●50 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」 | ラケットちゃんのつぶやき

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●50 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」
です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


■段勲の指摘する創価学会の本山支配への路線

 段勲著「新興宗教のウラがわかる本」政界往来社、P19-22には、以下のような指摘がある。ここでは、昭和52年から一気に宗門支配へと乗り出した創価学会路線を裏づける背景が、当時、中枢であり側近であった山崎正友顧問弁護士の資料が取り上げられている。

「長年、水面下でくすぶっていた創価学会と宗門の対立が浮上し、一挙に表面化したのは、昭和五十二年の夏である。雑誌『週刊新潮』が『メッカ・大石寺が創価学会と喧嘩して参詣者ゼロ』(八月十八日号)とスクープを放った記事が端緒だった。以後、創価学会と宗門との紛争が週刊誌・月刊誌から格好の標的にされ、逐一、双方の紛争経過が報告された。…中略…
 創価学会の顧問弁護士であった山崎正友、八尋頼雄の両人が池田大作宛に提出した『報告事項』(昭和四十九年四月十二日付)が手元にある。こんな内容だ。
『本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのような処理をして行くかについて二通り考えられます。
 一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。
 本山管理に介入することは、火中の栗をひろう結果になりかねない危険が多分にあります。しかし私の考えでは本山、正宗は、党(註・公明党)や大学(註・創価大学)あるいは民音以上に学会にとっては存在価値のある外郭と思われ、これを安定的に引きつけておくことは、広布戦略の上で欠かせない要素ではないかと思われます。こうした観点から、後者の戦略ですすむしかないように思われます。そのための布石としては、
(1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の支配
(2)財政面の支配(学会依存度を高める)
(3)渉外面の支配
(4)信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立など)
(5)墓地、典礼の執行権の移譲
(6)総代による末寺支配
 が必要です。これらのことは機会をとらえながら、さりげなく行うことが必要であり……(中略)いずれにせよ、先生(註・池田大作)の高度の判断によって決せられるべきと思いますので、ご裁断をあおぐ次第です』――」


 以上は、拙論文P45から取り上げている昭和52年前後の創価学会路線を裏づける資料である。昭和52年元旦の挨拶からスタートし、誤った「仏教史観を語る」、批判僧侶のつるし上げと共に、特別財務などで会員から直接に金を集めて日蓮正宗寺院に供養・参拝の流れを止め、聖教新聞や大白蓮華などで生死一大事血脈抄講義を連載し、新たな誤った血脈論を会員の間に吹き込んでいった。
この血脈論は、創価教育学会初代会長牧口常三郎を起点とした師弟を根本とするもので、本来の日蓮仏法とはおよそかけ離れている。末端組織においては、これを根本にして、師弟不二の論理が展開され、池田大作をあたかも主・師・親の三徳を具備した仏として崇拝する風潮となった。つまり、池田大作を現代の日蓮もしくはそれを越える存在としてみなし、その一挙手一投足が神聖視・絶対視され、また創価学会組織そのものも、これを伝える機関紙なども神聖視された。「創価学会仏」、「小説人間革命は現代の御書」、「聖教新聞は広宣流布のミサイル」などという用語は、それを端的にあらわしている。

 段勲はさらに続きで当時の状況を
「創価学会・池田大作による宗門支配計画は、山崎弁護士らの前記『報告事項』にそって着々と進められていった。
 こうして宗門支配を進行させる一方、池田は新たな〝創価池田教〟の実現に向かったが、途中、思いがけぬ強敵が出現し、池田の野望は頓挫してしまう。日ごろおとなしい宗門の若手僧侶たちが、宗門が学会に乗っ取られてしまうという危機感を抱き、猛烈な反撃に出たからである」
と指摘している。


■浜中和道回想録

 日蓮正宗側の動きは、一部前述してきたが、浜中和道著「浜中和道回想録」にも詳しく記されている。当時の創価学会と宗門の微妙な関係、創価学会の幹部たち、山崎正友や細井日達、若手僧侶たちの行動や思惑などが詳細に記されている。
〝狐と狸の化かし合い〟のような場面が出てくるので面白い。
 以下は、昭和52年、山崎正友と細井日達が話し合ったあと、浜中和道が東京から地方の伝法寺住職として就任する頃以降の記載である。(浜中和道著「浜中和道回想録」P137—)

