●17 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術信仰 | ラケットちゃんのつぶやき

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●17 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術信仰

  このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


■牧口常三郎の師弟不二


 ここから、創価三代の師弟不二の検討に入る。

 牧口常三郎は、1871年7月23日生まれ。

 彼は1902年、国粋主義の地理学者:志賀重昂の門を叩き、1903年、『人生地理学』を発刊、志賀は同著に序文を寄せた。
 同著は新渡戸稲造や柳田國男らの目に留まり、「郷土会」にも牧口は名を連ねている。
 1928年、日蓮正宗常在寺の法華講、三谷素啓に折伏され、大石寺門流となった。
 三谷素啓は「立正安国論精釈」を著している。
 釈迦滅後の仏教の予言を日蓮が実現し、正しい仏法と『立正安国』の思想に共鳴し日蓮正宗に入信する。
 牧口は既に自分の弟子であった戸田を折伏し、戸田も入信する。 
 1930年11月18日、教育の改造を意図して『創価教育学体系』第1巻(著作者牧口常三郎、発行兼印刷者 戸田城外 発行所 創価教育学会)を刊行、価値の対象として「美・利・善」を挙げた(価値論)。

 創価学会は「創価教育学会」の表現が初めて記載されたことだけをもって、この日を創立日と定義しているが、そもそもこの時点での『創価教育学体系』には、宗教としての教えは見られない。
 活動実態も、一般庶民相手の宗教団体ではなくて、教育者に対する教育変革への取り組みが、その実態であった。
 創価教育学会は、当初、牧口、戸田の二人のみで始まり、おもに教育者の間で広まっていったことになる。

 つまり、この時点で公務員(小学校の校長)であった牧口が、一般の宗教団体の長又は幹部として、団体を大ぴらに(または密かにでも)運営すれは「法律違反」であり、れっきとした犯罪行為に相当する(今の法律でも同じである)。
 もしそれが真実であったならば、創価学会自らが「永遠の師匠」と崇める牧口は、この時点で「犯罪者」となろう。
 この観点からも、この日を宗教団体としての創価学会の創立日とする現在の創価学会の主張が、都合の良い捏造であり、牧口を「犯罪者」に貶めることだけでも、れっきとした師敵対の行為となるのではなかろうか。
 創価教育学会の当初は、宗教団体ではなく、教育者団体であった。

 1935年発行、牧口常三郎著の小冊子「創価教育学体系梗概」に創価教育学会々則要項がある。
 第一条 本会は創価教育学会と称す。
 第二乗 本会は創価教育学体系を中心に教育学の研究と優良なる教育者の養成とをなし、国家教育の改造を計るを以て目的とす。…中略…

 「創価教育学会の目的についても、教育革新とともにその根底となる宗教革命へと重点が置かれるようになる。『新教』(昭和十一年四月発行)の創価教育学会綱領には『本会の目的 創価教育学体系を中心に教育学の研究をなし、国家百年の大計たる教育の徹底的革新を遂行し、且又それが根底たる宗教革命の断行をなすを以て目的とす』と定め、宗教革命の必要かつ重要性を訴えている」(「牧口常三郎」美坂房洋編1972/11/18聖教新聞社 P123)

 これをもとにして
 「創価教育学会に宗教革命の必要性が盛り込まれるのは、この時からであるとしている
 すると、それ以前は日蓮正宗とは無関係な教育団体ということになる」(「戸田城聖述水滸会記録を解読する」小川頼宜・小多仁伯編 2017/6/20 人間の科学社 P148)

 「昭和十二年の一月二十七日には、品川の料亭『玄海』で良き理解者である秋月を招いて、懇親会を行った。このとき、初めて創価教育学会の会員名簿もつくられ、およそ百人が名を連ねている」(「牧口常三郎」美坂房洋編1972/11/18聖教新聞社 P123)
「少なくとも会員名簿ができ、発足会を経て初めて団体の公的スタートとすべきであろう。いかがわしさを承知していたであろうに、なぜそうしなかったのか。それでは計算が合わないからだ。何の計算が合わないのか?
 池田大作の『七つの鐘』構想にである」(「戸田城聖述水滸会記録を解読する」小川頼宜・小多仁伯編 2017/6/20 人間の科学社 P148-149)


 「正確にいうと牧口は創価教育学会の設立者であって創価学会の設立者ではない」(「価値創造者―牧口常三郎の教育思想」D.M.ベセル著 中内敏夫・谷口雅子 訳 (100万人の創造選書)1974年 小学館)

「学会の主張と客観的事実の間には、いつもといっていいほど大きな差異がある。用心してかからないと足元をすくわれる」(「戸田城聖述水滸会記録を解読する」小川頼宜・小多仁伯編 2017/6/20 人間の科学社 P149)


 1941年、発刊した機関誌『価値創造』は翌年廃刊。
 戦時下の特別高等警察の監視下、牧口は国内各地において大善生活実験証明座談会を開催し、戦前の最盛期には、後の創価学会の最高幹部となる和泉覚、辻武寿、原島宏治、小泉隆らを含め、3000人の会員を擁すまでとなっていた。

 1943年、神道を批判した機関誌『新教』が廃刊となる。
 6月、前述したが、日蓮正宗総本山大石寺に呼ばれた牧口と戸田らは、管長鈴木日恭と堀日亨同席の下、庶務部長から、一応、神札を受け取りを要請されるも拒絶し(神札問題)、国家諫暁するように主張した。(戸田城聖著、小説「人間革命」等)
 その後、創価教育学会は登山を禁止され、牧口・戸田は日蓮正宗から除名された。

 同年7月6日、下田警察署に連行された容疑は、治安維持法違反並びに不敬罪であった。この一連の弾圧で21名の幹部が検挙された。
 牧口は、前述した通り、日蓮の、科学の未発達な「鎌倉時代の教え」を信念として、二十世紀の近代戦争「昭和の戦時下」において忠実に貫き、1944年11月18日、東京拘置所内で殉教した。 

 平たく言えば、牧口は「郷土会」を通じて、戦争の基盤となった国体論を創価教育学会に受け継ぎ(「日蓮主義はなんだったのか」)三谷素啓を師として、特高警察に通じて赤化青年の折伏にも赴いた(「新教」、長野赤化教員事件、後の創価学会幹部の矢島周平もこの中の一人)が、最終的には時代錯誤ではあったが、日蓮の教えを信念として貫き、三谷にも敵対して日蓮正宗を破門され、殉教した。

 「創価学会の歴史と確信」の中で、弟子の戸田城聖は、次のように述べている。
 「しかも、御開山日興上人の御遺文(御書全集一六一七ページ)にいわく『檀那の社参物詣を禁ず可き事』とおおせである。この精神にもとづいて牧口会長は『国を救うは日蓮大聖人のご真意たる大御本尊の流布以外にはない。天照大神をいのって、なんで国を救えるものか』と強く強く言い出されたのである。…中略…
昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、『神札』を一応はうけるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち合いの上渡辺慈海師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文(御書全集一六一八ページ)にいわく、
 『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対にうけませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐して言わるるには、
『一宗がほろびることではない、一国がほろびることを、なげくのである。宗祖聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諫暁のときではないか。なにをおそれているのか知らん』と。
 まことに大聖人のご金言はおそるべく、権力はおそるべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという『とが』で、学会の幹部二十一名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるもはずかしき次第であった。
 牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである。
 また、投獄された者どもも、あわれであった。…中略…
 名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである…中略…
 会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難いものであろうか。
 会長牧口常三郎先生は、昭和十九年十一月十八日、この名誉の位置を誇りながら栄養失調のため、ついに牢死したのであった。
 私は牧口会長の死を知らなかった。昭和十八年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。
 二十歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である。…中略…
 結局、七月三日に、私はふたたび娑婆へ解放されたのであった。…中略…
 創価学会のすがたは、あとかたなく、目にうつる人々は、御本尊をうたがい、牧口先生をうらみ、私をにくんでいるのである…中略…
 私は、まず大法流布に自重して時を待った。そしてまず、法華経の哲学を説いたのであった。これがまた大謗法なることは、後において実証せられたのであるが、自分としては再建の第一歩であったのである」(創価学会の歴史と確信、戸田城聖著「戸田城聖全集第一巻」1965/9/2、編集兼発行者池田大作、和光社P300-303)


 さて、牧口の師に値するのは誰だったのだろう。
 折伏された三谷か、それともそれ以前の新渡戸稲造や柳田國男らか?
 結局、いずれにしても彼は俗世においては師敵対の部分があったという批判を免れない。


なお、牧口常三郎の神札問題につき、石田次男は「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」(1995/5/3、緑友会)P197~において、誤解の言い伝えがあるとして、以下の指摘をしている。

 「戸田先生が語られた要約で申し上げますが、公布へ一身を捧げておいでであった事は牧口先生の方が先で、全く同様であります。この事に関しては誤解の侭伝えられている事が一つございます。それは先生が『憂うべき事は宗門が亡びる事ではない、国が亡びる事だ』と申されたという言い伝えであります。これは宗門を取り巻く・戦後の反牧口感情の人達に依って『逆ではないか、国が亡んでも宗門が残る様に願うのが本当ではないか、牧口は過激派だ』と批判され嫌われました。〈嫌い派〉のこの批判は、当時・宗門が軍と文部省とに依って身延派等と大合同させられ様とし、宗門が消えて無くなる危機に置かれていた事情背景を無視しているのであります。
 『憂うべき事は国が亡ぶ事だ』と申されたのは事実です。でも、これ丈を切文(きりもん)的に主張したのではありません。決して単純な教条主義を展開したのではありません。亡国を憂えたのは立正安国論その他諸御抄に述べられている所を主張されたのでして、『一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり……金光明経に云く『悪人を敬愛し善人を治罰するによるが故に・乃至・他方の怨賊来たりて国人喪乱(そうらん)に遇う』等云云』(蒙古使御書)という事でありました。
 而して、単純にこの事丈を威勢良く主張したのではありません。牧口先生は『牧口(と学会)は(世法では)無力で、こういう軍や文部省に対して合同阻止の太刀打は出来ない。だが合同させられて宗門は亡び・無く成っても、純粋に法を守る僧俗が居りさえすれば、宗祖の御法そのものは続く。だから憂うべき事は宗門が無くなる事の方ではない、真に憂うべきことは宗門の僧俗に信心が無くなる事と国が亡びる事だ。安国論の『国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁(のが)れん、汝須(すべから)く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐(せいひつ)を禱(いの)らん者か』の教えを今こそ実践すべきである。国を失っては信心すべき地を失うのだから、まず四表の静謐を祈る為にも今こそ敢然として国家諫暁に立つべきです』と、宗門へ〈国家諫暁〉を迫ったのですが、『宗内事情を無視し過ぎる。そんな事したら益々合同させられてしまう』と、御僧侶方から反論と反感を買いました。これが事情に疎(うと)い戦後世代の人達に内容を誤り語り伝えられて、前記の批判を招いたのであります。
 先生の『共に国家諫暁に立ってください』は正論ですが、正論と宗内事情が対立した為に、加えて昭和十八年六月の〈神札取り扱いに関する宗務院通達〉問題(後述)その他一切合財が絡んで、牧口・戸田・両家は〈登山停止〉の処分を受けました。学会サイドから見た限りこれは〈不当な処分〉でした。これで学会・宗門・両者の間に〈しこり〉が出来て、当時計りか戦後も長く尾を引きました。
 このしこりは、戦後再建された学会側には『宗門は余りあて(当)にはできない、坊さんには頼れない』という失望感・考え方・として現れ、宗門側には学会への反感と『学会はどうも危険な所が在る』という不信・警戒心・として現れ〈相互不信の両竦(すく)み〉を生じました。
 この〈しこり〉はどちらも長く尾を引き、且つ・増幅もされました。何故増幅したか・というと、学会の方が御僧侶の吊し上げをしたり、お寺側が学会員の遺骨預りを拒否したり等々の事が重なったからであります。余り言えない事ですが、昭和二十年代では、多数の学会員がお寺側から冷く扱われた事例なども数々ございます。宗門側にも学会から受けた仕打の数々は有る事でありましょう。でも、今としては・これは学会側では言うべき事ではないと存じます。
 後々、御僧侶吊し上げは池田学会に成ってからも大々的に行いました……(以下略、すべて原文のママ)





