●23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析 | ラケットちゃんのつぶやき

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●23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
 です。

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 小口偉一編「宗教と信仰の心理学」(1956/7/15,河出書房)では、現在の創価学会での、組織や会員の間ででの共通認識とは、ずいぶんと異なった指摘が展開されている。
小口偉一氏といえば、当時は東京大学の宗教学の助教授であり、「日本宗教の社会的性格」(1953年、東大出版会)、「宗教社会学」(1955年、東大出版会)また「教祖」(1956年、青木書店)の共著がある、当時の宗教学の権威である。
 また、東大法華経研究会編「日蓮正宗創価学会」(1962/5/3、山喜房仏書林)では、巻末に「『日蓮正宗創価学会』について」と題して、氏が要請された寄稿が載っている。
 おそらく、小口偉一氏の著作を読んだ東大生の創価学会員たちが、折伏のつもりで氏に発刊前の原稿を見せ、要請したのであろう。
その当時は、彼らが師と仰ぐ池田大作が創価学会会長になって2年が経ち、その後、創価学会の幹部になった卒業生、即ち池田大作の弟子達も少なからずいる。
 氏は、要請があるまで、東大法華経研究会が、東京大学に在学する創価学会の学生で構成されていることを知らなかったとし、同じ大学に勤務しているということを機縁に、創価学会の若い人々への注文したい点もあげておくのも良いとして、感想を述べている。
 そこには、宗教学は、第一に「宗教現象を客観的に観察することから出発する」「宗教の正邪・善悪あるいは優劣というようなことには触れない」「あらゆる宗教を没価値的(価値判断を加えないという意味)に取り扱う」ことをあげて、自身の立場を学問的に明確にし、第二に「宗教の本質を説く学問ではなく、宗教の現象を究明する学問」、第三に「特定の宗教のための学問ではない」「宗教学は神学的・護教的なものをも研究の資料として尊重している」「宗教のための学問ではない」として、宗教学とは、そして宗教学の立場を明確にしたうえで、東大法華経研究会編「日蓮正宗創価学会」を、「資料としての価値を持つ」「とくに現会長(筆者注、池田大作)時代になってからの刮目すべき発展を知るためには、この書物は重要な役割を果すであろう」、「どこにでも進出する創価学会員の熱意とエネルギーをあらためて検討しなければならない…中略…また教義的に一種の一神教的性格をもつこと…中略…宗教的義務とともに社会性の強調されていることも、この学会の発展過程を見る上には重要である。読者は、この書物を通して、これらの問題を理解しうるにちがいない」と明言している。

 日本の最高学府である東大の宗教学の権威である小口偉一氏は、当時の戸田城聖を、一体どのように見ていたのであろうか。

「宗教と信仰の心理学」には、創価学会本部を訪問してインタビューして、テープに収録された生発言の体験談と、その解説が見られる。
 教祖として戸田城聖が取り上げられている。

最初に、創価学会の紹介と、創価学会本部の訪問時の印象が、以下のように述べられている。

 「昭和六年に牧口氏が『価値論』を記述して第一回の創価教育学会がひらかれた。
小学校員を中心とした約六〇人の集りであった。昭和十八年には約三、〇〇〇人の総会まで発展したが、この年の冬、神棚をはずさせた不敬罪により幹部が検挙され、事実上学会は解散した。初代会長は獄中で亡くなったが、敗戦後は会長がなく、二六年に現会長戸田城聖が二代目をついだ。当時は会員三、〇〇〇名になっていたが、敗戦前教員を中心としたものが、教員はほとんどなくなり、病気や経済的な行きづまりから入信する中流以下の人々が大部分を占めるようになっている。現在の信者は約三〇万世帯といわれており、今なお増加を続けている。
 創価学会の本部をおとずれるのに、何か宗教的な殿堂を予想してゆくならば、恐らく見つけ出せないで帰らねばならないだろう。それほどに看板も小さいし、建物自体が非宗教的外観を備えている。東京都新宿区信濃町三二番地の高級住宅街にある外国会館であったという本部の建物は、入ってみても医院の受付のような感じしかない。そこへ通されて教団幹部の人々や現会長戸田城聖に会っても、別に宗教的な感じはしない。戸田氏は小学校の教頭という感じと中小企業の精力的な幹部社員という感じの両面が感じられるし、他の幹部連も年齢が若いせいもあってサラリーマンという感じ。ただ目つきが異状に鋭く、身体から戦闘的な空気をふき出しているような人がこの中に混っている。
 こんな雰囲気の中に、やはり中心的になっているのは戸田会長であって、畏れ多い教祖様とお弟子たちというよりは、親分子分で固った会社の社長と社員という感じがする。だから落ついてゆっくり納得のゆくような話し合いをするというよりは、誰もが、つぎつぎに仕事を山ほど持っていて、これから社用ですぐとびださねばならない、ちょっと時間を都合してその間だけ話すという空気が全体を支配している。われわれとの対談は四、五時間におよんだのであるがおしまいまでそうである。話の間に何度も人が出入りするということも別になかったのだが、他の経団の場合と全然異ったこんな感じがする。
 二階の狭い約三〇畳敷くらいの部屋の正面には祭壇があって、前の方に固って二〇人ほどの信者がすべてを忘れたように、神がかりした様子でお題目を唱えている。この風景は何とも建物とちぐはぐな感じがする。」


 「教員はほとんどなくなり、病気や経済的な行きづまりから入信する中流以下の人々が大部分を占めるようになっている。現在の信者は約三〇万世帯といわれており、今なお増加を続けている。
 これは、創価学会の生の状況を表現しているのであろう。

 ここで、「東京都新宿区信濃町三二番地」は、ながく創価学会の本部である。

 「そこへ通されて教団幹部の人々や現会長戸田城聖に会っても、別に宗教的な感じはしない。戸田氏は小学校の教頭という感じと中小企業の精力的な幹部社員という感じの両面が感じられるし、他の幹部連も年齢が若いせいもあってサラリーマンという感じ。」
「ただ目つきが異状に鋭く、身体から戦闘的な空気をふき出しているような人がこの中に混っている。」
 これは、当時の学会幹部たちの戦闘的な状況をあらわしているといえる。

 「やはり中心的になっているのは戸田会長であって、畏れ多い教祖様とお弟子たちというよりは、親分子分で固った会社の社長と社員という感じがする。」

 このことから、現在の創価学会の(中には面従腹背の輩がいる)組織とは違って、実際のところは、心から一致団結した人間味のある組織だったのであろう。

 「ちょっと時間を都合してその間だけ話すという空気が全体を支配している。われわれとの対談は四、五時間におよんだのであるがおしまいまでそうである。」

 日本の最高学府の調査団に対して、入れ替わり立ち代わり、調査に応じていたのであろう。ずいぶんとぶっきらぼうな対応であったようにみえるが、当時は彼らにとって、それどころではなかったことが想像できる。


 続いて、戸田城聖の経歴についてのインタビューがある。
 「 『自分の生れは石川県だかどこだかよくわからない。北海道の石刈川から五里ほどの漁村で育ち、高等小学二年を出てから、札幌の〝マルコ〟という小物屋へ小僧に入ったんです。一八歳の時準教員の試験を受けて、一九で夕張の準訓導になった。二〇歳で正教員の資格を得たので、二一の時に東京へ出たのだが、東京では食えなかったですよ。それで初代会長の牧口さんのところへ行って、下早小学校の代用教員にしてもらったんだが、会長が貧乏人ばかりの小学校へ左遷され、その時私もクビになりかけた。私も負けん気で教頭をおどかして、ともかく二三までは、教師をやって、また、クビを切られかけた。それで牧口先生は芝の小学校にうつったが、私はクビを切られて食えなくなった。
 私は最初教育法を北海道で研究していたが、東京ではこれをしていなかった。私は〝綴り方教育法〟というのだが、今のようなありのまま書くのとは反対で、一つの形式を作り文章を自由にこなさせた上で、形式から創造するという方法だったんだな。今は誰もやりませんよ。牧口さんは綴り方と書き方をやっていたので、二人で論争をしたんだが、その中だんだん先生にかぶとをぬいで私が教わるようになったんだ。郷土研究は牧口さんが得意で私は教育哲学が中心だった。
私は東京へ来てすぐ力行会へ入った。力行会は外国へ行く人のためにキリスト教中心の教育をしていた。私はなんとなく米国かブラジルへ行きたくてこれに入ったんだが、キリスト教は最初は嫌いだったねえ。死んでからの復活が馬鹿馬鹿しかったんだなあ。しかしやがて信仰に入っていった。それは工学博士の田中さんという人が、キリスト教の伝導をして、それで入ったわけだ。二四歳の時に私は東京で恋愛結婚をしたんだ。子どもが大正一二年に生れて、その翌年に死に、家内がそれから二年ほどして肺病でしにましたがなあ。それから独身で一〇年いましたよ。この時は面白かったですなあ。私は大正一二年ごろ、教師をやめ経済の方へ入ろうとして、自生学館というのを開いて、牧口先生の考えを中心に熟を開いていたんだ。牧口先生は日蓮正宗だし、家内や子どもがなくなったんで私の家ではナムマンダーで拝んでいるし、私自身はキリスト教を三年やりながら、たえずなんとなく安定感がなく、おっかけられているようで事業が安定しない。そこへ三角関係もあって楽しくなかったので、『キリスト教の神のあることはオボロにわかるが障子に映るちょうちんのようなものだ。懐しく尊いものとは思えない。知識としては、私はわかっているつもりだ』といったんだが、一時間以上も田中さんはだまっていただけだったんだなあ。それで私はキリスト教をやめた。私が日蓮正宗に入ったのがその年の秋で、目白小学校の校長さんの三谷さんから折伏されてねえ。正宗は、折伏されても、小さいのでやる気はなかったんだ。そうしたら、『こういう信仰心のない悪いやつは、御本山へ連れて行かねばならぬ。』といって本山へ連れていかれた。当時私には三つの大きい悩みがあった。汽車の中で願を数えてみるといやという程あったはずだが、御本尊を拝むとぼおっとしてしまって、願は一つも出なかった。汽車にもどってはじめて何かほっとした気持ちがしたんだなあ。三年キリスト教をやってもダメ。正宗は何も知らないのに霊感があったんだ。それから帰ってまもなく三つの悩みも解決したしまった。それで私はおやじが兄貴に置いていった軸物のアミダさんを、誰からも教わらないで、自分で焼いてしまったですがなあ。苦しかったから日蓮正宗に入らねばならないというのではなく、本山へ行って、なにか変った今までにない体験を得て、エライもんだなあと思って、理屈なしで正宗へ入ったわけです。しかし、その頃の信仰は拝まないとバチが当ると困ると思って拝んだ程度で、研究なんかしたことはなかった。昭和一八年警察に引張られて、未決でぶち込れていた頃、はじめて『五書』を読んだんです。初代会長は良く経典を読んでいましたなあ。私はそれを聞くのが嫌で良く逃げ出したもんだ。』」


 このインタビューをみて、その後、戸田城聖についての脚色された著書をいくつが思い浮かべながら較べてみて、唖然とした。
 ちなみに『五書』は御書のことであろう。独房ではじめて読んだと言っている。
 それにもまして、研究なんかしたことはなかったとか、牧口会長の経典を聞くのが嫌で良く逃げ出したというのには、今、創価学会の宣揚する信仰上の「師弟不二」の雰囲気すら感じられないことに、私は正直なところ驚いた。



 そして、解説が次のように続く
 「戸田氏は生い立ちと、信仰生活をこのように語っているが、教師をやめてからの生活はとんとん拍子の生活であった。大正一二年には八千代生命の外交をやり、やがてこれをやめて日本小学館という出版社を経営した。ここで中学校受験の添削指導および参考書の出版をやり、当時一〇〇万部以上売った『指導算術』を出している。これを基盤としてのちには戦争と共に娯楽小説の出版をし、また株屋の平野商店を買取り、製本・印刷工場を経営し、本屋を二軒持ち、アミノ酸醤油会社、金融会社の社長をし、日収一万円、財産六〇〇万円を持っていたという。この出版会社は牧口氏と二人でやりはじめたものである。」

 そして、
 「こう見てくるならば、戸田会長の敗戦までの生活には、宗教的な色彩はむしろ稀薄といわねばならず、また特殊の宗教的体験も見ることはできない。つまり、日常の市井の人の宗教生活と異る点を見出すことはできない。昭和六年にはじめられた創価教育学会総会は、昭和一二年六十名、昭和一八年三、〇〇〇人と教育を中心とする会員は増えている。この会では、戸田会長のいう、『教育が主で、宗教は従であった』状態が物語るように、牧口氏の宗教もどちらかといえば影をひそめている。」
 と分析している。


 そして、戦争中に弾圧を受ける前後に就いての史実を紹介し、
 「昭和一六年七月、昭和一七年五月に『創価教育学』が出され、ただちに廃刊を命ぜられている。このような伏線があって、一斉検挙にあったのは、昭和一八年冬であった。
一人の信者が子どもを亡くしたのに対して、他の布教師的立場の信者が、それは信仰をしないのでバチがあたったのだといったので、その信者にうったえられた。それをきっかけとして幹部が一斉に検挙され、名目は神棚をはずさせた不敬罪となっている。当時戦争は敗戦への一路をたどっており、公判はなかなか開かれず、未決のまま止め置かれていた。この間に戸田氏は教学をはじめて少し身につけたといっている。一般信者ともいうべき学会会員の教員たちは、一七年の発禁以来やめる者が出はじめ、敗戦への傾斜と共に、事実上この学会は解散に近い状態に置かれていた。」
 と続く。

 そして、戸田城聖の獄中での真実から会長就任までの声を、以下のように紹介している。

 「戸田氏は獄中にあって感じたことを次のようにいっている。
『戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた。』
 戸田氏の宗教観はこの結びつきから発展したものか、あるいは後から考えてこう話しているのかはわからない。というのは二代会長への就任のいきさつをつぎのように語っているからである。
『私は治安維持法の廃止によって釈放されたが、出てきてまず初代のあとを継ぐのが当然であったであろうが、私は会長になるのがいやだった。昭和一六・七年頃のことだが、会長になれといわれ、それがいやで二人の支部長を会長むけに仕込んだが、牧口さんの気に入らなくて失敗をした。
秋の総会で、私が当時やっていた理事長をやめようとしたが、これも失敗してやめられなかった。二一年に法華経の講義をしたんだが会長だけはいやだった。だから二六年までの七年間、会長はなかったんだ。私がなったのはその時えらいバチを受けたからだ。そのバチというのは、その頃、ぼくは東京建設の専務理事をやっており、また『少年日本』『ルビー』『冒険少年』という雑誌を出しておったが、しこたま損をしてこれをぶっつぶしてしまった。雑誌の方は七、〇〇〇万円程の借金ですんだが、東京建設の方は刑法上の問題となったんだ。それで会長になる前に死にぶつかったわけだ。仏法の力と国法の力とどっちが勝つか? 仏法が勝てばきりぬけられる。この境涯が正しいと証明されれば会長になる。そのどちらかをためされたわけだが、うまくきりぬけられた。東京建設の方は三〇年五月まで整理はかかったが、その時解散をしてきりぬけられたのだ』
 会長の信仰は現世における利益と密接に結びついており、『信仰が現在の生活と無関係ならそんなものはやることない。トクであるから信仰するので、トクがないならそんなものはやめたらよい。』と自分でもいっている。また過去の経験を『二四の時肺病になり、三四で治った。この間喀血しどうしだったが、信仰に入って治った』ともいっており、この信仰というのは前に記したように拝まないとバチが当るから、毎日ただ拝んでいたという程度のものである。このあたり会長に対する仏の慈悲は広大無辺といわねばならない。」




 ここで私見では、
 『戦争では勝ちたかった。負けるとは思っていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた。』
 については、これは、現在の創価学会が掲げている事実とはかけ離れている。
 創価教育学会の発展と日本の戦勝とは一致していたこと、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったという歴史的な相関関係を、はじめて考えだしたような言い振りである。

 戦後の事業と創価学会の再建について、
「雑誌の方は七、〇〇〇万円程の借金ですんだが、東京建設の方は刑法上の問題となったんだ。それで会長になる前に死にぶつかったわけだ。」
 これは、まさに背水の陣だったことであろう。
 そして彼は、これを「仏法は勝負」として、以下の様にとらえ、乗り越えたことになる。
「仏法の力と国法の力とどっちが勝つか? 仏法が勝てばきりぬけられる。この境涯が正しいと証明されれば会長になる。そのどちらかをためされたわけだが、うまくきりぬけられた。」

 牧口常三郎の、「仏法は(現実における)勝負」を、「仏法の力と国法の力とどっちが勝つか? 仏法が勝てばきりぬけられる。」として、きちんと受け継いでいることがわかる。
 ちなみに、日蓮がのべているところの「仏法は勝負」とは、意味が根本的に違うことは何度も前述した。
 「そのどちらかをためされたわけだが、うまくきりぬけられた。東京建設の方は三〇年五月まで整理はかかったが、その時解散をしてきりぬけられたのだ」

 ここで、彼自身が、現実において、「国法」よりも「仏法」が勝ったことを自ら証明し、会長になったとしている。

 ちなみに折伏経典の中にある、三つの法律についても
「世の中に世間法律、国法律、仏法律の三つの法律がある。
 この世間法と国法と仏法とを網にたとえれば、世間法律は大きな目の網で、国法律は中くらいの目の網、仏法律はごく細かい網の目で絶対にこの法律をのがれることはできない」(折伏経典、P378)
 は、P21で、前述したとおりである。



 そして、この発言をうけて、小口偉一氏は、
 「会長の信仰は現世における利益と密接に結びついており、『信仰が現在の生活と無関係ならそんなものはやることない。トクであるから信仰するので、トクがないならそんなものはやめたらよい。』と自分でもいっている。また過去の経験を『二四の時肺病になり、三四で治った。この間喀血しどうしだったが、信仰に入って治った』ともいっており、この信仰というのは前に記したように拝まないとバチが当るから、毎日ただ拝んでいたという程度のものである。」
 として、はっきりと、創価学会の会長戸田城聖が説く宗教は、「現世における利益と密接に結びつ」いている、つまり「現世利益を説く宗教」と分析している。

 これは、その後にも論が展開されているが、現世利益は、この時代の新興宗教に第一の特徴的なことである。

 そして、
「この信仰というのは前に記したように拝まないとバチが当るから、毎日ただ拝んでいたという程度のものである。このあたり会長に対する仏の慈悲は広大無辺といわねばならない。」
 というのは、ずいぶんと皮肉に聞こえるものである。


 しかし、日蓮の遺文に
 「日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(報恩抄、御書P329)
 とあるように、信仰者の立場からみたら、まさしくこの時点では、戸田城聖会長に対する「法」の慈悲は広大無辺であったと言わなければならない。





 そして、その現世利益を求めて集まった信仰者の創価学会や戸田城聖について、
「戦後の教団の発展は、昭和ニ六年当時三、〇〇〇世帯といわれたが、現在ではそれが三〇万世帯となっている。その信者は『今は貧乏な人、身体の弱い人、商売繁昌しない人、悩みがある人が熱心で、官公労は不真面目で駄目だ。生活の安定した人も駄目だ。学校の先生は昔と違って非常に少いが、それも大体肺病だ、今の先生は教育者としての悩みで入るというようなことはないねえ。中小企業が多いが、これは借金を苦にして入っている。宗教はキキメがなきゃあいけない。こんなふうに困った人のものが本当の宗教なんだ。サギといえば立正交成会、本門仏立宗、霊友会は大サギでその先鞭をつけたのが天理教だ。そこにあるものはしばられている信者だけだ。キリスト教は単なる道徳教にすぎないではないか。牧師は小学校長のよなお説教をしている。僕等はどの宗教ともあいませんからねえ。『暴力宗教』(世間で他宗教がそういっているのを引用)だからねえ』と会長のいうように、信者の層は戦前と全く異なっている。つまり、御利益を中心とした、キキメとトクを求めて集る信者を中心として、教団は急速な発展をとげたのであって、教師から広く庶民の各層に信者が拡がったのである。この間の大きい変化は、牧口会長から戸田会長へと人が変ったことにもとづいているといわねばならない。もちろん、教祖一人で教団の性格が決定するものではないが、戸田氏は教祖というよりも、むしろ教団組織者、企業家タイプの人であるからなおさらこの変化はいちぢるしいといわねばならない。
 戸田氏のように、特殊の宗教体験のない人にとっては、既成教団の権威と伝統をその教理体系と共に用い得れば、きわめて好都合であろう。」
 と述べている。


 つまり、戸田城聖が、熱心な信者は貧乏人・病人・商売繁盛しない人・借金を苦にした中小企業であり、官公労や生活の安定した人は駄目だとはっきり言っていることから、「つまり、御利益を中心とした、キキメとトクを求めて集る信者を中心として、教団は急速な発展をとげた」と分析している。
 この時代の民衆は、概して恵まれない人たちが多く、このような多くの人たちの支持をえて、創価学会は発展していった。
 この分析は、その後も、多くの識者が分析している事実である。

 

 まさしく、創価学会は、この時代の、多くの悩める人達によって支えられて、発展してきたといえるのである。
 この時の創価学会の主張が、前述した日蓮の教えを、究極的にはとらえ違えていたとしても、他の既成宗教や新興宗教に比べて、より多くの、より深く悩める人達への救いをもたらしていたことは、はっきりしている。
 現在では金も財産も建物も名誉も、あるいは権力も獲得し、宗教団体としては王者の座を占めているとはいえるが、過去には、貧乏人と病人の集りであると、少なからず揶揄されてきたこのこと、つまり物質的にも精神的にも、より大きく深く悩める人の信仰者の集りであったことが、むしろ仏法の一切衆生救済の精神に合致する「誇り」とすべきことと、私は考えている。


 そして、まさに、次のように、続いている。
 「この間の大きい変化は、牧口会長から戸田会長へと人が変ったことにもとづいているといわねばならない。もちろん、教祖一人で教団の性格が決定するものではないが、戸田氏は教祖というよりも、むしろ教団組織者、企業家タイプの人であるからなおさらこの変化はいちぢるしいといわねばならない。
 戸田氏のように、特殊の宗教体験のない人にとっては、既成教団の権威と伝統をその教理体系と共に用い得れば、きわめて好都合であろう。
牧口初代会長は『価値論』を著して、真・善・美を説き、この新しい価値体系は日蓮正宗と結びついて発展した。戦後の一般信者が、創価学会といわず正宗の信者といい、新興宗教ではなくて、既成宗教だと考えて、一つの権威を背おっているように、戸田氏の場合も、彼自身は既成教団の教理体系と新しい理論(『価値論』)の二つながらすでに準備されており、彼自身が新しく自己の宗教体験に基づく宗教理論を形成する必要はなかった。他の新興宗教が、なんらかの意味で素朴な宗教体験と理論とをもって出発し、郷里の体系化はそうとうの時間を経て、徐々に形成されるか、あるいはほとんど体系のないままに発展するかのいずれかであるのに対し、新興宗教としての創価学会は、七〇〇年の歴史的伝統を利用し、日蓮正宗は伝統的停滞を新興宗教との結びつきによりうち破るという相互依存関係に立っているのである。」


 ここで、
「新興宗教としての創価学会は、七〇〇年の歴史的伝統を利用し、日蓮正宗は伝統的停滞を新興宗教との結びつきによりうち破るという相互依存関係」
とは、いいえて妙であろう。
 なんという明晰さであろう。
「教祖一人で教団の性格が決定するものではない」
 というのも、その後の池田会長時代の創価学会にもいえる。



 続いて、布教方法である「折伏」について、以下の様に続く。
「折伏というのは元来日蓮宗が行ってきた法論であるが、その意味が拡大されて、戦闘的な青年のより集った軍隊組織による集団的行動の理論闘争となって、創価学会に復活している。この理論闘争は、戦後日本の労働組合の内部における共産主義の発展にともなう時代的風潮と一致するものがあり、行きづまりの現在の世相において、青年が見出す行きづまりのよき吐け口となっており、青年はこれに好んで参加している。これがために『折伏経典』が出版されており、具体的な論争の必勝虎の巻となっている。このような教団の行き方は、戸田会長の一人のみで行いうるものではなく、後に『組織者』の項においてみるように、戸田氏を中心とした戦闘的な行動者、理論の専門家、またジミな他の宗教と同じような意味の布教者などが、分業的に組織の中に組こまれ、全体として一つの力になっているからである。戸田会長が教祖であると同時に組織者であるというのは、牧口氏当時の創価学会と現在の創価学会とは性格が異なっており、牧口氏時代は教育研究会が主であって、宗教が従であり、信者層というよりはむしろ研究会の参加者がほぼ教員に限定されていたのに対し、戸田氏は宗教を全面的におし出し、信者層をすっかり変えてしまっている。そして、現世利益を強調すると共に組織による理論面の強化、正宗との直接のつながりによる既成権威の自己化を計っている点、組織者といわねばならない。また会長は、昨年日蓮正宗の本山において行われた祭典で白馬に乗り、この青年たちを閲兵している。
白馬が天皇専用の乗馬であるということを知らなかったというが、いずれにしてもこのような児戯に類することを平気で行う一面を持っており、同じく組織者とはいっても、念法真教の組織者A氏の近代企業における冷徹な企業精神に比べれば、親分的な、ヤクザ親分的な、その意味では日本における庶民の感覚に直接うったえるような側面を持っているといわねばならない。」



 私見では、ここで、折伏についての氏の指摘、
「戦闘的な青年のより集った軍隊組織による集団的行動の理論闘争」
「行きづまりの現在の世相において、青年が見出す行きづまりのよき吐け口」
「これがために『折伏経典』が出版されており、具体的な論争の必勝虎の巻」
 まで用意されて、
「戸田会長の一人のみで行いうるものではなく」
「戸田氏を中心とした戦闘的な行動者、理論の専門家、またジミな他の宗教と同じような意味の布教者などが、分業的に組織の中に組こまれ、全体として一つの力になっている」
 という客観的な表現は、お見事というほかない。

 そして、人間:戸田城聖を
「親分的な、ヤクザ親分的な、その意味では日本における庶民の感覚に直接うったえるような側面を持っている」
 という、古典的・魅力的な人物として評価している。


 そして、さらに、
「また戸田氏の生活史は、常に日本の中小企業の立志伝のような成功者的浮沈に終始し、現在も創価学会会長のかたわら、大蔵商事という金融会社にも関係している。昔から何度もやっている出版事業(これこそ彼の事業の出発点であり、資金を作ったものだが)は、現在も事実上存続していて、教授、助教授制度をもった創価学会の信者が読まねばならぬ莫大な量にのぼる教理関係書の出版は、ことごとく自己教団内で発行されている。つまり戸田氏は宗教教団の会長であると同時に一面ではやはりあくまでも事業家としての生活を貫いているのである。」


「戸田氏の企業者的側面は、教団の中では御利益があるかないかという打算に反映している。この御利益がきっかけとなってはいるが、戸田氏の人柄からいって、利害を無視するようなそんな理想はなく、あくまで打算がつきまとっている。」

「創価学会はファシズムだといわれているが、戸田氏自身だけを問題とするならばファシストのような行動側面は持っていても、利害打算を越える理想がないので、そのまま彼がファシストであるということはできない。ただし、教団は組織であり、組織が自己運動するかぎり、個人の性格が常に貫徹するとはかぎらないから、戸田氏が真のファシストでないからというので、創価学会がいつもこれからもファシズムの母体にならないとはいえないことは、いうまでもない。先に戸田氏は親分的だと述べたが、大本教の出口氏、メシヤ教の岡田氏いずれもそういわれており、時代とともに逐次小者となってきている傾向がある。創価学会が発展したのは二六年以降であり、朝鮮戦争以後の日本の上海化に対応する(比喩的にこれをみて)テキヤ的社会の親分が戸田氏であると考えるならば、教祖の性格の時代的差異をこの三者の差異にうかがうことができる。」
 と結論づけている。


 これは、現在の創価学会がいうところの、永遠化した神聖な師匠というよりも、あくまで現実に即した、善きにつけ悪しきにつけ、打算と人間味のある戸田城聖の、見事に客観的な解説であると思う。

 

 P24へ、続きます。

 

 

 

 

 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析