「昭和五十二年五月十一日、大分県竹田市大字玉来に建立された伝法寺の入仏落慶法要が、日達上人をお迎えして参修された。
 伝法寺は、それまでに日本全国各地に建立された創価学会寄進の寺院と異なり、大分市の本土寺住職・斉藤善道師が建立し、大石寺に寄進した寺院であった。
 入仏式を控えて斉藤善道師の所に挨拶に行くと、大分県下における創価学会員の現状を教えてくれた。斉藤師はまた私の兄弟子でもあった。斉藤師は、
『和道、今、創価学会はお寺や僧侶を目の仇にしている。君も悪い時期に住職になったな。伝法寺の建立予定地を副会長の福島源次郎が見たそうだ。すると福島は、『こんな所に寺ができるのか、そのうちに潰してやる』と言ったそうだ』
 と話してくれた。
 私が伝法寺に住職として赴任する挨拶のために、高橋信興師と学会本部におもむいた時に、対応してくれたのが福島氏であった。当時は住職として各地の学会に赴任する者は、学会本部にその前に挨拶に行くことが、宗門の習慣となっていたのであった。その時の福島氏の態度は傲岸不遜なものであった。福島氏は、
『やあ、浜中さんが竹田の寺に行かれるのですか、僕は先日あそこに行ってきましたが、大分県というよりもあそこは熊本県のようなものですよ』
 と教えてくれた。福島氏がちょうどそのような話をしている時に、その面談している部屋の電話がなった。福島氏が受話器を取ると福島氏の表情に一瞬、緊張が走った。電話の主は池田会長からだった。
『池田先生が、浜中さんとお話ししたいと言ってます』
 福島氏は私に受話器を渡した。私も思いがけないことに戸惑いながらも電話に出ると、まさしく池田会長の声が受話器の彼方から聞こえてきた。
『浜中先生、今後新しく住職として赴任されるそうで、おめでとうございます。私が今度、大分に行く機会がありましたら、必ず浜中先生のお寺に参詣させていただきます。どうか学会員を大事にしてやって下さい』
 と話された。
 この池田会長の電話の後では、福島氏の態度は、卑屈なほどに一転して丁重なものとなった。
 この池田会長の電話の話は、もちろん私は山崎氏に伝えた。すると山崎氏は、せせら笑いながらも、
『和道さん、それは池田の手だよ。あんたも引っかからないようにね』
 と話した。
 その山崎氏から伝法寺に電話がかかってきたのは、入仏式の前日、法要の準備に忙殺されていた時であった。
『明日、猊下がそこに来るんでしょう。その時、猊下にお話しする時間があるかな?』
 私があるかないか、その時になってみなければわからないと答えると、
『もしあったら、猊下に伝えて下さい。学会は今度は週刊誌を使って日蓮正宗僧侶のスキャンダルを大々的に流すと言っていますよ、ということを』
…中略…
 入仏式前日は、竹田市の創価学会員が掃除のために大勢来てくれ、それに教区の僧侶も全員来寺し、入仏式の準備を行なった。
…中略…
 その入仏式の数日後、突然、日達上人より電話が伝法寺にかかってきた。
『今、本山に帰ってきた。この前、お前さんが山崎さんから聞いたことをもういっぺん、ワシに教えてくれ』
 日達上人は、私の入仏式のお礼の言上も耳に入らない様子でおっしゃった。そこで私が先日の話を繰り返して述べ、それと同時に斉藤師から聞いた福島副会長のこともお話し申し上げた。
『そうか、そこまで学会はやるのか。だからワシはみんなにいつも言っているんだ。僧侶は身の回りをきれいにしろと』
…中略…
『山崎さんによろしくな』
 と言って、電話を切られた。
…中略…
 早速、日達上人との会話を山崎氏に伝えると、山崎氏はいかにも嬉しそうに、
『そう、猊下はそう言っていたの。ともかく徹底してやらなきゃダメだよ。先手必勝ですよ。その作戦は、僕が考えますって猊下に言っておいて』
 というと、すぐに受話器を持ち上げた。そして、
『桐ちゃん、今、和道さんが東京に来ているんだけど、久しぶりに来ない』
 と桐ヶ谷弁護士、福島弁護士、岩住氏とつぎつぎと電話で呼び出した。
『和道さん、言うまでもないけど、桐ケ谷や福島には充分気をつけてよ。あいつらになにか言うと、全部、池田さんに筒抜けだからな。僕がこうやってあいつらと会うのは、あくまでも相手に油断させるためだからね』
 と山崎氏は言うと、黙り込んで考え始めた。そして独り言のように、
『そうか、先にこっちで週刊誌を使う手もあるな。〝菅憲〟とか栗林なんかが、吊し上げをくらったことを週刊誌に暴露しないかな。そうすれば面白いけどな』」


 この5月には、民社党の塚本三郎が創価学会の財務問題を国会質問で取り上げようとしたことから、創価学会の独立路線が一時的に、うろたえた。
 その後8月、学会と対立していた妙信講がマスコミ攻勢をかけたが、そこへ学会幹部への機関誌である「前進」に法主の権威否定のような論が載ったのを契機に、法主が反撃、若手僧侶も総決起したのをマスコミ「文春」、「現代」が取りあげた。
 その略年表は前ページに記したが、その後の11月、『創価学会のめざすもの』を創価学会員が発行したあたりから、再び浜中和道の回想録(P162—)を見ておく。

「それから少しずつではあるが、お講の席や、個人的に親しくなった学会員に、学会の誤りを話し始めた。
 その翌月の十一月、佐々木師(註、寿福寺住職佐々木秀明)より私に電話があった。
『和道、今度、ウチの寺で本を作ったから取りに来いよ』
 なんだろう、と思って行ってみると、『創価学会のめざすもの』という題の小冊子が、寿福寺の庫裏にうずたかく積み上げられてあった。発行者は佐々木師の信頼しているという学会員であった。佐々木師が言うには、
『俺の名で出したら、宗務院が黙っちゃいないが、信者が出すんだから宗務院は文句がつけられないだろう。もちろん責任は全部、俺が取るつもりだ』
 ということであった。内容は、真っ向から創価学会に対する不信を書き連ねてあった。
…中略…
 また、佐々木師は、
『前に一度、児玉と俺と小倉ステーションホテルで、阿部教学部長と河辺さんと会ったことがあるよ』
 と私に言った。
…中略…
 河辺師は〝寝ワザ師〟という宗内では余り芳しくない風評の持ち主であった。その河辺師と阿部教学部長が、二人連れだって九州に来たという。二人で佐々木師と児玉師と会うためにどこでも来るというので、小倉で会談したとのことであった。
『多分、学会に頼まれて来たんだろう。俺と児玉に学会批判を止めろと言いにわざわざ来たんだよな。宗門の教学部長ともあろう人がよ。情けないじゃないか。もちろん俺も大光も全然、相手にしなかったよ』
 もし学会の依頼で阿部師が佐々木師と会談したならば、それはかえって逆効果だったかもしれないと、私は思った。つづけて佐々木師は、
『実は俺のところに、先月、御前さんから電話があったんだ。内緒でその会話を録音してあるのを聞かせてやるから、絶対、黙っとけよ』
 と言いながら、テープレコーダーを持ち出してきた。そのテープから流れる声は、まさしく日達上人のものだった。
 その内容は、『週刊文春』昭和五十二年十月十三日号の『池田独裁を倒せ! 全国ほう起した学会革命軍』と題した記事で、寿福寺に学会の指導に疑問を持ち、学会を離れて佐々木師の下に結集した信徒、のちに日達上人のお声がかりで〝檀徒〟とよぶようになるが、それらの人々が三百人いるということが載った。それを日達上人が見られて、佐々木師に対する激励の電話をしてきたものであった。さらに佐々木師の話によれば、今度、佐々木師と心を同じくして学会批判に立ち上がった僧侶が、本山に登山し日達上人にお目通りをするという。その人数は、佐々木師の目論見では、百人以上いるとのことであった。そのことに対しても日達上人は、そのメンバーをしっかり固めておくようにと、佐々木師に指示されていた。佐々木師や児玉大光師の働きによって、いつの間にか、それまで創価学会に攻撃されっぱなしだった宗門は、反撃に転じようとしていたのであった。
 私は直感として、これらのことを山崎氏には話さないほうがいいと判断した。別に山崎氏を疑うわけではないが、山崎氏の癖として、情報を手に入れると、自分の情報キャッチの能力を他人に誇示する傾向があることを感じたからである」



■学会の独立宣言:五ヶ条の『僧俗一致の原則』、その前後の謀略性


 昭和52年11月に創価学会が宗門に提出した五ヶ条の『僧俗一致の原則』については、細井日達が、これに回答する時は手を切る時だと言っていた。これについての浜中和道回想録(P164-)を見ておく。

「十一月に入ると、日蓮正宗の本山格の寺院である宮崎県の日向定善寺で本堂新築落慶入仏式が、日達上人をお迎えして奉修されるという連絡が教区を通じて伝法寺に届いた。
…中略…
その法要の日は十二月四日と決定していた。その頃には、私はしょっちゅう佐々木師のもとに出入りをしていた。いつものように私が寿福寺に行くと、佐々木師は、
『これを見ろ』
 と言って数枚のコピーを差し出した。
『これを学会が、宗内に突きつけてきたんだ』
 そのコピーは『僧俗一致の原則』と題されたものであった。内容は五ヶ条からなっていた。
『一、日蓮正宗並びに創価学会は、共に日蓮大聖人の三大秘法の仏法を広宣流布することを目的としており、その目的遂行のため、永久に僧俗和合して進む。
二、創価学会は、日蓮正宗の信徒団体として宗門を外護し、宗門は創価学会の宗教法人上の自立性を十分尊重する。
三、創価学会は宗門・僧侶を尊敬する、宗門並びに僧侶は学会を大事にし、批判しない。相互に問題があれば、必ず連絡会議及び僧俗協議会で協議する。
四、宗門は、創価学会が宗教法人上の必要性から行う一定の儀式・法要については認める。また、学会は寺院での儀式にも参加する。
五、僧侶は、寺院に来た学会員の相談に応ずるのはよいが、その際必ず創価学会の組織につける。また、学会員で個人的に法華講に入講を希望するもの、及び法華講で学会に入会を希望するものがあれば、僧俗協議会にはかり、検討する。但し、この場合でも、双方互いに批判しないことを条件とする』
 私が読み終わると、佐々木師は感想を求めてきた。私は流し読みしただけだったが、内容的には、今まで創価学会が実際にとってきた既定方針をただ明文化しただけに思えた。私がそう答えると、佐々木師は怒ったように、
『よく読んでみろ! これは完全に創価学会が日蓮正宗と対等な、一宗一派をつくると宣言しているようなものじゃないか』
 と言った。たしかに、そう言えばそう言えるものである。佐々木師は、
『近いうちに猊下のところに、これをどうされるか聞きに行くつもりだ』
 と言っていた。私は佐々木師のもとから帰って、山崎氏に電話をしてみた。
『実は今、佐々木さんから『僧俗一致の原則』というのを見せられたんだけど、ボス、なにか知ってる?』
 すると、山崎氏は、
『知ってるよ、和道さん。あれは完全な独立宣言書だよ。池田さんは宗門があれを飲めば、しめたものと言ってホクホクしているよ。早瀬さんは、それをハハーと言って、有り難く受け取って帰ったそうだよ。『これで宗内も収まります』と言っていたそうだよ。そのことを佐々木さんにも教えたほうがいいよ』
 と回答した。私は山崎氏の話を誰から聞いたとも言わずに電話で佐々木師に伝えた。佐々木師は、
『多分、そんなものだろう』
 と言っていた。
 十一月も末になって、佐々木師から電話がかかってきた。
『おい、いよいよ猊下も腹を決めたぞ。学会と手を切るって言ってたぞ』
 それを聞いて、私もいよいよ来るべき時が、来たのかなと思った。同時に竹田の学会員や東京で知り合いになった人々は、どうするのかなとも思った。
『ただ、定善寺の入仏式は、無事すませたいと猊下も言ってたから、ハッキリするのは、もっと後になると思うけど、ともかく入仏式が終ったら、もう一度、大勢で本山へ行くことになるから、お前もその時は行けよ』
 とのことであった。その佐々木師の言葉を聞いたあとは、さすがに心がおだやかではなかった。そして、やはりここまでくれば状況を山崎氏に伝えるべきだと思った。
 山崎氏に電話をすると、さすがに山崎氏も驚いた様子だった。
『わかった。和道さん、あんまり心配することないよ。なあに、なるようになるさ』
 と、山崎氏は言い電話を切った。
 十二月二日、佐々木師は、私の車で一緒に定善寺に行くことになっていた。私が福寿寺へ行くと、佐々木師は出発の支度をしていなかった。
『どうしたの』
 と尋ねると、
『昨日、ある男が俺の所に来てな。『池田が九州に来たら、鉄砲で撃ち殺す』と言うんだ。俺も驚いて、『我々の運動は、そんな池田さんを殺すなどというものじゃなく、学会員さんに真面目に信心して下さいという運動なんだ』と、説得して帰したが、万が一、そんな暴発がウチの寺から起こったら大変だから、俺は寺に残ることにしたよ。猊下に言ったら、『是非そうしろ』と言っていたよ』
 ということであった。そして、
『なにか池田会長さんが、今までのことを定善寺でお詫びするなんてことを言っていたぞ。まあ、それを聞いてみよう』
 と話してくれた。
 私は当日の番役担当で、集合日時は十二月三日の午前中であった。佐々木師が定善寺へ行かないならば、私一人がわざわざ早く行く必要もないので、三日の朝早く出発するつもりで伝法寺へ帰った。
 その夜、山崎氏から電話がかかってきた。山崎氏は真剣な声で、
『和道さんから聞いたことを北条さんに言ったよ。北条さんもビックリしていたよ。さすがにこれは大変だと思ったんだろうよ。大体、俺抜きであんなもの作るから、こういうことになるんだ』
『ボスは、あの『僧俗一致の原則』にタッチしていないの?』
『俺にバレたら、文句をつけられるんで、野崎らがコソコソ作ったんだよ。それで真剣になって、池田さんが日向で謝るそうだよ』
 山崎氏の話は私が佐々木師から聞いたことを裏付けてくれた。山崎氏が、
『それで和道さん、その時、御仲居さんに会える?』
 と尋ねてきた。
『法要の最中は無理だけど、会おうと思えば会えるよ』
 というと、
『その時、是非、伝えてもらいたいんだ。『池田さんが、〈今度は一旦、頭を下げるけど、その後、ただじゃおかない〉と言って、〈坊主のスキャンダルを全部、暴露する用意をしろ〉と野崎たちに指示をしましたよ。あの人は、台風の間、頭を下げていて、それが過ぎたら必ず復讐する人だから、くれぐれもお気を付け下さい』と御仲居さんから猊下に伝えてもらってよ』
 今までもこの創価学会によるスキャンダル暴露のことを山崎氏から聞き、日達上人に報告をしたことがあった。しかしその後、そのようなことは起こらなかった。私がそのことを山崎氏に言うと、
『今度は絶対にやるつもりだよ』
 と断定的に言っていた。
 私はそれを聞いて、もし池田会長が今までの過ちを率直に日達上人に詫びれば、事が済むと楽観的な気分に浸っていただけに、ショックを覚えた。もし再び、創価学会、池田会長が宗門を攻撃すれば、必ず宗・創は真っ二つになるであろう。
『それで、こちらはどうすればいいと思う?』
 と山崎氏に尋ねると、
『ともかく今は詫びを受け入れて、その間、池田を徹底的に攻撃する陣容を組めば、いいんだよ。御仲居さんから猊下に佐々木さんたちを大事にするように伝えてくださいと言っておいてよ』
 との返事であった。
 翌三日、早朝より私は車を運転して日向定善寺へと向かった。
…中略…
 翌四日の定善寺本堂新築落慶法要当日、私は本堂から離れた場所に建立された〝鐘楼〟の落成式の当番のため、本堂のなかで行なわれている法要には参加することができなかった。後日、本堂での池田会長の挨拶を『聖教新聞』(昭和五十二年十二月五日付)でみると、
『私は愚鈍の身であるが、日達上人にわがままを申し上げながら、今、末法万年流布のために、ご宗門外護のためにも真剣に基盤を確立するために戦っている。……我々は凡夫であり、愚味にして未熟な点ばかりである。また大勢であるが故に、勝手気ままと思われる節が多々あろうかと存じますが……私ども信者の、今までのわがままを、ここに謹んで御寛恕くださるようお願いしたい』
 と、池田会長は挨拶したとのことであった。それを受けて日達上人は、
『本日は大変に結構なお話をしていただき、本当にありがとうございました』
 と、話されたという。この池田会長の挨拶は、のちにその言葉中の『御寛恕くださるよう』との文言をもって『御寛恕願い』と呼ばれるようになった。
 その夜、日達上人が宮崎のサンフェニックスホテルに泊まられることを、私は日達上人のスケジュール表を見て知っていた。
…中略…
日達上人の休息されている庫裡の一室の廊下に行き、日達上人とともにいるはずの光久師を奥番(猊下のお世話係)に頼んで呼び出してもらった。廊下に出てきた光久師に、
『御仲居さん、山崎さんからの伝言があるんですけど』
 というと、光久師は、
『それはワシにか?猊下にか?』
 と尋ねてきた。
『御仲居さんをとおして御前さんにということです』
 と答えると、
『それじゃ、ワシをとおしてではなく、お前から直接、猊下に言えよ。今は猊下もいろいろな人と対応中だが、ホテルに戻られればお一人になられるから、お前もホテルまで来ればいい』
 という話になった。私も仕方なく、竹田とは正反対の方向になるが、日達上人が宮崎のホテルに到着される頃を見計らい訪ねることにした。
 夕刻、ホテルを訪ね、フロントに頼んで光久師をロビーまで呼び出してもらった。エレベーターから降りてきた光久師は、
『お前が来ることを猊下に話してあるよ。今、猊下はお一人で休んでおられるからちょうどいい。じゃー、ワシと一緒に行こう』
 と言った。光久師と連れ立って日達上人の部屋に行くと、光久師の言葉どおり日達上人はテレビを見ながらソファにくつろいでおられた。
『おお、今日は御苦労だったな。それでなにかワシに用か?』
 と機嫌よくおっしゃった。日達上人の様子からすると光久師は、〝山崎氏の伝言〟のことを日達上人には、まだ話していないらしい。私がそのことを話し出すと、日達上人のお顔が曇られた。今日の池田会長の挨拶に喜んでおられる様子の日達上人に水をさすようで、私も嫌な気持ちであった。それでも山崎氏からの伝言をなるべく忠実になぞりながら日達上人に御報告した。
『そうか、山崎弁護士がそう言ったのか。ワシも、もしかしたらそうじゃないかと思っていたんだ。だから池田さんにワシは、どうかそういうことをしないでくれという意味で、わざわざ池田さんの前に行って、手を畳みについて頭を下げたんだ。そうか、やっぱりな』
 私は本堂での法要の場にいなかったために、日達上人がどうされたか知らなかったが、のちにその場にいた僧侶の話を聞くと、実際に日達上人は〝二畳台〟という一段高くなっている導師席から降り、池田会長の真ん前まで進み出られ、手を畳について頭を下げられたということであった。
『今まで、池田さんと一緒だったんだ。池田さんは隣のホテルに泊まっているよ。明日、一緒の飛行機だったら、ワシは嫌だな』
 と日達上人は話された。そのまま考え込まれるように、口を閉じられた日達上人のもとを辞して私は光久師と一緒にロビーに出た。光久師はその時、
『せっかく、猊下がいい気持ちでおられる時に、そんな話をするんじゃない』
 と歩きながら私に言ったが、私が、
『だって御仲居さんが、直接、言えといったじゃないの』
 と言うと、
『それもそうだな』
 と、光久師も黙り込んだ。私も複雑な思いで、宮崎を後にした。
 翌日の夜、山崎氏に電話をすると、山崎氏は、
『これから、厳しい戦いになるから、お互いに連絡を密にしようよ』
 ということであった。それは暗に、しばらく私が山崎氏に宗内の状況をなにも言わなかったことを指しているらしかった。
山崎氏の手元には、私が黙っていても宗内の僧侶の言動が報告書として届いているらしかった。
『ともかく和道さん、僕も腹を決めているからね。僕は大事なことは絶対に秘密を守る男だよ』
 山崎氏の声は、頼もしげであった。
 それから数日して、佐々木師に会いにいくと、すでに佐々木師には十二月四日の一部始終が伝わっていた。
『オイ、なんだか御前さん、しばらく学会の出方を見るようなことを言っていたぞ』
 佐々木師のところに日達上人からすでにその旨の電話が入っていたとのことであった。
『でも御前さんの腹の中は変っていないみたいだぞ』
 ということであった。
『しかし、秋山慈泉さんなんか、『良かった、良かった。会長さんも謝ったし、これで前みたいにいい時代が来る』と言って喜んでたみたいだけど、あの連中が、いったいそうするために何をしたというのだ』
 と、ただ漠然と学会のなすがままにしていた宗門の老僧に、佐々木師は憤慨していた。まさしくそのとおりである。
『しかし、今に見ていろ。必ず学会はまたなにか仕掛けてくるからな。このままじゃ、うまくいきっこないからな』
 と佐々木師は予言めいたことを言った。
 私も、山崎氏から聞いてそのことを確信していたのであった。
その佐々木師の言葉を山崎氏に伝えると、
『さすが佐々木さんだな。よく池田さんのことをわかっているよ』
 と嬉しそうな声で話した。
 それからしばらくして、佐々木師から、
『前に話した御前さんへのお目通りの日が、一月の十九日に決定したから、お前も絶対、その日はあけてくれよ』
 という電話があった。やはり、日達上人は学会、池田会長と戦う決意を変えておられなかったのである。
 その年の暮れ、学会問題とは別の問題が宗内を駆け回った。早瀬総監が住職を勤める法道院の法華講が、早瀬総監に反旗を翻したとのことであった。その理由は、法道院の執事であり、日達上人の弟子でもある志岐長導師が、早瀬師のことを『本従の師』と法道院の法華講員に指導したとのことであった。そのことが日達上人の耳に入り、『本従の師』というのは、宗祖大聖人のことであり、その名称を一末寺の住職に冠することはケシカランと烈火の如く怒られたとのことであった。そして、日達上人はその志岐師の指導に疑問をもった法華講員が法道院を離れることを許可し、そのメンバーを小川只導師住職を勤める理境坊に所属させた。 日達上人の弟子の集まりである妙観会は別にして、宗内で〝法器会〟という大人数の僧侶派閥率いる早瀬総監の法道院の出来事だけに、宗内の耳目を集めた、法道院三千世帯の法華講の中、二百人ぐらいが脱講したとのことであった。これについて宗内では、
『創価学会ベッタリの早瀬総監を日達上人がいよいよ排除する決意を固めた』
『これはいってみれば、池田会長に対する日達上人の決意を表すものだ』
 との噂が流れた。
 昭和五十二年は、池田会長の年頭所感で始まった学会問題で明け、そして法道院の法華講の内紛という宗内問題で暮れるという混乱を極めた年であった。


■ある信者からの手紙

 池田大作が形式だけ謝っても、宗門への締め付けは続いた。
 後の正信会のメンバーとなった若手僧侶の佐々木秀明は「大体、本当なら、年とっている老僧の連中が、学会がここまで謗法化したら、毅然として立ち上がらなきゃならないんだぜ。俺たちみたいな若僧が出る幕じゃないんだ。ところがあの連中は、金だけ貯め込んで、みんな事なかれ主義なんだ」と言った。(前掲書P182)
 細井日達派=若手反学会僧侶、創価学会派=阿部信雄・早瀬の宗務院派、中間派は事なかれ主義の老僧と、宗門僧侶は分極化していった。
 こうした中で、細井日達は、先の五ヶ条の原則を学会へ突き返す口実のために、昭和53年1月19日に、佐々木秀明などに指示して大勢の反対僧侶を本山に集め、「ワシを、皆で突き上げろ」と、仕組んでいた。
 浜中和道からこれを聞いた山崎正友は、急いで殴り書きで手紙を書き、それを清書して極秘扱いで細井日達に渡すように浜中和道に指示した。
 前日の18日、本山・妙泉坊に着いた浜中和道は、先に着いていた先輩僧侶から明け方近くまで麻雀に誘われ、山崎から受け取った手紙の清書は御仲居の光久師の妻がたのまれて行った。ところが解読不能な字が多く、不明な個所は後から浜中和道が書き足すことになっていたが、彼は翌朝寝坊をしてしまい、結局、彼女の清書した手紙をそのまま細井日達へ届けたのであった。
 昭和53年1月19日、本山対面所において、約百人の僧侶の前で、細井日達はこの手紙を、側にいた山口法興に読み上げさせたのだった。
 これが「ある信者からの手紙」である。
 

 これは既に浜中和道回想録や書籍等で公開されているが、奥野史郎著「謀略僧団 悪僧の巣――山崎正友と「正信会」」1981/11/30 現代史出版会、徳間書店、P205-215を資料として、その全文を取り上げておく。誤字・脱字・その他も、あえてそのままにし、ママのルビは(ママ)とし、(註)は、拙論文での追加である。
 これを奥野史郎は「誤字、あて字がおびただしく、京都大学法学部卒の〝秀才〟の識字能力が、高校生程度ではないか、と思いたくなる」(同書P202)と酷評しているが、誤字・脱字や語句の不自然な部分は一般信者に成りすましたカモフラージュだったかもしれない。当時の創価学会の戦略や実態がありのままに描かれている。そのくせ、以後の宗門の対処方針などへの意見も述べられているから、れっきとした謀略文書といえる。
 これを聞いた大勢の僧侶の間に衝撃が走ったのは言うまでもない。
 しかし、日達がこの手紙を読み上げさせたのは、マッチポンプ役の山崎正友にとっては非常にまずい、想定外の事態だったことは、手紙の謀略内容からも明らかであろう。


「ある信者からの手紙

 正宗と創価学会の間で、これまで種々な経緯があったが枝葉末梢の現象にとらわれたり、意図的な外交辞令や演技、カムフラージュに迷わされたり 或は 自分に都合のよい希望的観測に安住し気休めをむさぼっていたら必ず本質を見誤り、対応を誤って学会側ペースにはめられてしまうであろう。
戦後の歴史を通じて 一貫している事は 学会は本山と信者及び本山と社会を切りはなして 互いに情報操作して常に主導権をにぎる事に全力を投入してきたと云える。そこにのみ存在価値があったとすら云える。
即ち信者及び社会には 日蓮大聖人以来の正統を受けつぐ日蓮正宗から広布 全面的委託を受けたと云う宗教的権威をもってのぞみ 全面的委託なるが故に信者及び社会が正宗と直接に交渉を持つことを拒否して常に学会が窓口となる事を強要して来た。
一方 本山に対しては 強圧と懐柔 そして〝外護〟と云う大義名分、即ち荒れ狂う社会の隔離と云う名目で信者や 社会との直接の交流を極力封じて来た。
こうして、社会には新興宗教に非ざる仏教の正統と名乗って 猊下の信任を旗印に信者に絶対的な権力を確立し、内には布教と信者の教化育成を支配することを左右する力を持った。
池田会長はこの両面に対する支配から生まれる力を背景に政治、社会に対する権力への野望へ乗り出していることである。
ところで、外部や宗門が知ると否とにかかわらず池田会長の側近、及び直系と云われる弟子達の間には、次の二点は 自明の理であり 端的に云うならば、この為にこそ学会首脳部の団結は維持されていると断言出来る。第一点は、池田会長は仏であり、なかんずく末法の御本仏の再誕である、と云うことである。
このことは、種々の点から次第に表面化してきたが、今にはじまったことではなく 例えば 昭和四十五年以前のあかずの門を開く者についての言及とか 御義口伝講義の際の言葉、学会内での扱い等で昔からはっきりしていた。池田会長のやり方の巧妙さは、自分から云わずに、側近に云わせ、そしてそれを云う側近を大いに用いることによって皆にそれを習わせると云う点にある。
福島源次郎や野崎勲はその典型である。
ちなみに学会内では、あらゆることが報告書となって会長のもとに届き会長みずから決裁するシステムになっている。
一寸した頂物の御礼まで、必ず会長直に目を通す。
従ってどんな行為も、会長が知らないで行われると云う事はあり得ない。まして学会にとって一番神経をとがらせている本山や寺院のことは、ことこまかに会長が指示してやらせている。たいていは はじめ青年部や副部長にかみつかせあとで自分が出て おうように許す、と云う芝居の筋書を自分でつくるのである。
従って、会長本仏論は 全くの自作自演である。
とにかく会長を仏と認めていない者は、総務にもならなければ伸一会にも入れない。
第二点は、池田会長 ひいては創価学会の目的が来る二十年の間に天下をとること、即ち政治権力をとって日本を支配することにあると云うことである 学会のすべての行動はこの二点に照らして見るならばすべての意味がとけるのである 即ち本仏日蓮大聖人の再誕である池田会長が日本の最高権力者となることが王仏冥合であり広宣流布なのである。
故に池田会長以上の宗教上の権威は目の上のコブであり邪魔になる、その存在がなければそれにこしたことはないが どうしても存在するとすれば それは出来る限り少なくしたいし(猊下一人にしぼり他の僧侶は同等以下に置く事にあらゆる手数を用いた。又その存在は出来る限り社会や信者から遠ざけたいのである。一方どの様な手数をつくしても公明党の勢力をのばすことが至上命令となるのである。
こうした本質は 必然的に次のような方向性へと向う
第一に宗門に対しては、学会は何ら干渉されない自由 放々(ママ)を確保するとともに 宗門を学会の思うように押し込めるため 硬軟取り交ぜてありとあらゆる方策を用いる。
出来るなら創価教にしたいが(そういう志向で準備した事もあったが不可能とみて)さもなくば ぎりぎりまで学会教学、学会路線の独自性をつくり、一方宗門(法ヶ講を含む)に対しては、あらゆる手をつくして弱体化、分裂化、封じ込めを計っているのである。一時 会長周辺では〝学会の最大の外郭団体は本山だ〟と云う云い方が流行した。
要するに学会が主で宗門は従と云う訳である。
しかるに どうしようもないのが御本尊であり相伝にもとずく法主の権威である、これに対抗するため経済力、集団力そして有力な僧侶に対する懐柔と反対する僧侶に対する威迫(ママ)、等々ありとあらゆる策術を用いて政めて(ママ)いる訳である。
第二に学会内で絶対的支配権の確立のため異常な執念をもやすことである。
自らを仏の地位におくことは優秀な人材を集め 又党を始め社会に運動を展開して 動執生疑して来る指導者に対して 末端会員の絶対的支持と云う切り札でもって押え切る為にどうしても必要なことでもある。
宗門の権威でなく 自らの権威を最終的なものとして、それに対する絶対的な帰依を求めることによってのみ 本山と対抗出来る勢力の構築は可能であろう。
池田会長はその源泉を歴代会長の権威に求めた。
即ち牧口、戸田、池田とつづく会長の系図に本山の相伝の形式をだぶらせて会員に侵透させた、故に意識の上では既に創価教の素地は充分に出来上っている。
更に信者からの供養を出来るかぎり独占することによって経済力を一手に掌握し 支配権を確立しようとしている
見せかけの寛容さにかかわらず、池田会長は支配欲、名誉欲、権勢欲の極めて強い人物である。その椎謀(ママ)術数のすさまじさは見る者をして ひれ伏させるか 或は反撥させるかのどちらかである。
そしてゆきつくところは池田一族による永久支配を目指していることについて筆者は確たる証拠をもっている。
第三に政権をとるために つまり選挙で票をとるためになりふりかまわず何でもやると云うことである。その為には教義を変え 邪宗と妥協することも当然のことと思っている。
会長始め学会幹部は等しく〝日蓮正宗といっても御本尊と南無妙法蓮華経以外に根本教義はない あとは全ったく枝葉である〟と日頃断言しているのである。
宗門への気がねさえなければ 神社への寄付はおろか、他宗教との協調もとっくの昔に行われていたのである。
一方では、〝一票に功徳〟等と云うように しょせん教義は手段にすぎないとの認識が根底にある。
社会的にも選挙違反であろうがバレさえしなければ良いとの考えが一般的である。
“三法律”と云うことがその理論的支柱である。
従ってマスコミや社会に対してもその場しのぎの云いのがれや良い事づくめで応対する為、いつも云う事や路線がクルクル変っている。
左から右へ 右から左へとゆれながら要は議席をふやし権力をとることがすべてである。〝ああ云えばこう云え〟が会長の口ぐせであり、宗門や外部の人にも口からでまかせでハッタリを云って平気である。
こうした本質から見れば 昨年一月以降の学会の宗門に対する態度は決して一時の行きすぎと云うものではなく 用意周到に計画された路線であり逆に九月以降はマスコミや内部造反にゆすぶられて 対宗門対策を一歩後退させたにすぎない事が明らかである。 況(ママ)が変れば再び攻めてくる事は自明の理であり その時は、はるかに狂暴(ママ)な復しゅうをともなうことも当然である。
このことは言論問題の四十五年の前と后、妙信講問題の一つのピークであった四十七年から四十九年まで そして妙信講問題の第二のピークであった四十九年から五十年五十一年への経過をみればはっきりしている。
学会はチャンスとみれば かさにかかって宗門を弾圧して風向きが悪いとみれば手の裏(ママ)をかえしたように頭を下げる そのくり返しの中で次第に目的を達しているのである。学会側のスケジュールでは、あと三年で経済力もととのい、会員も学会独自路線につかせてしまうことが出来墓地や会館等の施設によって固定化出来ると云っており 猊下の在位もその頃までとみて それから チャンスと云っている。
又与党との連合にせよ、国家権力に関 する(ママ)ようになれば 社会からの圧力は弱まり遂に権力をもって 宗門を押えることが出来ると云っている。
一千万世帯をこえれば本尊下府(ママ)はなくとも良い。国の法律で本尊を国有化することも出来るのではないか、宗教法人法の改正も出来よう。
総監、教学、庶務部長、常泉寺派、その他 要所の僧は弱味をにぎり、あるいは懐柔しつくしているから、だれが次の猊座にのぼっても自分達の意のままである。(これらの人は前回、前々回の危機のとき必死で学会を助けた。
こうした考えが学会の根本路線である以上 宗門側として とるべき道は二つしかないように思われる。
それは、一つは妥協し、あるいは何もしないでいて学会の主導権を許し やがて吸収されることに甘んじることであり 今一つは ここ二、三年の内に決着をつける戦いをすることである。昨年はじめ、池田会長は一昨年の総選挙の勝利を背景に、力で宗門を押える作戦に出た。
その行きつくところは猊下を退座させることに目的はあった。(もう一息だったと残念がっていた)その為の第二段の火ぶたを切ろうとしていた矢先 五月から、民社党のつきあげが始まり八月からマスコミの集中攻撃にさらされ、内部からの造反も出て来た。
そこに 宗門からの反げきがあり 止むを得ず引き下ろうとしているのが現況である。
そのやり方は猊下にだけ こっそり頭を下げ 猊下の権威をとりこにして、それで末寺の僧侶に対抗しようと云うものである。又会員に対しては謝罪したことや自己批判の事実をひたかくしにかくし 猊下のお言葉や講義を新聞等にのせて〝猊下はこの通り学会を信頼している 末寺の僧侶は、〝猊下の心に反している〟と云う論法で切りぬけようとしているのである。
末寺に対しては〝会員が行って供養さえすれば文句を云わなくなる。僧侶はしょせん金だ。次元がひくい。学会はそんなことにこだわらず金はくれてやろう。そして高尚にゆこうと云っている。
宗務院の中権(ママ、註、早瀬総監と阿部信雄教学部長)はにぎっているから あとは猊下さえまるめこみ、そして末寺は信者が行って供養さえしていれば不満はなくなる〟という考え方で対処している。
そして一方では必死になってマスコミを懐柔し 民社、自民等 政治権力に妥協し当面の危機を切り抜けようとしている。今回の事も マスコミがさわいだり国会で取り上げられる様な問題がなければ 本山に頭を下げる必要は全ったく(ママ)なかったと考えているのである。
この事は即ち外部的な危機が去れば 再びすさまじい報復と弾圧を宗門に加えようとしている事に他ならない。事実、池田会長は九月以来僧侶の言動に歯ぎしりしてくやしがり〝必ず仇をとる〟とわめきつづけていた。
会長の性格からみて 必ず そうするであろう。
即ち妥協することは、あとで必ず仕かえしをされると云うことである。哀れなことには、総監(註、宗門の早瀬総監)、教学(註、宗門の阿部信雄教学部長)等は、自分達は学会側だから、その報復の外にあると考えているようだが、会長はじめ学会側の認識は これらの人の保身と立身欲を見抜いており 馬鹿にしつつ利用しているだけである。したがって報復を受ける時は一緒に受けると云う事に気付いていないらしい。
ところで対決すると云っても 今のように表面猊下に頭を下げて来る作戦に出られると方法がむづかしい。
大義名分とスケジュールと方法を充分に練ってかゝらなくてはならない。


大義名分としては
 一、過去において何回か謝ったが その後一向に変らず都合がよくなると、又、変な事を始める。今回もはっきりしないものがないままあいまいには納められない。従って次の事をはっきりさせないうちは 追及は大大的につづける。三ヶ月たって変らぬ時は手を切るとの最終通告を出す。
  イ、教義上 誤りを犯した事について はっきりと、誤りを認め訂正する文書を□□□にのせるべきである(文書は本山で起草する)
  ロ、責任者の処遇をはっきりする(詫び状等
  ハ、今後、二度と誤りを犯さないとの誓約書をさせる。
  ニ、末寺の僧侶に対する悪口については会員の前で訂正させる(県の会合で僧侶出席の上で)
  ホ、選挙と信仰は無関係である旨宗門で声明を出す(支援はするが)
  ヘ、信者の団体として絶対的独裁的な形態は望ましくないので選挙方法の民主化を要望する。
  ト、寺院及び僧侶、法ヶ講の自由をみとめさせ、干渉しないことを誓約させる。
 と云う事がひとまず云える。
勿論、これまでの会長の功積(ママ)や学会の功を充分認めた上で、だからと云って謗法は許されないと云う論法で波木井、実長を引き合いに出すのも一つの論法である。
学会側としては これは とうていのめないと思うが のめなければ、手を切る方向に外ぼりをうめたこととなり次の戦いが有利となろう。
いづれにせよ、学会は池田会長のあるかぎり本質的には変らない、故に僧侶の心情的抑圧感は永久化されるであろう。これを払うには、今が千載一偶のチャンスであることは、間違いない。
決断の時であると思われる。当面は出来るかぎり多数の僧が全国的に具体的な証拠をあげつゝ 教義上の問題をとりあげて信者に対してうったえ かつ僧侶間では討議をしながら盛り上げて行く事が第一歩である。それは中途半端な妥協の道を見せず思いつめた形でやるべきである。
次に信者を組織化して行くことである。早急に各寺で五十――百人の組織化が望まれる。
その為に理論武装用のパンフレット等が必要である。
宗門と学会の間の永い経緯や最近の出来事 学会の主張の誤り等々を理路整然と調え 猊下の御説法を加えたものが望ましい。
これを僧侶有志と云う名義人で五十万部位つくり各方面に配布する。
宗内では 態度のおかしい僧侶の粛清をするべきである 獅子身中の虫をとりのぞかなくては戦いは出来ない。小分裂も辞せずの決意でのぞむべきである
折をみて マスコミの取材に対してはっきりとしたコメントを出すべきである
納骨堂、墓地等を極めて積極的にすすめるべきである。又寺院の経営に協力的でない総代を追及し罷面する事もこの際必要である。
法ヶ講青年部を集めて激(ママ)を発し 戦闘に参加させる事も必要である。
本山周辺への根廻しも充分しておく必要がある 若し登山会を中止する等のことがあれば 一般紙に広告を出して全国の信者に本山の外護をうったえることも有効と考えられる。
こうしたことを僧侶の大多数の意見具申にもとずくもの、と云う大義名分の形をつくってあつめるべきである。個人の責任にされたら集中攻げきを受ける 宗会等のつかい方も重要である。
当分の間猊下におかれても学会側の力ぞえになるような言動を差しひかえて頂く事が望ましい。

 追伸

学会側の見通しは内藤国夫はもう一回次号で書く(おさえきれない) 国会は二月上旬まで何もなければ切り抜けられる(民社、塚本を抑えるため、会長と民社委員長の会談まで考えている)
本山は末寺の僧侶が多少さわいでも 猊下さえ押えればどうと云う事はない。今頭を下げているから大丈夫である。猊下は 足利将軍みたいなものだ。(会長が信長)
内部の造反は石田次男 聖教職員等皆押えた。
公明党も持ち上げているので大丈夫だと云うものです」




 山崎正友は、前述したが、池田大作の忠実な弟子であり、様々な謀略を含めて、池田大作の指導・思想を忠実に受け継いでいるといえる。
 日蓮の本来の教えに背き、己義を構え、多くの純真な信者を巻き込んで争い合う修羅道の者たちの姿は、釈尊と提婆達多以来にわたって、仏教史の大いなる汚点であるといえよう。

 

P51へ、続きます。
 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」