●39  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件 | ラケットちゃんのつぶやき

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●39  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。

 前ページからまた更に続いて、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討を、「新・人間革命」での描写も併せて行った。


■正当化に利用された立正安国の原理


 前回に続く謝罪講演で、池田大作は、日蓮の立てた立正安国の原理へ言及している(同書P27-28)
 「次に、創価学会より公明党をなぜ誕生させたか、これについて、多少むずかしい論理になりますが、立正安国・王仏冥合の原理を通して、その意義を明確にしておきたいと思います。なぜなら、立正安国こそ、日蓮大聖人の教えの根幹であり、私どもの実践の基本原理であることには変わりはないからであります。
 日蓮大聖人の仰せは〝安国〟を実現するためには、根底に〝立正〟がなくてはならないということであります。立正とは正法を立てることであり、色心不二の生命哲学をもってする、未曽有の宗教革命のことであります。これは、個人の内面の信仰の次元であります。安国とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります。立正が宗教の次元であるのに対して、安国は社会の次元であります。
 故に、安国の直接的に拠って立つ理念は何かといえば、それは生命の尊厳の理念であり、人間性の尊重、絶対平和主義の原理であります。

 立正と安国の接点
 これらの理念は、宗教のいかんにかかわらず、人種、民族、イデオロギーのいかんを問わず、人類に普遍する理念であります。いいかえると人間の本源から出てくるものといってよい。一切は、この〝人間主義〟から出発するのであります。
 宗教もまた、この本源たる理念を究明していくものであります。すなわち、この理念を掘り下げ、確固たる基盤を与えたのが、日蓮大聖人の仏法であり、それを信ずるのが、私どもの信仰であります。したがって〝立正〟と〝安国〟の接点は、これらの理念であり、しかも信仰は、それ自体が直接、社会的な行動にあらわれるのではなく、人格の陶冶を通じ、具体的には、生命の尊厳等の理念の反映としてあらわれてくるものでなければならない。
 この原理は、すでに私どもが信仰と生活、仏法と社会の関係として、日々、実践している通りであります。すなわち、社会的活動の次元には、宗教性を持ち込む必要は毛頭ないし、むしろ、直接、持ち込むことは、信心即生活の誤った解釈であり、立正安国、王仏冥合の原理からの逸脱といっても過言ではありません。
 したがって、生命の尊厳、人間性の尊重、絶対平和主義という普遍的理念をいかにして具体化するかという〝技術〟が政治の次元の課題となるわけであります。我々が公明党を誕生させたのも、その理念を政治の分野に実現してほしいという純粋な気持ちからであり、その願いは今なお一貫して変わっておりません。
 公明党は、安国の次元に立つものであり、立正を問題にする必要はない。むろん、個人として立正を確信することは信教の自由であるが、党としては一切、宗教上の問題を政治の場で論議する必要はない。また、あってもならない。また、宗教上の目的を党の目標とする必要もないし、すべきでもない。あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を遵守し、宗教的には中立を貫き、政教分離でいけばよいと思うのであります。
 ただし、生命の尊厳を根本に人間性の尊重、絶対平和の実現という理念・理想だけはどこまでも堅持しきっていく政党であってほしい。そのかぎりにおいて、同じ志に立つ、優れた人物を、公明党として推薦することにも、我々はなんら意義はないし、選挙にあっても喜んで応援することもあるでありましょう。
 公明党が宗教的中立に立ち、宗教上の目的を政治の場で追求するものでないからといって、公明党の存在意義がいささかも減少するものでないことは、以上のことから考えていただければ、明白であろうと思いますが、いかがでありましょうか。
 逆説的ないい方をすれば、もし公明党がなければ、これだけの庶民大衆のエネルギーは、現在の政治地図のなかに、確固たる位置を占めるまでにはいたらなかったはずであります。大部分が政治的無関心層として姿を没してしまったか、あるいは日本の社会に亀裂を深めていく作用をしていたかもしれません。
 以上は、政治の分野を一例として申し述べましたが、更に王仏冥合の原理について論及しますと、立正安国の〝立正〟が王仏冥合の〝仏〟であり〝安国〟が王仏冥合の〝王〟になります。
 仏法でいう王とは、全民衆、全社会を包容した内容であり、もはや、国王を指すのでもなければ国家権力でもない。現代的にいえば政治、教育、文化等、社会全般のことを指すと考えるべきでありましょう。主権在民の現代では、民衆が王であり、社会が王なのであります。
 故に、現代においては、単に政治という限られた分野にとどまることなく、より広く民衆、社会のあらゆる分野にわたって、底流を築き、その上に、広範な、新しい社会の建設、文化の建設がなされる時代であることを訴えたいのであります。
 また、王仏冥合、立正安国が、あくまでも宗教による人格の陶冶を基盤とするものであり、直接、社会的活動の次元に信仰を持ち込むのでないことは、政教一致との根本的な違いであり、政教分離の原則に立つものであることも、ここに明確に申し上げておきたいのであります」



 この部分に対する「新・人間革命」の記載は、P303-305にて、以下である。
「また、彼は、立正安国論の原理についても、再確認しておきたかった。それは、公明党と創価学会の関係を考えるうえで、最も根本的な問題であったからである。
『日蓮大聖人の仰せは〝安国〟を実現するためには、根底に〝立正〟がなくてはならないということであります。
 〝立正〟とは正法を立てることであり、生命の尊厳を説く仏法の生命哲学をもってする、未曽有の宗教革命のことです。この宗教革命によってこそ、各人の人間革命が可能になる。これは、個人の内面を対象としており、信仰の次元の問題です。
 〝安国〟とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります。〝立正〟が宗教の次元であるのに対して、〝安国〟は社会の次元であります。
 そして、〝安国〟の直接的に拠って立つ理念とは、『生命の尊厳』であり、『人間性の尊重』『平和主義』の原理であるといえます。これらは人間の生存の本質から発するものであり、宗教、人種、民族、イデオロギーを超えて、人類が渇望する普遍の理念であります。その実現をめざすものが〝人間主義〟であり、ここが、すべての出発点であります』
 伸一は、宗教もまた『生命の尊厳』『人間性の尊重』『平和主義』の理念を究明していくものであり、日蓮大聖人の仏法は、この理念に確固たる実体を与え、その仏法を信じることが、私たちの信仰であると述べ、こう訴えた。
『これらの生命の尊厳等の理念こそ、〝立正〟と〝安国〟の接点であります。ゆえに、立正安国とは政治などの社会的な活動の次元に、直接、信仰や宗教それ自体を持ち込むことでは、決してありません。
 信仰によって陶冶された人格に、生命の尊厳等の理念が反映され、社会的な活動として結実していくことが、立正安国の実現へと向かう姿であります。そこが、政教一致との根本的な違いといえます。したがって、社会的活動の次元に、直接、宗教を持ち込むことは、むしろ、立正安国の原理からの逸脱といっても過言ではない』
 さらに、生命の尊厳等の普遍的理念を、いかにして具体化するかという〝技術〟が政治の課題であり、公明党誕生の意味もそこにあることを語り、党と立正安国の関係を述べた。
『公明党は〝安国〟の次元に立つものであります。議員等が個人として〝立正〟の問題を考え、信仰に励むことは信教の自由でありますが、党として〝立正〟をテーマにし、宗教上の目的を党の目標とする必要はないし、すべきでもない』
 したがって、党は、あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を遵守していくべきであるとの、考えを伸一は語った。
『ただし、生命の尊厳を根本に、人間性の尊重、恒久平和の実現という理念、理想だけはどこまでも堅持していく政党であってほしい。その限りにおいて、同じ志に立つ優れた人物を、公明党として推薦することにも、われわれはなんら異議はないし、選挙にあっても喜んで応援するものであります』」



 大事な事と思われるので、少々詳しく、その前提となる背景とともに文面を検討することが重要である。

 謝罪講演で「仏法でいう王とは、全民衆、全社会を包容した内容であり、もはや、国王を指すのでもなければ国家権力でもない。現代的にいえば政治、教育、文化等、社会全般のことを指すと考えるべきでありましょう。主権在民の現代では、民衆が王であり、社会が王なのであります」
 と述べているが、これは、池田大作の謝罪の真意ではなく、原島崇などの入れ智慧であったかもしれないことは、その後の歴史が証明している。
 本当にこう思っていたならば、その後の洗脳や謀略はなかったはずであろう。

 そもそも、前ページで指摘したが、池田大作は、
「王仏冥合は、私どもの大理念であり、大指針であります。一往は王といえば創価学会、仏といえば日蓮大聖人の大仏法ですが、再往は、創価学会のこの五百四十万世帯の結合、団結、これが仏であり、公明党等を先駆とした活動は王であります」(前進1966/11)
 と王仏冥合の定義を述べている。
 だから、謝罪講演でこれを全面的に改めたことになるが、過去にこう定義していたことについては一言も謝罪はない。
「その意義を明確にしておきたい」などといいながら、それまで上記の誤った理念に基づいて前ページで指摘した池田大作の『天下盗りの野望』をなかったことにして隠蔽し、さも創価学会当初から、『これらの理念は、宗教のいかんにかかわらず、人種、民族、イデオロギーのいかんを問わず、人類に普遍する理念であります。いいかえると人間の本源から出てくるものといってよい。一切は、この〝人間主義〟から出発』して活動をしていたと、逆のぼって正当化している。

 さらに、「新・人間革命」では、そもそもこの部分で王仏冥合についても触れずに隠蔽しているのである。

 そして、「人間主義」、「生命の尊厳」、「人間性の尊重」、「絶対平和主義」、「普遍的理念」などという用語は、根本的定義や理念の説明もほとんどなく、そこから醸し出される響きやイメージのみが、外部の来賓、マスコミや世間を煙に巻き、内部の会員を陶酔させるには十分な効果を発揮している。
 これらの用語については、今まで何回も述べてきたところの、封建時代の誤った日寬アニミズムを基底として「師弟不二」という絶対的従属関係を大衆に流布して、池田大作の『天下盗りの野望』を実現するためだけの用語として利用されているに過ぎない。
 つまりは、これらの本音は封建時代にできた理念の焼き直しであることを、鋭く喝破しなければならない。
 創価学会会員が、こういった池田大作の言う文言やイメージに陶酔するのは、自身の理想を池田に投影し、池田を無条件に受け入れているから言うまでもない。

 なぜにこうなるのかは、改めて後述するが、当時の日本の大衆には、第一次大戦、ドイツ革命後のワイマール共和国においてナチ党を熱狂的に支持した低層中産階級や、巻き込まれた労働者階級等に属する大衆の、多くを覆っていたサド・マゾ的メンタルや社会的境遇に共通する要素が色濃く見られることを、今は指摘だけしておく。
 
 「新・人間革命」でも、
 「〝安国〟の直接的に拠って立つ理念とは、『生命の尊厳』であり、『人間性の尊重』『平和主義』の原理であるといえます。これらは人間の生存の本質から発するものであり、宗教、人種、民族、イデオロギーを超えて、人類が渇望する普遍の理念であります。その実現をめざすものが〝人間主義〟であり、ここが、すべての出発点であります』」
 というのなら、〝人間主義〟の内容を明確に語らなければならないだろう。
 ここにおいての〝人間主義〟も、上述の如く、さらには拙論文P18-38までで現実に背徳的・反社会的行為などとして実例「実証」を挙げてきたことを説明する理念である。
 「生命の尊厳」「人間性の尊重」も同様であり、また、日寬アニミズムを根本としてきた創価学会であるから、拙論文で先述した日寬アニミズムの成立時における江戸時代の政治観・世界観や処施術が濃厚に反映された理念が本音として隠されているのである。
 それが、「その理念を政治の分野に実現してほしいという純粋な気持ちからであり、その願いは今なお一貫して変わっておりません」
 という本音にしっかりとあらわれている。

 「〝立正〟と〝安国〟の接点は、これらの理念であり、しかも信仰は、それ自体が直接、社会的な行動にあらわれるのではなく、人格の陶冶を通じ、具体的には、生命の尊厳等の理念の反映としてあらわれてくるものでなければならない」
 としてきた創価学会の実態が、今回の言論出版妨害事件として顕れた「実証」なのである。
 そもそも「人格の陶冶」が本当に具現していれば、このようなこと、さらには拙論文で指摘してきた背徳的・反社会的な行為は、一切あり得ないことではないか。
「具体的には、生命の尊厳等の理念の反映としてあらわれ」たことが、こうした背徳的な創価学会の実態であることを前提とすれば、「生命の尊厳等の理念」が、先述の如き欺瞞であることを裏打ちしていることは明白である。

 記念講演でもこうした欺瞞は各所に指摘できるが、「新・人間革命」では、
『これらの生命の尊厳等の理念こそ、〝立正〟と〝安国〟の接点であります。ゆえに、立正安国とは政治などの社会的な活動の次元に、直接、信仰や宗教それ自体を持ち込むことでは、決してありません。
 信仰によって陶冶された人格に、生命の尊厳等の理念が反映され、社会的な活動として結実していくことが、立正安国の実現へと向かう姿であります。そこが、政教一致との根本的な違いといえます。したがって、社会的活動の次元に、直接、宗教を持ち込むことは、むしろ、立正安国の原理からの逸脱といっても過言ではない』
 と、欺瞞が、さらに耳当り良く洗礼され素晴らしいイメージとして磨き上げられている。
 批判者たちの指摘する創価学会の実態をみれは、これが欺瞞であったことが明らかである。



 この記念講演で煙に巻かれ自ら陶酔した創価学会幹部たち、さらには40年後に「新・人間革命」で再び同様に、創価学会破門後に残った多くの高齢会員は、いまだに本音を覆い隠した素晴らしいイメージや言葉の響きに陶酔しているのであろうか。
 さらにシンパがそれなりに真実を知らない軽薄な著作も書き続け、それを学会員が購入して金もうけになっているが、世間の多くの日本人は自ら進んで「新・人間革命」を購入して読み評価することが少ないことは、子孫後継すらままならなくなりつつある今の創価学会の現状が物語っている。



 謝罪講演では、安国とは社会の次元である繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和のことで、その理念は生命の尊厳、人間性の尊重、絶対平和主義の原理であり、それを実現するには、個人の内面の信仰の次元で正法を立てる〝立正〟(〝正〟とは色心不二の生命哲学をもってする、宗教革命)がなくてはならない、とする。

 ただ、日蓮の血脈を受け継ぐのであれば、「生命の尊厳の理念」、「人間性の尊重」、「絶対平和主義の原理」を、封建時代の本音から、創価学会以外の全世界の知性を集めてアップデートすべきことは言うまでもない。
 ただし、ここでの考え方は、文意を別の意味で読めば、つぎに論ずるように、まさに日蓮仏法を現代において書き換えアップデートすべき内容となっている。





■日蓮仏法の書き換えアップデートの試み

 日蓮の遺文、日蓮の仏法を法則として見るためには、封建時代の制約、また未発達な科学や学問を、それらの縛りから解放し、現代の水準に基づいて書き換えなければならない。
 日蓮の遺文を文面通りに受け止めることは、当然に非科学的・不合理なものとなって、それをドグマとすれば非科学的で非道理のアニミズムになる。
 日寬アニミズムは、創価学会や日蓮正宗において、その典型である。

 そもそも、日蓮の示した三大秘法を、鎌倉時代の時代的制約をはずして一般化した表現にすれば、本門の本尊は南無妙法蓮華経=一切根源の法、本門の題目は南無妙法蓮華経の唱題、そして本門の戒壇は、個人が確立した各自の頭の中のイメージで、自身が本尊に題目を唱える一念の環境である。
 本門の本尊は法則であり、それと境智冥合するための曼荼羅は、本来自分が書き、自分の脳裏に描くべきであり、他が書いたものを代用しても良い。
 本門の戒壇は、自の頭の中のイメージを生成させるなら、各曼荼羅を安置するための家庭に仏壇をそなえるところが一般的だが、スマホやPCの画面でも良い。かならずしも寺院や会館のような、荘厳された建物である必要条件はない。

 こういった根拠については、以下のようになる。
 本門の題目は、日本語が日蓮時代からあまり変わらず、南無妙法蓮華経がそのまま通用するから、「南無妙法蓮華経」は、そのままでよい。
 マンダラは、日蓮当時は紙と墨が、学問階級や一部の庶民で普及していたもののうちもっとも安価で容易であったからであって、特別な絵師や仏師を必要としないことは、様々な格差のある万人に平等に広宣流布をめざす法則にとっては不可欠な要素である。

 むろん、現在は紙・墨・筆などに替わってIT・AIを駆使したPCやスマホがある。

 一部の家庭用ゲーム機などもこの機能がある。
 そもそも「弘法筆を選ばず」の諺の通り、日蓮自身は筆を選ぶ必要はなかった。

 我々凡夫は「筆を選」ばなければ目的を達することができないことは言うまでもないが、選ぶべき優れた筆はまわりにいくらでもある時代である。
 本門の戒壇は、個人が主権者として確立されていなかった鎌倉時代には、主権者の「勅宣ならびに御教書」も必要であったかもしれないが、現在は主権在民(国民主権)なので、自分自身で作れば、それが広宣流布となるのである。
 西洋では、マルキ・ド・サドの時代やルネサンス後から、事実上も幾分かは個人の自己確立がなされて、人民は確立した主権者(=国家)であった。

 多くの欧米諸国の民衆にとって、確立した個人が神と行う契約は、「対等の立場」で行うものであった。


 これに対して我が国の民衆は、戦前戦後も、自己の確立が極めて遅れている。

 いったい、我が国民の中に、神仏と対等の立場で契約を行う者がどれくらいいるだろうか。
 平安~鎌倉時代は一部の貴族階級や武士階級のみで、一般民衆には読み書きソロバンですら普及せず、それ以降江戸末期までは士農工商の階級制度の下、一般庶民は虐げられ、体制に隷属させられたままであった。
 明治時代では、天皇主権ではあったが帝国憲法の下、欧米との不平等な貿易を是正する戦いなど、国家意識の向上にともなって、ようやく一部の高級国民の間で個人の自己確立の風潮が芽生えた。
 女性の参政権も明治時代に入ってからである。
 敗戦によってようやくGHQの下、「基本的人権尊重」、「国民主権」、「平和国家」を原理・目的とする現憲法が制定された。
 これは、当時の帝国憲法と比較すれば格段の進歩であったが、まあ、個人が確立されていた勝戦国の都合によって与えられた、皮肉ではあるが有難い贈り物ともいえる。
 だから、当時の民衆は強制的に現憲法に隷属させられてきたといえる。
 決して国民一人一人が自らが自己の確立によって生み出した理念によっての憲法ではないし、相対的ではあるが優れた戦勝国の理念を精神的に受けいれる基盤はなかった。
 だから、単に隷属してきただけであって、現在においてもその自己の基盤は盤石とは毛頭いえない。
 残念ながら、その理念も含めて憲法改正の論議をまともにできる資格と能力のある、成熟した自己の理念を持つ国民は、少ないであろう。(現自公政権はこの状況を利用して都合よく憲法改正を企てているといえる)
 敗戦後から高度経済成長期までは、自己の確立を含めて、社会的にもさまざまな混乱にさまようことになった。
 こういった母地の中なので、御利益主義・現世利益を掲げる呪術式新興宗教が、雨後のタケノコのごとく発生した。
 日寬アニミズムは日蓮仏法の流れを汲んだ長年の歴史と教義体系があり、価値論と師弟不二を源流とする創価学会がこの時期に発展したのは、ひとえに日寬アニミズムの呪術的信仰を利用した要因が大きい。
 これは、平成に近づき入るにしたがって、人権意識の向上、フェミニズムの台頭、男女平等思想や国民意識の進歩とともに、少しずつ自己確立が進んだ個人が増えできた。
 この流れは、池田大作が数々の宗門との争いに敗れ、結局宗門を破門され、「大御本尊様」(=板マンダラ)を拝めなくなった前後あたりからの創価学会の勢力具合と、よい相関関係が示されていて、これをみれば明らかである。
 人権・平等意識の向上や男女平等参画社会も、昭和の終り頃になってからようやく本格的に立ち上がったといえる。
 それまでは、児童などの虐待、DV、教育現場の体罰やさまざまなハラスメントなど、現在問題視されていることのほとんどは、日常茶飯事であったから、個人の確立どころではなかった。
 だから、このような日寬アニミズムをはじめとする様々な呪術的・非科学的宗教や、射幸心をあおるギャンブルや詐欺が横行してきた。
 詐欺については、古くは電話・ハガキ詐欺などの小さなものから豊田商事事件など大規模なもの、近年では、小さなものはリフォーム詐欺、振り込め詐欺から特殊詐欺など、手のこんだものやマルチ商法等が頻繁にマスコミを賑わし、今日では仮想通貨を取り扱ったOZプロジェクトなどの大規模なものまで、古く戦後から続いてきている。
 板マンダラ事件をあげるまでもないが、科学的見地からは、詐欺手口と新興宗教の非科学的教義は、それが法律で守られているか否かの相違のみと言ってもいいくらいであると私は考えている。

 さらに、物質的に豊かになったが個人が未確立のままの民衆は、次々と様々な対象に精神的・物質的・社会的にも依存し、いわゆる依存症に陥る。
 この依存の対象は、全ての自然界の物質や現象、流行などの社会現象にまで及ぶ。
 主なその原因をあげると、酒・たばこや様々な薬物だけでなく、そもそも豊富な食べ物、ギャンブル、自家用車やエスカレーター・エレベーター、PC、スマホなどの物質文明機器にとどまらず、カネそのもの、権力、名誉、名声や、異性愛・同性愛や身近な家族・会社など、そして新興宗教やネズミ講組織、への共依存など、いわゆる○○中毒とよばれるところの精神的依存などへ、大いにつながっているのである。
 これらの依存症や自己確立の未熟性が、糖尿病や高血圧などの生活習慣病、うつ病や適応障害などの多くの精神疾患、ひきこもりやDV、さまざまないじめやハラスメントなどという社会問題の原因になっていることは周知のごとくであろう。

 そもそも、日蓮の時代は、民衆と言っても多くは無教育で権力者に隷属するしかなかったから、広宣流布には「国家諫暁」を要し、本門戒壇の建立も「勅宣ならびに御教書」が必要だったといえるのである。
 この時代と違って現代は、個人一人一人が、自身の肉体と精神を領土とし、それに主権を有する国家に相当するように、憲法の規定が整えられている。
 自殺や自傷行為等の、自分自身への犯罪行為は、司法の犯罪に問われる事がなく、プライバシーが保護されていることもこれに相当する。
 だから、日蓮の唱える三大秘法も、先述のように書き換え、アップデートしなければ、現代以降の真理・法則にはならない。
 日蓮の真意を現代における「広宣流布」について演繹すると、鎌倉時代当時の「国家諫暁」は、現代では確立された個人=「自らの肉体と精神に対して主権を持つ国家」への諫暁に相当する。
 一閻浮提の広宣流布とは、これのみならず、日本にとっては国連に相当する日本政府(国会、司法、行政)へ、そして国連にとってはさらに上位組織となっているグローバルな企業・組織やネットでつながったイデオロギー集団などへ、拡大しているのである。
 日本政府が国連や多国間で交渉するのと同様な対応が、個人間の布教精神に相当することになる。
 だから、戸田時代からの強引な個人(主権が確立されたとみなされる個人に対する)折伏は、国家が他国へ内政干渉したり、主権侵害、他国侵略をすることにあたるのである。
 世間の評論家やジャーナリズムが、その創価学会の布教拡大にナチズムの影を見たのも充分納得できることである。
 また、自己が確立された個人国家にとっては、「勅宣ならびに御教書」とは、自身に対する信仰の信念を文面化もしくは記録することにほかならず、本門の戒壇も、自己の主権が及ぶ環境に信念に従って建てることに相当する。
 いままさに私が拙論文において、日蓮の本意に基づいて、三大秘法の定義も含めて、先述のように書き換えておく。



 こうした視点から、謝罪講演のこの部分を検討する。



 「立正安国こそ、日蓮大聖人の教えの根幹であり、私どもの実践の基本原理であることには変わりはない」 と主張するのは、創価学会に限らず自由勝手である。
 しかし、「日蓮大聖人の仰せは〝安国〟を実現するためには、根底に〝立正〟がなくてはならないと」 しながらも、根底にあるべき「立正」の科学的学問的水準が時代遅れの鎌倉時代にとどまったまま、全く進歩がないのである。
 つまりは、「立正とは正法を立てること」の「正法」に対して全く検討・修正・更新することがなく、これをそのままドグマとして言い張っていることである。
「色心不二の生命哲学をもってする、未曽有の宗教革命」が、〝鎌倉時代の未更新の論理〟「のことであります。これは、個人の内面の信仰の次元であります」としているので、結局のところは「個人の内面の信仰」も、時代遅れの非科学的呪術的信仰になっている。

 この「立正」の「正」(=正しい教え)が、時代遅れの非科学的呪術的内容も含んでいることをきちんとおさえておくことが、最も重要なのである。

 さらに「安国とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります」とあるが、「社会の繁栄」「民衆の幸福」「世界の平和」も、同様に時代遅れの鎌倉時代の民衆にとってのものを、創価学会は、現代社会や民衆にそのまま当てはめた。
 この結果が、この言論出版妨害事件となって現証として現れてきているのである。

 日蓮の立正安国論は、「立正」の内容の根拠が、前述の如く当時の低レベルの学問であり、それを基準としての「正法」なのである。
 さらに、この「正」の検討にあがっているのは当時の仏教や外道の論理のみであり、先進科学や近代的哲学などは全く検討されていないのはいうまでもない。
 また、同様に「安国」についても、「社会の繁栄」が、鎌倉幕府のような独裁政治によってなされる繁栄、「民衆の幸福」も、義務教育が全く無く教育レベルがほとんどゼロの民衆にとっての幸福、「世界の平和」も、当時のインド・朝鮮半島、中国などしか交流がなかったときの概念によって唱えられた平和観(義農の世などという、賢者による独裁平和)を理想・目標とする内容にとどまっているのである。
 これをドグマとして盲信し、社会にあてはめる際にも、自分たち組織の都合の良いような独善を唯一絶対として主張し、これに非科学的功徳論と罰論と張り合わせた手前ミソとして、立正安国論の名前を語っているにすぎない。


 日蓮の立正安国論を、現代に演繹するには、日蓮が当時で検討した学問(当時日本に伝来していた仏教や外道)を、現在における全世界の自然科学・思想・哲学にまで広げ、その中での「正」を立て(=「立正」)なければならず、また「安国」についても、現在のグローバル社会の国際状況、経済状況、また地球環境状況などに広げて総合的に検討しなければ、日蓮の唱えた「安国」にならない。
 創価学会は、その源流から、現在に至っても、この作業を全く行うことなく、ただただ鎌倉時代の古臭い結論を、現代という新時代に無理やりねじ込んで、ドグマを宣揚・讃嘆しているのである。
 たとえば日蓮は立正安国論において「彼の一凶を禁じ」ることを鎌倉幕府に諫暁している。

 この「一凶」とは当時の「念仏」であるが、文字通り解釈したら、新時代において念仏だけを禁じても、安国が実現するはずがないことは、賢ければ高校生でも中学生でも判断できる事例である。
 立正安国論の文脈から「一凶」の検討をすると、現在においては独善的アニミズムもその一つであることが分かるが、これは、批判を拒否する創価学会の体質そのものでもある。

 こういった論点からしても、池田大作を最高指導者とする創価学会は、立正安国論をはじめとした日蓮の仏法を、名目ばかりでまったく心肝に取り入れることなく、根幹にすることもなく、自身の組織拡大や野望実現の方便として利用していたにすぎないことが分かる。

 このことは、「王仏冥合」についても同様である。
 日蓮のいう、「王仏冥合」は、文字通りの意味は、あくまで鎌倉時代当時の「王法」(封建時代の独裁政治)と、「仏法」(当時日本に伝来していた仏法から導いた、南無妙法蓮華経)の冥合(最高権力者も、その統治下の民衆も南無妙法蓮華経を受持すること)である。

 現在において、自己の確立した個人(主権の国家)内においての「王法」とは、自己の成熟による個人的理性に基づいた倫理・道徳であり、その賞罰も自分に対して行うものである。
 自分へのご褒美とか、自己への投資などと表現されるのがこれにあたる。
 その自己の中で広宣流布される「仏法」は、科学的・道理的水準の法則であるべきであり、非科学的な日寬アニミズムや盲目的隷従を強いる「師弟不二」であってはならないことはいうまでもない。

 日蓮も「心の師となるとも、心を師とせざれ」と六波羅蜜経を引用している(御書P1088)ように、日蓮仏法が法則として永遠に真理であるためには、IT・AI時代である現在の学問的・科学的水準に書き換えた法則でなければならない。
 こうであってこそ、はじめて日蓮の言う「王仏冥合」が、自立・確立した個人国家内で実現するのである。
 そして、他国(他人)への広宣流布も、ナチズムのような征服や、資本や権力によって従属を強いたり、詐欺や洗脳等であっては絶対にならないのである。


 創価学会は、公明党を世に出して、天下取りの野望を日蓮仏法の「広宣流布」として、都合よく喧伝し、文字通りの鎌倉時代における独裁的・封建的「王仏冥合」を実現しようとしたのである。
 したがって、しだいに近代社会との軋轢を招き、この事件は起こるべくしておこったといえる。

 そういう観点から、この謝罪演説を見ると、策謀的謝罪のあとに美辞麗句でもっともらしく展開されているこれらの理論は、まったく日蓮仏法ではなく、日蓮の姿勢にも似つかない論理であることが分かる。

「仏法でいう王とは、全民衆、全社会を包容した内容であり、もはや、国王を指すのでもなければ国家権力でもない」というのは、都合の良いこじつけである。
 もし文字通り解釈するなら、公明党など必要がない。
 本当にそう考えているのであれば、前述した通り日蓮仏法の姿勢に沿って、全世界の思想哲学に広げてその勝劣を検討した「最も正しい法」だけ流せばいい(これが日蓮の言う「立正」である)のであって、組織拡大自体も必要ないのではないだろうか。
 公明党を結成した本音は、国会で多数を占め、国家権力を握ることは、前ページで指摘したごとくである。
「政治でも、政党になれば政権をとるという終着点がある」(池田大作著「会長講演集」第十一巻、1965/1/2、創価学会、P213-217)


 「安国の直接的に拠って立つ理念は何かといえば、それは生命の尊厳の理念であり、人間性の尊重、絶対平和主義の原理」と讃嘆している基底となっているのは、古臭い日寬アニミズムに基づく独善的・盲目的信仰であったことは、何回も繰り返し繰り返し述べてきたし、それが生み出してきた江戸~昭和の歴史も先述した。
 その中には、真水となる「生命の尊厳」も「人間性の尊重」も「絶対平和主義」も、どこに見いだせるというのか。
 結局は会長、法主などの権力者にそれぞれ手駒・奴隷となって盲従することが、最大の幸福・使命と洗脳されることを、「生命の尊厳」「人間性の尊重」とか「人格の陶冶」等と言い張っているのである。
 これらの文言の本来の意味の中に、独善が入り込むことが微塵もないことはいうまでもない。
 同時に、これを受けいれる民衆の側にも、自己の確立が未熟で、それを受けいれることに最大の喜びや使命を感じるという境涯、いわば畜生界・修羅界・餓鬼界の境涯が主になっていることを指摘しておく。
 これは、先述したが、哲学的にはエーリッヒ・フロムの指摘している「権威への逃走」であり、ナチズムが発展した基盤となった大衆心理である。
 真実の追求の伴わない「人格の陶冶」など、現実にはありえない妄想であることを指摘しておく。

 この記念講演で池田大作が、
「現代においては、単に政治という限られた分野にとどまることなく、より広く民衆、社会のあらゆる分野にわたって、底流を築き、その上に、広範な、新しい社会の建設、文化の建設がなされる時代である」
 と、美しい言葉でいうところの文化(=創価学会が言う文化)の底流は、上記の日寬アニミズムに基づいた「師弟不二」という絶対的主従関係なのである。
 そこでは、事実上すべての弟子はどこまでいってもたった一人の頂点にいる師の手駒・捨て駒、奴隷でなければならないから、「生命の尊厳」「人間性の尊重」とか「人格の陶冶」という美化された文言も、所詮は幻想でしかない。
 もし、そのなかで対社会的に実現化された部分があるとすれば、それはそれ以外の個人的な哲学的努力による要因であろう。



 権力者が所従を支配し我が物の如く扱う快楽は、マルキ・ド・サド著「閨房の哲学」(秋吉良人訳、2019/4/10、講談社文庫)に、また奴隷として使える快楽や信念は、L・ザッヘル・マゾッホ著「毛皮を着たヴィーナス」(種村季弘訳、2004/6/20河出書房新社)に、また鈴木孝編「奴隷の詩学~マゾヒズムからメイド喫茶まで」(2006/7/20、書苑新社)では、他に隷属し、しもべになることの悦楽について多くの例が解説されている。また、その他さまざまな官能小説やコミックが存在する。

 「暴君たちが豊かでいられるのは、ひとえに奴隷の数にかかっている」(「閨房の哲学」P254)
「人民はその一人一人が君主〔主権者〕なのだから、(子供の数が)増えすぎないように用心することだ。革命はあまりに多くなりすぎた人口の結果でしかないことを肝に銘じるのだ」(「閨房の哲学」P255)
 「神について、まるで本当にそんなものがいるかのように話したそうですね…中略…宗教については、宗教的礼拝が最も強い者の欺瞞と最も弱い者の愚かしさから生じたものではないか。イエス・キリストについては、まるでこのげす野郎がペテン師でも悪人でもないかのように講釈を垂れた。おまけに、〝やる”のは罪悪だと言ったそうだが、あべこべもいいところだ。〝やること″こそ人生で最も甘美な行為じゃないですか。」(「閨房の哲学」、P299)

 「殉教者たちは獄屋につながれて呻吟し、火焙り器に掛けられて拷問され、矢に射抜かれ、ぐらぐらと煮えたぎる瀝青のなかに放り込まれ、野獣どもをけしかけられ、十字架に釘付けされ、しかもこの怖ろしい苦痛を一種の歓びとともに味わっていたのでした。苦痛に耐え、残忍な責苦に耐えることが、このとき以来私には享楽のように思えたのです。その執行者が美しい女性ならまた格別です…中略…私は女を荘重な礼拝の対象にしたのです」(「毛皮を着たヴィーナス」、P67-68)


 支配者と被支配者の立場は異なるが、自らすすんでそれぞれの状態に聖なる至福を見出しているのであり、それを正当化する理屈はあとからいくらでもこじつけられることである。
 仏法では、こういった心理はすでに天台の一念三千に解説されている。
 すなわち、その法理のなかにある十界互具では、どちらも畜生界・修羅界・餓鬼界の生命に縁覚界が具足している状態とみることができる。

 また、以下の指摘、
 「奴隷にとって、主人がより高いところにいる存在であればあるほど、それを汚す存在として高められる…中略…
 奴隷はセクシャリティとは別のところに存在する。一見、関係なさそうな、社会構造の中に埋め込まれた奴隷はどうだろうか。例えば、沖縄の米軍基地に象徴されるように、日本がブッシュの奴隷のようにふるまう状況。あるいは、日本人の多くが国民を奴隷にするようなさまざまな法案(たとえば共謀罪法案であり教育基本法改正案)に対して強い拒否反応が示されず、一方で強いリーダーというイメージを求める状況。本多勝一が言うところの、日本人は羊型遺伝子を持っているということだろうか。だが、そうした遺伝子を持っているかどうかはともかく、ポピュリズムを求めるメンタリティというのは、強い主人を持つことによって、それに支配されようとも、それによって自分たちがエンパワーメントされるという幻想をもつことができる。でも、それは本当に幻想でしかない」(鈴木孝編「奴隷の詩学~マゾヒズムからメイド喫茶まで」P140)
 は、現代の世相の例をあげた卓見である。

 なかでも、
「ポピュリズムを求めるメンタリティというのは、強い主人を持つことによって、それに支配されようとも、それによって自分たちがエンパワーメントされるという幻想をもつことができる」
 この指摘はまさに、池田大作を頂点とする創価学会幹部と会員との絶対的主従隷属関係「師弟不二」の側面を言い当てている。
 つまり、創価学会に所属し池田大作を永遠視しする会員や幹部は、彼を頂点とする虚飾され拡大視された組織も含めてこの世で未曽有・唯一絶対のものとの讃嘆し、組織に金や時間や労力を尽くすことで、あたかも力(エンパワーメント)や福運を得ているという幻想によって生きているといえるのではないだろうか。

 ただ、前世紀の終りに近づき、情報社会の進展につれて、人権意識の向上、男女平等参画社会の進展、さまざまなハラスメントの排除など、さまざまな個人の確立の機会が増えることで、個人の自立・確立が促される機会が多くなった。
物質文明の進展で、物が豊かになっていくにつれて、既成の権威に対抗し、自由・平等を自らの戦いによって得て行こうという風潮が強くなってきた。
 ようやく自己確立への風潮が、国民の間に徐々に広まってきたのである。
 創価学会の発展が頭打ちになり、現在減少傾向に見られると思われるのも、こういった、依存する対象の多様化の流れと相関関係にある。
 自ら人格を陶冶し確立し、様々な人権闘争や改革、ボランティアなどに加わる人が増える反面、自己の確立が未熟な者が依存する権威も多様化・複雑化し、また依存する対象が薬物、酒タバコ、ギャンブル、性、スマホやペットなど、人間に快楽をもたらすあらゆるものに広がっている。
 これに深刻な少子高齢化や、うつ病などの精神的疾患の増加も加わって、精神的な「格差」は、数字上の相対的貧困の根拠となっている経済的格差とは比較にならない程、おおいに拡大しつつあるのが、現在の大衆の心理状態である。
 だから、こういった、人間に快楽をもたらす対象が洪水の如く日常に渦巻いている中では、創価学会の言い張っている隷属関係の「師弟不二」や日寬アニミズムに魅力を感じる若者が相対的に年々減少することは、現代文明の発達進展過程における自然の成り行きともいえる。


 現在も、創価学会は、古臭い日寬アニミズムを仏法の基本とし、池田大作を永遠化した「師弟不二」という俗世の絶対的服従関係を礼讃・根本視しながら、かつての池田大作を売り込んでいるが、現代の日本の多くの若者の琴線には届くに及んでいない。
 それどころか世代間再生産(子孫継承)をもままならない状態の地域が出てきている。
 このコロナ禍に入ってからネット会議を導入しても参加者が伸びないどころか、広宣流布のミサイルと言われた聖教新聞等を無償で配達する会員「無冠の友」が高齢化して減少し、その配達を地域の他社新聞販売店に委託する事態に陥っている地域が続出していることも、それを示唆する。
 エックスデー後には、世襲が検討されているという指摘もある。
 かつての戸田城聖は、世襲を否定し、池田もかつてはそのことについても、小説「人間革命」に書いていたが、現在の販売されているバージョンには、この部分が書き換えられて隠蔽・改竄されている。
 そういった部分は、私が敢えて指摘しなくても、歴史を通じて誰かが指摘していくであろう。
 栄枯盛衰、毀誉褒貶の姿なのである。

 ただ、エックスデーがあっても、一旦これだけの大組織になってしまったものは、衰退の過程は世代単位の長きものになるであろう。
 源氏が三代続き、北条氏の徳川幕府も、さらには足利幕府、徳川幕府がどれだけ続いたか等、歴史をみれば明らかである。






 話は戻り、総じて、こういった日蓮の遺文の、現代の学問水準、科学水準に基づいて、日蓮の真意や精神を再検討し、法則として信じ持つ(受持する)観心の本尊の定義などを、アップデートする作業が、正しい広宣流布の過程において、是非とも必要であることを述べておく。


 もう一つ、大いなる目的である広宣流布達成の様子の一場面を日蓮は
 「天下万民・諸乗一仏乗と成つて 妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば 吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ 現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり。」(『如説修行抄』御書P502)
 と書き残している。
 この遺文は、選挙の票取り時などに頻繁に利用され、創価学会員がハッパをかけられているが、文字通り読めば、社会的に、自然科学的にあり得ない幻想である。

 創価学会員は、この毎年天災地変や疫病が続く中、世界中が「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え」たら現実に「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」となると、本当に心の底から正しいと考えているのだろうか。

 末端組織内でこういった不条理を指摘すると、「信心がない」、「御書を疑うことは謗法だ」、「罰が当たる」などと、切り捨てられるのである。


 この遺文も、自立した個人国家=自己の内面の中に限定すべき内容である。
 「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」や「現世安穏」とは、仏界の生命の湧現の一例、「代は羲農の世」とは、人格の陶冶の結果、「人法共に不老不死」は、医療技術の進歩による永遠の生命の確信にほかならない。
 よって、
「確立された自己の、すべての倫理・道徳や哲学的信念が、南無妙法蓮華経=宇宙一切根源の法を根本として再編成される時、自己が十界のいかなる境涯であってもすべての一念の時においても南無妙法蓮華経と唱えるときは、仏界の生命の湧現によって、いかなる自然現象も、その支障となることはなく、災難も転じて自分にとっての幸福となる。こうして永遠(不老不死)の生命を悟り見ることを、各々でご確認ください。現世安穏の証文は疑いないのである」
 と、書き換え、アップデートすることができるのである。
 その生命境涯から出てくる慈悲・智慧の行為は、国家間、グローバルな超国家間の広宣流布へとつながっていくことは、国家、超国家をそれぞれの生命体とみなせば、同様に考えられる法則なのである。
 これは、現時点での、一例として、挙げておく。

 

 

 P40へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件