●20 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム | ラケットちゃんのつぶやき

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●20  池田大作「宇宙のリズム」アニミズム


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。



■池田大作の、会長時代によく見られた指導例

 「天晴れぬれば地明かなり 法華を識る者は世法を得可きか」(観心本尊抄、御書P254)
《天が晴れれば地は明かとなる。法華経を識る者は当然に世法を得ている。》

 この日蓮の遺文ひとつとっても明らかなように、世法・国法よりも自らの主張する〝仏法〟や組織の論理を優れたものとして、池田先生を守るためなら国法を犯してもよいと、様々な犯罪を重ねてきた創価学会に、日蓮直結・御書直結を掲げる資格が存在しないことは、既に歴史が証明している。
 更には、「御書のとおり実行しているのは創価学会しかない」と、現在も創価学会は言い張っているが、これが文証・理証・現証の点からも適切でないこと、御書の通り日蓮の教えを忠実に実行してきたとはとてもいえないことは、良識ある誰の目から見ても明らかであろう。
 その宗教的最高指導者である池田大作の姿勢は、様々な点で日蓮の姿勢とは似ても似つかない、対極にあることは、後述する。
 このような創価学会組織の体質は、古くからジャーナリズムの指摘があったが、戸田城聖の時代、組織が小さい期間は、狸祭り事件など、組織内での出来事など、マスコミに問題視されたのは比較的小さいものであった。



 前稿「私の池田大作観(1)」では、主に創価学会の言論問題(1969年の言論出版妨害事件)以前の歴史について少々記載した。
 その後の創価学会の歴史については、公式書籍やインターネットの公式ホームページ、また日蓮正宗の公式ページ、また反創価のページや出版物がマイナーではあるが出そろっているので、詳細はそちらをご参照願いたい。

 池田が会長に就任後は、戸田時代からの折伏路線を受け継いだものの、その伸び率は鈍り、さらに言論出版妨害事件でつまずき、世界へは、反戦・平和路線へと歴史を書き換えながら、それでも750万世帯を公称するようになった。
 しかし、これは側近らによると、捏造であったという。
 御本尊は一旦は受けたものの、駅などのゴミ箱に棄てられたり、行方不明にした人も数多くいた。
 こういった事実や実際の会員数の増減の経過なども公表せず、現在も公称827万世帯という。


 池田会長就任以降は、日蓮正宗の教え(日寬教学)や戸田城聖監修「折伏教典」が教学の中心だった。が、次第に、池田大作の独自解釈が加わっていった。
 創価独自の師弟の道、師弟不二、そして、梵我一如の宇宙論である。
 古代からの仏法を、科学の発達した現代に展開するという意図であったが、結局のところは梵我一如に絶対者を混ぜ込み、これを仏として信じるという、本来の仏法とはかけ離れた呪術的アニミズム、外道に陥っていたものだった。
 日蓮の遺文や法華経の文を、背景の文脈を度外視して、都合よい部分を切り文にして曲解し、巧みに論の根拠にしているのが特徴である。

 戸田城聖監修「折伏教典」よりその例を引用する。
 「邪宗教・低級宗教の説く利益は、その境涯自体が地獄餓鬼畜生修羅の境涯の衆生の願いを満足させるにすぎない小さい低い利益であつて、真の幸福からみれば問題にならないのである。こうした一時的な小利益から一歩も出ない邪宗の利益を説くのは、正しい宗教ではないことに気がつかなくてはならない。
『病気がなおる』とか『金がもうかる』などの言葉にみな迷つているために、宗教の偉大さを知ろうとしないのが、現代の知識人の姿である」(戸田城聖監修「折伏教典」1961/5/3校訂三版、創価学会、P301-302)

 「我々の生活には利益と罰があるのが実相である」(同、P303)

 「よく邪宗教で『病気がなおる』とか『金がもうかる』とか『家が平和になる』とか『落し物がみつかつた』とか実にくだらない利益を看板にして人を集めているので、利益を説く宗教は低級のように感じられるのであるが、利益にも大小のあることを考えなければならない。小さな利益に迷つて大利益を失うのが邪宗の姿であり、小さな罰で大きな罰を消し大利益を与えるのが正しい信仰の利益である」(同、P304)

 「又日寛上人は、
 『この本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用あり故に暫くも此の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば
 祈りとして叶わざるなく
 罪として滅せざるなく
 福として来たらざるなく
 理として顕れざるなし』
と仰せあるのである」(同、P304-5)
 「事実調べてみると、真の仏法を知らずして大聖人に関係した小説等を書き、又像を刻んだり画いたりした者は、その直後において半身不随や原因不明の病気になつて、必ずその直後は地獄の相を現じて、すごく悲惨な死に方をしているのである。これは謗法の厳然たる仏罰であり、知らずに拝む者も同罪である」(同、P326)

