●18 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著「人間革命」 | ラケットちゃんのつぶやき

ラケットちゃんのつぶやき

ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。

●18 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用


  このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。



■戸田城聖の師弟不二


 戸田城聖は1900年2月11日石川県生まれ、
 1918年、夕張の真谷地尋常小学校の代用教員、1920年、20歳の時に上京。牧口常三郎に出会い、東京市立西町尋常小学校の代用教員として採用され、これ以後、牧口に師事する。
 先に日蓮正宗信徒になった牧口常三郎の折伏によって戸田も入信。
「時習学館」、「日本正学館」を設立。牧口の教育理論である『創価教育学体系』などを出版。
 戸田は事業家として金融業や証券業に一定の成功を収めた。1940年創価教育学会理事長に就任し、学会の活動を財政面で支えた。 

 1943年6月、牧口とともに大石寺に呼ばれた戸田らは、大石寺第62世日恭と堀日亨同席の下、庶務部長からの神札要請を拒絶する(神札問題)。
 その後、治安維持法違反・明治神宮に対する不敬罪の容疑で、牧口とともに逮捕される。
 1945年7月3日、戸田は出獄、その後、師である牧口とともに破門された日蓮正宗に懺悔して赦され、事業家として創価学会の運営を行った。
 1947年8月、池田大作が入信する。
 1949年10月、日本正学館の倒産、戸田は東京建設信用組合を設立したが翌1950年破綻し、創価学会理事長を辞任。

 信用組合が同年8月22日、営業停止命令を受けたとき「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこの世で、負けたのではない。信心では少しも敗れていない」((小説「人間革命4、P223)という。
「しかし、踏み倒すというのでは絶対にない。…中略…当面、清算の戦いを戦い抜いて、第二段としての再起の工夫をしようと考えている」(前掲書P225)
昭和25年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜、悪口を言った。(池田先生が)私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。25年の12月には、駄目かもしれぬと思った。…中略…とにかく私が一騎駆
でおし切った。26年1月下旬に大たい心配がなくなった。目鼻がついたので、会長就任の決意を2月11日の誕生日になさった。」(第11回社長会、社長会全記録,1983/6/10,継命新聞社,P59)

 この時の債権者の告発投書を以下に見る。
「ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼鏡をタタミにすりつけて平身低頭『生きている限り、必ずこの戸田が誓って全部返済します』といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、二年後に彼の負債(約千五百万円とか)は三割返済の決議により清算されました」(「週刊朝日」1956/9/2、高橋篤史著「創価学会秘史」2018/2/27,講談社P233)

 同年10月、大蔵商事(現:日章)を設立。 
 戸田城聖は自らの論文「創価学会の歴史と確信」(戸田城聖全集1、P305-306)で、創価学会再建から第二代会長就任決意までを以下のように語る。
 「ゆえに、世人に先立って、この因縁を知り得たわれわれは、御本尊様の功徳を、なやめる衆生につたえる使命をもっている。われもおがみ、人にもおがませるようにつとめ、善きにつけ、悪しきにつけ、世のなかがいかになろうとも、世界人類の幸福のために、自分もおがみ、他をもおがませなければならない。私たちは無知な人々をみちびく車屋である。まよっている人があれば、車に乗せて大御本尊様のもとへ案内していくのが、学会の唯一の使命である。宝の山にはいって宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれ学会の尊い使命なのである。宗教によって名誉を欲するのではない。まして振興の宗教屋のごとき金もうけを目的とするものでないことなど、いまさら申しあげるまでもない。…中略…
 学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、七か年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪教の臭気を世にばらまいている。大聖人の真の仏法を奉持して邪宗ののさばるにまかせているのは、だれの罪かと私は自問した。『これは創価学会を率いる者の罪である』と自答せざるをえないのである。
 また自分は、文底独一の教理を説いていると深く信じているが、教本には文上の法華経を用いている。
 この二つの罪は、ご本仏の許すべからざるものである。私は大難をうけたのである。立つべき秋(とき)に立たず、つくべき位置につかず、釈迦文上の法華経をもてあそぶ者として大謗法の罪に私は問われたのである。ありがたや、死して無間地獄うたがいなき身が、御本尊の功徳はありがたく、現世に気づくことができたのである」


 戸田の弟子であった石田次男は自著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」(1995/5/3、緑友会)P209-210において、当時の状況について以下のように述べている。
 「戸田先生の方は出獄された事が、今述べた見方への傍証であると存じます。
 この法難も又、因縁和合して現出した一事件でありました。因は牧口先生側に有り、縁は不法な国権の側に有り、この因と縁とが和合して知る通りの結果を導いたものであります。ここを仏法では〈因縁所生法〉と申すのであります。ここに私共は仏法の厳しさを見ない訳には参りません。二人の会長の入獄には他にも重々〈法の深さ〉を見るのでありますが、ここでは割愛する事と致します。
 兎に角、史実に就いては、私共は徒(いたず)らに美化する事を排して、長短共に真直(まっすぐ)に見据える勇気を持つべきであります。池田式美化方針こそが会の後代を誤らせるのでありまして、乗せられてはならない事であります。…中略…
これ、価値論故であります…中略…
 この点を、戸田先生は
『戦前は、教学が無くて失敗した』と、敢えてハッキリ明言して居られました。
 これに鑑みて戸田先生が新構築された学会では、先生は、厳しい方針として教学研鑽を掲げ且つ実施しました…中略…
『教学が無くて失敗した。戦前の学会は教学が無い為に潰れた』と側近の者には明示されました…中略…
 この『教学』とは〈信心としての教学〉の事でありました…中略…
 この重い御配慮にも関わらず、先生滅後は又しても〈教学故の失敗〉が起ってしまいました。…中略…」(これ以降は、後述する)




 日本正学館の倒産、設立した東京建設信用組合も翌1950年破綻し、創価学会理事長を辞任したことを上記のように語る。
 そして、1950年(昭和26年)2月、信用組合解散の許可が許可され、3月31日、正式に解散となり、戸田への責任追及は解消した。
 戸田が、刑事事件から逃れるために打った手段は、小説「人間革命」等にも明らかにされず、「ありがたい御本尊の功徳」「大きな現証」と彼には映ったとされている。
 そして、その後まもなく、創価学会第二代会長に就任するのである。


 以下にあげる彼の「偶感」での「二度目の不思議にあい」とは、「これで二度目の敗北――昨秋の出版企業の停止、今度の信用組合の停止」(小説「人間革命4、P222)を指している。
 「再三再四にわたって会長就任を懇請されたが、私はどうしてもその気になれなかった。しかるに昭和二十五年、二度目の不思議にあい、また謗法からきたところの大難をうけて、そこに大きな現証をみ、からだ全身が世の苦悩を救わねばならぬという大確信に包まれたのであった。私は自分のからだ全体を学会のなかに投げ出し、世の苦悩の民衆の中に屍むると決意したのである。この決意の日が、昭和二十六年五月三日であったのである。」(「偶感」1952/6/30,戸田城聖全集1、P393)
 「私は歓喜にもえたのである。私は証のありしだい敢然立つことを決意したのである」(創価学会の歴史と確信、戸田城聖全集1、P306)



 昭和26年5月3日、日蓮正宗常泉寺にて、戸田は創価学会第二代会長に就任する。
その席上、就任あいさつと共に、「私が生きている間に七十五万世帯の折伏は私の手でいたします」とのべたという。

 溝口敦は述べている。
「ふつうの事業であくせくする必要は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして「信者を三十人集めれば食っていける勘定の、ベラぼうに高収益のあがる商売」(大宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への道はそれ以外になかった」(溝口敦著「池田大作権力者の構造」P116)



 1951年5月3日、東京の常泉寺で後の大石寺65世法主堀米日淳臨席の下、第2代創価学会会長に就任、7年間で75万世帯の折伏(布教活動)を敢行した。
 ただ、この折伏は強引であったため各地で社会問題化した。

「脅迫、強要といわれても仕方のない折伏行為による社会との摩擦は絶えず生じ」
(山崎正友著「再び、盗聴教団の解明」2005/4/8、日新報道、P86)


 現在の創価学会の主要な組織の編成は戸田会長時代になされた(縦線という)
 1954年、参議院や地方議会の選挙に学会員を出馬させ、政治進出。
 しかし戸田は、衆議院には出ないとしていた。
 また、創価学会員からは、金を集めないと明言していた。
「『学会は永遠に貧乏で行け』…中略…と仰った」(石田次男著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」緑友会1995/5/3再販 P43)


 「けっして、信仰や折伏を、自分の金もうけや都合に利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことはけっしてでき得ないので、世にいう悪などということの何千倍の悪であります。学会は名誉のためにも、金もうけのためにも、寄附をもらうためにも、動いてはならないのであります。ご利益や大果報は、御本尊様からのみ得られると、確信すべきであります。」(戸田城聖先生講演集上 1961/5/3 戸田城聖著 創価学会 P18)



 また、現在においてはまったく逆転してしまっているのが、創価学会の「財務」という、カネを会員から集める制度であるが、かつて戸田時代の財務について、公明党議員であった藤原行正は、以下のように述べている。

 「創価学会で財務という制度がスタートしたのは昭和二十六年の戸田時代である。
 ただ、戸田時代の学会は『カネのかからない宗教団体』であることを誇りとし、宗教活動をやってカネを儲けるという利権的な発想そのものは全然だれの頭にもなかった。
 学会自体が貧乏所帯であり、毎月の学会運営費さえ戸田先生が持ち出しの形となることがあった。学会の長老たちや青年部幹部はみなそれを知っていた。
『宗教でカネもうけするぐらい簡単なことはないのであって、おさい銭をあげろといえばいい。
そのおさい銭箱のない、会費さえないのが創価学会のいいところだ。信者をだましてカネをとるぐらい簡単なことはない。しかしそれをやると必ず地獄におちるから、そういうことはいかんというのが私の精神なのだ』
 かつての戸田二代会長はこう明言していた。そのころの創価学会の財政は、財務部員からの収入と出版収入でまかなわれ、会費はいっさい徴収しない。寄付も、学会自体の運営としては一度も強制され、割り当てられない。それが創価学会の重要な特色の一つであった。昭和三十年前後に貧しい人々が競って入信し、学会組織が大飛躍を遂げた理由はこうしたところにも一因があったのである。
 この二代会長の根本方針のもとで私たちは宗教的情熱に燃えて、寝る時間を惜しみ、活動資金は自分のポケットマネーから出すというパターンが多かった。ところがその時代から、池田大作一人は大蔵商事で羽振りをきかせ、学会組織を利用する形で大金を懐に入れていた。その事実は先に書いたが、いまの池田の姿を見るにつけ象徴的ではある。
 とにかくいま、池田大作が毎年、学会員へ押しつけている財務は当初の趣旨とは似て非なるカネ集めである。戸田時代の財務は、信仰して豊かになった人が台所の苦しい学会運営を助けるために、収入の一部を寄付するという形であった。

これをわかりやすくいうと、
一、日蓮正宗を信仰した結果、
一、ご本尊の功徳で福運を得て、生活が豊かになった信者は、
一、学会運営のためにその一部を学会へ寄付しなさい。
 これが戸田城聖第二代会長の財務に関する遺訓である。
 つまり、本来の創価学会の財務は信心歴と経済的ゆとりのある少数の人が希望して参加を許され、金額も学会運営に最低限必要な金額とされていたわけである。
 現に、池田本人も三代会長就任直後の昭和三十五年十二月、中国本部落成式の席上で、『清浄無比の学会財務』と題して熱弁をふるい、次の公約を口にしていた。
《過去においても、学会は、会員から、ただの一銭も迷惑をかけていません。また広宣流布の日まで、学会が続くかぎり、全学会員の皆さん方から一銭も寄付を取り、迷惑をかけさせていくようなことはにいたしません(ママ、『絶対に』が抜けている)》(会長講演集第一巻)」(藤原行正著「池田大作の素顔」1989/4/10,講談社P173-175)


 また、戸田城聖自身も、「創価学会の使命」と名をうって、創価学会第二回総会にて熱弁をふるっている。

 「さいわいにも。われわれ学会人は、このみ仏のお教えに随順するものの集まりであります。仏教の真髄とは、日蓮正宗の謂で、日蓮正宗を除いては真の仏教はないということは、文証について、理証について、わたくしの常に説くところであり、諸君が常に現証について、よく体験せられているところであります。体験は生活であり、その生活に現証を得られた以上、われわれは、日蓮大聖人様に随順して、大聖人様の文底秘沈の妙法を、個人の救いのために、国土、民族、いな、全宇宙の衆生を救わんがために、説かなくてはならないのであります。
 われらは、日蓮大聖人様ご図顕の大御本尊様のご威徳、広大なる大聖人様のご慈悲によって、このようなつまらぬ凡身に、仏を感応することができる大果報を喜ぶとともに、人々にも、この喜びをわけて、仏の国土を清めなくてはならない。とうぜんのことでございます。このとうぜんの行為は、すなわち、われわれをして、仏の使いたらしめるものであります。されば、また、仏からつかわされたものとして、慈悲の袋に救いの源泉をつつんで、人々にあたえること、これを折伏というのであります。折伏こそ学会の使命であり、信条であるのであります。
 されば、吾人は、仏を感得しうるの大果報人であるとともに、世のなかに大確信を伝えなくてはならないのであります。仏に貧乏があってなるものですか。仏が三世の仏菩薩、諸天善神に守られなくて、なんとしよう。現世は必ず安穏であること疑いないのであります。されば、仏の集まりが学会員であると悟らなくてはならないのであります。迷える人々を、仏のみもと、すなわち日蓮正宗の御本尊様の御もとに、案内するの集まりであると、知らなくてはなりません。
 
 このためには、けっして、信仰や折伏を、自分の金もうけや都合に利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは、けっしてでき得ないので、世にいう悪などということの何千倍の悪であります。学会は名誉のためにも、金もうけのためにも、寄附をもらうためにも、動いてはならないのであります。
 ご利益や大果報は、御本尊様からのみ得られると、確信すべきであります。…中略…
(昭和22年10月19日、創価学会第二回総会午後、東京教育会館)」
(戸田会長全集第二巻、講演集、1965/10/30 和光社、P16-18)


■創価学会再建の基盤となった大倉商事の実態

 しかしながら、戸田の設立した大倉商事は、以下の指摘によると、上記の熱弁や指導とは程遠いものであった。

 「借金返済のための窮余の一策だから、戸田先生もなりふりをかまわず学会員から出資金や貸付金を集め、ほかへ高利で貸し付けるという新商売だった。…中略…そして当時、二十二歳の池田大作は資金調達から貸し金取り立てまでをこなす高利貸し業の第一線営業マンだった。
 象徴的なのは、出版業や正規の金融業ではパッとした動きのなかった池田が、このカネ貸し稼業ではめざましい働きを見せたことである。池田は小金を貯めていそうな学会員の家を訪ね回った。各家に図々しく上がりこんでは『戸田先生の苦境を助けるため』『学会のため』などと言葉巧みに話を持ちかけ、カネを集めた。その時、池田が誇らしげに持ち歩いていた名刺の肩書は『大倉商事営業部長・池田大作』であった」(藤原行正著「池田大作の素顔」1989/4/10,講談社P37)

「初代代表役員は矢島修平氏(当時は『大白蓮華』の編集長)、専務理事(兼金庫番)は森重紀美子さん、営業部長は池田大作(当初は一人の部下もいなかったそうです)
という顔ぶれで…中略…現代の消費者金融の走りのような会社で、銀行よりも高い金利で出資者から借り受け、当然のことながら、それをさらに高い金利で貸し出すものです。
 当時をよく知る学会員の話などから、大倉商事の利子は月3歩(年利36%)で借りて、月5歩(年利60%)~7歩(年利84%)で融資していた…これがいかに途方もない高利であったか、少し前まで良心的な(?)消費者金融の利息の上限が29.9%(現在は20%まで)に抑えられていたのと、比較してみてください」(原島昭著「池田大作と原島家」人間の科学新社P71)


 100万円の借金が、1年複利の場合、5年後には年利3%で銀行なら116万円だが、大倉商事では年利60%で1048万円になる。

 「それゆえ、年利60%以上をとるような商売は、失敗しても成功しても、たくさんの人を泣かせる結果になるのです。特に、貸し金取り立てには、寝ている病人の蒲団をもはぐことができるような、冷酷無慚になれる人材が必要になります。そして池田大作営業部長は、高利貸しにはぴったりの人材なのでした。」(前掲書P71)

 「仕事に真剣でない人は信心にも真剣でない…中略…大倉商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った」(第9回社長会、社長会記録、P48)

 「『広宣流布のためだから出資してほしい、ということで私も参加しました』…中略…戸田会長の金融業が広宣流布という崇高な目的のためにある、と宣伝していたこと。このことは信心利用といわれても弁明不能でしょう」(原島昭、前掲書P77)

 「学会員たちは戸田城聖の苦境を救うためになけなしのカネを提供した。そこに金銭欲のなみはずれて強い池田大作の辣腕、そして特異ともいえる才能が加わるのだから鬼に金棒である…中略…
 大倉商事の社員は歩合制で給料をもらっていたが、その中で断然トップの稼ぎ頭は当然のごとく営業部長の池田だった…中略…
 『最初の三年間で、オレが稼いだ歩合は二百万。基本給と合わせて毎月の手取りが二十万は下らなかったな』
 戸田先生が三百万の借金で首がまわらなくなった昭和二十年代の話である。最初の三年間だけで池田がポケットへ入れたカネが二百万とは大変な荒稼ぎだった。また、給料二十万といっても昭和二十六、七年のことだ。当時は一流大学出の初任給でさえ一万円にとどかず、小学校の先生の初任給が五千円ちょっと、そんな時代に、まだ二十四、五歳の池田は学会員のカネを右から左へ動かすだけでそんな大金を稼いでいた」(藤原行正,前掲書P39)



 戸田自身も、以下の部分を小説に書いている。
 「『日本の仏教界でも、世界の宗教界でも、金利は罪悪とまでいわれているんだぜ。講談にだつてあるだろう。高い利息と元金を取るために、明日をも知れない重病で臥せっている者の布団まで剝いで行く。それがどんなに悲惨かは、皆を泣かせるので判るじゃないか…』…中略…
『大事に溜めてあつた金を、一割払うというから貸しただけだ』
『そういう欲のある人間が、資本主義の理想を作る。だが、この頃の経済学者は、その間違いを訂正している。金利というものは、利潤の分配だ。学芸社が二割儲けて、一割払うのはよかろう。五分しか利益がないのに、利息を一割取れば、潰れるのは当然だ。平沼君! 君が潰したことになるよ』
『巖さん! 止めてくれ!』」((妙悟空(戸田城聖)著「人間革命」P192-193)


 「戸田会長は高利貸しに意外な才能を見せる池田に大蔵商事の営業をすべて任せ、二十三歳の池田は同社取締役に昇格した。ところが、世の中の金融事情が好転するにつれて、高利貸し業はさびれ、この会社の営業成績は先細りとなる。それと反比例するように学会組織は膨れ上がる。それを見て、池田大作はスルリと身をかわして学会本部専従となった。これが二十九年四月の参謀室長抜擢の前後である。…中略…
 うまく立ち回った池田のほうは、創価学会会長となってから、大蔵商事時代の前歴を一般学会会員の目から懸命に隠した。たまに当時を語るときは事実を曲げ、自分だけは見事に美化した。一般学会員から尊敬の目で仰ぎ見られる『生き仏』の前歴が『高利貸しの腕きき営業マン』では具合が悪いからである。」(藤原行正,前掲書P40)


 戸田は、こういった裏面もありながら、金集めに奔走する当時の宗教団体を邪宗として折伏し、その批判内容を折伏経典などに展開していた。


 1957年、戸別訪問と買収の容疑で、青年部参謀室長池田大作、理事長小泉隆等、数十人が逮捕・起訴されたの大阪事件の際には、違反を犯し有罪判決の会員には即除名などの厳しい処分を下した。(池田も拘留段階で戸別訪問と買収容疑を認め自白し署名した。彼以外の部下ほとんどが有罪だったが、彼のみは5年後無罪判決を得た。この司直の舞台裏などについては石田次男が、自著「内外一致の妙法」のなかで、語っている)


 大蔵商事が軌道に乗ると、日蓮正宗の外護という創価学会本来の目的を果たすべく、大石寺への大講堂の建立・寄贈などを行った。
 日蓮正宗に返り咲いた戸田は、第59世管長堀日亨や細井日達らと良好な関係であった。

 その一方で、牧口の価値論と仏法上の原因結果の法則「罰論の功徳論」に対し、戸田は獄中で得た悟りの「生命論」(仏とは生命、宇宙即我、我即宇宙)を全面に押し出した。
 後に創価学会が法華経を展開した理論の基盤となったが、それは残念ながら外道の教え(実質的にはバラモン教の「梵我一如」)に堕した部分が見られた。

 ちなみに彼は大酒飲みで、しばしば酔っぱらいながら説法をしていたことが、御書(日蓮の遺文)の編纂の時、 日蓮の『戒体即身成仏義』(五戒の一つに、酒を飲んではならないとある)が除外された原因であるとの指摘がある。



■「仏法は勝負」であるという、日蓮遺文の曲解利用


 「信仰と生活とは別じゃない。好き嫌いよりも損得、損得よりも善悪の生活をしなきゃならない。その善と悪との基準は価値論できめて、善にも大中小がある、大善でなきゃならない…中略…最高の生活法っていうのは大善生活だと、いやおうなしにもってくる。そして、大善生活イコール南無妙法蓮華経ということになる。この御本尊様を拝むことだと、こう結びつけちゃうわけです。
ところが、大善生活=キリスト教としたっていい、という人もいる。そこで、
それじゃ勝負で行こう、どっちに罰がでるか、勝負で決めよう、ということになる。」(「大白蓮華」55号から要約引用、日隈威徳著「復刻版 戸田城聖ー創価学会ー」2018/6/26 本の泉社 P53)


 仏法は勝負であるとばかり、価値論・生命論(折伏経典)をもって、本尊(日蓮正宗の板マンダラ)を「幸福製造機」として拝み、ひたすら現世利益を掲げて、折伏大行進を行い、戦後壊滅状態であった創価学会を、75万世帯にまで拡大させた。
現世利益については、「大利益論」(戸田城聖全集1、P329-350)などが有名である。
 しかし、強引な折伏は、世間の非難を浴び、批判の書も少なからず出版された。



 創価学会でいうところの「仏法は勝負」というのは、前述したが、下記の日蓮の御書を切り文として曲解し、都合よく利用したものである。
「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(四条金吾殿御返事 御書P1165)
「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つものなり」(同P1169)
 日蓮は、この書で、勝負とは道理から見た「法の勝劣」を示しているのであって、現実の具体的な戦いでの結果としての勝ち負けを意味するのではないことは明らかである。
 創価学会の指導や仏法哲学には、こういった、御書を切り文として曲解利用したものが少なからず見られるのには注意しなければならない。
 日寬の「賢者はその理を貴び、闇者はその文を守る」の通りであることは、前述した。
 日寬の時代も同様だったのであって、いつの時代にも、陥りやすい落とし穴であろう。



■隠蔽された不都合な内容、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」


 創価学会の正史であり聖典とされている小説「人間革命」は、最初に書いたのが戸田城聖である。
 彼は巌さんとして、牧田先生(牧口)が国家諫暁するべきであると日蓮正宗に説き、創価教育学会の方針を討議の場で、「ぼくは、牧田先生の弟子だよ」と、どこまでも師である牧口と行動をともにすることを書いている。
 しかし、上記の神札問題においては、その著において隠蔽している。
 逮捕される一週間前に発した「通牒」では、師である牧口とは反対の主張がなされている。
「創価教育学会理事 各支部長 殿 理事長 戸田城外 通牒
時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め各員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦い抜かんことを切望す。衣って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。
一、毎朝天拝(初座)に於いて総本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国(ちょうこく)以来代々の鴻恩(こうおん)を謝し、奉り敬神の誠を尽くし、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。
一、学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。
一、感情乃利害をを伴へる折伏はなさざること。
一、創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可(べ)からざること。
一 皇大神官の御礼は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。
以上
六月廿五日」

 つまり、戸田は、牧口の「神札は絶対に受けない」「天照皇大神宮の大麻は…中略…一番取払いの対象になっております」とは真逆の、「皇大神官の御礼は粗末に取り扱はざる様」と発信しているのである。
 これは、明らかに師敵対ではある。

 もっとも、この法難について「弾圧の準備が進められていたから会長の応急策も已に遅し…」(富士宗学要集9、P431)と記載さてているところの「会長の応急策」が、この「通牒」であったことは、想像に難くないが、そうであったならば、会長である牧口の指示であったことになって師敵対とはいえなくなる。
 その場合は、牧口が信念を一時的に曲げたことにもなる。
 そして、戸田は破門され獄死した師の牧口と異なって、自ら日蓮正宗に懺悔して復帰を赦された。

 戸田の獄中から夫人あての書簡(昭和19年9月6日付)に、次の記載がある。
「堀米先生ニ。去年、堀米先生ヲ『ソシッタ』罰ヲツクヅク懺悔シテオルト話シテ下サイ。『法ノ師ヲソシリシ罪ヲ懺悔シツツ、永劫ノ過去ヲ現身ニ見ル』ト言ッテオリマスト」(戸田城聖「若き日の手記・獄中記」1970/11/15,青娥書房,P146)

 そして、出獄の2日後日蓮正宗の歓喜寮を訪ね、後の大石寺65世法主堀米日淳に、宗門に反し掘日亨を謗った罪を懺悔したという。
「足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して『申し訳ありませんでした。二年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました』といって 平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに『これからは何もかも、お任せしますので、よろしく頼みます』」(日淳上人夫人の証言、引用元はhttp://turukame5940.blog.fc2.com/blog-entry-35.html))


 「通牒」は、明らかに師敵対の内容だが、この都合の悪い事実・経過は、次にあげる戸田城聖著「人間革命」や、現在までの創価学会の関連出版物の全てにおいて隠蔽され、創価学会会員が全く参照できないようになっているのである。

 戸田城聖全集第四巻 1965年 和光社、聖教新聞に連載の戸田城聖著 小説「人間革命」には、「戦争に打ち勝てる」とか、「広東への地下工作」云々のような、侵略戦争としての太平洋戦争に勝つために国家諫暁をするという牧口先生の悲願を、なんとしても達成しようと叫ぶ巖さん(戸田城聖)の決意が見られる。(以下の〝 〟部分)
 P545-546では、
 「学会幹部の人々十二、三人が二階の大広間に集まっていた…中略…巖さんは一同をキッと見て、
『日清戦争でも日露戦争でも一本の筋があったように思えるのだが、今度の支那事変ではぬかるみに入ったのではなかろうかと思われてならないのです。外は戦争の事から内は国家の事、又宗教界をみても混乱を重ねているではありませんか。
牧田先生がいろいろなすっていらっしゃるが、我々も牧田先生の心を心として、この混乱から国家も民衆も救おうではないか。それに日蓮正宗の信心に対する半信半疑を捨てて、
宗教の力でこそ、〝この戦争に打ち勝てる〟という大信念をもって、一大折伏戦に入ろうではないですか。
この議題のもとに大いに討論していただきたいと思うのです。できる事なら〝我々の手で、広東、かんしんの地下工作までものりだしたいと思うのだが〟、きたんなくご意見をきかせてください』
 この議題を中心にして二時間にわたる討論の結果、各自各自の事業をしっかりやりとげて、その余力を以って〝大いに国家に協力し〟、その力をより高く働かして大折伏闘争に入ろうと決意した」


 ここには、「仏法は勝負」と、ひたすら戦争に勝つために日蓮の信仰を貫こうとする創価学会の姿勢があらわに描かれていて、今日の創価学会が掲げている戦争反対・平和のイメージは微塵もない。
 当然に、現在発売されている戸田城聖著の小説人間革命は、電子版も含めて、上記の記載は削除され、都合よく改竄されたものである。
 ちなみに実際に「反戦・平和」を掲げたことを理由として弾圧された団体は大本教など、他にあった。


 戸田城聖以降の創価学会では、「人間革命は小説であるから許される」という逃げ道が、故意に用意されている。
 そもそも小説はフィクションである。
 それを正史とか聖典と同様、事実・真実として扱い、またこれを引用して、あたかも正論のように持論を展開している学会シンパも少なからずいる。
 さらには、こちらの方が創価学会員の支持や購入により人気がある。
 小説「人間革命」は、「ノンフィクション」部門扱いで、ベストセラーになっていたことは、何を意味するのか。
 真実を伝えるためには事実をそのまま書くよりも小説のほうが良いと、自らも訴え、後の池田大作も、小説「人間革命」で大阪事件の描写のまえに、あらかじめ「事実と真実は違う、真実や正史は小説の中にある」(趣意)としている。


 科学的エビデンスを厳格に扱い論議することを日常の仕事とする者(私のような科学的根拠に基づいて仕事を行なうもの)にとっては、このような様相は真理や正義などを追及する論議の場にも上がるに値しない。
 これを真剣に研究することはどういうことかと言えば、「いかに人間はウソをつき、いかに騙されるか」などの研究であろうか。
 その本質は、老獪な猿智慧や、高尚に見せかけた巧みな詐欺、ファシズムにつながる全体主義が、デマゴーグを通じてどのようにして大衆社会に浸透していくかに関わっているかともいえる。


 神札問題が起こって、牧口・戸田は日蓮正宗を除名された。
 さらに、戸田は、自ら師に反する「通牒」を出したこと、その後日蓮正宗に懺悔したことを含めて隠蔽している。
 これらは、牧口の指示でなければ明らかに師敵対の内容だが、この都合の悪い事実・経過は、次にあげる戸田城聖著「人間革命」や、現在までの創価学会の関連出版物の全てにおいて隠蔽されているのである。


 掘日亨は、戦時下の創価教育学会弾圧事件について、
「顧みるに法難の起る時必ず外に反対宗門の針小棒大告発ありて其の発端を発し、内に世相を無視して宗熱に突喊する似非信行の門徒ありて、両面より官憲の横暴を徴発するの傾き多し、本編に列する十余章皆然らざるはなし」(掘日亨編「富士宗学要集」第九巻 1978/12/20 発行者池田大作、創価学会出版、P247)
と指摘している。

 つまり、前述したが、牧口・戸田ら創価教育学会は、軍部が日本を支配している状況下で、日蓮正宗的には「世相を無視して宗熱に突喊(とっかん)する似非(似て非なる)信行の門徒」であって、自ら「官憲の横暴を徴発」したのであり、
「善戒を笑えば、国土の民となり王難に遭う。是は常の因果の定まれる法なり」(佐渡御書、御書P960)の指摘通り、自業自得・因果応報だったのである。

 俗世であっても本当の師弟関係があったなら、師匠が破門された宗派に戻るだろうか。
 これでは論理筋が通らない。
 後述もするが、創価でいう「師弟不二」は、どこまでも師匠について行くことだという。
そして、師匠が地獄に落ちても、弟子は地獄までついていくべきという。
 しかし、そういう池田大作名誉会長の説く「師弟不二」の模範とされる、そして今の創価学会、とくにの永遠の師とする創価三代自身も、師敵対の行為をしているのではないか。


 もっとも仏法の観点では、戸田の獄中の悟りは、在在諸仏土常与師俱生(ざいざいしょぶつどじょうよしくしょう、 法華経化城喩品第7の文)という、仏法上の師弟論理を基調にしていたものだったという。
 だから、今世において牧口が日蓮正宗を破門されたことは、三世永遠における師弟関係があったならば、必ずしもこれを破ることにはならないかもしれない。

 戸田は、出獄後の昭和20年9月付け、一ノ関の妹の主人宛ての書簡に、次のように述べている。
「私のこのたびの法華経の難は、法華経のつぎのことばで説明します。
 在在諸仏土常与師俱生
 と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。
 私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりして、過去も将来も離れない仲なのです。…中略…
 しかし、哲学的に電気化学の原理、電子論に原子論に研究を加えれば、加えるほど、生命の永久を確心(ママ)しなくてはならないのであります」(戸田城聖「若き日の手記・獄中記」1970/11/15,青娥書房,P180)


 師弟関係は、創価学会において、その時々や場所によって都合の良い解釈をされてきた。
 戸田も、現実には、創価学会の再建・興隆において、その思想を部分的に都合よく利用したのだった。
 これは牧口の「価値論」を確実に受け継いできている。
 「正邪は善悪と全く内容が違う。悪人の仲間では悪が正で善が邪であり、曲がった根性の人には正直がかえって邪悪として嫌われる」(同P195)

 もし仮に、その師弟関係が永遠の法則(永遠の縁)であったならば、現世においても現実には筋が通った行動となるはずであろう。

 池田大作が創価学会会長となってから以降は、入信神話の捏造をはじめ、師弟不二や血脈など存在しないことの事実を、前稿にも記載したが、その他にもさまざまあり、これだけでも数十冊ぐらい本が出版されている。
 その主なものを取り上げておく。

 「邪宗教・低級宗教の説く利益は、その境涯自体が地獄餓鬼畜生修羅の境涯の衆生の願いを満足させるにすぎない小さい低い利益であつて、真の幸福からみれば問題にならないのである。こうした一時的な小利益から一歩も出ない邪宗の利益を説くのは、正しい宗教ではないことに気がつかなくてはならない。
 「病気がなおる」とか「金がもうかる」などの言葉にみな迷つているために、宗教の偉大さを知ろうとしないのが、現代の知識人の姿である」(戸田城聖監修「折伏教典」1961/5/3校訂三版、創価学会、P301-302)

 「我々の生活には利益と罰があるのが実相である」(同、P303)
「よく邪宗教で「病気がなおる」とか「金がもうかる」とか「家が平和になる」とか「落し物がみつかつた」とか実にくだらない利益を看板にして人を集めているので、利益を説く宗教は低級のように感じられるのであるが、利益にも大小のあることを考えなければならない。小さな利益に迷つて大利益を失うのが邪宗の姿であり、小さな罰で大きな罰を消し大利益を与えるのが正しい信仰の利益である」(同、P304)

 「又日寛上人は、
『この本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用あり故に暫くも此の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば
祈りとして叶わざるなく
罪として滅せざるなく
福として来たらざるなく
理として顕れざるなし』
と仰せあるのである」(同、P304-5)

 「事実調べてみると、真の仏法を知らずして大聖人に関係した小説等を書き、又像を刻んだり画いたりした者は、その直後において半身不随や原因不明の病気になつて、必ずその直後は地獄の相を現じて、すごく悲惨な死に方をしているのである。これは謗法の厳然たる仏罰であり、知らずに拝む者も同罪である」(同、P326)





 佐木秋夫・小口偉一「創価学会」(1957/8/20 青木書店)P231-232では、こう言った呪術的な創価学会に対して、以下のような指摘・提案をしている。

 「会が正しく発展するためには、その非科学性、呪術性をとりのぞく真剣な努力が必要になるだろう。日蓮は『通力によるなかれ』と述べて、呪術否定の方向をもしめしている。シキミの葉をせんじて飲み、火事を題目で消そうとするような行為は、会の正統的な解釈では、『邪宗』の影響のなごり、ということだろう。その『邪教性』を徹底的になくす努力をせず、かえってその上にアグラをかいているようでは、新しい生命力はのびないだろう。この場合、『方便』ということが重要な題目になるかもしれない。
 もっと重要なのは、ファッショ的な空気をなくすことである。創価学会のファッショ的な傾向については、多くの人びとが一致して警告を発している。小ブルジョアが会の指導権をもち、貧困者層を広く組織していることは、その危険が深刻であることをしめしている。しかし、会員の大部分はほんらいファシズムを望まず、正しい方向にむかって力をふるうことのできる人たちである。炭労問題について、会では、次元がちがう筋ちがいのケンカだ、としている。真に大衆に奉仕する人のためには、赤旗でもかつぐ、平和運動でも、さそわれれば参加する。と会長はいう。しかし、会員の大多数の幸福は、会が傍観者的でなく、積極的に民主主義を守り平和を守り生活を守る現実のたたかいに協力することを要求しているのである。創価学会は、はたしてこの大きな曲がり角に立って、あらゆる重圧をはねのけながら、明かるい道に発展していくことができるだろうか。(ママ)」


 しかし、まさにこの時代からこういった指摘を受けているにもかかわらず、現在の創価学会は、その表面上では歴史の移り変わりに応じて変わってきているが、「師弟不二」に代表される根本的な性質、つまり排他的・独善的な思想は、なんら変化するどころか、むしろ強められていると考えられるのである。

 それは、創価学会から除名されながらも、「師弟不二」の道を行くという、いわば、「ジュニア池田大作」とも称することができる人たちも、出てきていることからもうかがわれる。




 P19へ、続きます。

 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」


目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム