●27 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会 | ラケットちゃんのつぶやき

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●27 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P27,創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。




■会長争奪戦と創価学会


 前ページP26で省略していたが、さきにあげた昭和33年4月3日の池田大作参謀室長の講演には、

 「かつて、ある新聞や、ある雑誌には『戸田会長が死んだあとは、必ず学会は壊滅するであろう、学会が発展しているのは、戸田会長の生存中だけである。必ず死んだあとは崩壊するであろう』という記事を読んだことがございます。会長先生のなきあとは、あらゆる圧力、あらゆる天魔の活動が盛んになってくると思います」

 とある。

 戸田の死は、会の内外ともに、一般に創価学会の迎えた最大の危機であった。
 戸田の死自体が彼の指導で強調されていた現世利益を裏切り、会員に疑惑・不安や動揺を与え、組織内部のいたるところで内紛が生じ、空中分解や分裂をもたらす危機であった。

 池田大作自身は当時の回想を次のように語ったことがあるという。
「(池田が)参謀室長当時、戸田先生が一年間病気の時期があった。暗い時代であった。小泉(隆)さんが理事長。ギア(が)はまらなかった。どうしようもなかった。空中分解寸前だった。戸田先生がなくなられたとき、小泉理事長はいても、一寸先は闇で、わからなかったといっていた」(昭和50年9月28日、箱根研修所で、内部文書)
 
 「邪宗」として折伏で攻撃されていた他宗は、これを絶好の機会として、創価学会を攻撃した。


 昭和33年5月3日、第18回春季総会で小泉隆創価学会理事長は、会長職は当分置かない、戸田がつくったレールの上を、脱線しないように創価学会という列車を走らせていくのが我々のつとめだ、と演説した。

 この危機意識を池田大佐紀や石田次男など、創価学会幹部は共有し団結してその後の組織運営を、会長なしで成し遂げていった。彼らの結束はいっそう強固になったのである。

 戸田の葬儀や遺産分割についても様々な問題が引き起こされたが、一般には騒がれることはなかったので、ここでは割愛する。



 石田次男と池田大作の会長争奪戦があったようだが、どちらが会長になっていたとしても、ある程度、高度成長時代に沿って発展はしていったであろう。
 石田次男は、真の日蓮仏法に近く、小欲知足であった。
 これに対して池田大作は、生来の名前「太作」から「大作」へ自ら変えた名の通り、当初から自分が創価学会の支配者(会長)になって、やがては総理大臣や法主に相当する地位まで上り詰めようとする野心に燃えていた。
 石田次男は池田を「大欲不知足」と言っている。
「戸田先生の御遺言捏造ーーこれ、恩師への重大極まる〈裏切り〉である」(石田次男著「内外一致の妙法」P299)と、指摘している。


 その後の、側近や様々な識者が指摘はあるが、池田大作が唱えた組織内での「師弟不二」、個人的な境涯に関しての「人間革命」は、仏法の理論を利用・悪用した側面もあり、しかも、その時代時代に応じて、都合よく改ざんされてきているのである。



 池田大作は、『戸田城聖』という先代会長の名前の利用と、仏法の悪用、選挙での成果を上げる過程で、石田を蹴落とし、自ら創価学会青年部を支配した。
 その結果2年後には、空席になっていた三代会長の席を、側近に懇願せしめるような状態になっていた。

 会長になってからも、自らの正当性・正統性を、『戸田城聖』という先代会長の名前の利用と、仏法の悪用、そして「師弟不二」という概念をそれらに対し先立つ最優先の事項として宣揚し、祭り上げた。
 創価の言う「師弟不二」とは、こういうことだったのである。
 池田大作が仏法を悪用し、勝手に自らの創価学会支配に都合の良いように組み上げた論理なのであった。
 だから、その源流をたどっても、釈迦仏法本来のもなく、日蓮仏法においては、「師弟」とは法と行者との関係であって、決して現世における絶対的主従関係を指すのではない。

 池田はこれを利用・宣揚し、やがて会長になってからは、自らを「絶対者」推して、仏法で言えば「本仏」扱いするように側近や会員に仕向け、それに呼応するかのように側近や会員たちも、会員は精神的に、側近は経済的にも池田に寄り添い、こぞって祭り上げていった。
 創価学会における、金も、地位も、権力も、名誉も、すべて独自の価値基準がこうして形成されていき、これに参加・関係するものや組織は、互いに互いをがんじがらめに縛り合いながら、時代の高度成長の波に乗って拡大していくのである。

 まさに、仏法でいうところの、依正不二、一念三千の因果応報である。


 しかし、それがやがて、食物連鎖、またはダーウィンの言う自然選択圧力の前に、ピークを経て、やがて衰退に向かうことは、科学的論理からも充分予測されるが、これは因果応報である。


 当時から池田の同志であり側近でもあった藤原行正は、自著「池田大作の素顔」1989/4/10,講談社,P165-166 で、以下の様に指摘している。

 「学会員は奴隷のように仕えよ
 池田大作はそれだけ巧妙に自分の権力構造をつくり上げたわけだが、その過程で二つの『魔法の杖』を使った。
 その魔法の杖とは『戸田城聖』という先代会長の名前の利用と、仏法の悪用である。この二つの作業を徹底して繰り返したのが池田の学会管理術の秘密であった。
 また、池田大作が三十二歳で手に入れた創価学会会長という地位は一般の想像以上に強大な力を約束されていた。社会的には日蓮正宗の信者の代表の一人であり、宗教法人『創価学会』の代表者だが、それとは別に目に見えない部分で大きな権力を発揮できる立場であった。すなわち創価学会会長とは信仰上で最高指導者として学会組織では絶対的権威を認められる存在であり、それにふさわしい『精神の高さ』の持ち主と学会員から無条件に尊敬される立場とされているのである。こうした創価学会会長の絶対的権力を規定したのは戸田二代会長である。
 たとえば戸田二代会長の振興の学会組織を強めるために次のような戦略論を遺した。
『学会の組織訓育の基本は会長絶対主義の徹底である』
 創価学会の命令系統は会長たる者へ一点集中する。会長だけが会員に命令し、行動目標を与えることができる。この権威の前には大幹部であろうと、一般会員に過ぎず、会長を師匠として崇めなければならない……
 この『会長の権力』は戸田城聖イコール絶対的権威の象徴という当時の学会事情から生じた大原則である。そしてそれは戸田城聖という指導者の場合は当然のことだった。昭和二十年代という混乱した世相にあって仏法による世直しという新しい使命感を学会員へ植えつけたのも、その使命感と若い情熱を独自の方法論でうまくかみ合わせたのも、今日的な集団組織の戦略でゼロに近い組織を百万世帯という大所帯に育てた業績も、すべて戸田二代会長の手腕であったからだ。」



 石田次男は、戸田城聖から次期会長候補に指定されていたことを自ら明かし、あえてそれを辞退したことを、「三代会長を勤めて良い迄に育ったかどうか」を問い直しながら、自著著「内外一致の妙法」P166で、次のように分析している。

 「三代会長には石田と池田とどちらが妥当だったのか? 戸田会長の意思はどちらに有ったのか? などという窓口丈で捉えては誤る。
問題の焦点は、…中略…〈三代会長を勤めて良い迄に育ったかどうか〉に在る。石田はこの事計り考えて暮らしていたが・池田氏は是を全く考えないで会長の座を狙った。結論を先に出せば、昭和三十五年五月三日迄・石田も池田もそして他の誰人も・そこ迄信心上成長した者は一人も居なかった・ということだ。一切の問題はここに在った。池田氏が会長就任後引起した数々の破法問題も・所詮この一点から起った事だ。〈会長に成ってはならない状態〉の侭・会長に成ってしまった為に・この狂った基盤の上から・一切の暴乱を引起したのである(ママ)
 石田は早い一時期に戸田先生の直接指名で第三代の〈予定候補〉ーー確定候補ではないーーに擬されたのだが…中略…
 昭和三十五年頃(そしてその後も)の石田の状態は、設え会長に成りたくても〈成ってはならない状態〉であった…中略…
 戸田先生が三代会長に石田を予定された事は、…中略…公然たる認識に成ってしまった。だが御生前には石田の方が、会長を勤めても良い迄には育たなかった。…中略…こうして、三代会長問題に就いては昭和三十三年三月十六日に正式に石田指名を訂正され、『(中枢幹部が)皆で相談して決めよ』『(戸田の後は)皆で仲良くやって行け』と御遺言されたが、一時期指名を受けた昭和二十八年夏と言えば、石田は入信満三年にも満たない二十八歳の青二才である。一方の池田氏はもう三年若い二十五歳のガキだった。」

 そして、当時3歳年下の同志であった池田大作については、
 「片方の池田氏であるが…中略…積極的に三代会長に成る意志を固めて、先生滅後の三十三年春以降、その為の画策を沢山遣った。…中略…
 一方、一旦は会長候補扱いされた石田側の事情はどうか…中略…今迄『池田と争って負けた』とか反対に『無欲で成る気が無かった』等々書かれて来た。成る気が無かったのは事実である。然し〈無欲で〉は見当違いである。欲も意気地も無かったのはそうでも、仏法に本当の人生を求める積りで入信して、戸田先生御在生の間は、肝心の仏法が判らなかった。判っていないから当然会長に成る自信も無い。要約して書けば、語在生の間もその後も『俺はまだ戸田先生の様に判ってはいない』……これである。〈最も基本的な所〉で判っていないのである。先生の滅後も、この為に人知れない努力(勉強)を続けた。そして、それが『内外相対の所だ』と判ったのは先生よりも五年も遅い五十歳であった。
 牧口先生は〈失敗会長〉であられて、〈判っていないのに会長に成ればどうなるか〉という見本が眼前に在る。
牧口先生は生命論も十界論も一度も説いていない。牧口先生が正宗の信仰の会の会長として失敗会長であられた事は、石田が勝手に気づいたのではない。戸田先生に教えられて判った事である。先生は石田には『(牧口)先生の行き方ーー仏法へ価値論が入ってしまう事。価値論での信仰生活指導を指すーーでやれば、仏法ではなくなる。ここに戦前の失敗が在った。価値論は九重の劣だから捨てた。だから(戸田は)生命論と十界論から説くのだ』と明示して居られたし、幹部一般に対しては『戦前は一つには組織が無い為に潰れた。もう一つには教学が無くて潰れた』と表現して教えて居られた。弟子として露骨に師を〈失敗会長〉とは表現出来ないから、大勢に対してはこういう言い方で教えて居られた。
 判っていない者が会長に成れば必然に〈間違った法門理解〉を全員に教え込む事に成る。牧口先生や池田会長が実例を示した通りである。これは意の善悪を越えて避けようが無い。当人が会長なのだから、自分丈で事は済むものではなく、否応無く全会員を巻添えにしてしまう。〈会長に成ってはならない状態〉とは此れである。この事は池田氏とて同様で、この点での条件は石田よりももっともっと尚悪い。だから石田としては池田氏へ押付ける事も出来ない。結局、誰に相談出来る事でもなくてぐずぐずしている内に、事態の方がどんどん先へ進んで史実通りに成ってしまった。結果として、或る観点からは、石田が池田氏へ押し付けてしまった・という面も(自分の心情としては)有る。…中略…
 以上が石田側の窓口から見た事情だが、池田氏側の窓口からするとどう成るか? 先生亡き後・氏を総務に任命した小泉理事長が『実権を盗られてしまった』とボヤイて居た事でも判る様に、池田氏が公式にこの問題で表明して来た所は全部飾り事で・正直に受取る事は全く出来ない。…中略…
 氏が何故・然も急いで・会長の座を狙ったか?…中略…
 池田氏は七月三日に府警へ出頭…中略…だが、正義の筈の法廷闘争から約二十人の有罪者が出た事は、ちっとも正義などなかったことを物語る。池田氏は自分の連帯の罪をこれら各個人の単発罪であるかの様に、偽証で形を整(ととの)えて、無罪判決を貰っただけだ。…中略…
 有罪が当然だったが・偽証で固めて四年半裁判を粘って、強引に無罪を勝ち取った・という事件であった。」(同書P167-172)



 ちなみに、裁判で強引に偽証で固めて、山崎正友の恐喝を有罪に導き、月刊ペン事件の裁判や、宮本氏の盗聴事件の裁判でも、さまざまな裁判工作、司直を愚弄した謀略が進められたことに見られるが、これらの原点が、ここにあるとも考えられる。



 「この選挙違反が有罪であれば学会内の池田株は暴落する。無罪ならば〈法難だった〉という箔が着く。有罪無罪の落差は余りにも大きい……と見た池田氏は、事件から来る学会内での失脚を恐れて、拘置所入り以前から心に有った会長就任意志を、事件後に決定的に固めてしまった……と石田は観ている。」(同書 P172)

 さらに、池田以外の、当時の学会内部の背景として、
 「全事情の後(あと)〈半分〉は当時の中枢幹部と青年部首脳に在る。形式的とは言え、戸田先生のー『(第三代は)皆で相談して決めろ』との御遺言を形だけでも実行したのは理事長以下・婦人部も引っくるめて壮年婦人の幹部。そして青年部・部隊長以上である。誰彼と特定個人の振舞は論(あげつら)わないが、池田シナリオ(台本)通りに最先にお先棒を担(かつ)いだ御婦人も居たし、池田氏の焚付(たきつ)けに依る青年部参謀達のバックアップも池田氏の工作と共に凄かった。これもシナリオ通りに慎重派の小泉理事長など吹っ飛ばされてしまった。
 宗内ならば必ず法主が必要だが、学会は単なる信徒の集団にすぎない。会長が居ればこの上ないが、必ずしも(会長は)必要なものではない。理事長中心の集団指導で、会員各位が自立的な信心を養って行けば充分やって行ける存在である。これで交付推進も充分にやって行ける。だが、昭和三十三年~三十五年当時、冷静にこういう路線を検討する空気など・全く入り込む余地も無かった。精々・小泉理事長の『(候補者は若すぎるから)七年早い』説位の考え方で精一杯であった。池田氏がPRした『早く三代会長を実現しないと戸田先生の御意志に反する』というドグマだけに皆が凝り固まって、池田氏の人心操縦に乗せられて行った。
 こうして池田氏を担いだ人達と言うのは、本当は池田氏の〈ヤラセ〉に乗せられたのに過ぎないのだが・それにしても結果として担いだ事は担いだのだから、各人その責任は自覚すべきものであろう。池田氏の〈ヤラセ〉の結果、それに乗らなかった者が三人・それぞれに孤立の悲哀を味わった。一人は小泉理事長で、この人は池田氏を会長にする気ではあるが〈七年間は早い〉という持論の人であった。
 もう一人は石田を担ぎたい和泉覚理事・そして当然乍らあと一人は石田である。この三人は当時の学会の内部で、それぞれ別々に孤立した。結局、池田を会長に〈した〉〈責任者〉は当時の全幹部であった。反池田派もジャーナリズムもここを認めないのは大いなる片手落ちである。従って、池田問題に就いては、相当程度の責任は、石田も含めてこれ等の人達にも背負ってもらわなければ不公平である。
 以上、石田・池田・側の半分(因)と、池田氏を会長にした幹部側の半分(縁)と、その後池田体制を支えて来た“ネオ半分(縁)”と、これらを寄せて合わせた所を『因縁和合』というのである。因と縁と・どちらの事情を無視しても不公平に成ってしまう。」(同書 P173-P174)
 と分析しているとおりである。


 ものの見事に、諸法実相・一念三千の法理を踏まえた分析である。
 池田大作を永遠視する(したい)会員がいつまでどこまでつづくか、ここに、今後の創価学会の存亡がかかっている。

 池田名誉会長が公に出てこなくなった今、改めて、永遠性を確立したいのはいったい誰なのか。
 それが、真の信仰に、必要なのか、反するものなのか。
 しっかりと、各々の会員が、改めて自身に問い直すことが求められているだろう。

 仮に、仏法に近くて野心の無い石田次男が、戸田の指名によって正式に三代会長になっていたとしたら、現在と較べて、はるかに小欲知足の、仏法本来に近づいた創価学会になっていたに違いない。


 一方、池田大作は学会内部の『戸田信仰』へ早くから目をつけていた。

 藤原行正は、自著「池田大作の素顔」P166-167にて、以下の指摘をしている。

 「『会長になってしまえばこちらのものだ』
 と、私にうそぶいた池田の着眼は学会内の『戸田信仰』すなわち『会長の権力』を手中とするところにあった。戸田城聖の跡を継いで三代会長になれば、この絶対的権威を自分のものにできる。池田の本当の計算はそこにあったと思われる。
 三代会長就任という第一目標を達した池田は、学会員のより強い尊敬を一身に集めるためにさまざまな自己宣伝を繰り返した。
 池田が戸田二代会長と自分との特別の関係を強調するために『師弟相対』という仏法の教えに目をつけたのはその時だ。仏法で師弟相対というと、日蓮正宗の宗祖・日蓮大聖人と開祖・日興上人との関係、あるいは宗祖と総本山トップである猊下との関係以外には使えない言葉とされている。
 それを無視して、池田は戸田先生と自分との関係、また戸田先生と牧口初代会長との関係を『師弟相対』といい、三人の会長は血脈で通じ合った特別の人間であり、その教えは相伝だとやった。一般にはわかりにくいかも知れないが、この『師弟相対』を強調することでのちに第四代会長も第五代会長もただの人、三代会長で現名誉会長である池田大作だけが、創価学会という宗教団体では特別の存在とされる空気ができ上がったのである。
 さらに、仏教の考え方の一つに『無疑日信』(疑いなきを信という)というものがある。仏を絶対的に信ずる心、という意味だ。これはすなわち日蓮正宗の信徒は自分たちのご本尊を疑うことなく、南無妙法蓮華経の題目を唱える信仰をつづけていけば、功徳を得て最後には仏の境涯を得ることができるという教えである。
 この『無疑日信』は、本来、信仰に生きる人間の清らかな心のあり方を教えたものである。学会員全員はその理想の境地をめざして信仰生活をつづけている。
ところが、池田大作の手にかかるとこの大切な教えも悪用の材料でしかなかった。池田はその意味を勝手に歪曲して、デタラメな三段論法で学会員の信仰心を悪用した。
 つまり、日蓮正宗の信者はご本尊を信じる。ご本尊を信じるということは、創価学会を信じること、そして創価学会を信じることはそのリーダーたる池田大作を信じることという論理を学会全体へ押しつけ、この延長線上に、
『学会員は奴隷のように池田先生に仕えよ』
 と、戸田時代には考えられないような学会精神を植えつけたのである」



 ちなみに、池田大作はその後、自ら創価学会の最高機関とした社長会で、
「学会っ子は、名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。
奴隷のように学会に仕えよ、それが御本尊様につかえる事だ」(第50回社長会,昭和46年7月8日,継命編集部編「社長会全記録」,1983/6/10,継命新聞社,P222)
 と、本音を語っているのである。


 さらに、藤原行正は、
「周到につくられた『池田本仏論』
 学会員もバカではない。常識だってある。学会員は奴隷のように池田大作に仕えよ、と命じられて学会全体がそういう空気になったのは、ゆっくり時間をかけ用意周到な手を打ったからである。
 創価学会という宗教団体で絶対者となるための方法はただ一つの道しかない。池田はそれをうまく発見した。それは宗祖・日蓮大聖人と生身の自分との同格化、つまり自分が宗祖・日蓮大聖人に取って代わればいいと考えたわけである。」(藤原行正、前掲書P167)
 と、事実を暴露している。



 受け継いでいたのが日蓮本仏論(依人不依法)のアニミズムであったから、この論理によって、池田が容易にこのように考えたのもうなづける。
 アニミズム、シャーマニズムの延長がもたらす当然の如き結果といえる。
 日蓮は、依法不依人を説き、依人不依法の念仏およびそのシャーマンの法然を真っ先に破折したのとは正反対である。誤った「依人不依法」の基盤がもたらす、悲しい結末であると考えられる。


 さらに、池田が会長就任後、行ったことを、以下の様に指摘する。

 「その着想をすぐ実行に移した。第一の作業は自分を日蓮大聖人の生まれ変わりだと繰り返し宣伝することだった。入信のいきさつ、会長就任時のエピソードを創作して、学会員へ広めたデタラメはすでに書いたとおりだが、それらの作業はすべて学会内部に池田崇拝を浸透させるための手のこんだ池田の心理作戦だったのである。
 池田会長が三十二歳で会長に就任されたのは日蓮大聖人の生まれ変わりなればこそだ。二度まで会長就任を断り、三度目に受けられた。これも仏の姿にかなっている……池田大作は戸田城聖の弟子時代に習い覚えた日蓮正宗の故事を巧みに利用した。子供騙しの手口ではあるが、池田はしつこく何度も同じウソをさまざまな場所で繰り返した。
『ウソも百遍繰り返せば真実になる』
 池田大作はこの人生哲学を大真面目に実践し、やがて出所不明の『池田本仏論』なるものが学会全体に口コミで流された。
『池田先生こそ現代に生きる仏さまである』
 この大宣伝の推進役は福島源次郎元学会副会長だった。昭和四十年代から五十年代前半にかけて池田の最側近と呼ばれた人物である。かつて学会上層部で『ゴマ源』と陰口を叩かれながらも一心に池田に尽くした福島には有名なエピソードが語り伝えられている。
 いま、日本全国に六百を数える創価学会関連の会館に『池田』の名を冠した建物が五十以上もある。この会館命名の発端は福島に対しての池田のつぶやきだった。ある日、池田は側近の福島に向かってこう言ったのだ。
『私がおまえの立場だったら、『新しい会館に先生の名前をつけさせて下さい』というのだがな』
 その言葉を聞いて、福島は自分の気配りのなさを恥じ、『池田会館』推進運動のために走り回った。その懸命な姿を池田は上機嫌で褒め上げた。同じ調子で四十年代後半、池田の意を受けた福島は全国各地を回り、まず地方の幹部たちを前に池田本仏論をふれ歩いた。地方幹部たちは福島の言葉を池田の意思と受け取り、それぞれ自分の担当地区へ戻って一般会員を集めて同じ話を繰り返した。
 一年、二年、三年……。学会員たちは繰り返し、繰り返しあらゆる会合で『池田本仏論』を叩きこまれていった。
 生身の池田大作がなぜ仏になれるのか。首をひねる学会員は少なくなかったが、それをみんなの前で口にしたら大変だ。幹部から怒鳴りつけられる。
『おまえは信心が足らないから、池田先生を信じられないのだ!』
 神も仏も信じないという無神論者と違い、学会員は信仰に生きる人間集団である。そういう人が満座の中で、信心が足りない、罰が当たるゾ、とやられる。この叱責は学会員にとっては『人間失格』という意味に等しいから、その批判をおそれて、だれも池田本仏論に疑問の声を上げなくなった。
 池田の狙いは見事に図に当たった。最初は首をひねっていた学会員が『池田先生を疑う自分のほうがおかしいんだ』と反省し、さらに熱心に題目を唱えるという形になった。純真な信者であればあるほどその傾向が強かった。『無疑日信』はこうしてその意味が変えられてしまい、昭和五十二年頃になると、池田本仏論が学会内部に行き渡った。『池田先生は宗祖さまの生まれ代わりだから特別なお方だ』という考えが学会員の間では常識になっていった」(藤原行正、前掲書P678-170)



 私見では、一念三千の生命観を前提としても、このような生まれ変わりが起きる数学的確率は、現代の最先端物理学での観測不可能な∞数の宇宙観に立てば、地球の寿命に対して無視できるほど短い人類の歴史の中であることを考慮しなくても、数字の1を∞で割った答えと等しくなる。つまりは、ゼロである。




■自己増殖としての手段「折伏」


 創価学会は、その後も戸田の意思を継ぎ、そのレールにのって、着実に自己増殖を続けた。

 これには、相手を折り伏せ、自らの手の内に屈服させる要素のある「折伏」という行為が、行為者自身に修羅道における勝利感・達成感をもたらしてのである。
 これが、時には暴力行為、国法を犯す事にもなることが、「折伏経典」において正当化されていることは、前ページにおいて指摘したとおりである。
 そして、その折伏した数によって、自分自身の会内での地位も向上していく。
 座談会において、これらのことが繰り返し繰り返し強調され、成功者はこの上なく讃嘆される。
 また、教学試験制度などによる昇進、学会関連書物の購読数も、これまで社会的地位や名誉などとは全く縁がなかった、社会の底辺層がほとんどであった会員にとっては、賞賛・達成感を得るための競争への絶好のモチベーションとなっていた。

 そして、増加した会員がさらに会員を増加させ、それなりの人材も輩出する。

 彼ら彼女らが金を集め、書物や出版物も増加して販路も拡大し、必然的に創価学会やその関連会社が潤う。増加が増加を自然に生んでいく。

 経済面でも建物や名誉名声の類も、会員の増加がすべてをもたらす。
 ねずみ講(無限連鎖講)や、マルチ商法にも、似たような側面が見られるが、その信念となる教義が、日蓮の教えを曲解・利用し現世利益を説いたところにあるのは明らかななところであり、さらにいえば、これが最も重要な要素となっていたのである。


 創価学会がこの時代に発展したのは、折伏の行動からみて、当然の原理であった。
 それは、会長をはじめとする中心者・側近の、資質や能力や、組織の構造にはあまり関係がない、大なり小なり自然選択の原理そのものであったともいえる。


 この時代背景、戦後の絶対的貧困時代から、荒廃期から立ち直るため国民が総出でがんばった高度成長期にかけて、現世利益を説くことと、相手を自らに屈服させることを成果・名誉とする教義は、歴史的な創価学会の発展をもたらしたのである。


 ところで、現在、絶対的貧困に苦悩する人は少ない。社会の多くの人は、自らの家を持たなくても借りられなくても雨風を凌ぐ場が社会のいたるところに存在し、公園や公共施設には水やトイレに困ることはなく、コンビニ等では、ワンコインで1000Kcalをこえる弁当など、十分な食料が販売され、その膨大な食料破棄は社会問題にもなっていて、着る物に困る人も少ない。
 そういう現在でも貧困が社会問題になってはいるが、それらは全体の所得に対する比率がポリ・コレとして絶対視される、いわゆる、相対的貧困である。
 現在のような相対的貧困が云々される時代には、具体的な現世利益を説いても、聞く人の心の琴線に響くことは少ない。

 あくせく働いて金儲けに翻弄されるよりも、いかに生甲斐のある人生を送るか、いかに心のゆとりとより所を得るか、ゆったりとした時間を過ごすかなど、価値観が多様化している時代に、通り一遍の古臭い現世利益や根性論などは、過去の遺物と化している。
 まして、折伏を放棄しているとまでいえそうな現在の創価学会は、会員減少、少子高齢化に悩んでいるともいえるが、今後、会員が、とくに若い者の増加が見込める要素は少ない。




 話はもどる。

 戦後の荒廃期のような絶対的貧困時代に、現世利益を説き、折伏を布教行動の第一と定めていた創価学会は、時代に合った自己増殖のメカニズムを踏んでいるだけでよかったともいえる。

 溝口敦は、自著「池田大作『権力者』の構造」P242より、以下の様に指摘する。
 「いうまでもなく折伏とは会員の獲得、非信者の創価学会員化にほかならず、それは怠れば無間地獄に落ちるとの威迫によって、ネズミ講と同じ仕組みである。会員は次々と被害者――折伏の責任を負わされるという被害者を作らねばならず、被害者さえ作れば、本人は被害者でなくなる以上に『生命力も強められ、幸福境涯を建設すること』ができる。だが、ネズミ講では被害者二人を作れば事たりるが、創価学会はそれだけでは満足しない。
 このような折伏をもってすれば、創価学会の急伸も理の当然であり、それは会長の能力、資質、構想のいかんに左右されない原構造であった。
 さらに会員増を支えたものに、創価学会員になることの容易さがある。本尊を幸福製造機とあからさまにいうことに象徴される現世利益の賛美、奨励は、現在の主流の生活信条ともいうべき拝金主義、快楽主義の促進であり、会員はなんら自己変革を要求されることがないばかりか、それまでのためらいながらの欲望、利己心を野放図に開放することができた。
 そこにあるのは出世主義や体制内での遊泳述、二十日鼠の勤勉主義、個人の損か得か、他人の蹴落としだけであり、社会という視点は全く欠落する。」
 と、分析する。

 そして、
 「『資本家というのは、働けば働くほど自分の利益になります。労働者は、やはり時間だけ働いて、あとは帰ったほうが得で、…中略…しかし、私どもは、いっさい働いたことが、ぜんぶ自分の功徳になると決心するのです。また、事実そうなるのです。…中略…例として資本家的な気持ちで、すなわち自分が働いたものがぜんぶ自分のためになるのだという信心でなくては損なのです』(池田『池田会長講演集十一)」
 をあげて、
 「これは、労働の論理ではなく、仕える論理であり、現代では失望と落胆、うまくいって抜けがけとスト破りしか結果しないが、個人の利益に密着しているなりに理解しやすく、革新陣営の運動員になることに較べ、創価学会員になることを優しくしていた。
 会員の増加は池田の功績となり、池田体制の安泰を保ち、年とともにその権力をより強固にした。そしてさらに創価学会流の教義解釈が、その池田の地位を絶対性の高みにまで押し上げていた」
 と、指摘している。



 このように、創価学会での「折伏」は、当初から、日蓮仏法の名目とは裏腹に、単なる組織の自己増殖の手段と化していたのである。
 また、その中心部では、さまざまな修羅道が繰り返されていることは、はっきりしている一部分を、これまで示した。




 この傾向は、今日の創価学会でも、勢いだけは衰えてはいるが、なんら変わりはない。
 本日配達された創価学会月刊誌「大白蓮華」6月号、2021/6/1、聖教新聞社、¥209、P48-59には、日蓮の遺文「祈禱抄」の一部(御書P1351-1352)が切り文にされて、教材とされている。
 「御文『大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず』」(同書P50)
 「通解 大地をさして外れることがあっても、大地をつなぐ者があっても、潮の満ち干がなくなっても、太陽が西から昇るようなことがあっても、法華経の行者の祈りの叶わないことは、絶対にない。」(同書P51)

 この解説が次のページに続いている
 「『法華経の行者』に祈りは必ず叶うと仰せです」とあり、これはもっともの様にみえるが、どんな祈りも叶うとは書いていない。
 ここが、切り文利用の悪弊であるが、前後の文脈をみれば明らかなことであるが、日蓮の文意は、「正しい法が広まっていく祈りは必ず叶う」ということであり、個人の勝手きままな願望や、組織の名聞名利が叶うとはどこにも書いていないのである。
 さらに「『法華経の行者』とは、法華経の説かれる通りに仏法を行ずる人のことです」と、ここから脱線が始まる。
 「現実に、命に及ぶ大難を乗り越え、末法における成仏の道を開かれた大聖人こそ『法華経の行者』です」から、続いて、
 「また、大聖人の掲げられた広宣流布の大願を、わが願いとして戦い抜く師弟不二の門下もまた『法華経の行者』です。」と、師弟不二を宣揚し、
 「現代においては、公布の使命に生き抜く私たち学会員の事です」
 と、宣揚する。
 学会員総てが公布の使命に生き抜いているわけではあるまい。
 現に、創価学会を己の利益・名聞名利のために利用している輩が多くいる。
 創価学会の歴史は、その彼ら、まさに池田大作第三代会長を先頭とする修羅道がほとんどであったことは、多くの識者や造反者たちが明らかにしているではないか。
 これを読んでいる創価学会員が、自身の都合や身勝手な祈りまでが全て叶うと日蓮が保証していると思いこんでいる事が、大変に悩ましい。
 『法華経の行者』とは、この遺文では日蓮自身を指していることは明らかで、弟子檀那の祈りについては「但し御信心によるべし」(御書P1124)と、日蓮は、ちゃんと断っている。

 信心の純粋さ・正しさ・強盛さなどが問われるのは当然のことである。

 タナボタではない。

 さらに、
 「法華経の真髄である南無妙法蓮華経は、あらゆるものごとを成り立たせている宇宙根源の大法です。妙法には人々の幸福を願う仏の心がいきづいているのです。」
 と、御自慢の外道の説(梵我一如の言い替え)を基底としながらも、
 「故に、私たちが強盛な信心を奮い起こして、御本尊に祈る時、全宇宙のあらゆる十界の働きが、その願いの成就に向けて回転を始めます。」
 と、非科学的に大いに飛び上がる。
 十界には地獄・餓鬼・畜生・修羅という四悪道も含まれ、これを無制限に肯定していることを忘れながら、続いて、
 「妙法を弘める広布のための祈りは、必ず叶っていくのです。」
 と、「妙法を弘める広布のための祈り」に限定したような表現をこそっと入れて、ちゃっかり日蓮の本意にもどっているのである。
 さらに、結論部分でおきまりの、池田大作の宣揚が、以下の様に続く。
 「池田先生は、つづっています。
 『広宣流布のために戦う『法華経の行者』の祈りには、広大無辺の力がある。これが御本仏のお約束である。祈り抜き、祈り切る。そして行動を貫き通すとき、無限の智慧が湧く。十界のいかなる衆生も諸天善神となって、仏の陣列を護りに護る。戦う題目に勝るものはない。不退の信力・行力こそ、不可能を可能にしゆく仏力・法力の原動力なのだ』」
 
 ここには、御自慢の「御本仏」「仏力・法力」や「諸天善神となって、仏の陣列を護りに護る」など、非科学的アニミズム文言のオンパレードとなっている。
 そもそも「不可能を可能にしゆく」ことなどありえない。
 科学的に「不可能」なことは、いつまでたってもどこまでいっても「不可能」であり、実現したことは科学的に実現「可能」であったことがすべてである。
 これこそが、日蓮の言う「道理」であり、「現証にはしかず」ということなのである。

 この大白蓮華全118ページでは、ほとんどのページが「池田」「先生」「師」などという池田大作の宣揚で占められており、それがないのはわずか数ページだけである。
 これを読んで「気持ちよく」なり、落ち込んでいた状態から元気になる学会員は多くいるだろう。
 まさに、熱烈な池田大作ファンたちである。
 ちなみに、私も、今でもその一人であることを一言添えておく。
 だから、常に自己矛盾を抱えるようになっているが、それも慣れてしまった。
 まさに、日蓮が、立正安国論で指摘するところの原理、
 「辛きことを蓼の葉に習い 臭きことを溷厠に忘る」(立正安国論、御書P24)
《辛い蓼の葉ばかり食べている虫は、その辛さに慣れていて、臭い便所の中にいる虫は、その臭いがわからなくなってしまう》
 を、あげておく。
 これは、次に続く
 「曇鸞・道綽・善導既に権に就いて 実を忘れ先に依つて後を捨つ」
《曇鸞・道綽・善導が、すっかり権の教えに慣れてしまって、真実の教えを忘れ、先に説かれた教えに基づいて、後に説かれた教えを捨てた。》
 ということの例として、あげていることなのである。
 まさに、今の創価学会の現状を言い当てている。
 真実の、科学的「法」を忘れ、すっかり権(方便)の教え・アニミズムに気持ちよくとらわれている姿ではないだろうか。





■日蓮の説く真の「折伏」


 日蓮の遺文である佐渡御書には、折伏のやり方について、
 「仏法は摂受・折伏時によるべし…中略…破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教・道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし、
畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し
智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる 諛臣と申すは是なり
強敵を伏して始て力士をしる、
悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は 師子王の如くなる心をもてる者 必ず仏になるべし 例せば日蓮が如し、
これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり 例せば修羅のおごり…」(佐渡御書、御書P957)

 と述べられている。
 ここにおいて、
 「当世の学者等は」とあるように、日本に伝来した仏法は、日蓮の時代では、科学や学問の最高峰であって、これが当時では最高の道理であり科学であったのだ。
そしてその学者が「畜生の如し 智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる…」であっても、それにもとづいた真理は、決して曲げてはならない、妥協してはならない、どんなに迫害されても、正しいものは正しいと断固主張することを述べているのであり、折伏とは、この姿勢であって、ここにおいても、決して、相手を折り伏せ、自分やその組織に隷属させることをいっているのではない。

 だから、この遺文の最後の部分でも、
 「修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ 外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く 日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし 我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ 蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。」
《修羅は仏の説くのは十八界まで、自分は十九界だといい、外道は仏の説は一究竟道、自分の説は九十五究竟道といったように、日蓮御房は師匠ではあるが、あまりにも頑強すぎる。われわれは柔軟に法華経を弘めようというのは、螢火が日月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や小川や河が海を軽蔑し、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものである。》

 あくまで、「法」においては「師匠にておはせども余にこはし」という姿勢が、本来の「折伏」なのであって、間違いも含んで認めようというのは、修羅道であると述べている如くである。



 また、日蓮の開目抄には、
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、 大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。」(開目抄、御書P232)
《詮ずるところは天も日蓮をすて給え、諸難にいくらでもあえ、身命を捨てるのみである。舎利弗が六十劫にもわたる菩薩行を積んでも退転して、成仏できなかったのは、乞眼の婆羅門に自身の眼を与えたのにかえって侮辱された事を我慢しきれなかったためである。久遠五百塵点劫および三千塵点劫の昔に、法華経の下種を受けながら、ずっと悪道におちていたのも、悪知識に会って退転したからである。
 善につけ悪につけ、法華経を捨てるのは地獄の業である。
大願を立てよう。法華経をすてて観経等に入り、後生の極楽往生を願うのなら、日本国の位を譲ろうといわれても、また念仏を申さないなら、父母の頚をはねるぞといわれても、などの種々の大難が出来しようとも、智者に日蓮の義が破られることがない限り、絶対に用いることはない。それ以外の大難は、風の前の塵である。
われは日本の柱となろう、われは日本の眼目となろう、われは日本の大船となろう、等との誓いは破ることがないのである。》


 この、有名で重要な日蓮の遺文の中に、彼の、当時の絶対的科学的道理に基づいた信念をみることができる。

 ここで、日蓮の信念は、非科学的アニミズムではなく、当時の科学的レベルで「依法不依人」に基づいて確信した「法」に対してであった。

 自分よりも優れた「智者」に「我義やぶられずば用いじ」(自身の「法」が破られないかぎり、絶対に従わない)との、科学的信念である。
 ここで注意すべきことは、自らの主張が破られることもあり得るとして、これを自ら「大難」と表現しているのである。
 これは、現在において、多くの日蓮の後世や歴史学者が見逃している点である。
 つまり、もっと良い仏法が現れうることもあるかもしれないと、予め日蓮は「大難」と称して、念頭に入れているのであって、日蓮の主張は、その後世が語るようないわゆる宗教的ドグマでは決してないのである。

 そして、この、自らの法も負ける事態となる「大難」をも念頭に置いていたからこそ、「勝負」=法としての勝劣を述べているのであり、これはすなわち、科学的道理に基づいた勝劣を、「勝負」で決めるべきであると、公場対決で訴えていたのである。
 これが、本来の、日蓮が訴えていた「折伏」である。
 現代においては、個人においては、あくまで真の仏法へ導くための論理的対話であり、公場対決は、学術集会などにおける討論、シンポジウムなどに相当する。
 つまり、真理を求め、成仏という究極の幸福をめざす対話の中での科学的道理における「勝負」なのである。

 当時に比べて、現代は、科学的レベル・学問レベルは格段に進歩している。
 当然に、さまざまな証拠をあげるまでもなく、この時点でいう日蓮の「我義」は、現代科学という「智者」に、すでに様々な部分を「やぶられている」のであって、日蓮のこの姿勢によるならば、現代においては現代科学を駆使した「智者」の知見を「用いじ」ではなくて「用いる」ことになるのではないか。
 そうする事こそが、「我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願」である。


 したがって、開目抄の、単なる文面だけを、永遠に絶対的ドグマとして信奉している限り、開目抄における、日蓮の真の主張(すなわち、日蓮仏法を)を受け継いだことにはならない。


 日蓮の主張した「南無妙法蓮華経」は、あくまで依法不依人に基づいた最高の「法」である。
 それは、その時代でその時点でのレベルで、法の勝劣(勝負)を判断したものであり、時代が進み、レベルが発展すれば、当然に、法の勝劣(勝負)も、変わってくるので、勝負に勝ち続けるところの、最高の「法」は、常にアップデートされていくものである。
 決して日蓮の時代に限られた・縛られた非科学的ドグマではないだろう。
 日蓮の教えには、この事を十分含んでいるのであり、その時点で勝劣(勝負)を判断し、最も優れている法を妥協なく主張して広めることを「折伏」と言っているのである。
 決して、教団を大きくするとか、現世利益を得るためとか、相手や社会を支配しようなどという野心や欲望の充足のためではないことは明らかである。

 あくまで、人々、相手のために、間違いを指摘し正しい法を説き導くという、慈悲の行為なのであり、この行為に、日蓮は、クビを捧げているのである。それは決して私利私欲や名聞名利。現世利益のためではないのである。


 だから、日蓮仏法を正しく広めていくならば、創価でなくてもよい。
 創価学会が「創価学会しかない」と言い張っているのは、上記の如く、科学的根拠のないデタラメとなる。
 特定の教団に属さなくても、成仏の道、広宣流布は十分できるのである。
 傍証として、法華経涌出品での地涌の菩薩は、眷属(教団)に属さない単独の者も大勢いたのである。
 日蓮も、現実に会っていない信者に対し「日蓮が弟子檀那等」と言い、生死一大事血脈抄にて、血脈の条件を説いている。
 私も、こうして、この日蓮の教えにもとづいて、この拙論文で、広宣流布していることを自負している。
 現在以降のIT・AI時代では、ネット環境自体が日蓮時代の公場対決の場に匹敵している。
 日蓮の言うところの本来の「折伏」は、ネット環境さえあれば、いつでもどこでも誰にでも瞬時に広宣流布ができるのである。
 日蓮の描いた曼荼羅は、描く万人に対して科学的再現性のあるものであって、以前に私もこの確信に基づき、描いて記事にした。
 これが、道理なのである。


 P28へ、続きます。



☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27,創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会