 下記の引用は、内部組織に配布され活用された、日蓮仏法の真髄とされる「勤行」についての、池田会長の指導である。

 「五座・三座の勤行をきちんとやれば体がしっかりとする。やっていない人に限っておかしくなるのだ」
 「勤行の弱々しい人は必ず病気になる」
 「御本尊に響きのある題目をあげる事が大事なのです。そして声の響きが帰ってくるのです。それが功徳になるのです」
 「五座・三座の勤行をしっかりやりなさい。そうすれば、どんな願いも叶うし病気の人も体の調子がよくなる」
 「おかしくなるのは勤行をきちんとやってないからだ。勤行をきちんとやっているかいないかは自分が一番良く知っている」
 「体が疲れている時、寝てしまった方が回復するのではないかと思うかもしれないが、そうではなく、しっかり勤行をするのだ。寝不足なんかなくなってしまう。仕事もうまくいく」
 「態勢を整える為に勤行をするのだ。宇宙と合致しているのだから生命が大宇宙のリズムに乗らない訳がない」
 「勤行こそ心の、また生命の最高の化粧法であり、且つ又、最高の健康法である」
 「御本尊にビンビン響き、感応してゆく勤行・唱題に無限の功徳がある」
 「疑いがあり形式的であればその唱題は百万遍の題目を唱えたからと云っても境涯が開くものではない」
 「形式的に嫌々ながらでは何千万遍唱えても境涯は開かない」
 「送信機がいくら立派でも、受信機がこわれては駄目だ」
 「自分自身の生活、又は生命の上で悩みがあったら堂々とのびのびと百万遍の題目をあげきってみて、どういう結果が出るかと云うことを我が身で体験していただきたい。それが論より証拠です」


 何よりも信心、信じるこが根本とされるのはすべての宗教に共通だが、信じることで智慧に代える、智慧が出るという「以信代慧」、そして信じるとは疑うことなく受け入れること「無疑白信」が、ここでは強調された。
 その「信」の対象は組織内で配布された日蓮正宗の曼荼羅だけではなく、誤り多き生身の人間としての会長、さらに延長利用されて組織の幹部から先輩まで及んだ。
 創価の師弟の道は、日蓮の法に則った仏法の師弟ではなく、「無疑白信」という用語を利用した絶対的主従関係であった。

 さらに、次のような指導もある。
「本当に苦しんだ時、百万遍の題目を唱えなさい」
「皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい」
「題目をあげておかないと、長い人生に於いて非常に困ることになる。唱えられる時に唱えておきなさい。題目は貯金です。充電です。人は死ぬまで様々な苦悩に直面するものです。思ってもいなかった時に題目をあげていた人と、いなかった人の差がはっきり現われるのです。あげている人は変毒為薬し、あげていなかった人は奈落に落ち込んでいく」……

 「宇宙と合致しているのだから生命が大宇宙のリズムに乗らない訳がない」等、このような非科学的なドグマでも、「以信代慧」という仏法用語が権威的に利用されて、理性的な思考が停止させられる。
 そして指導された人は自ら思考停止し「信じる」「受け入れる」ことでも、脳内麻薬が分泌されて、一時的な満足感が得られるのである。

 「イワシの頭も信心から」のことわざは、大なり小なり科学的に事実ではある。
 その効果はプラゼボ効果として解明されている。
 そして、これらは男女間(同性愛も含む)の和姦にも似ている。
 同意があれば、信じる・信じさせる、受け入れる・与えること、また、支配する・服従することは、脳内麻薬が分泌されて、どちらにとっても「気持ちのいい」こととなる。
 宗教的な救済の中身は、こういった要素もあるだろう。
 フロムは「権威主義的性格」として論議している。(「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳50版 1971/5/20 東京創元社 P182))

 そもそも、人に物をプレゼントとして贈ることは可能だが、前述した指導に出てくるところの、題目をプレゼントとして贈ることは科学的に可能な、効果のあることなのだろうか。
 もし可能としても、そこに何らかの作用、たとえば福運とかを贈ることは可能なのだろうか。
 当然のことながら、そんなことはないだろう。
 仏法の因果は厳然である。
 身口意の三業は、自分だけが積むものであって、人や子孫に贈られるものではない。
 題目を贈るとか、回向するとかいうのは、その発言する者の真心として、その者の身口意の三業にはなるが、その贈る先の対象に福運とか救済とかを何らもたらすものではない。
 まったくもって、エビデンスもなく、エビデンスを証明する思考実験すら不可能なのである。

 ちなみに、その贈る先の対象に仇や災いをもたらそうとするのが「呪い」である。
 そもそも「祈り」と「呪い」の違いは、その贈る先の対象にもたらすものが「救済」か「災い」か、言い換えれば「幸福」か「不幸」かだけの違いであり、本質的には同じことであって、科学の答えとしては、物理化学的にはその対象に何の作用も及ぼすことはありえないのである。



 池田大作は、日蓮仏法の教えを、御本尊や仏を、「大宇宙の生命」「大宇宙のリズム」などという仮想物に実体化し、外道の教えに下げてしまった。
 その文献は、多く挙げることが出来るが、一部、例を挙げておく。

 法華経の智慧第3巻 P32-34 では、池田大作名誉会長と、須田晴夫との対話の一部を以下にあげておく。
 「名誉会長 たとえば、多くの宗教は、聖地巡礼のように、宗祖ゆかりの場所を特別の地として崇める。大聖人でいえば、流罪の地である伊豆や佐渡、法難の竜の口や小松原、また活躍された鎌倉、生誕の地・小湊、その他、身延、池上などの地があります。しかし戸田先生は、それらの地を〝聖地〟とするのではなく、どこまでも『御本尊根本』でいけ、と教えられた。ここに戸田先生の偉大さがある。
 御本尊を強情な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〝聖地〟である。そこが虚空会であり、霊山であり、宝塔が建つところだからです。
 須田 ブライアン・ウィルソン博士(国際宗教社会学会元会長)は、ある特定の地を聖地として、そこに行かなければならないとするような宗教では、世界宗教にはなりえないとも言われたそうです。
 名誉会長 その通りです。『いま・ここ』で永遠なる虚空会の儀式に連なれる、我が身に、我が生活に、我が家庭に、宝塔を光らせていける。これが御本尊の素晴らしさです。どこまでも身近です。現実です。虚空会は前後の霊山会(霊鷲山での会座)と違って、『時空を超えた』世界である。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、『いつでも・どこでも』虚空会につながることができるのです。
 虚空会の儀式を表した御本尊を拝することによって、私どもは、『いま』永遠なる宇宙生命と一体になり、『ここで』全宇宙を見おろす境涯を開けるのです。その意味で、日々の勤行・唱題は、宇宙飛行士が宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な『生命の旅』といえるのではないだろうか。」
 と、述べられている。

 ここでも、「永遠なる宇宙生命と一体になり」と言っている。
 これは外道の説である。
 「全宇宙を見おろす境涯を開ける」なんてあり得ない。
 「宇宙空間から地球を望むよりも、もっと壮大な『生命の旅』というのは勝手な妄想であって、科学的根拠がない。
 具体的な悩みを抱えて勤行・唱題しているとき、いったい何人がそういった実感をもっているのだろうか。
 もっとも、虚空会を含む法華経自体が、釈尊の後世が創作した壮大なSF物語である。


 かつて、創価学会は、富士宮の日蓮正宗総本山大石寺へ、会員に対し「いざ鎌倉」と称し精神を鼓舞して登山会を頻繁に開催していた。
 いつでもどこでも虚空会につながることができるならば、登山会も不要なのであり、近年財務部員の浄財で建てられたという信濃町の広宣流布大聖堂も、そもそも必要ないのではないだろうか。


 ただ、ここでは、「御本尊を強情な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〝聖地〟である」というのも、正解のように見えるが、ここでの「御本尊」が、物体としての「曼荼羅掛け軸」を指しているから、アニミズム宗教としては正解となるだろう。
 だが残念ながら日蓮の信仰は、法則(=南無妙法蓮華経)への信仰であるから、この表現のままでは不正解である。
 ここは、「御本尊」を、「法としての南無妙法蓮華経」に、明確に入れ替え、「法である南無妙法蓮華経を強情な信心で拝するところ、いずこであれ、そこが最高の〝聖地〟である」とすべきであろう。


 近年でも、聖教新聞(2020/11/25)で、「心に御書を〈90〉」において以下のようにある。
 「一念三千の法門をふりすすぎたてるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給えどもひろめ給わず
(草木成仏口決、1339㌻)
〈通解〉…中略…
仏天をも揺り動かす祈りを
 御本仏が、全人類のために顕してくださった御本尊である。大宇宙の生命力が、最も強く深く結集している。その無量の仏力・法力を、全世界で引き出していくのが創価の宝友の信力・行力だ。
 一念三千の極理に則り、請願の祈りは仏天をも揺り動かす。自他共の生命を尊極の妙法の当体と輝かせ、幸福へ勝利へ価値創造を!」



■石田次男の指摘、外道である池田大作アニミズム

 石田次男は自著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」の中で、池田大作の主張展開する仏法を、仏法ではなく外道であると指摘している。
 彼は、戸田城聖亡き後の会長を継ぐ人物と見られていたが、無欲で会長職を自ら望まず、池田大作に敗れ、さらにその後、池田に冷遇され、結局創価学会を造反した人物である。
 池田大作著『人間革命』第12巻P150-154で 登場人物 石川幸男のモデルとなった。
 この書は、日寬アニミズムを根底にしてはいるが、ハイレベルの教学で、天台や日蓮の難解な仏法用語をふんだんに駆使したブラックジョークと皮肉が、各所に満載されている。
 創価学会の都合の悪い裏事情や歴史の告発もあり、全体としては、池田大作に対する怨念に満ちた内部告発書のように見える。
 しかし、その中でも、依法不依人にしたがって、比較的真実の指摘と考えられる部分をとりあげてみる。

 少し読みづらい文章で、長い引用になるが、彼の論理展開を、原文のママ、見てみる。
 「仏法では『世の中に一切法として〈実有〉なる法はない。全ての法は全て仮有である』という。池田氏はこれを否定して〈宇宙の妙法〉なる〈実有〉を説く。」
「この内、自衿軽慢(じきょうきょうまん)にご注意願いたい。〈謙虚〉に仏説・師説に自説を合わせなかったら決して信順(南無)には成らないのに、自を誇り他を卑しむ――十界論で言えば修羅界の特徴である――から、自説を誇り仏説・師説を卑しめて、〈仏説も師説も自説に合わせる〉という驚くべき悪逆が発生する。池田氏に於て・この悪逆が実った最たるものが・宇宙論・などの〈仏身以外の・人法別箇の・妙法〉である…中略…
 池田氏も又その通りである。本当の仏法を繙(ひもと)いてみると、爾前では〈心生〉の十界を説き・法華実教には〈心具〉の十界を説いてある。どちらにしても〈心〉が中心だから「一心法界」と言われる。『南無妙法蓮華経は仏身であります』(日淳上人)。これは〈仏身〉以外は〈事の妙法〉ではない事を示している。事でなければ〈普遍な迹理〉でしかない。それなのに宇宙に十界妙法を構えた新説が二十世紀の今日出現した。
 これでは無心の妙法・無心の法界である。その代表として〈宇宙のリズム・宇宙論〉なる粗忽(そこつ)法門を取り上げてみる。
 我々学会員は本当に妙法を心得て居るのだろうか? まずこの事の検討から始めなければならない。『妙法は仏身である』(日淳上人御顕示)。決してその他ではない。仏身から離れてしまえば〈事(じ)から離れた迹理・抽象理でしかなくなる。これは〈存在としては架空存在〉でしかない。我々は此の事をまず我が心にしっかりと刻み込まなければならない。刻み込まないと〈妙法は必ず仏身〉なのに、池田氏の様に〈仏身以外の妙法〉を説き出す様に成ってしまう。…中略…
 池田氏は物事を考えるのに全てを〈個在主義〉で考える悪癖が憑いてしまっている。…中略…」(前掲書P52-54)

 ここで言うところの「個在主義」とは、要するに前述してきた「アニミズム」に相当する。
 これは釈迦がバラモン教の「梵我一如」を「諸法無我」といって真っ先に否定し、日蓮も「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と激しく否定し折伏した「アニミズム」であることは前述した通りである。
 だから石田次男は、続いて「〈個在主義〉は天下第一の〈逆上法門〉」と指摘している。

 石田は続いてP54-56で、天台の解釈を用いながら、五蘊仮和合、空仮中などの仏法の基本理念や日蓮の諸法実相、当体蓮華を解説しながら、池田を完膚なきまでに破折している。
 「『此の三千・一念の心に在り(私注 妙法は仏身なのだから当然至極な事だ)――若し心無くんば而已(やみなん)芥爾(けに)も心有れば即ち三千を具す』(『止観』)……この観心本尊抄の〈心具〉の文丈は知って――心具の意味の方は知らない――いて、三千や十界つまり地獄とかが〈心〉に〈個在〉して具わっている・と思っている。〈個在主義〉は天下第一の〈逆上法門〉な事を知らず、同じ天台大師が『一切法は皆因縁の所成なり』(『玄義』)と教えている方は全く無視した侭だ。〈個在〉という事は、人が或る物事に注目の焦点を絞り、その物事が依って立つ周辺条件を全て心理的に無視して消し去ったから起こるのである。つまり、人間心理が導きだした〈勝手決め〉でしかないのである。この〈勝手決め〉である〈個在〉の正反対が〈縁起〉という事である。〈縁起〉の方は『仏・人天の作に非ず』(諸経)という無作本有の自然法(じねんほう)である。
 心具を知って縁起を知らないのは、これ、一を知って二を知らず、表を見知って裏を顧みない仕業である。天台大師は決して〈個在〉などを説いては居ない。個在とは反対な縁起の方を説いた。『一切法皆因縁所成』の方が・土台・下敷・前提・に成っているその上に・この舞台構えの上に・三千の法が『(縁起して)一念の心に(具されて)在り』『心無くんば(因縁離散してしまうから)而已(やみなん)』と説かれたのであるから、地獄……仏・が『一念の心に在り』――(私注 この『在り』とは〈実有〉の意ではない)――とは〈結果論〉で表現した言い方であって、この結果は因(心法)と縁(色法・事物事象)とが仮和合しない限り決して起こらないのである。起こらなければ言える訳も説ける訳もない。再び結論を言おう。別しては究境の妙法は久遠元初自受用報身如来の〈仏身……報身〉の中に丈在ってその他には全く無い。総じては信受し奉る正信の徒の肉弾の胸中にのみ〈理即ーー分真即〉位の〈当体蓮華〉として在って・その他には全く無い。嘘と思う者は当体義抄を拝し直せ。日寛上人・日淳上人・の御教示を拝し直せ。『宇宙は当体蓮華である』・という御教示など、御書全編いづこに在りや‼ 
 色心・根(眼・耳・鼻・舌・身・意)塵(色・声・香・味・触・法)・境智・依正・情・非情……この上下二支が縁起仮和合しない限り・地獄……仏・は決して〈生起〉しない。十如も三世間もそうだ。三千全てがそうだ。地獄……仏は決して・人体内に内臓諸器官が備わっている様に〈心〉に具わっているのではない。境の方にも智の方にも(つまり片方・に)こんな形で十界や三千が具わっているのではなくて・因と縁とが相依相待して〈因縁生起〉している丈なのである。こういう具し方・具し振りを〈非具・不非具〉と云う。
こういう〈具〉はこれ又・有ではなくて・非有非無・空にして中なのである。〈具〉なる〈有〉は空有・中有・なのである。
 事象の流れを自覚し認識した結果から振返った〈結果論〉を述べた(心具の)分丈を見て、下敷きになっている『一切法皆因縁所成』という前提を無視するから・〈一方的に〉――これは観念論哲学になる――心に具わっている・と思ったり、果ては反対に(妙法は仏身なのに)妙法が宇宙に具わっている・という外在論――唯物思想・科学思想――などが飛出し、六師義――必殺堕獄仕掛義――へ転落してしまう。何故なら人は環境の中に住んでいるから、個在的に心具している・と思えば・その一方に〈外部環境の方へも〉〈個在的に外具している〉と思わない限り辻褄が合わなくなるからである。これ池田流〈宇宙論・宇宙リズム論〉の発生源である。大きい事は好い事だ・と計りに宇宙で人間を説明すれば気分は良いだろう。だがこれは壮大なる人騙しでしか有り得ない。物(物質)で人間を説明するのと何等変わらないではないか。非情で有情を説明するおかしさに気付かなければならない。
 氏などは、御書を披いて『草木成仏』とか『一色一香無非中道』とか『無情仏性惑耳驚心』とか『無作本有』とかいう文を見ると『しめしめ、しめた』と思ってしまう。一見、仏界が人の外側の環境の方にも〈厳然とアプリオリ(先天的)に備わっている文証に見えるからである。そして『当に知るべし〈依(色法・境法・塵法・非情法)正(心法・智法・根法・情法)の(縁起)因果〉は悉く是れ蓮華の法なり』(当体蓮華の文)の方は全く無視してしまう。元はいづれも同じ天台大師の文言なのだが、同じ御書の文を片方は取り片方は捨てて平気である。これこそ池田流奥義・手前勝手免許皆伝の巻なのである。では次に、この様にして発生した大研究の成果たる〈宇宙論・宇宙のリズム論〉を揚げてみよう。

