仰祈願すべきでないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた」(富士宗学要集9、P431)

 昭和27年6月10日付の「聖教新聞」掲載の戸田城聖の談話一部を引用する。
 「戦局も悲運にかたむき、官權の思想取締が徹底化して來た昭和十八年六月初旬に総本山から『学会会長牧口常三郎、理事長戸田城聖その他理事七名登山せよ』という御命令があり、これを受けた学会幹部が至急登山、その当時の管長であられた鈴木日恭猊下、及び堀日亨御隱尊猊下おそろいの場に御呼出しで、(場所はたしか元の建物の対面所のように記憶している)、その時その場で当時の内事部長〈筆者注 庶務部長〉渡辺慈海尊師(現在の本山塔中寂日坊御住職)から『神札をくばつて來たならば受け取つて置くように、すでに神札をかざつているのは無理に取らせぬ事、御寺でも一應受け取つているから学会でもそのように指導するようにせよ』と御命令があつた。
 これに対して牧口先生は渡辺尊師に向つてきちつと態度をとゝのえて神札問題についてルルと所信をのべられた後、『未だかつて学会は御本山に御迷惑を及ぼしておらぬではありませんか』と申上げた処が、渡辺慈海尊師がキツパリと『小笠原慈聞師一派が不敬罪で大石寺を警視庁へ訴えている、これは学会の活動が根本の原因をなしている』
 とおゝせられ、現に学会が総本山へ迷惑を及ぼしているという御主張であつた」

 この後、下山の途中で牧口は戸田に嘆いた。
 「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、なげくのである。宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにをおそれているのか知らん」(戸田城聖全集1「創価学会の歴史と確信」1965/9/2,和光社,P300))


 1943年(昭和18年)6月16日、日蓮正宗の僧侶:蓮城房(藤本秀之助)が「不敬罪並に人心惑乱事件」で検挙され、同年8月22日に起訴された。
彼も、日蓮正宗僧侶の中では唯一、牧口と同様に、神札を受けることは謗法であると主張していた。


■創価教育学会への弾圧と、師敵対の通牒、逃げ切り捨ての大石寺

 1943年(昭和18年)6月25日、以下は、いよいよ迫害が迫った頃の、戸田城聖が創価教育学会内で発した「通牒」である。
 「創価教育学会理事 各支部長 殿    理事長 戸田城外 通牒
時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め各員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す。衣って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて総本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国(ちょうこく)以来代々の鴻恩(こうおん)を謝し、奉り敬神の誠を尽くし、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情乃利害をを伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可(べ)からざること。
一 皇大神官の御礼は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
以上
六月廿五日」


 ここでは、師である牧口とは反対の主張がなされている。
 つまり、戸田は、牧口の「神札は絶対に受けない」「天照皇大神宮の大麻は…中略…一番取払いの対象になっております」とは真逆の、「皇大神官の御礼は粗末に取り扱はざる様」と発信しているのである。
 これは、明らかに師敵対ではある。

 牧口は、戸田が上記の通牒を発した後も、下記の如く、日恭に諫言していたのである。

 6月20日、大坊大書院において勤労訓練生の開所式がおこなわれ、ここに天照太神の神札を訓練所所長の上中甲堂によって祀られた。
 
 6月28日、牧口常三郎は、再び登山、大坊内の対面所で、御簾越しで、日恭に対し国家諫暁すべきであると諫言した。しかし、日恭はその意志は見せなかった。
 牧口に随行した当時の神尾武雄理事は、
 「直諫を終えて帰路につき、塔中を歩いていたときに牧口先生は転び、手にけがをされた。ちょうど、ザクロのように傷口があき、血がしたたった。牧口先生は『言うべきことを強く言わなかった罰だ』と申された。手を抑えながら、石川自動車のところまで来て、手を洗われた」(「創価新報」平成5年7月7日)

 6月29日、創価教育学会の中野支部長・陣野忠夫他一名が、治安維持法並びに不敬罪の容疑で逮捕された。陣野に近所の人が、子供の死を罰だとして折伏され、怒って警察に訴えたことがきっかけだった。
 創価教育学会への弾圧が始まった。
 「その後学会幹部は全部投獄されたのであつたが、自分が警視廳に留置せられて取り調べを受けた際に刑事が自分に向つて『前に大石寺に対する訴状が出、それ以來今少し大きくなつてからヤツテやろうと思つていたんだが、淀橋の警察に陣野達があがつたんで少し早いけれ共お前達をヤツタんだ』と聞かされ驚いた事実がある」(「聖教新聞」昭和27年6月10日)

 7月2日、牧口は伊豆へ折伏に向かい、下田の蓮台寺温泉の中田旅館で3日間折伏座談会を行い、5日は須崎で折伏、翌6日朝食後に逮捕された。
 戸田も同日、自宅で早朝逮捕され、理事の矢島周平、稲葉伊之助など東京の幹部も一斉逮捕された。
 7月20日は、創価教育学会本部及び時習学館が家宅捜索され、副理事長:野島辰次、理事:寺坂陽三・神尾武雄・木下鹿次、幹事:片山尊が逮捕された。
 関係者の逮捕は昭和19年3月までつづき、逮捕者は計21名に及んだ。すべて、容疑は治安維持法違反および不敬罪であった。

 宗門の狼狽ぶりは、以下のようであったという。
 「御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、見るもはずかしき次第であった」(戸田城聖全集1「創価学会の歴史と確信」1965/9/2,和光社,P300)
 「本宗に於ても舊時の頑固一點張で居られないが、過般來各種會議を走馬燈の如く開會、種々な足掻を見せてゐるが」(小笠原慈聞『世界之日蓮』昭和18年9月号)


 狼狽した宗門は、庶務部長・渡辺慈海と佐野慈廣を使わして、牧口夫人ら家族に、「取り調べに対し教説に固執しいつまでも頑張らないで、捜査当局の意見に伏して早く帰してもらうよう、牧口会長に話してくれ」と、獄にある牧口会長への伝言を頼んだという。

 大石寺宗門は連日会議を開いて、宗門に累が及ばないように対策を練り、。結論的に宗門が下した決定は、牧口・戸田、以下創価教育学会員を信徒より除名するということであった。
 “破門”処分にされた創価教育学会員は、末寺への参拝も禁じられた。
 同時に、6月16日、神札問題で不敬罪に問われ逮捕されていた藤本蓮城も擯斥処分し、宗外に追放した。
 「その処分の理由は、『蓮城師の法難を偲びて』(大塚興純・弾正教会第二代主管の著書)によれば、
 『一、蓮城は危険思想の所有者なる故
 一、所化の分際にて資格なく弘通し宗制宗規に違反せる故』
 という驚くべきものであったという。日蓮大聖人の教えを信じ行じている者を、「危険思想の所有者」と決めつけるほど、当時の宗門は狂っていたのである。かつ「所化」が「弘通」したことも、僧籍剥奪の理由とされたのである。評するべき言葉もない。」(地涌からの通信第706号,1993/11/15)

 大石寺は、その後の教師錬成講習会(8月21日、8月25日)にて、伊勢皇太神宮の大麻(神札)を、各末寺の庫裡や僧俗の住宅に祀ることはやむを得ないとした。
 日恭や大石寺は、国家権力の弾圧を恐れ、法義を曲げ、権力と戦う信徒を切り捨てたのである。
 この時の国家権力と大石寺の臆病な対応との関係は、かつて江戸時代、寛政の法難に際し、京都の日蓮門下が国家権力に組して要法寺を陥れたこと、大石寺が法難を恐れて要法寺を切り捨てたこととの関係と、構図がよく似ている。
 日寬教学が出来上がった背景と構成や、それと同じ因果を、ここに見ることが出来る。
 
 これより先、蓮城房は、7月31日には検察庁での取り調べで体調をくずし、浅草寺病院に移された。そして9月15日、浅草寺病院から弾正講の大越頼太郎に書簡を託した。
 ここには権力に屈した大石寺に対して、日蓮の教え通り、「諸宗無得道 堕地獄ノ根源ノ禁戒ヲ破ツテ本宗ノ生命ガアルカ」と破折し、自身を「能説此経 能持此経ノ人則如来ノ使也 八巻一巻一品一偈ノ乃至題目ヲ唱フル人如来ノ使也」と、日蓮と同様の自覚に至っている。そして自身の境遇を「当詣道場」と悟っている。
 つまり、この文からすれば、彼は、日寬教学を脱して、日蓮の血脈を受け継いでいたといえる。
 以下、その書簡の全文を引用する。
 「諸宗無得道 堕地獄ノ根源ノ禁戒ヲ破ツテ本宗ノ生命ガアルカ 天照皇大神ノ札ヲマツルナラバ日蓮正宗ノ看板ヲ外シテ伊勢大神宮出張所トスベシ 僧ハ天照皇大神宮ノ神官タルベシ宜シク蓮祖ノ法衣ヲ脱ギ捨テテ一決スベシ 日蓮正宗ノ僧侶ナラバ誰ニモ判ル理ナリ 本山ノ破滅ガ其レ程怖イノカ 寺ガ本尊カ 寺ハ本尊デハナイ 寺ハ本尊安置ノ場所ナリ 如斯明白ナル事ヲ未ダ弁ヘザル者ガ僧界ニ一人デモアリトスレバ宗門破滅也 城者破城ノ所業ナリ 之ハ能化ト所化トヲ問ハザル事也 能説此経 能持此経ノ人則如来ノ使也 八巻一巻一品一偈ノ乃至題目ヲ唱フル人如来ノ使也 始中終捨テズシテ大難ヲ徹ス人如来ノ使也 蓮城ガ心ハ如来ノ使ニハアラズ 凡夫ナルガ故ナルカ サレド三類ノ強敵ニ遭フ形ダケハ如来ノ使ニ似タリ 心ハ三毒フカク一身凡夫其侭ナルモ唱題読誦スル形ハ如来ノ使ニ似タリ 過去ノ不軽ニ似タル一分モアリ悪口罵リサルノ形ハ大聖ニ似タリ 当詣道場 疑フ所ナシト嘆キノ中ニ欣ビ多シ」
 また、蓮城房は、創価教育学会への弾圧を聞き、つぎのように語ったという。
 「自分は袈裟を許されて百日だ、僧侶の最下等の僧侶であるけれども、僧だ。在家だけが法難にあってこれはおかしいんだ。僧俗一致して法難に逢うというんなら話は分かる。だからその中の僧の自分は一番末輩だけれども、自分がその僧籍をケガした一番下であるけれども、自分もそうなった事でよかったんだ。しかし牧口さんは大変にお気の毒だなあ」(弾正講幹部・片爪氏の回想、大塚興純著『蓮城師の法難を偲びて』)

 これらは不破優著「地涌からの通信㉗」に掲載されているが、さらに以下の参考資料が挙げられている。
 「藤本秀之助に對する起訴状
 被告人藤本秀之助は兵庫縣美嚢郡志染村志染尋常小學校卒業後、農業の手傳等を爲し、明治四十四年頃上京一時新聞社等に勤務し大正三年頃より獨立して經濟雑誌の發刊豫約出版關係事業等に從事し、昭和二年頃日蓮宗の一派日蓮正宗の強信者三谷六郎より日蓮正宗の教義の解説を受け、之を信仰するに至り昭和五年頃より月刊雑誌『不二評論』(後に『太陽』と改題)を發刊し、日蓮正宗の教義の流布竝に同宗を國教と爲すべき旨の主張を爲し來りたるものなるが、昭和十六年一月『太陽』を廢刊し日蓮正宗の僧侶となり、爾來毎週土曜日東京市豐島區巣鴨七丁目千八百六十六番地の自宅に信者を集め、同宗教義の解説に努め居りたるものなるところ、今次大東亞戰爭は、畏くも天皇陛下が日蓮正宗を國教として採用せられざる結果發生したるものなるを以て、天皇陛下に於て速に日蓮正宗を國教として採用せらるべきものなりと做し、昭和十七年一月頃以降同十八年六月頃迄の間前後數囘に亘り右自宅に於て信者高鹽行雄他十數名に對し、今次大東亞戰爭に際し『大東亞戰爭は日本が先に手を出したから英米から反撃されるのも當然だ此の報ひは天皇陛下にも來るのである。天に唾を吐けば自分の顔にかゝり壁に球を打ちつけると強く跳ね返つて來るのと同じだ。今日本は物が不足し餓鬼道に堕つて居る。日蓮大聖人の言はれた通り末法三災七難が來たのである。此の正法(日蓮宗を意味す)を用ひない爲に物資不足戰爭大水暴風雨の災難が起きて居るのだ。戰爭によつて斯樣な苦しみが來て居るのも天皇陛下が正法を國教として御用ひにならないからである。第一次歐州大戰の時に負けた樣な憂目を見る。折角取つた占領地も亦取られる樣な事になるから、此法を早く天皇陛下が國教として御用ひになる樣にしなければならぬ。
 天皇陛下が此の正法を國教として御用ひになる樣になると、富士の大石寺には日蓮大聖人が日興上人に與へられた曼荼羅があるから、此の本尊により天皇陛下も授戒せられ大石寺に國立の戒壇が出來るのである。』
 との旨申聞く畏くも御聖徳を誹議し奉り以て天皇陛下に對し奉り不敬の行爲を爲し且つ戰時に際し時局に關し人心を惑亂すべき事項を流布したるものなり。
檢事 吉田榮」


■牧口、日寬アニミズムに殉教

 牧口は、神札は絶対に受けないとし、獄中の取り調べにおいても信念を貫いた。
 「天照皇大神宮の大麻は…中略…一番取払いの対象になっております」(「特高月報」予審尋問調書)


 また正式な検察調書のなかでは
 「被告人は明治二十六年、北海道師範学校を卒業し、爾来小学校訓導、師範学校教諭、文部属、小学校校長等を歴任し、昭和六年東京市立麻布新堀小学校長を退職したるものなるところ、昭和四年頃従来の教育学にあきたらず、自己創案にかかる生活の科学と称する創価学説に基き、人類をして最大の幸福を得しむる為の最良の方法を考究することこそ真の教育学なりと做して、創価教育学なる独特の学説を提唱するに至り、更にその頃日蓮正宗の研究者三谷素啓より同宗に関する法話をきくや、これを右創価教育学の学理に照合理解して痛く共鳴し、同宗の教理こそ末法時における一切衆生の帰依すべき唯一無二の正法なるのみならず、創価教育学の極致なれば、人間をして最大の幸福を得しむるには同宗に帰依せしむるの外なしと思惟し、昭和五年頃、同宗の教理に特異なる解釈を施したる教説を宣布する為、創価教育学会なるものを創設したるが、右教説たるや妙法蓮華経を以て仏法の根本宇宙の大法なりとして、弘安二年日蓮図顕に係る(ママ)中央に法本尊たる南無妙法蓮華経及び人本尊たる日蓮を顕し、その四方に十界の諸衆及び妙法の守護神を配したる人法一箇十界互具の曼荼羅を以て本尊とし、一切衆生はこの本尊を信仰礼拝し、同本尊の題目たる南無妙法蓮華経を口唱することによりてのみ成仏を遂げうべしと做す日蓮正宗本来の教理を創価教育学の見地より解釈したるものにして、日蓮正宗の法門こそ無上最大の善にして、該法門に帰依し、その信仰に精進するにおいては、最大の善因を施すこととなり、因果の理により、最大の善果を得、最も幸福なる生涯を送りうべく、爾余の神仏を信仰礼拝するは、該法門に対する冒瀆にして所謂謗法の罪を犯すこととなり、法罰として大いなる不幸を招くべしと説き、右本尊以外の神仏に対する信仰礼拝を極度に排撃し、畏くも、皇大神宮を尊信礼拝し奉ることも亦謗法にして不幸の因なれば尊信礼拝すべからずと做す、神宮の尊厳を冒瀆するものなるに拘らず、実験証明と称し、入信者が忽ち幸福を得たる反面謗法の罪を犯したる者が恐るべき不幸に陥りたる実例をあげて該教説を説明する等の手段を用い、未信者を強硬に説伏入信せしむる所謂折伏を行い、該教説の流布につとめ来たりたるものにして、昭和十五年十月にいたり、同会組織の整備を企図し、約百名の信者を糾合して、これを会員とし、綱領規約を決定し、自ら会長に就任するとともに、理事長以下各役員を任命し、本部を同市神田区錦町一丁目十九番地に設けて、前記教説を流布することを目的とする結社創価教育学会の組織をとげ、爾来同会拡大の為活発なる活動をつづけ、現在会員千数百名を擁するに至れるが、その間、昭和十六年五月十五日、改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位にとどまりたる上、同会の目的達成のため昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、同会の運営ならびに活動を統轄主宰したるが
 第一 (一) 昭和十六年六月一日頃より昭和十八年七月一日頃迄の間、毎月約一回 前記同本部に於て、幹部会を開催し、これを主宰して同会の運営ならびに活動に関する方針を決定し
 (二) 昭和十六年十一月二日頃より昭和十八年五月二日頃迄の間四回にわたり、同市神田一橋教育会館に於て、総会を開催し、その都度、講演、実験証明などの方法により、参会者数百名に対し、折伏または信仰の強化に努め
 (三) 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間、二百四十回にわたり、同市中野区小滝町十番地陣野忠夫方に於て座談会を開催し、その都度、説話、実験証明等の方法により、参会者数名乃至数十名に対し、折伏または信仰の強化に努め
 (四) 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間、毎週一回面会日を定め、その都度、同市豊島区目白町二丁目一六六六番地自宅に於て説話、実験証明等の方法により、身上相談の為の来訪者数名乃至数十名に対し、折伏または信仰の強化に努め
 (五) 昭和十六年十一月五日頃より昭和十八年七月五日頃迄の間十回にわたり、地方支部または地方に在住する信徒の招聘に応じ、福岡県その他の地方に赴き、約十五回にわたり福岡県二日市町武蔵屋旅館その他に於て、座談会または講演会を開催し、その都度、講演、説話、実験証明等の方法により、参加者数名乃至数十名に対し、折伏または信仰の強化に努め
 (六) 昭和十七年九月前記同会本部に、同会三十数名を委員とする、退転防止委員会を設け、昭和十八年七月六日頃迄の間、全委員を七班にわかち、信仰を失い、脱会せんとする同会会員の再折伏に努めしめ、かつその間六回にわたり、同本部に報告会を開催し、委員より再折伏の実際に関する報告を徴し、爾後の方策を考究指示する等委員会の指導に任じ
 第二 昭和九年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内その他に於て、同市王子区神谷町三丁目三六四番岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、その都度、謗法の罪をまぬがれんが為には、皇大神宮の大麻を始め、家庭に奉祀する一切の神符を破棄する要ある旨強設指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒瀆し奉る所為をなしたる等、諸般の活動をなし、以て神宮の尊厳を冒瀆すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したるとともに神宮に対し不敬の行為をなしたるものなり。(池田論『牧口常三郎』より)」(日隈威徳著「戸田城聖ー創価学会ー 復刻版」2018/6/26,本の泉社,P82-85)
 とある。


 彼は、日蓮正宗を自身の価値論に結びつけた信念とし、これに基づいて、厳然と折伏していたのである。

 しかし、ここでいう「日蓮正宗本来の教理を創価教育学の見地より解釈したる」考察や研究、つまり、価値論や人生地理学を含めた、創価教育学体系などの彼の著作には、日蓮教学自体についての科学的分析や考察が一切見られないのである。
 つまりは、彼にとっても「この本尊」とは、大石寺の「板マンダラ」であって、受け継いだ日寬教学から一歩も更新していない、結果として、アニミズムのドグマをそのまま受け入れて信念としていたと考えられる。

 日蓮は、あくまで「法」(=南無妙法蓮華経)に頚を捧げたが、牧口は、こういう意味では「板マンダラ」に頚を捧げたと言ってもいいのではないだろうか。

 このことは、獄中の尋問調書にも見ることが出来る。法華経と日蓮の関係を問われた答えの中に、牧口の本尊観が次のように記されている。
 「本門の本尊というのは曼荼羅の事で、…中略…結局信心の上からは、本尊というも曼荼羅というも同一であり、信仰礼拝の目的対象であり、仏様であり仏様そのものであります。
 この本尊観には霊格と、人格との両面があります。即ち法の本尊と人の本尊であります。法の本尊というのは真如、真理に相当し、一念三千の不思議の境界で、これが妙法の曼荼羅で、その姿を文字に顕して真中に『南無妙法蓮華経』と書いて、これが中心となり、その周囲に十界の代表者の仏菩薩から、世界を守る神々、妙法を伝えて来た人人までもならべて、中心となる仏の霊格を示し、中心の光明に照らされて皆仏となるべき事を示したのであります。
 次に人の本尊というのは、法報応の三身が互に融通する上での自受用報身如来であり、久遠の智徳を表面として、内面では法身仏と応身仏とも交渉する、それが末法には人格者としての日蓮大聖人を信じ奉って木像にも絵像にも作って、なお生きておられる如く敬い奉るのであります。
 この自受用身の人格に妙事の三千の法が具っているところが、人即法の本尊であり、三千の法に自受用身の具っているところが法即人の本尊であり、この互具一体のところを、人法一箇とも一体とも申して、私達の帰依する仏様であります」(宮田幸一監修「牧口常三郎 獄中の闘い」2000/11/18,第三文明社,P112-113)
 また、法華経の真理から見れば、日本国家も濁悪末法の社会なりやの問いに対する答えとして、日蓮の立正安国論を文証として挙げ、
 「現在の日支事変や大東亜戦争等にしても、その原因はやはり謗法国であるところから起きておると思います。
 故に、上は陛下より下国民に至るまで、すべてが久遠の本仏たる曼荼羅に帰依し、いわゆる一天四海皆帰妙法の国家社会が具現すれば、戦争飢饉疫病等の天災地変より免れ得るのみならず、日常における各人の生活も極めて安穏な幸福が到来するのでありまして、これが究極の希望であります。
 つまり、日本国の政治・経済・文化その他全部が法華経の真理に則って行われるのが理想でありまして、一天四海皆帰妙法の理想社会の建設にほかならないのであります。
 この時が始めて、王法が仏法に冥じ仏法が王法に合し、王臣ともに本門の三大秘法を持する王仏冥合の時でありまして、正義道徳の最大最高を理想とする日本帝国も法華経も不二一体のものと信じております」(前掲書P124-125)

 この文に、牧口の本尊観が、日寬のアニミズムを受け継いだものであることがよく表れている。
 宮田幸一氏は、この文を根拠に、政府の戦争政策の正当化、欧米の植民地支配に対抗した大東亜共栄圏建設への聖戦というイデオロギーに対する牧口の思想を、
 「戦争は悪であると述べ、戦争に反対であることを明らかにしている…中略…ここには、戦争はどんなに正当化を主張しようとも悪であり、してはいけない事であるという牧口先生の思想がはっきりとあらわれている。」(前掲書P128)
 と、述べているが、はたしてそこまで断定できるのであろうか。

 日蓮は、念仏などの邪宗を禁じたが、表面的には武力を行使すること、そして戦争についても、一切禁じてはいない。
 日蓮の立正安国論は、戦争飢饉疫病等の天災地変についての原因は邪宗の害毒であり、正法帰依によってのみ国家の安寧・理想社会の建設となると説いているが、現代において云々されるような、戦争反対・武力行使禁止とは一言も書いていない。
 弟子檀那も武士が多かったから、なおさらである。
 牧口の答えは日蓮に基づくもので、これと同様であり、戦争は謗法の害悪であることまでは述べているが、具体的に方法として「戦争は反対である。今すぐ止めるべきだ」と主張したのではなく、ただ「曼荼羅に帰依」すべきであると折伏しているのである。
 宮田幸一氏の論筋では、刀剣が正義であった鎌倉時代の日蓮も刀剣使用禁止・戦争反対を唱えたことになって、歴史的事実に矛盾することになるであろう。

 「あくまで日蓮の教えを純粋に守り通すことにこだわったからからであり、反戦平和思想から来るものではなかった。それ以前の言動を踏まえると、日本があげて日蓮正宗に帰依さえすれば戦局がたちまち好転すると、牧口は考えていたのではないか」(高橋篤史著「創価学会秘史」,2018/2/27,講談社,P209)

 日蓮の立正安国論も、牧口の答えも、そして宮田幸一氏の見解も、時代背景の縛りを明確に受けているのであり、移ろいゆく時代における具体的な社会的行動については、おのずから限界が伴っているのである。

 日蓮の教えの中に存在する余分な呪縛となっている非科学的部分やドグマは、現代科学のメスで一つずつ切り落としていかなくては、永久不滅の真理は曇ったままで、はっきりとは見えないのである。


■戸田城聖の小説「人間革命」

 また、牧口の弟子である戸田城聖について、前掲書の「人間革命」にある、「支那大陸の地下工作」は、戸田城聖(巖さん)の得意なハッタリではなく、牧口常三郎ー戸田城聖の一体の構想でもあったようである。
 聖教新聞連載版ではカットされているが、捕虜になって捕らえられたロシア人との会話のあとに、妙悟空(戸田城聖)著「人間革命」(和光社)P455では
 「巖さんの背筋に戦慄を起こさせた。(日本が負ける……そ、そんな、馬鹿なことが……)」
「牧田城三郎先生は国家諫暁を思い立たれ、自分は学会幹部を集めて、救国の一大折伏戦や支那大陸への潜行運動などを展開しようとしたが、それは飽く迄も、日本を負けさせたくないからであつて、…」
 とある。

 しかし、現在発売の電子版および聖教文庫の戸田城聖著「人間革命」下P244は、この部分は削除され、「去年の夏に捕らえられてから、世間との交渉を絶たれて、戦局の推移を知らない巖さんは、ロシアの中尉の確信を怪しむばかりであった。」と、続いているのである。(この改定も、かつて、戦前から反戦・平和の団体であったと主張していた創価学会の建前から、都合が悪かったからであろう)

 獄中では、戦勝を確信していた戸田城聖であった。
 「戸田氏は獄中にあって感じたことを次のようにいっている。
『戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私は教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。教線が延びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦の方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた。』(小口偉一著「宗教と信仰の心理学」1956/7/15,河出書房P35-36)

 溝口敦は、自著「池田大作『権力者』の構造」P85-88において、以下の指摘をしている。
 「戦争に反対し、日本の前途を憂えた宗教者は別にいた。神戸地裁、控訴院、大審院と公判闘争を続けた刈谷日淳、敗戦直前拷問死したその老信者・原真平、侵略戦争だとして陸軍刑法違反で起訴された真宗大谷派の一住職など。また教義面からの弾圧を受けた教団教派はさらに多く、ホーリネス系と無教会系のキリスト教などの他、日蓮正宗の講においても、藤本秀之助の弾正会が弾圧され、藤本は獄死している。
 牧口の創価教育学会は、戦争に反対しなかったばかりか、その批判も教義面からにのみとどめられていた。」
 溝口敦は、牧口の獄中書簡を挙げ、君国のための戦死、名誉という言葉に反戦の思想はうかがえないと指摘している。
 その牧口の獄中書簡を挙げておく。
「『国法にはどんなにでも服従するというのだから心配はいらない』(四四・三・一二)…中略…」
『……ビックリシタヨ。ガッカリシタヨ。……病死ニアラズ、君国ノタメノ戦死ダケ名誉トアキラメルコト。唯ダ、冥福ヲ祈ル、信仰ガ一バン大切デスヨ。百年前、及ビ其後ノ学者ガ、望ンデ手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタルノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文ノ通リデス……』」
(佐木秋夫・小口偉一「創価学会」1957/8/20,青木書店,P68-69)


 また、溝口敦は、「赤旗」で、牧口の講話を報告したジャーナリストの指摘を挙げている。
 「当時は太平洋戦争の初期で日本軍は南に北に連戦連勝(?)であった。
 牧口会長の講話は、いつもこの点に触れ蒙古襲来のときの日蓮をひきあいに出して、日本の戦勝は、みな御本尊の正統を受けつぐ日蓮正宗の信仰の力によるものであり、日本は、やがて全世界を統一し、『王仏冥合』によって、日蓮正宗こそが世界のすべての中心であり、世界人類の救済者となる――というのが、要するに、その結論であった」(「赤旗」昭和45年2月19日)

 戸田の獄中から夫人あての書簡(昭和19年9月)に、次の記載がある。
 「私ガ御国ニ尽クシ抜イテ死ンダ時、貴女ノ今日ノ苦労ハ報イラレル」(戸田城聖「若き日の手記・獄中記」1970/11/15,青娥書房,P131)


 以上からすれば、牧口・戸田も、大石寺も、決して明確に戦争は反対だ、今すぐ侵略戦争を止めろと主張してはいなかった。
 つまり、創価教育学会が反戦平和を強く主張していた事実は存在しない。
 1942年5月と11月の総会を記録した「大善生活実証録」(国立国会図書館所蔵、復刻版)によると、以下のような幹部の発言がある。
 「大東亜戦開始以来の戦果は、法華経の護持国なればこそであります」(野島辰次理事)
 「陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、赫赫たる戦果を挙げ…中略…断じて勝つの一手あるのみである」(本間直四郎理事)
 これを挙げて週刊東洋経済No.152「公明党、創価学会よどこへ行く」(楽天kobo電子版)では以下のように指摘している。
 「牧口は天皇中心の国体思想を肯定していた。が、あくまで最上位にあがめるべきは法華経の大切さを説く日蓮の教えであるとの考えで、到底それは国家神道と相いれなかった…中略…
 実は戦後、創価学会が戦時中の歴史、わけても初代牧口に光を当てるようになったのは冒頭の70年を境とする。11月18日付の聖教新聞を毎年さかのぼると、牧口の法要が営まれたことが1面の片隅に載る程度だった。それがこの年、『貫いた戦う平和主義』との見出しの下、突然、大きな扱いに変わったのである」
 この1970年は、言論出版妨害事件を起こし、国会でも取り上げられる中、5月3日、池田大作会長(現名誉会長)が謝罪講演を行い、国立戒壇、王仏冥合を引っ込めて収拾したばかりであった。
 日蓮正宗創価学会は、当時の盛り上がる学生運動の流れを利用し、反戦・平和を大きく打ち出したのである。

 掘日亨は、戦時下の創価教育学会弾圧事件について、
 「顧みるに法難の起る時必ず外に反対宗門の針小棒大告発ありて其の発端を発し、内に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒ありて、両面より官憲の横暴を徴発するの傾き多し、本編に列する十余章皆然らざるはなし」(掘日亨編「富士宗学要集」第九巻 1978/12/20 発行者池田大作、創価学会出版、P247)
 と指摘している。

 ここに、「反対宗門の針小棒大告発」とは、神本仏迹論を称えた小笠原慈聞の謀略を指しているが、牧口・戸田ら創価教育学会は、軍部が日本を支配している状況下で、日蓮正宗的には「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非(似て非なる)信行の門徒」であって、自ら「官憲の横暴を徴発」したのである。
 これらは、日蓮の言う「善戒を笑えば、国土の民となり王難に遭う。是は常の因果の定まれる法なり」(佐渡御書、御書P960)の指摘通り、自業自得・因果応報だったのである。


 こうして、大石寺中枢も権力に媚び諂い、頼みの牧口・戸田の創価教育学会も、明確に反戦を訴えることなく権力の力に屈し散っていった歴史は、「法」に頚を捧げた日蓮の血脈を受け継いでいたとはとうてい言えない。
 まさに、堀日亨が上記で指摘するごとくであり、これが日寬教学を受け継いできた影響であるといえる。
 そんれらの多くの末流は、今日になっても、史実・真実を隠蔽・改竄し、自らの組織を美化するような愚かなことはもう止めるべきではないだろうか。


 ちなみに、擯斥処分された小笠原慈聞の神本仏迹論も、彼のいう神とは天照大神、仏とは釈迦、日蓮であったことから、仏と神が入れ替わっているものの、結局はアニミズムの範疇の論である。
 後に彼は、戸田城聖創価学会第2代会長以下、当時の池田大作を含む大勢の青年たちによって暴行されることとなる。これを狸祭り事件というが、結局のところ、日蓮の「法」に殉ずるのではなく、アニミズム信奉者同士の、仇討ち修羅道の様相なのである。

 

 

 P16へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」


目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