●25 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流 | ラケットちゃんのつぶやき

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●25 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


■エレベーター相承

 戸田城聖が昭和33年4月2日に死去するおよそ一カ月前の昭和33年3月1日、急拡大を成し遂げつつある創価学会が日本中から注目される中で、戸田の最後の偉業と言われた大石寺大講堂の寄進が行なわれ、その落慶法要が、日本の政界などの要人を来賓に向かえて盛大にに行なわれた。

 池田大作は、このとき、第二代会長戸田城聖から池田ひとりに創価学会の後継を託されたことを、創価学会会長就任2年後の7月、巻頭言にて次のように発表している。
 池田大作著「巻頭言・講義集」1962/7/3、創価学会、P28には、
「『恩師の四回忌を終えて』
 …中略…戸田先生なきあとは、いずれにせよ、私が全学会の要となり、指揮をとらねばならぬ宿命を、百も承知であったからである。
 昭和三十三年三月一日、大講堂落成式の日、五階から一階に降りるエレベーターの中で、恩師は申された。
『わしの、いっさいの仕事は、これで終わったよ。あとは、おれと、おまえだ。おまえが、あとはしっかりするんだぞ』と。」


 また、その22年後に発刊された池田大作著「池田大作選集」1984/1/26、聖教新聞社、P17にも、同様の題で、以下の記述があり、明確に戸田が池田を創価学会の後継にしたことを述べている。


「『恩師の四回忌を終えて』
…中略…戸田先生なきあとは、いずれにせよ、私が全学会のかなめとなり、指揮をとらねばならぬ宿命を、百も承知であったからである。
 昭和三十三年三月一日、大講堂落成式の日、五階から一階に降りるエレベーターの中で、恩師はいわれた。
『わしの、いっさいの仕事は、これで終わったよ。あとは、おまえだ。おまえが、あとはしっかりするんだぞ』と。

(※ちなみにこの二回目の部分は「おれと、」が、抜けている。
また「恩師は申された」→「恩師はいわれた」と訂正されている。)



 また、創価学会が正史とする実質ノンフィクション(建前は小説)である池田大作著「人間革命」第十二巻 1993/4/2 聖教新聞社 P258-267にかけては、そのもようや、戸田が池田ひとりに後継を託した様子が、劇的なシーンとして感動的に描かれている。


(※この連載は、時代背景が、創価学会が破門される前後であることに注目すべきである。
池田大作の片腕であった原島崇や山崎正友達も、造反し、さまざまな暴露がなされていた後に作られた、しかも、一時「人間革命」の連載が、代作していた篠原善太郎の死去にて止まっていた後、別の代作グループでの再開であるといわれている。)


 「三月一日、総本山大石寺の三門前には、未明から続々とバスが到着した。登山者は『祝落慶大講堂』と書かれた杉のアーチをくぐり、三門を抜けて、喜々として塔中を進んでいった。…中略…
 白雪に輝く富士を彼方に、晴れわたる空にそびえ立つ大講堂を目の当たりにした登山者は、その荘厳なたたずまいに息をのんだ。
 会員たちは貧しい暮らしのなかで、生活費を切りつめ供養金を捻出してきた。権力の庇護によるのではなく、民衆の真心の浄財によって、広宣流布の逸材を育成する大講堂を建立することは会員の夢であり、誇りであった。それはまさに法華本門大講堂と呼ぶにふさわしい、民衆の手による、民衆のための仏法の殿堂であった。」(同P258)

 「大講堂前に待機していた登山者は、弾む喜びのなか、午前九時から、講堂内に入場を開始した。午前十一時、戸田の最後の願業である本門大講堂の落慶法要が開始された。
 日淳上人の大導師で読経が進められ…中略…」(同P259)

 「慶讃文奉読につづいてふたたび読経に移り、唱題をもって法要の第一部は終了となった。
 第二部に入り、理事長の小西武雄が、この晴れの日にいたる経過を報告した。
 そのあと、大きな拍手に迎えられて、戸田城聖が挨拶に立った。彼は満面に笑みをたたえながら、細くやせた体には不似合いな、気迫に満ちた声で語りはじめた。
『今日は、私とともに喜んでいただきたいのであります。日蓮といえば、いままで身延と日本中が思いこんできた。いまでもそう思っている人もいる。しかし、いうまでもなく美延は謗法であります。…中略…」(同P261)

 「戸田城聖は、それから力をこめて言った。
『ところで、この大講堂の完成は、ことごとく皆さんのおかげです。地方へお帰りに成ったら、戸田が心から感謝しておったと、皆さんにお伝えください。そして、丁重にお礼をいってください。お願いします。創価学会はたった百円の金も、一千万円の金も、心をもってはかるものであります。乏しい生活費を切り詰めて御供養してくださった方に、『俺は百円ほどしか供養していないのに、戸田がそんなに喜んでくれたか、すまん』なんて、肩身の狭い思いをさせないでください。その百円札一枚が、十円玉ひとつがありがたいのです。その真心が嬉しいし、また、それが偉大な福運を積んでいくことになるのです。…中略…私から、皆さんに心からお礼を申し上げます。本当にありがとう』
 戸田は同志の真心の供養に、深く謝意を表した。
『いま、日本の国は、自界叛逆の難に陥っている。その典型的な姿が政界です。政党をごらんなさい。もし、このなかに、政党のご関係の方がおりましたならば、あの野郎は口から先に生まれてきたのだとおぼしめしていただきたい』
 どっと笑い声があがった。この式典には、首相の峰直介の代理としてやってきた前建設大臣の西条敏夫をはじめ、東京都知事の高井真一郎らの政界人も、来賓として参列していた。
『共産党にせよ、社会党にせよ、自民党にせよ、仲間割ればかりしている。これは自界叛逆の姿です…中略…(同P262)

 「つづいて細井総監の挨拶があり、感謝状の授与に移った。…中略…(同P264)


 「それから、来賓の祝辞に移り、峰総理大臣、松井文部大臣の代理が、それぞれ祝辞を朗読したあと、都知事、静岡県議会議長の挨拶があった。
 そのあと、午後一時から祝宴となった。戸田城聖は、日淳上人とともに、来賓を招いて行なわれる六階の貴賓室での祝宴に、出席することになっていた。また、五階の大会議室では寺族の祝宴が、講堂の大広間では学会員の祝宴が、それぞれ行われた。
 山本伸一は、戸田の腕をとって言った。
『先生、まいりましょう』
 戸田の腕は温かかった。体内に脈打つ師の鼓動を感じた。しかし、その腕は元気だったころと比べ、一回りほど細くなっていることに気づいた。
 清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった。
 エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。そして、静かだが、力をこめて言った。
『さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ!」
 伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。二人の眼と眼が光った。
『はい!』
 自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。静寂の中に、戸田のやや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交わすかのように、沈黙のまま互いの顔を見つめ合った。それは厳粛な瞬間であった。
 清原と森川も、緊張した表情でこのやりとりを見ていた。二人は、戸田と伸一の厳粛な瞬間の姿のなかに、師から弟子への広布の継承を鋭く感じ取ったにちがいない。
 それから戸田は、大きく頷くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレベーターは六階に着いた。
 祝宴は午後二時ごろには終わった。
 戸田城聖は、日淳上人、来賓が退出するのを、六階の貴賓室で端座して送った。
 そして立ち上がろうとした途端、彼の体がよろけた。それは、体の衰弱のためか、久し振りに飲んだ酒のせいかはわからなかった。とっさに、山本伸一が、戸田の右腕を支えた。
『いや、大丈夫だ』
 戸田は、伸一に体をあずけながら屈託なく笑った。彼の機嫌はすこぶるよかった。伸一に支えられて、エレベーターに乗った。
 一階に着くと、男子部長の秋月英介をはじめ、青年部の幹部が待機していた。秋月は戸田の片方の腕をとった。戸田は嬉しそうに、誰かれとなく声をかけながら足を運んだ。
『ご苦労。みんな、よくやってくれたな。お陰で無事に終わったよ』」(同P265-267)




 以上が、真実の創価学会史、そして、戸田城聖から池田大作への師弟の絆、師弟不二をあらわしているものとすれば、こんな素晴らしい絆、組織は他に類を見ない、理想的な関係ではないか。
 自分の一生も、この宗教に身を捧げてもかまわない、つまり「不惜身命」という信念を抱かせるには十分であると思われる。

 そして、日本でも公称827万世帯といわれる多くの創価学会員は、このように思っているであろうし、少なくとも史実としては、そう思っているに違いない。

 しかし、真実は、こうではなかった。



■遺言捏造(1) 池田大作ウソ偽りズムの源流


 これに対し、龍年光は、自著「池田創価学会を解散させよ」1991/8/1、日新報道、P51-にて、これがすべてウソ・捏造であることを指摘している。
 龍年光は、戸田城聖の弟子であり、この時代から池田大作の創価学会を支えてきた人物の一人であり、このときやその前後の様子を直に経験してきた生き証人ともいえる人物である。
 公明党の都議にもなり、創価学会紳士録にも掲載されている彼は、昭和33年3月での、戸田城聖の晩年一か月、創価学会にとって最も大切な時期に、池田大作と戸田城聖の間にはすきま風が吹いていたことを幹部がみな目撃しているとして、以下の事実を指摘している。

 「手紙で触れた三月一日の『大講堂落慶大法要』――静岡県知事を始め多くの来賓を招いての大事なセレモニーの場面でも、池田はどこかにいなくなっていた。戸田先生が『池田を探して来い!』と命ぜられ、ジリジリしながら待っていると、池田はエレベータの所に現われた。それを見つけた戸田先生が、大声を張り上げ、『何故、大事な時に俺の側にいない! 俺とお前しかいないんだぞ。それなのに、お前はどうしていないんだっ!』と、池田を怒鳴りつけた。 池田は、恐縮するでもなく、『いえ、私のような者はこんな晴れがましい場に出るより、外で案内係をしているほうが相応しいので…… 』と謙遜ぶった言い訳をしていたが、その表情は、叱り飛ばされた屈辱で見るからにムッとしていた。戸田先生は、池田をそのまま置いて、一人でエレベータに乗って祝賀会に出席された。
 戸田先生はそれまで、池田を公衆の面前で叱りっけることなどなかった。池田の態度がよほど腹に据え兼ねたのだろうと、我々はみな驚いたものだ。  
 のちに池田は、『このエレベータの前で、次の会長はお前だ、という相承を受けた』とある人に語っている。これは、とんでもない大ウソである。
 今から思い返せば、池田はこの頃から、次第に戸田先生と距離をおくようになっていたようだ。
 戸田先生が『敵は内部だ』と私にいわれたのは、まさにこの事件の後だ。 先生はこの日の式典でスピーチされ、『日蓮正宗の敵はすべて倒した。身延にもペンペン草を生やした。御書全集も編纂した。自分にはもう思い残すことは何もない…… 仏法でいう『諸願満足』である』と、あたかも自分の死期を悟られたかのような趣旨の話をされた。
 私はそれを聞いて、別の意味で驚いた。というのも、私は常に先頭に立って学会の敵と戦うことが自分の存在意義だと思ってきた男である。それなのに、学会の敵がなくなってしまっては、生きがいがなくなってしまうではないか。
 そこで、宿坊に引き揚げ、横になっておられる先生の枕元に行き、『先生、これから先は、学会は何を敵として戦えばいいんですか』と問うた。すると先生は、すっくと体を起こして、『いいことを聞いてくれた。敵は内部だ。敵は内部だ』と繰り返しいわれた。
 その時、私はこの言葉を漠然と、『より団結を固めよ』という意味に理解した。しかし、今にして思えば、昼間の会場での叱責と合わせ考えれば、『内部』の指す意味はより具体的だったことがわかる。
 池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めてきた、学会にとって最も害のある行動である。
 実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー(北条浩、森田一哉、中西治雄、星野義男等)に自分を『先生』と呼ばせていたことを、私は後で知って愕然とした。
 あの時、戸田先生は内心『学会の敵は、池田のような男だ』といいたかったのではないか。
 続く三月十六日、広宣流布の儀式を伝授する式典の際にも、事件があった。」(龍年光著『池田創価学会を解散させよ』 P51-54)





 この指摘が事実なら、池田大作は、遺言の捏造を故意に行なったことになる。
 さらに、「敵は、敵は内部だ」という戸田の指摘は、意味深である。

 池田大作が、「派閥作り」という、戸田が常に戒めてきた「学会にとって最も害のある行動」をしていたとすれば、これは師弟不二どころか、真逆の「師敵対」ではないか。
 池田は、後述するが、この敵を、日蓮正宗の僧侶へすり替えた。

 池田は、戸田の言う内部の敵は日蓮正宗の僧侶であるというのである。
 これに関する同様の言動や論述は、彼や他の信者や創価学会の著作にも様々に見ることができる。
 その結果が、第一次・第二次教学問題を経て、最終的に日蓮正宗から破門されて、現在の創価学会となっている。

 この小説人間革命第十二巻の連載時期は、創価学会と日蓮正宗・大石寺との争いが頂点に達し、ついに破門される年が1992年である。
 創価学会が信者・会員をつなぎとめるため懸命となって日蓮仏法の正当性を主張し、池田と戸田の師弟不二として宣揚していた時期である。

 しかし、本当の敵は、龍年光が指摘する『学会の敵は、池田のような男だ』ではなかったか。
 つまり、真の仏法に立てば、遺言を捏造してまでも、自分が天下を取ろうという、修羅の生命であろう。



 また、この時にも池田大作と同様、戸田城聖の側近であった石田次男は、自著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」P164-165において、池田大作の、相承・相伝等を我が身に当てて使う神経は、異様であると指摘して、以下の如く、この時の真実を述べている。
「心理の一番奥底で我侭で然も虫が良過ぎる弁証法人間池田氏の、異様な精神状態が浮かび出て来る。相承・相伝・などという大事を平気で我が身に当てて使う神経は、迚も信徒としては考えられない事だが、それ丈に〈何を始めるか判らない〉という面が在る。イコール化・転用・摩替え・拡大解釈・どれもお手のものだ。
 『戸田先生からは、広宣流布の模擬試験ーーこの語は氏が勝手に作った熟語だーーの儀式の日(昭和三十三年三月十六日)、儀式が終って五階畳広間の祝宴へ向かわれるエレベーターの中で『あとの事はお前に任せる』と言われた。学会を譲る・という御意志だ』などと言っている。
 その戸田先生は、この儀式の祝宴散会後の午後四時頃、その場・その席で、理事長以下祝宴に参加した全員に対して『次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ』と仰しゃったではないか。そしてその席に池田氏は参加して居なかったし、それでも当日の内には耳にした筈ではないか。
 池田氏の言い振りでは戸田先生は理事長以下、理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長・の全員を騙したことになる。考えても見るべきだ、学会に取っての大事が・エレベーターの中などと・こんな中で行われるものか。
 万人仰天の巻ではないか。〈来客送り出し〉という儀式の後始末を言ったのを摩替えて用いたのなら、如何にも池田氏の遣りそうな事である。
 この日の戸田先生の御遺言は『皆で仲良くやっていけ』であった。所が池田氏に依ると御遺言は『追撃の手を緩めるな』になっている。果して先生はこういう〈修羅界的遺言〉をしたのだろうか? これも摩替えと拡大解釈から更に歩を進めたものであって、真相は池田氏の〈創作〉であるらしい。後年、氏は側近へ『あれは俺が作った』と言ったそうだ。だがこれも嘘で・竜年光氏への指示を横盗りしたのが真相らしい。慶祝登山も終りに近づいた三月二十九日、先生が、学会の青年部員をいじめた某若手僧侶への対策として・或ることを池田氏に命じたーー命じたと言う事に成っているが、これからして池田氏の創作臭い。行動の全体は先生に関係なく、池田氏が勝手にハネ上ったのではないか・と石田は思っている。若手御僧侶云云の報告を受けたのは小泉理事長であって、理事長は重態の先生へは伝え様が無くて伝えていない筈である。同様に、青年部行動後の報告も、池田氏は『直接した』と言うが、これも不可能だった筈である。ーー事に便乗して・無制限に勝手な池田世界を拡大し遺言化したものであった。」(適宜改行したが、全文はそのママ、石田次男著「内外一致の妙法 この在るべからざるもの」1995/5/3、緑友会、P164-165)


 3月1日と16日とで、日付が紛らわしいが、少なくとも3月16日での戸田の最後に語った遺言は「次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ」であり、これは多くの人が耳にして、しかも池田一人がその場にいなかったことになる。
 もし池田が、3月1日か16日のいずれかでエレベーターの中で聞いたことが真実なら、最後に戸田が言ったことは、石田の主張通り、理事長以下、理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長の全員を騙したことになる。
 なお、『追撃の手を緩めるな』については、次のページで詳細を述べる。


 さらに、石田次男は、これに続いて、池田の転用の酷い例として、以下の指導をあげている。
「〈転用〉ではもっと酷いのもあった。『戸田先生が次の会長に池田を当てる積りで氏へこう言った』というシロモノである。それは、戸田先生が『学会はもう二(ふた)皮剥いでも良い』と池田氏へ許可を与えた・という〈池田氏の話〉である。詰り『学会をもう二皮剥いても良い』と許可した事は氏を三代会長に認めたからだ・という所がミソに成っている。
 池田氏は〈牧口門下を一皮〉〈戸田門下を一皮〉、計二皮剥いて中から〈池田門下という新皮〉を取り出しても良いーーこうならば・人間使い捨てのすすめ・でしかないーーと勝手解釈した訳である。自分の都合に合わせて転用したわけだ。
 戸田先生没後にその通りに実行しているが、これだと戸田先生はとんでもない〈残酷人間〉という事に成る。果してそうか? 将来の学会人事への指針だったのか? 
 皆は池田に騙されたが、これ、戸田先生のは『一人一人の信心の皮をもう二皮剥げ』という指導なのであった。人そのものを剥ぐ事ではなかった。」(石田、前掲書、P165-166)

 さらに、
 「こうして、三代会長に就いては昭和三十三年三月十六日に正式に石田指名を訂正され、
『(中枢幹部が)皆で相談して決めよ』『(戸田の後は)皆で仲良くやって行け』と御遺言された」(石田、前掲書、P167)
 と、明かしている。


 そして、池田大作の一番弟子だった原島崇は、自著「誰も書かなかった池田大作創価学会の真実(2002/7/25,日新報道、P79-80)において、上記の石田次男の論述を一部引用して、
「まさに池田の言う『エレベーター相承』なるものは、まったくのウソなのです。戸田会長がしばしば語ったという『七つの鐘』という天下盗りの構想のスケジュールにしても、根拠のない池田によるデッチ上げなのです。…中略…
 戸田会長の『巻頭言集』、『講演集』、その他どんな著作をみても、七つの鐘という言葉は発見できません。
 このように、池田によって、次々と『戸田会長の遺言』が作られていったのです。
 およそ独裁者は、必ず歴史を改変します。池田も、自分にとって都合よく歴史を改変する独裁者であることに変わりがありません。」
 と、指摘しているのである。


 日蓮が、現在に生きていれば、これをどう評価するであろうか。
 少なくとも、日蓮の生涯においては、自分自身で史実を捏造することはありえなかった。


 前述したが、寛政の法難において見せた、大石寺の偽りズム・切り捨てズムが、早くも創価の歴史においてここに見いだせる。
 これもやはり、まぎれもなく依人不依法の日寬アニミズムが根底となっている修羅道であることは、紛れもない事実であろう。





 池田は、このあと3月29日、『追撃の手を緩めるな』という戸田の最後の遺言を聞いたと主張する。
 これは、彼自身が引き起こした「御塔川での僧侶リンチ事件」の報告を戸田にしたときに、戸田から直接聞いたという。
 この事件の詳細は、次のページで述べることにする。



 P26へ、続きます。



☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流