 問う 妙法が宇宙の根源法ならば、此の妙法は下種益妙法・熟益妙法・脱益妙法・いずれの妙法なりや?
 答う ワカリマセン(小声)。多分、下種益妙法ではないか・と思います。
 問う 教主・元初即座開悟以前に宇宙に下種仏法が在ったならば誰が宇宙へ下種したのであるか?
 答う ワカリマセン(小声)。多分、天然自然に在ったのでしょう。
 問う 妙法が天然自然に在ったものなら、久遠元初から在ったのか二百億年前から在ったのか・一体どちらだ?
 答う 久遠元初からです。
 問う 宇宙のビッグバンが丁度二百億年前だ。妙法が存在ならば元初には一体何処に在ったんだ? 在り場所は一体何処だ?
 答う ワカリマセン。宇宙誕生以前の場所など在り得ません。
 問う 在り場所の無い存在など有り得るのか?
 答う ワカリマセン・無いと思います。
 問う では妙法は自然存在ではないではないか?
 答う ギャフン。マイリマシタ!

 問う 〈空でも中でもない妙法〉など聞いた事がありますか?
 答う トンデモナイ。ありません。そんな事有りません。トンデモない話などしないで下さい。
 問う いや、その〈トンデモナイ話〉を致しましょう。妙法が宇宙の根源法則であったらこれは〈実有厳有〉であって、決して〈空〉にも〈中〉にも成る事は無い筈だ。空・中は〈存在〉でも〈概念〉でもないから……。妙法は必ず空仮中である。〈何等かの法〉が実有ならば妙法ではないであろう。妙法が仮有ならば宇宙の根源法則ではないであろう。宇宙の根源法則ならば仮有ではないであろう。実有であろう。

 問う 天然自然に在ったものなら非下種妙法だろう。元初仏様が万人に先達して転迷開悟する必要は無いだろう。自然科学者が〈発見〉すれば済む事ではないのか?
P58
 答う ワカリマセン。そうかも知れません。
 問う 妙法が自然存在なら、妙法は人法一筒の法ではなくて人法別筒の法なのか? 境智冥合の法ではなくて境智別々の法なのか?
 答う ワカリマセン。そういう文証は御書に見当たりません。
 問う 汝は御書に無い毛前勝手を言ってる丈か?
 答う ギャフン。マイリマシタ!

 問う 妙法は心外の法か?
 答う 御書にはその反対だ・と書かれています。
 問う では、心外存在である宇宙は当体蓮華なりや?
 答う いいえ。 訳は当体義抄を拝して下さい。
 問う 宇宙は当体蓮華ではないのに如何にして妙法が宇宙の根源法なりや?
 答う ギャフン。マイリマシタ!
問者=反池田派、答者=池田派でした。

 さて・ズッコケ法門・宇宙論を掲げる前に是非言って置かねばならない事が有る。それは・宇宙論を言いたがるのは真言宗の特徴であり・六師・バラモン・の特徴だ・という事である。真言宗は〈大日如来(太陽に照らされた宇宙〉という思想を基幹とするが、実はこれはバラモン・六師の基本思想〈ブラフマン(梵)が変じて宇宙に成った〉の変形なのである。ここが判らないと、宇宙大好き人間池田氏――氏は真言宗の出である――が何故『妙法は宇宙の根本法則だ』を言うのが判らない。実は、これ、梵我一如思想の変形なのだ。
〈宇宙即我・我即宇宙〉説に騙されてはいけない。人間を説明するのに宇宙を持ち出す事は壮大なる人騙しに過ぎない。宇宙即我と我即法界、法界即我・とは根本から違う。宇宙は法界ではなく・法界の素材でしかない。
 人類の出現は僅か二百万年前だが・妙法が宇宙の根源法ならば二百億年前から存在していた〈事法〉でなければならない。これならば客観法則な筈であり心外の法な筈である。〈宇宙のリズム〉に就いても同様。仏界のリズムは〈仏様とは無関係〉な〈存在〉である筈だ。御書に合致するか反しているか、皆さんは虚心坦懐に調べ直すべきです。
 依正・境智が縁起しない〈宇宙のリズム〉――これ、人間に関りない人間外存在だ――など・どうして妙法で有り得るのか! 宇宙は人間外存在で・人類発生以前二百億年前から在った。〈妙法は必ず仏身〉なのに〈人間発生以前の妙法〉である〈宇宙の根源法〉などどうして有り得るのか‼ 宇宙のリズムに、生老病死・十二因縁・成住壊空・還暦(六十年)・一年・一月・一日・その他どんなリズムに乗ろうと仏界に非ず。与えて言って、六道のリズムには皆が乗っているから輪廻と言う。奪って言えばこれもリズムでさえも無い。仏界の発振源は仏様で宇宙の方ではない。」



 難解な仏法用語が含まれ、石田自身も古典物理学的時間概念や、「久遠元初自受用報身如来」が出てくるから、日寬のアニミズムにとらわれているため、心も含めた客観的な理解には至っていない趣はある。
 ここで、「宇宙は法界ではなく・法界の素材でしかない」というのは、彼なりの分かりやすい指摘である。
 つまりは、個別にあるのは自動再生する法則としての法界だけであって、宇宙から素粒子まですべては、互いに共有するリソースである一面を、仏法の文言を使って述べている。
 宇宙の森羅万象は全て、法界にあまねく各々独自の生命法則が瞬間瞬間に織りなす、素粒子から宇宙すべてを互いにリソースとして共有する仮の和合である。
 だから、永遠・無始無終、諸行無常・因果応報、諸法実相なのである。


 「妙法は必ず仏身」という石田の捉え方は、日寬教学によるものである。




■戸口浩氏の指摘

 同様の考え方は、戸口浩氏にもみられる。
 戸口浩著「池田創価学会の真実」1992・4・25,日新報道,P224-229には、以下の記述があるが、これは、池田大作のとなえる仏法の破折を、日蓮本仏論に基づく日寬教学を受け継いだ日蓮正宗の宗門の教えに依って行っている。
 現実の創価学会に対する数々の指摘内容は、事実や正解も多く、一見、日蓮仏法上でうわべだけみれば正論のようであるが、その根拠となっているのが日蓮本仏論のアニミズムである為、この際、一度に検討しておく。

「(1)『法』中心論
 『法』のみでは利益はない
 なんといっても、真言宗の大きな特徴は、法身仏・大日如来を教主に立てることだ。
 法華経などの一切経は応身の釈迦仏が説いたものであり、大日経は法身・大日如来の説法であり、『大日如来に比べたら釈迦は無明の辺域である』とか、『法華・華厳等の仏は、正覚や弘法に比べたら、牛飼い、草履取りにも及ばない』とする。つまり、具体的に衆生利益をなす応身・報身よりも『法』の理を示す法身の方が優れている、というのだ。
 しかし、法華経で説かれる三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)と現れる仏こそが衆生に知恵と慈悲を与えることができ、法身の理は衆生の生活とは直接には何の関係もないのである。
 人法勝劣的な論理を説く名誉会長
 さて、池田名誉会長の場合。
〔南無妙法蓮華経〕が宇宙根源の『一法』であることを、ことさらに強調する傾向がたいへん強い。この『一法』に境智冥合することが成仏への方途であり、『法』のもとではあらゆる衆生は平等であり、『法』に則った生活が幸福境涯であることを、常々語る。
 さらに、釈迦が〔南無妙法蓮華経〕を種子にして成道したように、日蓮大聖人も、この『一法』に基づいて、御本仏であるかのように説く。名誉会長の教説はきわめて人法勝劣的であり、大聖人の法義を『法』を中心に据えて展開している印象を強く受ける。

〔南無妙法蓮華経〕は仏身
「日蓮大聖人が、『御義口伝』で『無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり』(七五二頁)とご教示されているように、〔南無妙法蓮華経〕とは、宇宙根源の「法」であるだけでなく、根本の仏身の宝号をいう。
 つまり〔南無妙法蓮華経〕は、単に「法」の名称ではなく、宇宙根源の「法」をご所持せられる仏身のご当体であり、一切衆生を化導しゆく慈悲を体現する〔自受用報身〕に他ならない。〔南無妙法蓮華経〕は仏さまであり、同時に仏の教説に基づく「法」なのである。
 日淳上人の御指南(『日淳上人全集』より。ただし、読みやすくするため筆者が句点を挿入)
『大聖人の教えは、題目にあらせられると思つて、題目を主として御本尊を忽かせにする者が多いのであります――多いどころではなく、皆左様に考へてをりますが、此れがために大聖人の教えをはき違へるのであります。
 元来かような考へは、南無妙法蓮華経は法であるのみ考平和へるからでありまして、宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。
 此れは大変な誤りで、南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち、法報応三身具足の当体であらせられ、報身中に具し玉ふのであります。
 妙法の理は天地の間にありましても、それは理性であります。実際には、仏の御智慧のうちにのみ厳然として具(そな)はり玉ふのであります。その仏は、十方法界に唯一人在(まし)ますだけであります。そうして、その仏が衆生を正しく御導き下さるのであります』(九八一頁)
『法界に於いて、一切衆生悉(ことごと)く妙法の当体ではありますが、それは理性の上でのことでありますから、妙法の化導も利益もないのであります。
 ……此の人の仏がましまして、初めて迷悟因果の妙法事体が成り立つのであります。それ故、報身中の三身を立てるといふことが、大事大切になるのであります。
 久遠本有の妙法蓮華経は、大聖人の具有し玉ふところであります。
 大聖人は、その御境界を観心の本尊として建立し玉ふのであります。くれぐれも此の報身を離れた妙法を以て、御本尊と考へてはならないのであります』(一〇〇四頁)

 『宗教は哲理だ』とのたまう名誉会長
 にもかかわらず、名誉会長は、妙法を宇宙の根源の『法』として、まるで、一つの究極の『存在法』であるかのような哲理を、得意げになって言い放つ。
 頻繁に『宗教は哲理だ』『大聖人の仏法は生命哲学である』とか、あるいは『法華経は生命の実相を説いたもの』などと述べ、大聖人の法義を客観的な形而上学的な観点で捉えすぎている。名誉会長の指導では、『法』と『仏』の関係がかなり曖昧なのだ。根本的に、大聖人の仏法を勘違いしているのだろう。
 もし〔南無妙法蓮華経〕が単なる『存在法』ならば、大日如来が衆生に利益をなさないように、われわれ凡夫にとっては全く意味をもたないではないか。
 御本仏・日蓮大聖人を離れて〔南無妙法蓮華経〕を説き、また、妙法という『法』だけにとらわれ、〝哲理〟として人間論・生命論・平和論といった形で語ることも、結局のところ、弘法大師がそうであるように、謗法行為になってしまうのである
(2)三宝破壊
 穂法主上人批判は三宝破壊の所業
 本主・釈迦仏を突き倒す真言宗の教義は、謗仏であり、三宝破壊に他ならない。
〔三宝〕とは、言うまでもなく『仏』『法』『僧』三つのこと。この〔三宝〕が一体であることについては別の機会に論じたいので、ここではさし控える。
 しかし『法』を中心に据えるということは、他の『仏』『僧』をないがしろにしていくことにつながりかねない。また、『僧』と『俗』が同格であることをことさらに強調することも、〔僧宝〕への帰依をゆるがせにすることになりかねない。
 学会『主』、宗門『従』は本末転倒
 さらに、〔僧宝〕たる日興上人から綿々と続く御本尊・日蓮大聖人のご内証を〔唯受一人・血脈相承〕で伝持される御法主上人を批判し、その御指南に背くことは、まさに謗僧の所業に他ならない。
 だいたい、檀那があっての僧侶という、学会『主』、宗門『従』との認識が、そもそも誤りだ。本末転倒も甚だしい。…中略… 
 一方、名誉会長は、『道理を根底にしていっさいの社会活動を推進していく。そこに社会に脈動する生きた仏法の展開がある』(平成2・10・14)とか『現実の生活、人間から遊離すれば、その分だけ、仏法本来の精神から遠ざかり、観念論となり、権威主義となる危険が増す』(同,3・3・9)など、現実社会や生活に約すことの正当性をことさらに強調する。
 どんなに教法教義が優れていても、法は自ら弘まらないから、まるでドイツ語のような説法では意味がない――と得意げに語り、自己流の勝手解釈を繰り返す。『ふるまい』が大事であり、『人』が大切なのだ――として、本当の正しい道理や法義を無視し、『仏の法』をないがしろにして、〝現実〟に即応することのみに心を砕く。『根底にしている』というものの、『根源の師』『根源の法』を忘れて(
勘違いして)事相の中に埋没しているのが、名誉会長らの『池田イズム』に他ならない。」(戸口浩著「池田創価学会の真実」1992/4/25,日新報道,P224-229)


 これは、日寬教学の部分で詳細に述べたところである。
 この考えも、『池田イズム』も、どちらも奉る対象が異なるだけで、アニミズムの日寬教学から一歩も進展がないことの現れである。
 そのことが、「久遠本有の妙法蓮華経は、大聖人の具有し玉ふ…」に、端的に現れている。
 日蓮本仏論を前提として、南無妙法蓮華経のいう「法」という名前に、勝手に本仏としての変化偏在・諸行無常の概念を、理想的な完成された人格としての報身・応身と称して無理やりねじ入れた主張である。
 これを報身・応身として、とくに人格としての仏の概念として無理やりねじ込んでいて、表現上はとても高級・高尚であるが、この部分は明らかに、霊力・超自然的能力を備えた人格として奉るというアニミズムの部分なのである。
 報身・応身にすがって、功徳が得られるとされるからである。

 日蓮の口伝である御義口伝を文証にしているが、それを書き記した日興が、意味や文脈をとらえずに書き誤ったか切り文にして書いたか、もしくは日蓮自身が、方便の意味で言ったかのどれかであろう。


 「法華経で説かれる三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)と現れる仏こそが衆生に知恵と慈悲を与えることができ、法身の理は衆生の生活とは直接には何の関係もないのである。」
 これなども、完全に法華経が採用している諸法実相・一念三千を完全に理解していない証左である。
 諸法実相・一念三千は、地獄・餓鬼・畜生・修羅~仏までの十界の衆生全てに「三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)」が具わっていることを説いている。(よもや彼らは、これを知らないとは言わないだろう。)
 そしてそれぞれに十如是が具わっているのであり、他の生命とも作用・反作用を及ぼしながら瞬間瞬間の因果をおりなしていくのである。
 なにも仏だけに限っているのではない。
 仏だけが利益をもたらすのではない。
 菩薩だって縁覚だって同様に、その境涯なりに他の衆生に利益(あるいは害毒)をもたらすのである。
 しかも、仏界即九界・九界即仏界と説かれるがごとく、仏界は他の九界の一念の因果となってあらわれるのであって、煩悩即菩提・地獄即寂光もこの法理ではないか。
 だから、日蓮も、御本尊はよそに求めてはならず「胸中におはします」と述べているではないか。
 「法華経で説かれる三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)と現れる仏」を「生身の日蓮」もしくは久遠元初の自受用報身如来という立派な名前をつけた「空想上の日蓮」とし、ここからにしか利益や救済がないとしたことは、論理の構図から既にアニミズムの延長に陥っているのであって、これこそが、拙記事や日寬教学の部分で何度も述べているが、仏法を習いつつもかえって外道に堕していると、日蓮自身が指摘していたではないか。

 戸口浩氏が主張するところの、利益が得られるという「法華経で説かれる三身円融・三身常住・一身即三身(法・報・応)と現れる仏」を、「色相荘厳の仏」と入れ替えてみたら、日蓮が真っ先に破折した邪宗の教えと同じになるではないか。
 これは正真正銘のアニミズムの論理構図である。

「法」そのものが利益をもたらすのではない。
「法」そのものが利益をもたらすというのは、タナボタ式のないものねだりである。

 法そのものが正しいのは大前提であるが、科学的法理に基づいて一瞬一瞬自ら行動を起こして法を修行し善行を行ってこそ、因果法則によって智慧も力も出てくるのであり、またそれが因となって次の結果がでて、因果の連鎖によって自力で現実変革を成し遂げ、悪業を清算・滅罪し、宿命転換もできうるのである。

 「法」から利益を得ようというのは、「法」という名目で高級な「イワシの頭」を利益が得られる功徳樹に祭り上げて、タナボタを祈願するアニミズムとまったく同じ論理構成である。
 祭り上げるのが「イワシの頭」であろうが「鯛の頭」であろうが、「応身・報身の釈迦仏」であろうが「日蓮」であろうが、高尚に見える教学をいかに弄したとしても、これらに超自然的な功徳や救済を求める論理自体が、大自然の様々な構成要素に救済を求めて安寧を祈るという、古代からのアニミズムの構図・構成と同じなのである。

 ちなみに多くの宗教がこれに類している。
(ちなみに頼みとなる印象の、これらを扱う宗教学は、この体系や歴史などを論じる学問であって、その科学的真理・真偽を厳密に検証する学問ではないところが残念な点である)
 だから、理性や科学的道理からの追求に絶えられないか、因果や論理の無限後退に陥るような、ドグマが設定されているのであり、科学から袂を分かたなければ論理的な建前がなくなり、存続自体が危うくなるのである。


 また、「〔僧宝〕への帰依をゆるがせにすることになりかねない。」という言葉にも、端的にアニミズムの論理がにじみ出ている。
 たしかに〔僧宝〕は、尊敬し大切にするものではあるが、帰依する(信伏随従する)対象なのだろうか。
 そうではないだろう。
 これを本気で主張していること自体がアニミズムであり、日蓮仏法から乖離した外道でる。
 牧口常三郎は、神札問題に際し、天照大神は尊敬するものではあるが、帰依するものではないと折伏したが、〔僧宝〕への帰依は、これと同じ論理で破折すべきことである。
 全ての〔僧宝〕も、人間の尊い生命として尊厳な者であり、尊敬するものではある。
 しかし、帰依するものではない。これに帰依するということ自体が外道であろう。



 宗教上の、修行の科学的効果は、教えの哲学的真理を信じることが動機づけ(モチベーション)となって、種々の修行の持続によるプラセボ効果を受けながら、さらに確信を強めて、慈悲の行動を起こす。
 この一連の一念の連続を通して現実変革を成し得ていく。
 これによって善業を積み、永遠の因果応報の流れの一時点である今世の宿業を転換しゆくことにつながっていく。
 見出した願望、目標や使命は、今世では成し遂げられないで終わることも多々あろうが、確実に来世に受け継がれていく。

 三世永遠の生命論理、業による因果応報、一瞬一瞬の一念の連続、これらは、個々人に限定した科学的再現は不可能ではあるが、十分に科学的合理性がある。
 この正しい「法則」に帰命した行動が、上記の宗教的効果(=功徳といわれる)をもたらすことが思考実験でも十分に証明される。

 ただ、帰命する対象が物や人格などのアニミズムであれば、その帰命する対象の性質・性格・特徴を真似る・帯びることになって、時々刻々とした変化に対応できない事態がいつかは発生し、さまざまな行き詰まりや問題が発生することになるのである。

 これが、「依法不依人」に基づく法則であるか、「依人不依法」の実態のアニミズムであるかの相違である。

 仏法は当初から「依法不依人」に基づく法則体系であって、おすがり信仰のアニミズムではない。
 法華経の中で予言された「白法穏没」によって発生していた、アニミズムに基づく各派を、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」として、真っ先に破折し、依法不依人の法華経を立てたのが、日蓮ではなかったか。

 この原点に立ち返り、その科学的普遍性のある教えの部分を厳選抽出して、科学文明の発展と人類や地球の救済のために、多くの知性を集めてつねにアップデートしていくことが望まれていると、私は考える。



 P21へ、続きます。



☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」


目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム