●24 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢 | ラケットちゃんのつぶやき

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●24 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。




■戸田城聖の政界進出、当時の創価学会の発展の背景と要因について


 戸田城聖が創価学会会長に就任したころは、わずか5千人程の組織であったが、以後、僅か七年間で、75万世帯にまで急発展した。
 当初は、小さな組織が全国に散在する程度で、特別な事がなければ政治への接点はほとんどなかったものが、組織が急拡大する中で、さまざまな面で社会とのかかわりが発生し、その行動が政治的な意味あいをも帯びてくる。
 とくに、過激な折伏の影響は、すさまじいものであった。
 この、創価学会の社会関係を具体的に処理し対応するために、組織内部に設立されたのが、文化部であった。
 文化部は、組織内部の結束強化のための文化活動、文化祭、体育祭などの運営、および創価学会の対社会的活動を推進するために設けられたが、そのなかで次第に政治への関与が大きな比重を占めるようになっていく。
 

 戸田城聖は、政治への進出という目標を明確にした。
 そして、1955年(昭和30年)の統一地方選挙で53人の当選者を生み出した。
続いて1956年の参議院選挙で6人を立候補させ3人の当選者を出した。




「創価学会に限らず、他の仏教系の教団も、キリスト教団も、教団が一定規模に拡大したとき、政治とのかかわりをもつようになる。これは先にもふれたように、教団の社会的勢力が拡大すると、その存在自体が政治的となり、不可避的に政治とのかかわりが発生するという理由と、教団側にも政治的関係において解決してゆかねばならない問題が生ずること、さらにその教団が〝生きた宗教〟として現実社会のなかで機能しようとする限り、現実社会の諸矛盾や不正を無視することは不可能であり、そこから政治への指向が生まれることになるからである。と同時に、大きな組織をもつ教団は、既成の政党や政治家にとって選挙母体としての魅力あるものであり、そこから宗教団体と特定の政党や政治家とのゆ着が生まれてゆく。
 学会の政治進出のスタートの場合も事情は同じであった。学会の勢力が成長するにつれ、社会との接点が拡大し、それが政治進出の契機となり、さらに〝生きた宗教〟として現実社会の矛盾や不正への怒りから〝仏法を政治の基礎にすえ〟〝正しい宗教思想による理想的な平和国家としての日本の再建を〟という政治理念がまとめられる。そして現実政治の腐敗を直視し、政界浄化という目標がかかげられ、その必然性の一環としての政治進出が図られることになるからである。もっとも戸田はこの政治進出のスタートにあたり、まだ独自の政党を樹立するという構想をもっていたわけではない。…中略…」(杉森康二著「研究・創価学会」1976/12/15、自由社、P61)

「とりわけこの政治進出を実際に指導した戸田会長は、学会の内部の状況や、政治全体の情勢を正しく判断し、他の宗教団体のように、既成政党と結びつき、その党を通じて教団の利益を実現すると同時に、選挙における下請組織化することの危険性を見ぬき、既成政党との結合という可能性を排し、独自の政治集団の結成という法真を採用していった。…中略…
 創価学会には、もう一つ既成政党とストレートに結合しにくい条件があった。それは当時の七五万会員の多くが、それまでほとんど政治に見離され、また縁遠い存在の人々であったという事情である。主として大都市の低所得者、かつ農村世帯から大都市への移住者で構成された当時の学会員は、あらゆる意味で政治から疎外された人々であった。それゆえにその政治的要求も独自であった。この学会員の性格は必然的に学会の政治性に強い影響を与えることになった。すなわち、既成政党ではなく、独自の政治体を形成し、独自の要求を表現するという方向が要望されたのである…中略…
この運動を通じて権力機構の一部である議会に自らの代表を送りだすことを通じて、自らの社会的地位を高め、市民権を得ようとする情勢もまた高揚するからである。そして
この方向を打ち出し、定着させたのが、戸田の最後の功績であった」(同書、P62-63)






 戦後に、創価学会が急発展を遂げた原因や背景に関する点については、さまざまな立場や観点から指摘がある。

 一例として、信州大学教授の北沢方邦氏は「創価学会問題の真実は何か」(1981/5/3,山手書房)の第四章の中で、「現代社会と宗教――創価学会の役割と逆説――」(P154-189)と題して、以下のような指摘を行っているので、考察する。

 「一九六〇年代以降にみられたこの『宗教の復権』ともいうべき現象は、わが国では伝統的な仏教教団による影響力の増大というかたちではなく、在世信仰集団や新興宗教というかたちをとった。とりわけ日蓮正宗の在世信仰集団である創価学会の急激な伸長には、それなりの諸条件があったものとみてよい。
 その第一は、あらゆる宗派、つまり伝統教団のひとつである日蓮正宗もふくめて、既成仏教教団の形骸化や組織的保守化である。のちにのべるように、鎌倉期における日本仏教の一大『宗教改革』を担った諸派――日蓮、親鸞、道元に発する――は、中世から近世にかけて農漁民や都市大衆に巨大な影響力をもち、『生きた宗教』としての活動をつづけてきただけでなく、室町から戦国時代にかけて既成権力に対抗する一大政治勢力としての力をふるうほどとなっていた。
 この力に恐れをなした徳川幕府は、仏教諸派を寺檀制度によって完全な権力的統制と支配のもとにおき、その宗教的活動力を奪うこととなった。この統制になじまない宗派、たとえば日蓮不受布施派などは、切支丹なみの徹底的な弾圧をうけたのである。こうして活力を失った幕府公認の仏教諸派は、さらに明治開国と廃仏毀釈の嵐、それにつづく国家神道の成立による仏教の福次宗教家によって、布教能力を喪失した『葬式仏教』や教団内修行機関と化すこととなった。とりわけ第二次大戦前から戦時下にかけての軍国主義時代には、仏教諸派は天皇の絶対性や皇祖神信仰さえも受けいれることとなった。
 本尊曼荼羅以外の偶像崇拝をいっさい禁止する、厳格をもって鳴る日蓮正宗さえも、その例外ではなかった。軍国主義による神道信仰強制に抵抗した牧口初代会長時代の創価教育学会は、それによって本山から大石寺登山停止処分を受けることとなった。ここにも徳川期以降の既成仏教教団のひとつの典型的なありかたがしめされているといってよい」


 この指摘の一部分である、日興門流や大石寺の歴史については、前述してきたが、私も同様の見解である。
 氏が指摘する、
「徳川期以降の既成仏教教団のひとつの典型的なありかた」
 は、現在でも既成仏教教団の現状をもろに指摘した卓見である。


 そして、戦後の宗教意識について、氏の指摘は更に続く。
 「このように既成仏教教団が、教団内修行は別として、在世信徒に布教力も影響力もほとんどもたなくなった時点で、第二次大戦後の日本社会の再建がおこなわれた。アメリカ占領軍の意向も重なり、それは明治の近代化よりもさらに徹底した近代化となった。
 たんに国家神道が解体されただけはなく、伝統的な宗教あるいは宗教的なものすべてが、近代的な理性に反する《非合理性》の残滓とみなされ、価値判断の基準やその体系はすべて近代科学にあるものとされた。にもかかわらず創価学会が急激な発展をとげたのは、戦後の日本社会、とりわけ高度成長期に固有の条件があったからである」(同書P160-161)


「すなわち、第二は、高度成長とそれにともなう人口の都市集中による『孤独な群衆』あるいは『根を奪われた人々』の出現である。わが国の高度成長期における人口移動は、他に例を見ないような急激なものであった。とりわけ農業や炭鉱といった第一次産業労働力は急速に減少し、第二次・第三次産業に移行した。それはいわゆる太平洋ベルト地帯の都市化を促進し、首都圏や近畿経済圏は、数千万人を越すメガロポリスを形成するにいたった。
 しかしこの都市人口の大きな部分を形づくる新しい層は、すべて農山村の村落共同体を離れてやってきた人々であり、都市の孤独や生活の近代化に無縁の人々であった。彼らが生活環境の激変にとまどい、不安を抱き、かつての村落共同体の温かな人間的絆に郷愁を感じたのは当然である。
 しかし、都市にはそうした欲求をみたすなにものも存在しない。あたらしく形成された地域社会も、コミュニティとよぶにしては、あまりにも異なった地域文化的背景や価値観をもった人々の集合体である。したがって、一方では地域社会に代って、人々が所属する企業や職場が、わが国固有の終身雇用制度とあいまってそれぞれの疑似コミュニティとなる。
 だが、終身雇用制度やそれにともなうさまざまな保証や安定性のない零細企業や自営業、あるいは非常勤雇用の場合、職場はかならずしもそのような疑似コミュニティではありえない。
 社会の周辺部分(所得の大小にかからわりなければ底辺部分といいかえてもよい)に生きるこれらの人々は、その生活条件上、中心部分に生きる人々以上にコミュニティ形成への欲求が強いはずである。そうした欲求は、一方では外向的・政治的なものとなり、民主商工会活動などを通じて日本共産党の支持基盤を形成するにいたる。そして他方では、それは内向的なものとなり、魂の救済と心の絆の回復をめざして『信仰共同体』を志向するにいたる。」(同書P162)


 氏は、このように背景を指摘して、その後者が創価学会の基盤をなしたこと、そして、他に比べて急激な拡大をとげたのが、この志向に完全に対応できた新しい組織論と方向にあったとして、具体的に以下のように挙げている。
 「それが、地域ブロック方式とそこでおこなわれる学習会と座談会である。壮年部・青年部といったような世代別の組織活動はどこにでもみられるものであるが、そうした世代別組織活動とは別に、年齢・性別を問わず、あらゆる階層の人々が集まる地域ブロックとその座談会方式は、他に類のないユニークなこころみであった。すなわちこれが、信仰を軸とはしているが、都市社会のマージナリティに生きる人々が欲していたコミュニティそのものにほかならなかったのである。」



 創価学会の活動の基本が座談会である。
 これは、戸田城聖の時代から一貫している。
 ここで、参加した人々がいろんな悩みや相談をし、信仰の体験談を話し、日蓮の御書を学び、最後に組織の長が、信仰や学会の方針や目標などを掲げた指導で締めくくる。最後に曼荼羅に題目三唱をして終了する。
 その後、個人的な悩みの相談や幹部たちの間の報告・連絡・相談が行なわれる。
 選挙の応援や対策なども、具体的にこの場で行われ、立候補者やその家族・親戚や応援関係者が挨拶に来たりすることもよくある。
 ちなみに、現在では政教分離が徹底された一部の末端組織の座談会では、暗黙の了解のもとに、たくみに選挙の話をしないで意思伝達がなされていて、ボイスレコーダが作動していても、のちにそれを指摘されないような工夫が徹底されているところもあるが、概して、地域のコミュニティであることから、このようなことはほとんどないのではないだろうか。つまりは、政教分離は、建前上のみではある。

 氏の指摘の通り、この座談会が、社会の底辺層の人々、言い換えれば、他の規制集団に比べて、より深く苦悩する人々をより多く救済する場を提供し、実際にその人たちの苦悩に、一人一人、多くの人が共同で対応しながら解決していく場であった。
 その後に行なわれる、責任者や幹部達による家庭訪問など、地道であるが行き届いた配慮が、多くの悩める人達に勇気と希望を与えていった。
 その信仰の基盤となったのが日蓮正宗の教えであった。






 社会の周辺部分に生きるというこのような民衆のなかには、常識を弁えない教育レベルが低い人も少なからず含まれていて、急拡大した組織内においては、そのコントロールがゆきとどかなかったこともまた事実であろう。


 佐木秋夫・小口偉一編「創価学会」P210-219には、「文化闘争としての選挙闘争」と題して、創価学会の選挙闘争について論じた部分がある。
創価学会員の選挙闘争全体を貫く性格を朝日新聞の分析を挙げて、次のように指摘している。
「『文化闘争と称する選挙運動の事前工作が活発におこなわれ、日程が組まれて、毎日のように本部や支部で作戦がねられた。会長みずからも“金は絶対に使わないので逮捕されることはない。親類や知人宅を訪問せよ〟と戸別訪問を指示していた、といわれる。
 下部への指令は“座談会〟を中心に折伏闘争を展開して、文化闘争ももりあげていけ、などと戸別訪問の方法、警察に取調べられたときの応答や態度、幹部への報告事項など、といったように、いちいち指示していた。』
 そのうえで、悩みのある『有権者宅を戸別に訪問、』お礼をしめして、投票すれば功徳、こばめばバチ、という『なかば脅迫じみた勧誘をする。』また、市長とか区議とかの有力者には、次の選挙での支持を約束して協力、入会を求めた、という(五六・七・一一)」


 とある。
 最初の選挙から、内実には折伏と一体化した戸別訪問や法律違反を前提としており、政教分離原則もなかったのであり、これらが、そもそも、社会のあらゆる識者から批判を浴びることになる。



「五六年のときも、戸別訪問などの違反が多く。全体のなかで大きな率をしめ、それも全国にわたって摘発された(「朝日」五六・七・一一)
『みんな、くじけずにがんばり通すのだ。かならず功徳がある』『こういうことは魔なんだから、事実をハッキリ追求して、警察は負けだという形をハッキリ出してみればいいんだ、そうすれば一挙に全部ケリがついちゃう』――千葉県市川市署の『不法取調べ』のギセイ者たちを、本部の石田理事はこういって励ました(「聖教新聞」五六・七・一)
 このように、あくまで強気にでて、『選挙妨害対策本部』を設け、警察攻撃の新聞特集号を刷って交番に突きつけ、横須賀市では、警官がポスターをはがしたと告訴するなど、一歩もひかず闘争した。
 東京のある商店では、赤ん坊をおぶった婦人が二人はいってきて、投票をたのんだ(「朝日」五六・六・二一)。
川崎の中学校では、三年生が教師に候補者の名刺を渡して頼んだ(阿部進「子どもたちと新興宗教」ー『大世界』五六年一一月号)。
東京都新宿区でも、中学生が級友十数名の家に写真入りの推薦状を配った(「朝日」五六・七・三日武蔵野版)
 五六年の選挙では創価学会の『外米三〇俵』という合言葉が評判になった。一人が、会員外の票を三〇、という意味だそうだが、割当ては二〇票とも五票ともいわれた。『選挙にのぞんで』という座談会(『大白蓮華』五六年六月号)には『“三〇取ったから、私はノンキにしていていい〟という人もでてくる』と鈴木一弘文化部長が発言するなど、三〇俵説を裏書きするような記事がでている。指導は徹底しておこなわれ、選挙の裏表を十分に飲みこませ、『あとはこっちで責任をもつ』と力づけた。(同座談会)
 勧誘は折伏より容易で、功徳は折伏なみ、落選すれば『総罰』をうける、などといわれた。」



 当時の、創価学会の選挙闘争の一部をあらわに物語っている。
 それにしても
「勧誘は折伏より容易で、功徳は折伏なみ」
 とは、日蓮の教えのどこにもない。
「落選すれば『総罰』をうける」
 とは、日蓮の教えを語った詐欺的脅しであろう。


「しかし、人々は『功徳と罰』や巧みな指導だけでこれほど捨て身に動いたのだろうか。創価学会の候補者にはごく貧しい、今まで投票したことのないような人の票がよく集まる。
 東京のある選挙立会人は、創価学会の投票についておもしろい観察をした。そこの投票場では投票の文字がいちばんしっかりしているのが共産党で、いちばんひどいのが創価学会だった、というのである。カナさえ満足に書けないのがかなりあって、今まではいつも棄権していた老人たちまでが投票にきたようだ、という。たとえば、三条市に住む六〇いくつの貧しい老婦人は、ムスコに養われる身で折伏もできずにいたのが、選挙のことを説かれて『これはわたしの領分だ。腰弁で奉公させていただきたい』と勇みたった(『大白蓮華』六一号)。まったくの『無告の民』が。進んで創価学会の夢にすがって、意思表示をはじめた、とでもいうような姿ではないだろうか。
よいと信ずる人を推薦しまわってどこが悪い、警察は自分たち貧乏人ばかりねらう――こういう意識があったにちがいない。」



 国民であれば国法を遵守すべきなのは、性別・年齢のいかんを問わず、貧富の差、教育レベルの差も一切関係がないのは当然の事であろう。




■大阪事件


 そして、同書は、1957年4月、大阪の参議院補欠選挙のときの様子も以下のごとく述べられている。

「『選挙違反もなんのその』
『創価学会攻勢』という記事の中で、『毎日』は書いている。
『選挙違反もなんのその。信仰は法に先行するという論法の狂信的な信者の選挙運動はものすごく、……違反件数は……同学会関係は九割強というひどいものだった。……検挙されたものの中には、東京からかけつけたものも多く、候補者の名前を記した百円札やタバコを街頭でばらまくような、前例のない悪質な買収事件をひきおこした。……投票前日には……十数ヵ所の職安前にタクシーで乗りつけ、名前を記したタバコ数百ケをばらまいて逃走……』(五七・六・一五)
 悪質選挙違反は挑発だ、もし事実なら厳重処分する、と会では声明したが、小泉理事長、池田渉外部長は東京で相次いで検挙された(七月)」


 これは、創価学会史でいうところの、「大阪事件」である。
このとき東京の自宅で逮捕され大阪警察署へ移送された池田渉外部長(後の池田大作創価学会第3代会長)は、三週間の拘置期間を頑張らずに、罪をあっさり認めて二週間で拘置所を出て来たが、これを後に、自分が創価学会会長に就任した後、自著(篠原善太郎結構(代作)「人間革命」で、法難として美化している。



 ことの事実・真実については、「大阪事件 (創価学会)『ウィキペディア(Wikipedia)』」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A)
に詳しいので、ここでは割愛するが、このとき創価学会内部で池田大作と次期会長の座を争ったといわれている石田次男が、貴重な記述を自著にて残しているので、以下に資料としてあげておく。



 石田次男は自著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」P169ー172で、次のように述べている。
 「昭和三十二年七月に大阪で拘置所入りーーこれを大阪事件と称したーーして〈退転した〉(と石田は確信している)氏が何故・然も急いで・会長の座を狙ったか? 鍵はこの辺りに有りそうだ。
 池田氏は七月三日に府警へ出頭、その後・拘置所入りして・二十一日間の拘置満期迄頑張り通さず、全面自供をして十七日に出て来た。だからこの後漸くは会内でも極めて低姿勢を貫いて『『全面自供をしないと戸田先生を引っ張る』と言われ、そう成っては大変だから自分が敢えて泥を被る形を取る事で決りを付けて出て来ました。法廷闘争で正義を述べて頑張ります』と言訳していた。だが、正義の筈の法廷闘争から約二十人の有罪者が出た事は、ちっとも正義などなかったことを物語る。池田氏は自分の連帯の罪をこれら各個人の単発罪であるかの様に、偽証で形を整(ととの)えて、無罪判決を貰っただけだ。
 この事件で『戸田先生を引っ張る』と言った地検が戸田先生を引っ張らなかった何故か? 少く共、事情聴取位は有っても不思議は無さそうだが、それも無かったのは、決して池田が言う様に『自分(池田)が泥を被った』からではない。この事は今明らかにして置く必要が在る。戸田先生に迄地検の手が伸びなかったのは、事件を担当した清原次席検事(地検ナンバー2)が断念したからに過ぎない。昔の事で、もう迷惑が及ぶ事も無いであろうから真相をここに明らかにして置く。
 敗戦の昭和二十年夏、清原氏は満州(今の中国東北部)に居て、真正面からソ連軍に追い回された。文字通り命からがら逃げ回った。その時、椎名晴雄ーー今は故人ーーという人に命を助けられた。清原氏は椎名氏を〈生涯の命の恩人〉として重く買った。二人共何とか帰国丈は果し、それぞれの道を歩み、昭和三十二年当時、清原氏は大阪で検事を務め、電源開発社員である椎名氏ーー第四代小岩支部長ーーは東京で学会の小岩支部幹事をしていた。この時の小岩支部長は石田であった。

 椎名氏は大阪事件の時、清原氏とのこの関係を戸田先生に話し、清原氏へ〈石田紹介状〉という名目の親書を認(したた)め、石田がそれを持参して(十三日頃)地検へ清原氏を訪問した。『清原氏に弁護士を紹介して下さる様申し入れよ』と戸田先生に言われた通り、この事だけ三十分位粘って言い張った。この日から二日後、まず田代富士男(後の砂利戦汚辱事件の参議院議員)氏が釈放され、次いで池田氏も拘置所から出て来た。
 有体(ありてい)に言えば、清原氏は椎名氏の親書ーー内容は違法な懇願であるーーに依って、満州での命の恩に報いたのである。自分の職務の賭して報いたのである。大阪事件の捜査段階が、急にバタバタと締括られたのは此の所為(せい)であった。戸田先生に地検の手が伸びなかったのもこの為であった。清原検事が一切合財を瞑(つぶ)って幕を引いてくれたからであった。従って、断じて、池田氏が一切合財泥を被ったからではない。池田氏は、当時、誰からもこの事情が漏れる気遣いが無い事を良い事に、萬事、自分の功績にして、学会員を総騙しにした丈だ。
 この拘置所入りは有名な選挙違反事件に依るものであった。参院補選の選挙総司令(総指揮官)として大掛かりな違反を指示した責任を問われたものである。事件発覚の摘発端緒は(たばこの)〈ピース箱へ五百円札を入れてバラ撒いた〉という事だった。でも、これは蒲田支部の班長で東京在住者の土建屋が、大阪へ出向いて勝手にした事で・池田氏には関係が無い。だから池田氏が大阪府警へ出頭を命じられる前に、蒲田支部長だった小泉理事長の方が先に府警の事情聴取を受けている。池田氏の方はその後だった。五百円入りピースバラ撒きは池田命令でした事ではなかったが、その他は・買収指示を除いて・あらゆる悪質違反を・氏の指示で・大阪中で遣り捲った。個別には買収も供応も在ったそうだし、スケールの大きさでは恐らく前例が無かっただろう。有罪が当然だったが・偽証で固めて四年半裁判を粘って、強引に無罪を勝ち取った・という事件であった。」(P171-172)



 なお、集団で偽装で固めた証人で、以後引き起こしたまたは引き起こされた裁判において、次々と工作を行ったことは、丹念に調べれは判明するであろう。
 例えば、裁判で、従順な創価関係者を偽証で固めて山崎正友の恐喝を有罪にしたことは、山崎正友が当初から疑惑となったシーホースは元は学会関連の仕事として引き置けたことを自著「盗聴教団」等の中で明らかにし、その後学会関係者がすべて自身を陥れるために証言を覆して偽装・謀略したことを明らかにしている。創価学会の仕事として、部下達とともに自ら行った司直や警察・検察に対する謀略と同様の謀略を部下達をはじめとした創価学会関係者たちによって報復されたこと、服役中も一貫して無罪を訴え、服役中服役後も冤罪裁判をおこそうとしていたことからしても、同様の事がうかがわれる。


 創価学会員に対しては隠蔽されているが、月刊ペン事件の裁判、宮本氏の盗聴事件の裁判でも、さまざまな裁判工作、司直を愚弄した謀略が進められたことが、後日明らかにされている。
 これらの原点が、まさにここにあるとも考えられる。



 また、石田次男は、続いて次の事実を指摘している。
 「この事件の裁判費用は、本来、池田氏個人が負担すべきものでしかないが、最初から結審迄、学会が全額を負担した。昭和三十七年の判決後、池田氏は分割払いででも学会へ返済すべきものなのだが、返した話は聞いていない。それならば横領しっ放しに成る。この裁判の為に自民党元代議士である大瀧弁護士を核にした強力弁護団を結成して当てたが、池田氏が三代会長に成らないとこの弁護団が崩潰する。少くとも無実化する。〈総務〉就任(昭和三十三年六月)を急いだのも理由は同じだ。というのは、大瀧弁護士は戸田先生の旧友でしかなく、池田氏を厄介視していた人物だから……。又、学会側の各種証人も・違反は承知の上だし・池田氏の学会内での立場が弱まれば、親身で裁判に臨む気が薄れてしまうし、戸田先生亡き後は学会本部としても本腰を入れてバックアップはしなくなるだろう。これらは誰にも充分予測される所であって、有罪当然を承知の池田氏としては、まず会長に成らないと裁判で無罪を勝ち取る事も難しく成る。非に非が重なって“転落の詩集”に成ってしまう。
 これらに就いては、当事者池田氏は当然あれこれ考えただろうし・性情から推すと、氏はこの〈退転〉を埋合わせるべく〈横ざまに〉発憤したーー氏は図式弁証法思考の人であるーーのではあるまいか・と思う。事件は昭和三十七年一月二十五日に無罪判決が下りたのだが、この選挙違反が有罪であれば学会内の池田株は暴落する。無罪ならば〈法難だった〉という箔が着く。有罪無罪の落差は余りにも大きい……と見た池田氏は、事件から来る学会内での失脚を恐れて、拘置所入り以前から心に有った会長就任意志を、事件後に決定的に固めてしまった……と石田は観ている。」(同書、P172)





■日蓮の国家諫暁の、現代における意味


 鎌倉時代の日蓮は、正嘉の大地震を機に、実相寺で一切経を閲覧した後、「立正安国論」を著し、文応元年(1260年)7月16日、時の実質的な最高権力者であった北条時頼に提出した。これは日蓮の最初の国主諫暁である。

「立正安国論」では、民衆の不幸の根本原因や天変地異が続く原因が、庶民から権力者に至るまで、国中の人々が邪法を信じて謗法(正法を謗ること)を犯し、正法に背いていることにあり、その時代では最大の元凶が法然の念仏にあると指摘する。
そして、天下万民が謗法への帰依を止めて正法を信受するなら、平和な楽土が現出するが、悪法への帰依を続けるなら、経文に説かれている三災七難などの種々の災難のうち、まだ起こっていない自界叛逆難(権力者等による内乱)と他国侵逼難(他国から、とくに蒙古からの侵略)の二つの災難が起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諫めた。


 当然わかりきったことではあるが、これは、あくまで仏法者としての諫暁であって、自ら、鎌倉幕府の中に乗り込んだり取り入ったりして、政治を動かそうとしていたのではない。
 日蓮は生涯にわたって、真の仏法を流布する戦いをし、門下にも指導したが、その中には何ひとつとして、政治権力への介入に関する行いを、自らも行わず、弟子・檀那にも指示していないのである。
 自らの利益を実現するため権力を握ろうと徒党を組んだり門下に集団を結成して介入しようなんてことは一切行っていないのである。



 政治家や議員を折伏するのはよい。
 日蓮の教えを、遺文に基づいて正確に現代の政治への働き方に訳せば、折伏した議員に、政治への公平・平等である正義・真理に基づく要望を実現するように指示する・・・これが、現代における正式な国家諫暁にあたるであろう。


 日興門流や大石寺さえ、権力への自らの介入は行なわなかった。
 大石寺では、日有の時代に、大檀那の天英院との関係で、将軍家と良好な関係の 時もあったとはいえ、自ら計ったことではない。
 
 もちろんのことだが、権力へ介入せよとは、日蓮の遺文には、一言も、ない。
 日寬の教学にも、ない。

 政治進出を自らの組織で乗り出した点は、日蓮の教えから逸脱した、根本的な間違いであった。


 戸田城聖は、前ページで述べた、「仏法は勝負」と、三法律の国法と仏法の勝劣を現実の勝負と思い込んだためか、絶対に越えてはならない日蓮門下・仏法者としての境界を、越えてしまったのである。
 この、政界進出が、以降の様々な問題、政教分離や選挙違反などをはじめとする深刻な問題を引き起こす原点となっているのである。




 さらにもう一つ追加するならば、日蓮の立正安国論での主張は、科学や学問が未発達なレベルであった当時の鎌倉時代においては、十分に科学的な、最高の学問に基づいた主張である。
 日蓮の教えを、戦後から今の科学や学問レベルから、非科学的宗教として見おろしているような見方が、現在は大半を占めているが、このような見解をもって立正安国論をみることは正確ではない。

 日蓮が、立宗前に遊学した全国の寺々は、当時としては学問の府であったのであって、当時の最高学府であった比叡山も含まれていた。

 日蓮の教えは、一貫して依法不依人(法に依って人に依らざれ)という、科学的姿勢がみられ、自ら、以下のような、科学的論理に一貫して基づいているのである。

「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、 又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事、御書P1468)

「一切は現証には如かず」(教行証御書、御書P179)
「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(四条金吾殿御返事、御書P1165)
「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」(四条金吾殿御返事、御書P1169)


 当然ながら、非科学的な時代の学問を根拠にした「立正安国論」の具体的内容を、そのまま現在の科学の世界や政治の世界に持ち込んで実現しようとすることは、非科学的であって、バカげている。
 科学の進歩をふまえないで、過去の日蓮主義のように、「立正安国論」が利用された歴史も、史実としてきちんと総括しておかねばならない。

 しかし、この日蓮の国家諫暁の書とされている「立正安国論」から、政治に対する姿勢を正しく演繹するならば、それは、上記の遺文にもあるように、その主張は科学的根拠に基づくものであるのみならず、一部の組織や団体のための利益であってはならず、万人にとって幸福であることを求めるべきものであり、そこには利益相反性がないことをきちんと担保された論理であるべきである。

 この日蓮に直結したの万人の幸福を求める教えを流布するという創価学会、これを支持母体とする公明党の議員たちは、日蓮の国家諫暁の科学的姿勢を、現在における国家の最高機関の一つである議会において実現することを真にめざすならば、その姿勢は支持母体である創価学会との「利益相反性がないこと」を担保しなければならないのである。


 P25へ、続きます。



☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