■創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術信仰

 牧口は、創価学会の源流となった自著「価値論」(1953/11/18 創価学会出版)において、真理と価値との本質を問い、「有りのままの実在を表現したものが真又は真理であり、対象と我との関係性を表現したものが価値である」とした。(P9)
 また、「創造とは即ち自然の存在の中から人生に対する関係性を見出して之を評価し、更に人力を加えて其の関係性を緊密化し増加させることである。全く人工を以て自然の配列を改め特殊の配列となし、以て人生への有益性を更に加えることである。されば我々は創造と呼ぶのである」とし、「真理は単に発見されるべきのみのもので、価値は発見又は創造されるべきものである」(同、P12)

 そして、価値判定の基準を美醜・利害・善悪としながら以下のように説く。
 「好き嫌いにとらわれて、利害を忘れるのは愚である。いわんや善悪を忘れるをや」
 「目前の小利害に迷って遠大の大利害を忘れるのは愚である」
 「損得にとらわれて善悪を無視するは悪である」
 「小善に安んじて大善に背けば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる」
 「利害損得を無視した善悪は空虚であり、云うべくして行われないものである」
 「真偽は実在を意味し、価値は人生との関係を意味する。故に真理は幸福の要素ではない」
 「正邪は善悪と全く内容が違う。悪人の仲間では悪が正で善が邪であり、曲がった根性の人には正直がかえって邪悪として嫌われる」
 そして、
 「以上のような簡単な道理がわからない者は狂であり、わかって従わない者は怯である」
 とする。(同、181-198)
 「かくして人間の欲望を無視しては如何なる価値も成立することはないし、如何なる価値の研究も人間の生命を無視して論ずることは、架空の観念論にすぎない」(同P231)

 そして、以下のように結論付ける。
 「評価法と創価法の原理が確立し、人間の生命を解き明かす真実の仏法が流布された時に初めて無上最大の幸福なる寂光土が建設されるのである。
 如節修行抄(日蓮大聖人御書全集五〇二頁)
 法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を 各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」(同P231)

 上記が、以下にも説明するところの創価学会の「創価(=価値を創造する)」の語源、理念になっていることは明白である。


 佐木秋夫・小口偉一「創価学会」(1957/8/20 青木書店)P102には、価値論を主とする「創価学説」ついて、次のような指摘がある。
 「要するに、『創価学説』においては、『美利善』という価値の創造によって獲得される人生の幸福こそが、最初にして窮局の目的であるとされることによって、『宗教』もその手段として把握される。ここから、『仏教の最高哲学を機械化した』『御本尊を信じて南無妙法蓮華経えを唱える』『実践行動』が、『人類を幸福にする手段』として理論的に基礎づけられ、そのことを通じて、その『実践行動』こそが、『幸福』達成のための唯一の手段として唱導されてくるわけである」

 また、『価値論』の日本的性格として、
 「創価学会によって、最高の哲学書として宣伝されている『価値論』も、学界からはまったく無視されている。」
 としながらも、現実には、
 「すくなくとも、この『学説』によって基礎づけられている宗教が、きわめて大きな影響力をもって活躍している事実をも考えるならば、そう簡単に捨てさってしまうわけにはいかない。」
 とした上で、哲学的分析・批判を、以下のように展開している。
 「ところが、専門の哲学者の批判としては、わずかに山内得立の『価値論を読みてー二、三の疑問について』(「中外日報一九五七・二・一二)がある程度である。
 山内博士は、『新興宗教がとかく学問的基礎を欠くのに対し、さすがに学会の原典たる本書は『価値』について極めて広範な、しかもよく考えられた思想を展開している』とし、そこに『独創的な見解』を認めながらも、なお『価値に対するものは真理ではなく、むしろ存在ではないかと思う』と疑問を提出している。
 また、この書において最も遺憾に感ずることは、価値概念から宗教に転ずるあたりの論述である』とはっきり指摘し、つぎのように批判する。
『私の考えるところによれば、この移行の間に何かがなければならず、『価値』から『意味』の世界に転じ、そこから宗教に移るべき理論が展開せらるべきであると思うのであるが、著者の論理には多くの飛躍があり、諸々の価値と宗教的価値との関係が頗るアイマイである。この点について著者はヴィンデルバンドの『聖』概念とは異る立場に立ち、直ぐに日蓮の教義に結びついているようであるが、この推移についての論理的道程が明快ではない。』
 山内博士も指摘するとおり、価値論と日蓮教学との結びつきは非論理的であり、むしろ、著者の信仰によって結びついているといわねばならない。」(同P103)

 そして、
 「明治以来、禁欲倫理を上から強制されてきた民衆に対して、欲望の充足と解放を理論的に説いた点にある、
 哲学的に見た『創価学説』は、右のような性格をそなえている。従来の日本のアカデミー哲学の停滞をおもうとき、この学説が相当大衆の心をつかみうることは、怪しむに足りない。」
 と、評価しているのである。


 また、牧口常三郎の「価値論」につき、石田次男は「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」(1995/5/3、緑友会)P204~206において、戦前の学会が純粋に日蓮正宗そのものではなかった…等として、以下の指摘をしている。

 「時流に迎合して謗法を犯したのではありませんでした。戦前の学会が純粋に日蓮正宗そのもの(の信心)ではなかった……非法であった所は、この点ではありません。俗諦である価値論を用いた所だったのです。真諦を俗諦へ用いるのは〈順〉です。〈可〉です。でも、俗諦を真諦へ用いるのは〈逆〉です。〈不可〉です。俗諦で真諦を捌(さば)くのは〈摧尊入卑〉(尊いものを卑しいものの方へ入れてしまう事)と云う〈非法〉です。〈禁止事項〉です。戦前の学会はこの非法を行じて居たのでした。当時、若しも(一人二人ではなく)全僧侶が口を揃えて、この点を公明正大に御指摘なされたら、人格者牧口先生はきっと改められた事と思います。でもその指摘化導は皆無に近かった様でした。当時の宗門の化導力衰弱振りが窺(うかが)われます。
 別章で述べた通り、牧口価値論は理智の手で掴んだ価値論で、これは分別の一種で、間違いが無くても絶対性も無く・この他に・これと対等以上に〈徳の手で抱き取った価値観〉が成立するのでして、西欧流の理知価値観は・どんな価値論であろうと、奪って言えば〈世迷い言(ごと)〉でしかない…中略…
 牧口先生の価値論は…中略…(その内容が学的に是であろうが非であろうが)これはどの様にしても〈仏法そのもの〉〈真諦〉ではありません。実践しても輪廻は免れない人界論に属するものであり、仏身論でも仏界論でもありません。やはり世界的価値論研究の流れの末期に出現したーー牧口先生にはその自覚が無かったーー社会科学学説(俗諦)でしかなかったのです。価値論は〈世俗〉である丈に詮じ詰めれば〈輪廻の素材〉〈世迷い言(ごと)〉でしかないのでした。…中略…
 悪意は無いにしても・仏身論でないものを・無理に持ち込んだらどう成りますか? 摧尊入卑が起り『外道は仏経をよ(読)めども外道と同じ』(妙密抄)に成る丈であります。設え〈善い外道〉でも駄目なのです。こういう修行の因業から招く業果は開目抄を拝して知るべきであります。云く『善き外道は五戒・十善戒等を持って有漏の禅定を修し・上・色・無色をきわめ上界を涅槃と立て屈歩虫(くっぷちゅう)のごとく・せめのぼれども非想天より返って三悪道に堕つ一人として天に留(とどま)るものなし。……前師につかへては二生・三生等に悪道に堕つ』と。例して大同小異と知らなければなりません。
 仏法は一人称世界の〈仏己心の法理=真諦〉であります。それなのに、真諦の世界へ〈価値論〉という人称界違いな俗諦を持ち込んだ事・つまり・仏法でないもの(社会科学)を信仰者の生活指導原理に持ち込んだ事……これが当時の学会の致命傷だったのであります。俗諦で信心の指導をすれば必ず六道輪廻してしまうーーだから創価教育学会は跡形もなく消え去ったーー(ママ)」 


■現世利益を退け、最高の「一生成仏」に目的を置いた日蓮

 しかし、牧口の説くこのような現世利益の追求について、そもそも日蓮は否定的であったのは、以下の書簡でも分かる。
 「就中彼の真言等の流れ偏に現在を以て旨とす、所謂畜類を本尊として男女の愛法を祈り荘園等の望をいのる、是くの如き少分のしるしを以て奇特とす、若し是を以て勝れたりといはば彼の月氏の外道等にはすぎじ」(星名五郎太郎殿御返事、御書P1209)
 《とりわけ、彼(善導・法然等)の真言の流派は、もっぱら現世利益を主旨としている。いわゆる畜類を本尊として男女の愛法を祈ったり、また荘園等の願望を祈ったりして、このようなわずかな現世利益を奇特なこととしている。
 もしこれを根拠に真言が(法華経より)勝れているというならば、それはインドの外道等にも及ばないであろう。》

 祈った結果、恋愛が成就したり、権力・名誉や財産を一時的に得ることは、日蓮にとっては「少分のしるし」である。
 そして、こういった現世利益を、南無妙法蓮華経と唱える最高の目的とするならば、それは外道にも劣る呪術信仰であると、日蓮は、はっきり示しているのである。

 同様の意図の遺文を以下に挙げておく。
 「日蓮は少より今生の祈りなし只仏にならんとをもふ計りなり」(四条金吾殿御返事(世雄御書)御書P1169)
《日蓮は若い頃から、今生の栄を祈ったことはありません。ただ仏になろうと願うだけです。》

 「蔵の財よりも身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書 御書P1173)
 「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法をもって論ずれば、一閻浮提第一の富る者なり」(四菩薩造立抄 御書P988)
「名聞名利は今生の飾り、我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(持妙法華問答抄 御書P463)

 そもそも日蓮は、このような姿勢だったからこそ、法華経のために命を捨てることができたのである。その教えは、生涯において一貫して、些末な「現世利益」を退け、最高の「一生成仏」に目的を置いているのである。
 佐渡流罪から赦免され鎌倉入りした日蓮が国家諫暁した際、平頼綱から鎌倉に寺院を与えるから他宗と共に調伏を祈れなどとの甘言を断固としてはねつけ、厳寒の身延入りしたのは何回も前述した如くで有名である。
 この命がけの姿勢には、牧口以前にも、内村鑑三、北一樹や二・二六の将校、石原莞爾などが傾倒しているのである。

  池田大作は、後日、立正安国論講義にて、日蓮が度々文証として挙げた法華経薬草喩品の「現世安穏」の文を曲解して、現世利益は日蓮が大確信をもって断言していると断じながら、
 「仏教=現世利益否定と公式化して覚えていることは、あまりにも愚直であり、仏法の何たるかを知らぬことから起こるのである。これまで既成仏教は、往々にして仏教は現世利益を否定している教えであるかのごとく、人人に鼓吹してきた。だが、これこそ、彼らがいかに無力であるかを証明するものではないか。
 むろん、仏法の説くところが、すべて現世利益をめざすものであるとするのは、間違いである。これらの利益は、大利益からみればわずかな部分にすぎない…中略…
 もし、創価学会を、現世利益を説くからといって非難するならば、汝自身の生活は、仙人のごとく霞を食い、いっさいの欲望を断絶しているかと聞きたい。もし、かかる人間が存在するかとすれば精神分裂病か、二重人格の偽善者であると断ぜざるをえない。」(池田大作著「立正安国論講義」1966/11/3、創価学会、P176-177)
 と、講義している。
 この部分は、日蓮の最重要論文である「立正安国論」を講義しながらも、日蓮の教えの真意や生涯をわきまえないばかりか、まるで日蓮を「精神分裂病か、二重人格の偽善者である」と断じているようにも受け止められ得る、師敵対の文言であろう。
 
 ちなみに、日蓮の言う「現世安穏」と、創価学会が説く「現世利益」は、全く違う意味であり、対極に位置している。


■「仏法は勝負」という日蓮遺文を曲解利用

 そしてこれらは、「仏法は勝負」という日蓮遺文を曲解して勝他の念を焚きつけながら現世利益と名誉栄達をはかり政権に縋り付いている現在の創価学会・公明党とは対極的である。(もっとも、牧口・戸田は貧乏を良しとしたが)

 牧口が「価値論」の結びで引用した上記の如節修行抄の内容は、科学的には絶対に起こり得ない「空想」の表現であり、自らも日蓮が修行の心得として挙げた「方便」である。
 普通に考えれば、「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」「今生には不祥の災難を払ひ」「人法共に不老不死の理顕れん時」など、科学的に起こるはずがないではないか。
 日蓮は決して現実を無視した観念論を説いているのではない。
 牧口は自ら「神が宇宙に遍満しているなどと説くものもあるが、これとても神の実体が観念的であり生活とは何の関係もない観念論に終わっている」(同、P218) と批判しておいた後の引用である。
 「神」と「妙法」をそれぞれ入れ替えても、同様の解釈が成り立つではないか。
外道が自己矛盾に陥っているとも言えそうである。

 ちなみに日寬は「依義判文抄」の冒頭にて
「賢者はその理を貴び、闇者はその文を守る」(原文は漢文、富士宗学要集3,P103)と述べている通りである。

 牧口の価値論が、いかに日蓮の教えと、かけ離れているかが分かる。
 これが、結果として日蓮の教えを曲解した、創価学会の源流の教えである。

 牧口は、自身の主たる価値論において、日蓮の教えを従として取り込んで利用したといえる。
 だから、釈迦~日蓮の血脈や、師弟関係は、そもそも存在しなかったといえる。

 もっとも、日蓮正宗は、「富士の清流」と称する日蓮・日興の純粋な血脈を主張しているが、前述の如く、そのような血脈は存在しないことは明確であり、牧口が帰依した当時の日蓮正宗も同様であったから、なおさら言うまでもないことである。
 しかも、戦時中、日本国民が戦果に踊っているときから、日蓮の思想を盲目的ともいえる信念として国家権力に望み、結果として投獄され、殉教した。
 投獄される前に日蓮正宗本山の大石寺に登山を命じられ、神札を一応受けることを勧められたが心の底で反対した為、登山停止となって除名されている。

 自分の信念を貫いて殉教した点は、法華経に頚を捧げた日蓮の生涯に重なるものがあり、大いに素晴らしく、評価すべき点ではある。
 しかし、その信念の内容の科学的真偽や、この時点で、すでにそういった血脈は途絶えている点とは、混同してとらえてはいけない。


 「牧口先生の仏法への価値論持ち込みは影響の大きい謗法でありました。この為に出獄を得られる事無く、入獄・獄死という転重軽受の謝業を以って謗罪を贖(あなが)われたものと拝します(ママ)」(石田次男著「内外一致の妙法」P209)



 同時期に投獄された戸田城聖(第二代会長)は、出獄後、創価学会の再建中に、自身で連載した小説「人間革命」の中で、「僕は、牧田先生(牧口先生)の弟子だよ」と書き、どこまでも師である牧口に随従したと述べているが、都合が悪いためか、自身も牧口とともに登山停止・破門になったことは隠していたのであろうか。

 そして、その時から、日蓮正宗の法主を、日蓮の教えに背くものとして批判している。
 このことは、現在の創価学会も同様である。
 戸田は終戦前の出獄後、創価学会の再建において、再び日蓮正宗の門をたたき、数々の僧侶と事件を起こしたが、その後死去するまで常に日蓮正宗に残って基本的には忠誠を尽くしている。
 つまり、俗世の事実のみについては、牧口に対して師敵対した部分もあるといえる。
 戸田は、師であった牧口を、自己の信念に基づく創価学会の再建・興隆のために、その思想を都合よく部分利用したとも言えるのである。



 「なかでも、大正五年頃、東京鶯谷の国柱会館で行なわれていた田中智学の講演会には何回か参加している。当時、日本を絶対化した田中の日蓮主義は、多くの青年の心をひきつけていた。高山樗牛や宮沢賢治、あるいは大東亜共栄圏構想の生みの親ともいわれる石原莞爾や血盟団事件の主謀者・井上日召なども、田中の影響を受けているのである。牧口が、そうした国家主義的な日蓮主義をどのようにみていたか、その時点では定かではない」(「牧口常三郎」美坂房洋編1972/11/18聖教新聞社)


 「日蓮主義とはなんだったのか」大谷栄一著、 2019/8/20 講談社 P665~には、以下の指摘がある。
「開戦以降、日本仏教界は戦争協力と大陸布教に積極的に取り組み、日蓮宗は『立正報国』運動を展開した。『立正報国』(一九三七年)というパンフレットをみると、この事変が『聖戦』であり、『建国の大精神』を発揚し、日蓮立教の大理想たる『立正安国』『法国冥合』を実現して『全世界一仏国』とすることを説いている。ここには智学の主張が反映しており、日蓮宗の戦時教学に日蓮主義が与えた影響を垣間見ることができる。…中略…
 日蓮主義の影響は、戦後にもおよぶ。終章でふれたように、戦後の創価学会の国立戒壇論は『国柱会譲り』(西山茂)のものだった。また、在家仏教教団であること、折伏を重視したこと、政党を作ったこと、文化・芸術活動を展開したことなど、戦後の創価学会の活動は戦前の国柱会の活動と重なることが多い(ただし、違いも多い)。つまり、現代日本の政教関係を考えるうえでも日蓮主義の研究は、重要な示唆をもたらしてくれる。」


 聖教新聞に連載された戸田城聖の小説「人間革命」には、次の記載がある。
 「巖さんが社長をしている平和食品会社の…中略…、矢平修一は支配人をしている。彼は牧田城三郎に指導されている創価学会の幹部の一人で、信州の生れ、共産党員から仏教へ転向……という珍しいコースを辿つていて、人間を不幸にする共産党攻撃では第一人者であつた」(戸田城聖全集第四巻 1965年 和光社、聖教新聞に連載の戸田城聖著 小説「人間革命」P376)
ここでは、巖さんとは戸田城聖、牧田城三郎は牧口常三郎のことである

 ちなみに矢平修一のモデルとなった矢島修平は、戦前の長野県での「教員赤化事件」に連なった人物である。牧口先生が共産党員であった教員、矢島修平を創価学会に改宗させ、警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ連れて行って、共産思想から転向したことを伝え念押して保証した。
矢島修平を論破するのにも、「勝負で決めよう」と契約していた。
 
 教員赤化事件では、政府が共産党弾圧の後始末として、既存の宗教に改宗させる施策をしていた。
 牧口は、同じ治安維持法で弾圧されている共産党の党員を改宗させる為に、政府と協調した行動を取っていた。この人たちの折伏を政府の政策の一部として引き受けていたのである。
 つまり戦前は、政府と親しい関係にあった。
 牧口は当時の創価教育学会の機関紙「新教」の1935年12月号に、「全国数万の赤化青年転向指導のために」として寄稿し、長野赤化教員事件に関与していた(宮田幸一のホームページ参照)
 創価三代を永遠の師匠と祭り上げる今の創価学会では一切、会員には隠蔽している歴史である。

(創価教育学会機関雑誌『新教』掲載の牧口の諸論文、宮田幸一のホームページ内、
「赤化青年の完全転向は如何にして可能なるかーー全国数万の赤化青年転向指導のために」 (1935年12月号)
http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper16-1.html)


 聖教新聞社から刊行された「牧口常三郎」美坂房洋編1972/11/18には、前記にあげた内容のほか、創価教育学会の渉外を担当した矢嶋秀覚が、「法華経かマルクス主義か」と題して、下記のような牧口の思い出が載せられている。
「親友・渋谷信義君の紹介で、昭和十年の正月、目白の牧口先生のお宅を訪ねた。先生は『君はマルクス主義によって世の中が救えると考えているそうだね。わしは法華経の修行者です。法華経によって世を救おうと思っています。法華経が勝つか、マルクス主義が勝つか、大いに議論をしよう。もしマルクス主義が勝ったら、わしは君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君はわしの弟子となって、世のためにつくしましょう』といわれた。私はすごい人だと思い、先生の提案に快諾した。
それから約束通り二日おき、あるいは三日おき位に、夜分に先生のお宅を訪ねて、議論をした。というよりは、先生より法華経の大要をお聞きしたのです。かくて約三か月後の四月中旬の頃になって『恐れ入りました。長い間ありがとう存じました』といって、先生のお宅を立ち去ろうとしたところ『おい君、待ちなさい。初対面の時の約束をよもや忘れはしないだろうね』と引きとめられた。私が頭をかいて座り直すと、『これから早速、中野の歓喜寮へ行って御受戒を受けるのです。さあ、行こう』といわれて連れられて行って、堀米尊師のお弟子となった。
 それから牧口先生の折伏のうえの弟子となった。先生は入信後まもなく、私を警視庁労働課長・内務省警保局長の許に連れて行かれ、完全転向をして『今後、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となるから御安心ください』といって紹介して下さった。
 いよいよ学会員として活動を続けているうちに、学会顧問であった古島一雄氏、秋月左都夫氏、柳田国男氏宅等に連れて行って下さった。柳田国男先生のお宅では、両先生とも大変楽しげに世のためをめざすお互いの仕事のことなどを語り合っておられた。ところが牧口先生が、法華経の名をお出しになり話を進めようとされた時、柳田先生は『帰り給え、帰り給え』と声高々と叫ばれ、先生と私とを玄関に突き出し、バタンとドアをしめてしまった。やむをえず、先生と私は帰路についた。途中、先生は『日本最高の識者がこの通りだ。二乗増上慢ともいうものだろうね』とおっしゃっていた。…中略…
 各座談会での先生の御指導は、だれでもよくわかるように徹底したものでした。一、二例を思い出すと、
『世の中で毒にも薬にもならない人のことを〝沈香も焚かず屁もひらず〟というが、そんな人間では何の役にも立たない。我々は大いに沈香も焚け屁もひれ』と、また御書の『愚人に讃められたるは第一の恥辱なり』の言葉を『愚人にそしられたるは第一の名誉なり』と置き換えて、面白味を加えた話の中で、深い意味を理解させようとされたこともあった。
 昭和十三年頃の事だと思うが、どうも折伏が思うように進まない。そこで、先生は伝家の宝刀を出そうといわれ、その後『供養すること有らん者は福十号に過ぎ、若し悩乱する者は頭破れて七分とならん』の語を中心に、盛んに罰論を折伏に用いるようになったのです。これが転機となって今までの数倍の勢いで同志が増加。それだけ座談会場も多くなったのですが、先生はどんなに忙しい時でも市電等で往き来され、車内ではデカルトの本など、いつも読書をされていました」


 ちなみに『沈香も焚かず屁もひらず』については、下ネタでよく使われるが、牧口にはこういったユーモラスな一面もあった。
「ビートたけしのテレビタックル」というTV番組の一コマ、政治評論家の三宅久之氏が、「…しかし、『沈香も焚かず屁もひらず』…じゃ困る」と発言、副司会役の阿川佐和子さんが真っ赤になって「え?いま何とおっしゃいました?」と言い返した。そこでビートたけしが
「あなた、チNコも立たず屁もひらずって聞こえたんじゃ?」…
顔を伏せたままの阿川さん、このことわざの意味をあわててフォローした三宅氏…
さすがのお笑い番組であった。



 かつては高級車で移動し、大々的に衛星中継でスピーチや指導を行ってきたが、公から一切姿を現さずに会員にも自身の状況の納得できるような発信が途絶えて10年は経過した現在もなお様々な俗人からの栄誉栄達を受け続ける池田大作や、創立当初から反戦・平和主義を掲げて活動していたと言い張ってやまない、さらには折伏をほぼ捨て選挙の票集めに活動の主体を変えている現在の創価学会にとっては、この書「牧口常三郎」は、極めて都合が悪くなったためか、現在、残念ながら自社出版しながら、廃刊となって、入手困難である。
 永遠の師匠としてしまった牧口に関する罰論や折伏、矢嶋の転向の思い出、また、「御書の『愚人に讃められたるは第一の恥辱なり』の言葉を『愚人にそしられたるは第一の名誉なり』と置き換えて」「先生はどんなに忙しい時でも市電等で往き来され」等の、真実の記載が、喉の奥に突き刺さった魚の骨のように、ひっかかるのかもしれない。

 さて、創価学会の「仏法は勝負」という指導がしばしばみられるが、牧口の、このエピソードが、その源流と思われる。
 この「勝負」のやりとりは、下記の、日蓮の法の勝劣を勝負で決めたエピソードにそっくりであるから、牧口は、この手法を折伏に真似たのだろう。

 以下にあげるのは、雨ごいにおける良寛(念仏)と日蓮(法華経)の勝劣の勝負である。

 雨ごいの勝負 頼基陳状 御書P1157-1159
 「去る文永八年太歳辛未六月十八日大旱魃の時.彼の御房祈雨の法を行いて万民をたすけんと申し付け候由.日蓮聖人聞き給いて此体は小事なれども 此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて、 良観房の所へつかはすに云く七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて 良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、 雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが 大誑惑なるは顕然なるべし、 上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、 所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法なり、 仍て良観房の所へ周防房・ 入沢の入道と申す念仏者を遣わす…中略…
良観房悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す、四五日まで雨の気無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・ 七日の内に露ばかりも雨降らず其の時日蓮聖人使を遣す事・三度に及ぶ、 いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う 上人の数百人の衆徒を率いて 七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、 是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんや やすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、 然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、 雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ 七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて 民のなげき弥弥深し、 すみやかに其のいのりやめ給へと第七日の申の時・ 使者ありのままに申す処に・良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる」

《去る文永八年六月十八日の大旱魃の時、良観房は祈雨の修法を行って万民を助けよと命ぜられたという事を日蓮聖人が聞かれた。そして「このようなことはささいな事ではあるが、事のついでに日蓮が法験を万人に知らせよう」と仰って、良観房の所へ使いを遣わし、「もし七日以内に雨を降らせたならば、日蓮は念仏無間という法門を捨てて、良観上人の弟子となって二百五十戒持とう。もし雨が降らなかったなら、彼の良観房が持戒のようでも実は大誑惑であることが、明白になるだろう。以前にも祈雨をもって法門の勝負を決めた例は多いのである。いわゆる護命と伝教大師、守敏と弘法の対決である」と仰った。そして良観房のもとへ周防房・入沢の入道という念仏者を遣わした。…中略…
 良観房は泣いて悦び、七日以内に雨を降らそうと、弟子達百二十余人とともに頭から煙を上げ、声を天に響かせ、あるいは念仏を、あるいは請雨経を、あるいは法華経を、あるいは八斎戒を説いてさまざまな祈祷をした。だが四~五日経過しても雨の降る気配がなく、良観は気が動転、追加で多宝寺の弟子達数百人を呼び集めて、力を尽くして祈り続けたが、七日以内には露ほどの雨も降らなかった。
 その間、日蓮聖人は使いを遣わすこと三度に及ぶ。「泉式部という婬女や能因法師という破戒の僧でさえ、狂言綺語の三十一字をもって、たちまち降らすことができた雨を、持戒・持律の良観房は、法華・真言の義理を究め、慈悲第一と評判なのに、上人の数百人の衆徒を率いて、七日の間祈りながらも、どうして雨を降らすことができないのだろうか。この事実をもって考えなさい。一丈の堀を跳び越えられない者が、どうして二丈・三丈の堀を跳び越えることができようか。雨を降らすという容易な事さえできないのに、どうして難事の往生成仏ができようか。だから、これからは、日蓮を怨む邪見をこの事実をもって改めなさい。後生が恐ろしいと感じたなら、約束通り、急いでこちらへやってきなさい。雨ふらす法と仏になる道を教えてさしあげよう。結局、七日以内に雨を降らすことはできないではないか。旱魃はいよいよ盛んになり、八風はますます吹き重なり、民衆の嘆きはいよいよ深い。速やかに、その祈祷を止めなさい」と、使いを遣わした。第七日目の午後四時頃に、使者が聖人の仰る通り告げたところ、良観房は涙を流し、弟子檀那も同じく声をおしまず悔しがっていた。》


 その後、日蓮が田辺ケ池の淵に立って、さんさんたる太陽の下、天を仰いで法華経を第一巻から読経。
 それが法華経の第六の巻に至り、ポツリポツリと大粒の雨が降り出した。雨は三日三晩降り続き、田畑に水が潤い、大飢饉を免れたという。
 以後、この池は「日蓮の雨乞いの池」と呼ばれるようになった



 ただ、ここで間違ってはいけないことは、この勝負は念仏 vs 法華経という「法」の対決(勝負)の、現証例として取り上げられたのであって、けっして良寛 vs 日蓮という「人」の修羅道における勝負ではないことである。
 牧口が矢嶋に対して行ったことにつけて、創価学会での日常的に取り上げられる、「仏法は勝負」、どんな現実の勝負にも「勝たなければならない」というのは、日蓮の教えを「その文だけ切り取って」都合よく曲解した、破仏法の教えとなろう。
 前述した日寬の「依義判文抄」の記述、
 「賢者はその理を貴び、闇者はその文を守る」(原文は漢文、富士宗学要集3,P103)と述べている通りである。

 戸田城聖全集第四巻 1965年 和光社、聖教新聞に連載の戸田城聖著 小説「人間革命」には、前述した内容の根拠となる以下の記述もある。
 『国家諫暁だね。陛下に広宣流布の事を申し上げなければ日本は勝たないよ。これを御本山に奏請して、東京僧俗一体の上に国家諫暁をしなければ国はつぶれるよ。並大抵でない時に生まれ合わしたね』(同P513)

 「みんなが帰った後で巖さんが牧田先生の側へ来ると、先生は北村さんと話していた。
 『先生、それでは二、三日うちに文部省へ行って様子を聞いて参りましょう。下手にやっては困りますからね』
 『この日本の大戦争を勝たせる為には、どうしても広宣流布しなければ勝てっこはない。先ずこの時こそ天皇陛下が自ら目覚められて、尊い御本尊を拝まなくてはならん。それを申し上げる事は第一番の忠義ではないか。丈夫というものは成し難いものを成すものである』
北村さんは商人であった…中略…
 『承知致しました。必ず文部省へは近々行って参ります』」(同P515)

 ここでは、牧口・戸田が、日蓮の「法」(法華経)に対する殉教ではなく、日寬教学における日蓮本仏論に立ち、板マンダラへのアニミズムを根本とした殉教であったことは、残念の極みである。



 日蓮はそもそも戦争には反対した明確な遺文は一切存在しない。
それは、刀や剣が正義であった時代だからである。
 もし、戦争反対を直接訴えた遺文があったら示していただきたい。
 日蓮も同じ日本人として、鎌倉幕府に駆り出された武士たちの勝利を、むしろ身延で真剣に祈っていたのであろう。
 だから、現在の創価学会が現日蓮正宗を批判していうような、日蓮正宗が当時の戦争へ加担したことをもって、日蓮の教えに反したとはいえない。
 さらに、牧口・戸田の戦争に関する態度は、反戦平和を掲げる建前上、一切、こういった過去の都合の悪い事実を、その文献も含めて隠蔽している。


 「正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道なるべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶ふべからず」    
(佐渡御書 御書P957)

 この日蓮の教えが正しかったなら、論理の構成上では、たとえ戦争に勝つための諫暁であったとしても、それは正しい。
 日蓮の教えを貫いて獄死(殉教)した牧口は、膨大な未来かもしれないが一瞬のうちに夥しい宇宙のどこかで文化的生物に転生して、再び正法の師としての道を歩むであろう。
 ただし、日蓮本仏論を基盤とした師敵対のアニミズムを唱えたのだから、日蓮仏法に従えば、日寬教学のところで前述した通り、「日蓮を悪しく敬う」ことになるため、「国はほろぶべし」に相当する因果の報いをうけることにはなるであろう。


 神札問題に関して、日蓮正宗と創価学会が互いに正当性を都合よく主張しているが、これらは現実的にはあまり意味がない。
 牧口や戸田が投獄された時期に、仮に国家諫暁がなされ、軍部が日蓮正宗に改宗し、天皇が南無妙法蓮華経と唱えたとしても、当時の状況では、科学的道理・因果応報として、世界、とりわけアメリカとの戦争に物理的に勝利することは絶対に有り得ないことであったといえるだろう。
 なぜなら、仏法こそ、科学的道理を包含する真理だからである。
 自ら蒔いた種は必ず自ら刈り取らなければならない。
 これが仏法の説く「業」という概念であり、自業自得・因果応報という法即である。
 釈迦族がどうして滅亡したか、そのとき釈迦が語った言葉も同様の意味であったが、これも参照するべきである。
 加えて、日蓮の時代での元寇ではない。
 盧溝橋事件から日中戦争が、真珠湾攻撃からアメリカとの戦争が、いずれも自ら日本から仕掛けた戦争だからである。
 こういうありきたりの事実を弁えずに、仏法の正邪を云々することは馬鹿げている。


 P18へ、続きます。



☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