●38 野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件 | ラケットちゃんのつぶやき

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●38 野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。

 前ページから更に続いて、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討を、「新・人間革命」での描写も併せて行った。



■学会と公明党の関係(P19-30、「池田大作と宮沢賢治」P316-322)


 「今度の言論問題を通じて、さまざまな問題が浮かび上がってきましたが、ここに将来のためにも、はっきりさせておかねばならないのは、創価学会と公明党の関係であります。
 私としては、公明党結成のことを発表した昭和三十九年の本部総会の講演でも、創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である、とはっきり政教分離の出発を目指しておきました。
 私自身、三十九年の結党大会にも出ていません。また昭和四十年七月に『宗教政党』という理念を述べましたが、『理念においては一体であるが、体制・機能においては別である』むねを前提として、そう申し上げたのであります。
 これは、学会と公明党は『一体不二』であるという言葉を使ったので、一部に誤解した受け取り方をされておりますが、よく読んでいただければわかるように、民衆の幸福と平和を願う理念・理想が同じであるという意味であって、体制・機能の面までも『一体不二』ということは決していっておりません。
 また、その後『公明党ビジョン』を発表した時も『学会員一人一人の政党支持は自由である』と明言しておきました。むしろ創価学会は宗教団体として、信仰・布教に専念し、公明党は公党として立派に社会に貢献し、大衆福祉の為に戦って欲しいという事が、私の一貫した願いであったのであります。

 党はひとり立ちし健全な発達を

 もとより、公明党誕生の母体は、創価学会であることは間違いない。しかし、いくら母体といっても、いつまでも、それに依存するようであっては、党の健全な発展はない。たとえていえば、賢明な母は、子がひとり立ちできることを願うものであります。
 いつまでも自己の支配下におこうとして、かえって成長を妨げてしまうのは、愚かな母親であります。
 子は、いつまでも幼児ではない。体の成長にともなって、精神的にも、一人前の社会人として、活躍できるようにならなくてはなりません。
 今までは、創価学会と公明党は、この母と子の関係にあるとみられてもやむをえなかった。それにしても、我々は、愚かな母親であってはならない。この愚かさは、結局、重荷となって自らにおおいかぶさってくるでありましょうし、子供も社会に貢献できない大きい赤ん坊として社会の笑い者になってしまうでありましょう。
 我々は、これまで、公明党のために一生懸命応援し、守り育ててまいりました。だが第三党にもなれば、すでに立派なおとなであります。それでもなおかつ、これまでのように面倒をみなければならないとしたら、それは不合理というものであり、社会の批判をうけるのも当然の理でありましょう。
 そこで、これは提案になりますが、創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度のうえで、明確に分離していくとの原則を、更に貫いていきたいのであります。もちろん、理念においては、ともに冥合するものでありますが、実践面においては、それぞれの目的に向かって将来も進むことは、当然であります。これは、特に党幹部からの強い要望もあり、学会でも当然のこととして、理事会でも決定したことでありますので、皆さん方のご賛成をいただきたいのであります。(賛成挙手)
 今後、たとえ票が減ろうと、議員数が減ろうと、それが世論の要望であり、本来のあり方であるならば、近代政党として、当然の道であります。具体的には、議員で、学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念していただくために、学会の役職は段階的にはずす方向にしていきたい。党の要望もあり、できれば、二、三年のあいだに安定をみる方向に、党も学会も話し合っていきたいと思っております。
 ただ、本人の意思も、民主主義の建て前から、当然、尊重しなければなりませんし、当分は過渡期のため重複する場合もあるかもしれませんが、それはご了承ください。

 学会は公明党の支持団体

 また、学会は、公明党の支持団体ということになります。当然、学会員の個人個人の政党支持は、従来通り自由であります。学会は日蓮大聖人の仏法、三大秘法の御本尊を信奉する宗教団体であって、政党支持については会員の自由意思にまかせ、全く干渉するものではありません。
 逆に言えば、いかなる政党支持の人であろうと、いかなるイデオロギー持つ人であろうと、この妙法の旗のもとには、全くなんの差別もなく、平等に包容されるべきである事を、明確にしておきたいのであります。
 ただし、このことは、同時に政治の次元、イデオロギーの次元の問題で、学会内部を撹乱し、人々の信仰を濁らせ、組織を破壊する行為は、許されないことも意味します。信仰の純粋性、美しい和合僧の団結は、どこまでも守らなければならない。これを乱す行為に対しては、除名などの措置をとるのもやむをえないと思うのであります。
 また、選挙のさいにしても、公明党は党組織を思い切って確立し、選挙活動もあくまで党組織の仕事として、明確に立て分けて行っていただききたい。むろん、創価学会も支持団体として従来通り地域ごとの応援は当然していきたい。党員についても、学会の内外を問わず、幅広くつのって、確固たる基盤をつくっていただきたい、と公明党に要望したい。また
、党がひとり立ちしたことに対し、皆さん方も暖かく見守っていただき、応援もしていただきたいのであります。
 以上のように、創価学会と公明党を分離していくことを提案いたしますが、賛成の方は挙手願います。(全員挙手)
 なお、公明党は六月に党大会を行なうことになっているそうでありますが、国民の皆さんが納得するような、立派な近代政党の第一歩を踏み出すことを心より期待するものであります。そして右にも寄らず、左にも偏せず、ともに左右を包含し、民衆から、さすがあっぱれだと賞賛される確固たる中道政治の大道を勇んでいかれんことを願ってやまぬものであります。また、当然のことながら、党の問題は、人事についても、政策についても、全く党の自主的決定によることは変わりありません。
 更に私自身は、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出るようなことは決してしない、と重ねて明確に申し上げておきたいのであります」



 「新・人間革命」第14巻P301-304 には、この部分に相当するところは以下である。
「学会は、公明党の支持団体として、党を支援するが、組織的には双方を明確に分離することを述べたのである。
 これまでも、彼は、なるべく公明党と学会を切り離して考えてきた。公明党の結党大会に出席しなかったのも、そのためであった。今後も、学会と党とは一線を画し、社会的にも、分離のかたちが明らかになるように、次の五点にわたる原則を発表したのである。
 ①創価学会と公明党の関係は、あくまでも制度のうえで明確に分離していくとの原則を、さらに貫いていきたい。②議員で学会の役職を兼任している場合、党の仕事に専念してもらうため、学会の役職を外す方向で進めたい。③創価学会は公明党の支持団体としていく。学会員の政党支持は従来通り自由である。④選挙に際しても、学会は支持団体として、当然、応援はするが、党組織を確立し、あくまで党組織の活動として行うようにしてほしい。⑤党員についても、学会の内外を問わず、幅広く募って、確固たる基礎をつくってほしい。
 伸一は、この五点を発表すると、参加者に語りかけた。
『以上のように創価学会と公明党を分離していくことを提案いたしますが、賛成の方は、挙手願います』
 皆の手があがった。
 参加者の賛同をもって、新しい方向性が明確に定まったのである。…中略…
『また、当然のことながら、党の問題は、人事についても、政策についても、党の自主的決定によることは変わりありません。
 さらに私自身、生涯、宗教人として生き抜く決意であり、政界に出るようなことは決してしないと、重ねて、明確に申し上げておきたいのであります』
 このころ、『やがて山本会長は、自らも政界に出て、首相になり、権力を手にするつもりである』といった噂が流されていた。それを実現するために、創価学会が公明党を誕生させたかのような印象をいだかせるための、デマといってよい。もとより伸一には、そんな考えは毛頭なかったし、それは、これまでにも、折に触れて、語ってきたことであった。
 しかし、謀略的な噂を打ち破るために、再度、その考えを明らかにしたのである」
 と記載されている。


 ところで、謝罪講演で、このときの公明党にたいして創価学会は支持母体でなく、支持「団体」となっていることが欺瞞である。

 公明党が創価学会と一体不二でなかったとすれば、公明党は創価学会以外にも有力な支持団体があったというのだろうか。

 現在においても、あるというのだろうか。
 現在の公明党の票取りの実態は、ほぼすべてが創価学会員の活動によるものとみなしてもよい。
 であるならば、公明党は、いまだに票取りを母体である創価学会組織がほとんど丸かかえしているのであるから、この謝罪演説でいえば、生みの母体である創価学会は愚かな母親、公明党は、いまだに乳離れもしていない巨体の乳児ということになるであろう。
 公明党こそ、池田大作アニミズムの立場にたってみれば、広宣流布が達成され切った組織であるといえる。
 その組織が、結党以来、さまざまな不祥事を繰り返しているのも事実であり、田代富士男の砂利船汚辱、最近ではコロナ禍、緊急事態宣言中の深夜、東京銀座のクラブで飲んでいた遠山清彦は、記憶に新しい。


「新・人間革命」においては、美辞麗句でうまくまとめられているように見える。
池田大作の野望は、制度上のみの政教分離で、一時躓いたが、メンタルも含めた事実上では、政教分離は、歴史をみてもほとんど守られていないことがわかる。


 たとえば、山崎正友著「続・「月刊ペン事件」法廷に立った池田大作」2001/07/30,第三書館 P200には、
「『池田大作は、自分の妾を国会議員にした』
 と書いたことに関連して、弁護人は、公明党の国会議員候補の決定のプロセスについて問いただした。
 渡部通子は、
『当時は政教分離していなかったが、選挙の理事会あたりで推薦していただき、各部の執行部でも了解し、党の機関にはかられて決定した』
 と証言した。
『学会員が聞いたら面喰うだろうな』
 傍聴席であきれかえりながら、原島崇はつぶやいた。
 国会議員の候補者は、池田大作の鶴の一声で決まることを知らない幹部は一人もいないだろう。
 理事会では、池田大作が決めた候補を前に並ばせて池田大作自ら発表するのであって、理事会で討議が行われたことなどは一度もない。当時の聖教新聞を引っくりかえしてみても、『理事会で公明党の候補者を決めた』などという記事は一行もないのだ。
 これも、あとになって、竹入義勝委員長が朝日新聞に回顧録を連載したなかで、
『人事権は、私たちにはなかった』
 と述べていることや、大橋敏雄(衆議院議員)、藤原行正、竜年光(都議会議員)らが口をそろえて、
『池田大作の鶴の一声で決められる』
 と証言したことで、今日では〝常識〟となっている。このしきたりは、表向き〝政教分離〟をたてまえとしている今日も、一向に変わっていないのだ。
 今日(平成十三年)の段階で、もう一度渡部通子の証言のやり直しをしたら、渡部通子は、間違いなく〝偽証罪〟をおかしていたことがはっきりするに違いない。だが、昭和五十七年九月という時期では、それを直接にあばく手段を弁護団は持ち合わせていなかったのだ。
 その場しのぎでうそ八百を言い、あとでバレても知らぬふりをする。池田大作流の〝たぶらかし術〟を、通子は忠実に実行したまでのことである」
 と述べられている如くである。

 なお、「新・人間革命」では、上記のあと、公明党議員の一人が、信心という面で、どう考えたらいいのかのとの質問に対しての答えがある。
「皆さんは、学会の役職を外れ、党務に専念することになりますが、民衆の幸福、世界の平和を願う心は一緒です。〝民衆を幸せにしよう。民集のために働こう〟という心が、学会精神です。この一点だけは、永遠に一緒でなければならない。
 また、仏法から発した人間主義という理念を、政治の場で実践していく使命を担っているのが皆さんです。それだけに、その根本となる信心を磨き抜き、深めていくことが極めて重要になる…中略…
 一信仰者として、どこまで、求道心を燃やして法を求め抜くか。自身の仏道修行として何をやるのか――これが最も大事になります。
 他人の目はごまかすことはできても、自分をごまかすことはできない。また、生命の因果の理法は厳然です。誰人たりとも、そこから免れることはできない。どうか、議員の皆さんは、自分に負けることなく、信仰者として、どこまでも、清らかな信心を貫き通していってください。それが自身の崩れざる幸福を築く、唯一の道です」
 と、答えている。

 この事件の後も、公明党が結局、メンタルにおいては実質的に政教一致のまま現在まで続いていることは、多くの識者や造反者が明らかにしているところである。
 その根本的な事は、後述する池田大作の野望が、この事件でも潰えることなくつづいていることとともに、信仰そのものが、上記の答えのように純粋に求めれば求めるほど池田本仏論につながっていることとなっているためである。
 つまり、公明党議員のメンタルが、池田大作を頂点の師匠と仰ぐこと、つまり「師弟不二」になっていて、それが純粋な信仰であるとされている以上、どんなに美辞麗句をかさねて建前上の制度をととのえても、結局は公明党は創価学会と一体不二である状態は、永遠に変わらない。
 まさに、「他人の目はごまかすことはできても、自分をごまかすことはできない」のである。
 宗教的信念を、国会の論議の場で根本とすることは、いかに取り繕うとも、本来の政教分離に反する。
 国会議員は、宗教の理念ではなく、現憲法の理念を根本とすべきだからである。
 国法よりも仏法律を選択するときは、国法と仏法律とが合一している場合は良いが、相反しているときは、必然的に彼らは国法を捻じ曲げていくことになるからである。
 そして、後述すること、すなわち池田大作が国家権力を握ろうとする野望がある以上、その手駒として、公明党議員がアングラで利用されることも当然にありうるからである。


 このように、演説内容は制度という形だけの政教分離であったことは明らかで、多くの識者は、これを見抜いていたようであるが、建前が実現されるのを様子観察するしかなかったのであろう。


■池田大作「天下取りの野望」


 この事件の40年後に書かれた「新・人間革命」において、「『やがて山本会長は、自らも政界に出て、首相になり、権力を手にするつもりである』といった噂が流されていた。それを実現するために、創価学会が公明党を誕生させたかのような印象をいだかせるための、デマといってよい。もとより伸一には、そんな考えは毛頭なかったし、それは、これまでにも、折に触れて、語ってきたことであった。
 しかし、謀略的な噂を打ち破るために、再度、その考えを明らかにしたのである」
 とあるが、これは全くのウソ偽り、捏造であり、都合よく過去の歴史を書き換えていることは、以下にあげる自ら語っていた野望や独善的文言や、文献、その他の人たちの数々の著作によっても明らかである。


 まず第一に、戸田時代、池田大作は24歳で白木かねと結婚したが、その婚約を報じた昭和27年3月10日付の聖教新聞に、
「同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君御目出度う」
 とある。
 天下盗りは、池田大作の大志であった。

 それは、仏法者としてあるまじきもの、そして、自ら直結と言い張る日蓮の姿勢とは正反対のものであった。
 それ以降も、これにつながる一部の事件を、拙論文でも取り上げてきた。


 池田大作は、昭和38年7月1日、台東体育館、男子部幹部会の席上、15000名を前にして、
「戸田先生は、牧口先生の七回忌を終えてから会長に就任され、大折伏の大闘争にはいったわけであります…中略…私も恩師の七回忌を、皆さん方の絶大なるご協力を得てりっぱに過ごすことができる一歩手前にまいりました。その七回忌を終えてこそ、今度は私の本門の活躍の時代であるということを知っていただきたいのであります」
 と述べ、今度は自分の「本門の時代」と言って、続いて、
「いまの政治家、指導階級、評論家等が、なぜ民衆からバカにされているか、信用されないか。その原因は、とうぜん利己主義であり、なんら責任をもっていないからです。とともに、私はあまりにも勉強しない、思い上っている、増上慢である、おごりたかぶっているということが、その原因である…中略…
あまりにも選挙民や大衆をバカにしきっている…中略…
革新派が悪いことは、これはもう言語道断であることも、さきほどの渡部君の話で明確であります。ともに、自民党もまた、すごく悪い。このあいだも、福島談話という談話を、ある狡猾な政治家が発表しています…中略…
だれが、あのような腐りきった保守党(註、自民党のこと)と共鳴するわけでもなければ、だまされるわけでもない、…中略…」(池田大作著「会長講演集」第九巻、1964/3/16、創価学会、P296-300)
 と発言している。

 自分の「本門の時代」という宣言は、戸田と入れ替わった自分が「師匠」であり、創価学会の最高権力者であることを実質的に宣言したものと言える。
 そんな中、渡部君とは、先述した渡部一郎氏のことであろう。
 渡部講演は先述したが、その師の池田大作も、師匠自ら、批判者や対立する者たちにこのような「低劣な中傷を投げつけたものであった」ようだ。


 池田大作が、自分の「本門の時代」といった目的と、その後の流れは、継命新聞編「崩壊する池田創価学会」1990/2/3 日新報道,P60-62にも、以下のようにある。
 「当時、会員の絶対的尊敬をあつめていた戸田会長の権威をフルに利用し、参謀室長時代からそうであったように、虎の威をかる狐よろしく『戸田先生、戸田先生』を錦の御旗とすることによって、次第に池田は自分の地位を絶対化していったわけである。
 しかも、戸田を模倣した自作自演のカリスマ化は、やがて宗祖・日蓮大聖人、開祖・日興上人に比するものへとエスカレートしていく。
 その兆候はまず昭和三十八年七月、男子部幹部会で『(戸田の)七回忌を終えてこそ、今度は私の本門の活躍の時代であるということを知っていただきたい』といって、翌三十九年、大客殿落成をもって戸田の路線達成、池田の時代開幕としたのである。
 この後も、しばしば路線変更して池田独裁を強める度に『本門の時代』『広布第二章』等といって会員を扇動してきたが、それ以前は方便の迹門(学会用語では仮の姿の意)であったわけで、これほど学会員を馬鹿にした話はないはずだが、急成長しつづける組織は、池田の言動のすべてを正当化する力となっていった。
 この年から恩師・戸田の生涯を記録するという名分とともに『人間革命』を代作させた。
 そして、『人間革命をしっかり読みなさい。いっさいの指導が含まれている』『人間革命を読む人は、七年後には人間革命できる』などと自画自賛して会員必読の書とし、やがて現代の御書として教学試験にまでとりいれ、創価学会のバイブルにまでもちあげていく。
 このように、小説という巧妙な方法を使い『私の構想は大聖人の仰せと寸分違っていない』という池田の自己絶対化の思想をもって会員を洗脳してきた。
 次に『立正安国論講義』で『たしか大聖人様が立宗宣言をなされたのが三十二歳の時で、池田先生は三十二歳のとき会長就任された。また立正安国論を大聖人様が三十八歳、池田先生がこの講義録を書かれたのが三十八歳です』(和泉覚、前進S41・5)などと本仏の再誕であることをほのめかしたうえで『所詮、立正安国論と王仏冥合論とは寸分かわらない』と断言し、公明党の勝利即広宣流布の実現と教義づけし、会員の宗教的情熱を巧みに政権獲得のための権力闘争へ切り替えていった」
 と、述べられている。
 池田大作が日蓮の再誕として神格化され、小説「人間革命」が聖典とされて、藤原弘達が指摘した通りに、創価学会が発展していたことがうかがわれる。




 昭和38年7月30日、長野市民会館での中部第二本部幹部会で7000名を前にして、池田大作は、
「学会の幹部を信頼すれば御本尊様を信頼します。信心のうえだけは大幹部は絶対信頼していただきたいと思いますけれども、大幹部が第一の信頼ではありません。大御本尊様(註、板マンダラのこと)を信頼するのです。そのうえに立って、大御本尊様
のおおせどおりに、日蓮大聖人様のおおせどおりに従わない、たがえていく大幹部は仏罰をこうむります。
 したがって、大御本尊様を根本とし、あとは私どもはぜんぶ並列になって、大御本尊様の御前に、そしてまた激励し合い、補い合って、広宣流布にまい進したいとおもいますけれども、これでよろしいでしょう…中略…」
 と、板マンダラへの盲信を言い、
「日蓮大聖人様も『王法は賞罰を先にすべし、仏法は勝負なり』(四条金吾殿御返事一一六五㌻)とおおせです。勝つか、負けるかです。幸福になるか、地獄に落ちるか、それが仏法なのであります。文証、理証より現証にしかずです。どんなにりっぱなことをいい、どんなりっぱなことを聞こうが、自分が幸福になったかならないか、これが重大問題であり、これが仏法なのであります」
 と、述べている。
 ここでいう「りっぱなこと」をいいつづけてきた池田大作は、公から突然姿を見せなくなって10年、今、本当に幸せなのであろうか。
「どんなことがあっても、一生涯唱えて、大御本尊様を疑わないで、題目を唱えて、唱えきった人が仏の命を湧現できるし、生活のうえに絶対的な幸福の勝利を会得できるということを確信しきっての信心であっていただきたい」
 と、日寬アニミズムへの隷属を訴えている。
(大御本尊様=板マンダラは、破門された今、信仰の対象外となっている。これは、元々からアニミズムであったことがもたらす皮肉な因果である)

 さらに、
「正直者がバカをみるような世の中であります。いまの指導者、政治家は、ろくな人間がいないこともご存知のとおりであります。人非人のような存在が多いのです…中略…
私は、そういう時代に、私どもだけは、日蓮大聖人様のお使いとして、日蓮大聖人様の弟子として、朝な夕な不幸な人の味方となって戦っております。
だれびとからも一銭ももらわず、悪口雑言されながら、牧口先生以来今日まで三十年間のあいだ戦い抜いております」
 と、「だれびとからも一銭ももらわず、悪口雑言され」と言っている。
 さらに、
「それに反して、いまの政治家は、やれ勲章をもらうとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金もうけするとか、めちゃくちゃな世界であります。
日蓮大聖人様も『愚人にほめられるのは第一の恥なり』と、また戸田先生も『大聖にほめられるは一生の名誉と思って戦え』このように申されておりますが、私ども創価学会員は、位もいらない名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない。私どもは、大御本尊様をだきしめ『日蓮大聖人様が見てくださっている』と確信していきましょう」
 といっている。
 今の創価学会が、本来見習うべき指導がここにあるではないか…といえば、皮肉にちがいない。
 八風におかされない仏法者としての姿勢、日蓮の姿勢が「位もいらない名前もいらない、有名でなくてもよい、大臣もいらない、また権力もいらない」に、あらわれているからである。
 池田大作は、社長会(金剛会)で、これと全く正反対の本音を少なからず吐いている。
 そして、現在、池田大作は、ばく大なカネ、多くの権力や名誉称号、多くの施設を集めてきた自身の姿が、これと全く正反対であることを、現証として示しているのである。
 自身のいう、仏法は勝負であるなら、仏法者と正反対の現証は、地獄に落ちたことに匹敵するのではなかろうか。
 むろん、仏法は、池田大作が言うところの現実における「勝負」ではないことは、かなり前に述べた。


 かつて、創価学会に詳しい高瀬広居は、こう指摘していた。

「池田会長はかつて一度も、世俗的権威者に近づくことで、価値を高めようとしたことはない。むしろ、唯一の正法を知らざる権力者に憐憫をもっていたのだった。
 そして、池田会長自身もいうように、かれのこの立場は、仏法上―法華経と日蓮上人の『御書』―によって裏づけられているというのだ。
 かれは公明党結成の直前、教学部長との対談で『報恩抄』のうちにある『国主は但一人なり。二人ともなれば国土穏やかならず。家に二の主あれば其家必ず破る』という一句の意味を解して、
『一人になると独裁政治となるのですね。根性まがりは』と笑いながら、
『ぜんぜん、そういう意味とは違います。あくまでも、一人を中心として、みんなで合議すればいいのだということだす。一家も、お父さんを中心にして、それで皆がいろいろ協議しあって一家を守っていく。それを拡大して国家にすればよいのです』
 これは、家庭のように国家をみていこうという家庭国家観とは違う。中心となる『一人』とは『正法によって福運を積んだ人が、王にならなくてはならない。すなわち政治家にならなくてはならない』ということなのである。もちろん、かつてはそれが天皇だった。
 思い出そう。『一応は天皇、再往には時の最高権力者』それは『法華論の総講頭』『創価学会の会長』が不開門を開くというかれの言葉を。
 法華経―『諸経の中に於て最も其上に在り』―『仏は所生、法華は能生。仏は身なり、法華経は神(たましい)』―それに帰依する者の最高のリーダーは当然『国主』となる……。
 民に安らぎと平和な国土での生活を与え導く者は、創価学会会長……。
 しかも、法華経でいう国とは日本だけをさすのではないと池田大作はいう。
 一応は日本、再往は地球全体。
 かれは、しばしば『私は政治に出ない』という。その政治とは既成の考えでいう『政治』であり、全文化を包合する意味での『王』―政治をさすならば、まさにかれは『王仏冥合の中心的実体』として政治の要となるのだ。
『私が戸田会長から教えられたこと、創価学会会長というものが、どのような存在であるか、注入され自覚させられたことだ。それは一体なにか』

 池田会長は、モダンな本部応接室のアームチェアーにアグラをかき直すと、煙草を一服し、静かに、そして激しい語気でいった。

『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』

 同席の大幹部数人は深く肯き、息をのんだ。ごく平和な空気が漂っている……。きびしい秋の陽をさえぎる茜色のカーテンが静かにゆれていた。彫りの深い池田大作の眉宇には、想像しえない決意の意志が刻みこまれていた。
 三十七歳の創価学会会長は、自らを全世界の指導者、日本の国主たる気概と現実的意志のもとに、数百万世帯の人々を背景に、舎衛三億の目標に向かっているのである。」(高瀬広居著「人間革命をめざす 池田大作―その思想と生き方―」P76-78)


「王仏冥合は、私どもの大理念であり、大指針であります。一往は王といえば創価学会、仏といえば日蓮大聖人の大仏法ですが、再往は、創価学会のこの五百四十万世帯の結合、団結、これが仏であり、公明党等を先駆とした活動は王であります」(前進1966/11)
 これを引用して、溝口敦は自著「池田大作『創価王国』の野望」1983/6/10、紀尾井書房、P32には、
「つまり創価学会は日蓮正宗を外護するのでなく、むしろ同宗にかわって宗教的権威を一身に担い、公明党が政治的に天下を取ったときに〝冥合〟するとの宣言であり、〝池田本仏論〟のいいかえにすぎなかった」
 と述べている。
 また、同著には、
「池田は翌四十一年、『総務』職を新設、北條浩、辻武寿など六人を任命するが、その理由を『なにしろ国連でいえば(創価学会の会員数は)二十数位に位する大組織』だからと説明したものである。国家内の国家という池田の意識をはからずも露呈した言葉といえよう。
 だが、池田は日本国内における〝創価学会国〟の独立を考えたのではない。彼の構想は飽くまでも創価学会=公明党による日本の制圧である。
 同年五月の本部総会で、池田は長期目標を明らかにしている」
として、以下の聖教新聞での池田の主張をあげている。
「昭和五十四年から十一年目の昭和六十五年…中略…この年を目標にして、広宣流布の大総仕上げにかかりたい。こう決意している次第であります。
 なお、この年になりますと、それまでに参議院の選挙は八回になります。また、衆議院の選挙も、最低十回ぐらいはあるでしょう。したがって、公明党も、その時まではひじょうに力がつくのではないかと考えます。
 また折伏も、一千万の基盤は…中略…昭和五十四年にできあがれば、六十五年までにはさらに四、五百万世帯ぐらいはいくのではないかと考えられます。
 これはあくまでも話として聞いていただきたいのですが、一千五百万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、二千四百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば、釈尊の〝舎衛の三億〟の方程式は、事実上間違いなく、それ以上の結果になることは明らかです」(聖教新聞、1966/5/4)


(弟子の山崎正友は、学生部副部長であったが、この年の4月に、池田からの祝い金で法律事務所を開いている)


 池田大作の天下取りの野望を、早くから聞いていた幹部は少なからずいる。
 山崎正友は、自著「懺悔の告発」1994/3/15 日新報道、P121で、以下のように述べている。
 「池田大作は、既に昭和三十五年、会長就任直後から、天下盗りの構想を練っていた。
 三十八年、幹部に対して、『諸君、天下を取ろう!』と声をあげ、翌年、公明党を作って衆議院に進出を果たした。従来、『参議院進出は、国立戒壇建立のためである。衆議院には出ない』といい続けてきたのに、一夜にして前言を翻したのである。
 それは、『折伏による強勢拡大が従来通り進めば、昭和四十七年ころには、日本の人口の過半数が創価学会員になり、公明党は国会において過半数を占める。その時、自分が総理大臣となり、天下を治める』というものだった。当時、池田大作は、既に閣僚名簿まで作って側近に見せ、悦に入っていた。天下盗りの最終目標年度は、その後、状況の変化により先送りされたが、昭和六十五年(大石寺開基七百年)まで延ばされた」

 また彼は、自著「創価学会と『水滸会記録』2004/6/10、第三書館、P56-58で、池田大作の権力奪取構想を、自ら暴露した水滸会記録をあげて解説している。
「〝総理大臣になれば日本を自由にできる〟
 水滸会記録の本文は『国家機構』から始まり、冒頭に『総理大臣』という項目が設けられている(三七頁)
本文
『今、日本の社会で司法陣が負けているということがどこでわかるか。非常に縮小しているのでわかる。これにはかならず盛り返しが来る(佐藤幹事長汚濁問題で、犬養政権が、指揮権を発動して、司法陣をおさえた。)その時、吉田(首相)は、もろくも破れるだろう。
 今の吉田は天皇より力を持っている。軍隊を持ち、警察権を持ち、持たないのは司法権だけである。これがひどくなれば、革命しか、その権力をくつがえす方法はなくなる。吉田は力がなくなると、刺客が殺しに来るかもしれないという心配もあるし、現在の地位をめったに捨てることはないと思う。
 ✕  ✕  ✕
 今の総理大臣の権力は、明治時代の天皇以上である。総理大臣になれば、日本を自由にすることができる権限をもつことができる。自衛隊を動かすことのできる権力も持っている。ある意味では、広宣流布しやすくなったな。』
 戸田城聖が、明治憲法下の権力機構及び実権の所在と、新憲法下のそれを比較して、さりげなく述べたようになっている冒頭のこのくだりは、創価学会の方向性を解析する上で、最も重要なヒントを与える部分である。
〝今の総理大臣の権力は、明治時代の天皇以上だ〟〝総理大臣になれば、日本を自由にすることができる〟〝ある意味では、広宣流布しやすくなったな〟
という部分こそ、創価学会がなぜ政治活動をするか、という動機であり、‶天下盗り〟をめざす本音が明かされている、といってよい。
 国民は、だれ一人、天皇になることはできないが、しかし、総理大臣になる資格ーーは平等に持っている。そして総理大臣には、三権(司法・立法・行政)の中でも、強大な権限が集中している…中略…そして、『総理大臣になる』ということは、衆議院で過半数を得ているということでもある。
 この状況を踏まえて、〝広宣流布しやすくなった〟としているのであり、それは創価学会の猛折伏によって会員を増やし、国民の過半数を制すれば、総理大臣の座を手中にでき、そして〝総理大臣になれば、日本を自由にできるからだ〟というのである。
 戸田城聖、池田大作、そして創価学会首脳にとって、〝広宣流布〟とは、自ら日本の国の総理大臣になり、日本の国を思うがままに、自由自在に支配することを意味していることが、ここにはっきりと述べられているのである」


 藤原行正は、自著「池田大作の素顔」P101-104で、こう述べている。
 「日本乗っ取り計画…中略…
 昭和四十年代なかば、正確には四十五年一月の七百五十万世帯達成まで創価学会の勢力拡大は破竹の勢いがつづいた。
世間の人は笑止千万と笑うだろうが、この時期までの池田大作は本気で『日本乗っ取り』を考えていた。その計画は具体的なもので、昭和五十四年(註、池田が設定した七つの鐘が鳴り終わる時)までに日本全国を日蓮正宗すなわち創価学会一色に変えてしまうという大目標を掲げており、その尖兵たることが折伏に精を出す学会員たちの大きな活力源となっていたのである。
 たとえば四十年十月、総本山大石寺に正本堂を建立するとして、創価学会は全国一万六千会場でご供養を受けつけ、学会員八百万人から三百六十五億円の浄財が集まった。池田はこの正本堂の建立を広宣流布達成のための重要な通過地点と宣伝し、学会員達は自分たちの大目標がまた一歩着実に前進したと信じていた。
 また、池田はかなり早い時期から政界進出への野心を膨らませてもいた。
 三十七年一月、公明党の前進となる公明政治連盟(公政連)が発足し、同年四月にはのちの党機関紙『公明新聞』を発刊。この時点で二年後の公明党結成(三十九年十一月)、四年後の衆議院進出(四十二年一月)のハラを固め、その青写真どおりに事態は進行していった。
 そのころ、私も同席した場所で池田があるマスコミに語った理想があった。
『日本を楽土にしたいんです。幸福にみちみちた平和な国。その国つくりをやりたいんです。あらゆる政治経済などの分野で、日蓮大聖人の仏法を根本理想として、人材を育成してゆきたいと思っています……。
いま、わたくしが、五百万、八百万の世帯を折伏しよう、といえば、会員のみなさんはきっとやってくれます。しかし、わたくしは、それよりも、三百万世帯の方々を本当に幸せにし、その幸福を多くの方々に広げてゆきたいのです』
 戸田二代会長から受け売りの理想と池田独自のハッタリ。日本を楽土に変えて感謝されるどころか、いまの池田大作は世間から軽蔑される存在になり下がっている。また、同じ時期に池田はこんな言葉を吐いてもいた。
『私の言葉は学会内では憲法になる』
 すでにこの時点で創価学会は池田独裁体制がほぼでき上がっていたから、自分の意思はそのまま創価学会の決定だ。そんな自信を暗にほのめかす池田の言葉だった…中略…        
 四十一年六月、学会世帯数は五百八十万世帯に伸びて、六百万世帯突破は時間の問題となり、その余勢をかって翌四十二年一月、初進出した衆院選では先にも書いたように二十五議席を獲得した。衆参両院で学会勢力は四十五名を数えるに至った。さらに四十四年十二月の衆院選では二十二議席増やして四十七議席と衆院勢力はほぼ倍増。
『学会を大きくしてがっちり固めたら、いよいよオレは政界入りする。その時には公明党委員長じゃなく公明党総裁に変えてやろうじゃないか』
 といった表現で、池田は学会幹部に自分の野心を巧妙にちらつかせたのもこの時機である。私をはじめ池田の周りにいた当時の学会幹部ならこの言葉を聞いたのは一度や二度ではなかった。
 有頂天となった池田大作はおりにふれ、日本の宰相と創価学会会長を兼務するという野望を口に出した。まさしく政教一体、池田は『日本乗っ取り計画』の野心を大真面目で夢想していたのである。
 池田を立てる北条さんなどは公明党の副委員長や書記長時代に『池田先生を総理にするのがわれわれの目標だ』とつねづね口にしていたものである。そして、それは幹部全員の思いでもあったような気がする。
 とどまるところをしらぬ組織の躍進ぶりに一般会員の士気はいやが上にも盛り上がり、学会全体に一種異様な興奮が充満していた。このまま倍々ゲームでいこう。そうすれば天下をとれるゾ。日本の人口の三分の一を折伏して創価学会員とし、あとの三分の一を学会・公明党のシンパとする。仏教でいう『舎衛の三億』の夢が声高に語られ、その実現が目前に迫っているような幻想が芽生えていたのである。…中略…
一つの目標を示して、多くの人間をその目標達成のために規則正しく行動させる。この一点に限れば、創価学会三代会長は天賦の才に恵まれた大衆指導者と呼べたかもしれない。
 たとえば会長就任から最初の十年間で、時代に恵まれたとはいえ六百万世帯もの学会勢力拡大を達成したのは凡庸な人物には不可能な仕事である。しかし、池田大作には致命的な欠点があった。大組織を束ねるリーダーとしての社会的使命感、また学会員個々への責任感というものが、野望実現に我を忘れたこの男の頭から欠落していたのである」


 矢野絢也も、自著「私が愛した池田大作」P216-219で、以下のように述べている。
「私は池田氏が宗門乗っ取りに方針転換したのは、言論出版妨害事件がキッカケだったのでは、と推察している。それまで池田氏は、本気で『政界の王者』を目指していた。実際、
 『天下を取ろう』
 という檄が我々公明党幹部に対し、一時はしょっちゅう飛ばされていたのである。
 『ここは慎重に』
 などと弱腰を見せれば、
 『そんな弱きでどうする。前進、前進あるのみだ』
 と叱咤された。
 当時の池田氏は、このままいけば公明党が議席の過半数をとるのも夢ではないと本気で考えていたようだ。『過半数を得て、総理を公明党から出すんだ』と言われたこともしばしばあった。もちろん、このときの総理は池田氏以外には絶対にあり得ない。たしかにあのころ、公明党は怒涛の勢いで議席を増やしていた。会員数も膨れ上がる一方だった。あの勢いのなかにいれば気分も高揚し、誇大妄想に取りつかれたとしてもおかしくはない。信者が増えれば議席も増える。議員の過半数を獲得すれば国会運営は思いのまま。『国立戒壇』『王仏冥合』も政治力で成し遂げることができる。
 池田氏はあのアドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』に出てくる言葉を好んで引用していた。彼は本気でヒットラーのような超独裁者になることを夢見ているフシがあるのだ。
 ところが現実はそんなに甘いものではない。ヒットラーは街頭で大衆にスピーカーを通して演説したが、池田氏は『超』が付く内弁慶だから、そんな真似はできない。
 言論出版妨害事件を機に政治の側からすさまじい学会攻撃を受けたとき、青年部や我々の間には、ヒットラー・ユーゲント(ヒットラー青少年団)さながらに『こんな無茶をやるなら、国会周辺でデモをやろう』という勇ましい意見もあった。しかし、池田氏は国会喚問を拒み続け、謝罪し、政教分離を明言せざるを得なかった。当時、池田氏をなだめていた古参の側近が『池田氏は小心者だ』と語っていたのが印象的だった。本気で勝負できない人なのだ。『国立戒壇』『王仏冥合』の夢を自ら放棄する発言を余儀なくされた。『権力を打ち倒すんだ』と豪語していた人が権力の恐ろしさというものをまざまざと思い知った格好だ。特に国会論戦で憲法の『政教分離』の壁が立ち塞がったことは大きかった。
 そこで方針が転換された。『政界の王者』がすぐに無理なら、次は『宗教界の王者』を狙おうというわけだ。ローマ帝国の皇帝になれないのなら、ローマ法王に、というようなものだ。かくして宗門乗っ取りが目指されることになった。
 そして宗門との戦争に専念するには、背後を固めておく必要がある。最もうるさい共産党を黙らせておかねばならない。そのための創共協定だった」



 原島崇は、自著「誰も書かなかった 池田大作創価学会の真実」2002/7/25、日新報道、P112-113にて、以下の通り述べている。
「池田大作の天下盗り…中略…
 昭和三十六年に公明政治連盟が結成されたさい、総本山大石寺の宿坊で、幹部が大まじめで『閣僚名簿』を作っていました。そこで二種類の名簿を作りましたが、いずれも『総理大臣』は池田大作でした…中略…
 昭和三十八年秋の学生部幹部会で池田ははっきりと次のように言っています。
『今日、ここに集まった学生部幹部諸君を心から信頼して、私は本当のことを申し上げる。広宣流布とは、しょせん天下を取ることだ。諸君、私と一緒に天下を取ろうではないか。私が立たなければ、日本はつぶされる。これまで世間からバカにされたり無視されながら着々と力をたくわえ、準備をととのえてきた。世間をあっといわせよう。三国志をはじめようではないか』
 池田は、昭和三十九年の公明党結成時には党首脳たちに、自らを『国父』と呼ばせ、また衆院選の公明党控室には、池田の写真と、その自筆の和歌『妙法の宝を胸に抱きしめて、君等戦え天下取るまで』の色紙を飾らせたりしました。そのころの私も、『池田先生がやがて日本の総理大臣になられる』と信じて疑わなかったのです。
 公明党が初めて衆院進出したのが、昭和四十二年の一月、このとき二十五席獲得し、昭和四十四年十二月の総選挙ではほぼ倍増の四十七議席に達しました。このころ池田は周囲の人たちに、『学会を大きくしてがっちり固めたら、いよいよオレは政界入りする。その時は公明党委員長ではなく公明党総裁に変えてやろうじゃないか』と語っていました」



 溝口敦は自著「池田大作 創価王国の野望」にて、以下を指摘していた。
「はたして世論に池田大作の野望を阻む力はあるのか。彼が今の体制をたて直して、再び日本国を望める根拠は用意されるのか。予想はかなり困難である。短期的には、彼が天下取りの片棒として頼りににしている田中角栄は懲役五年の求刑でどうなるのか、その時々の政治状況と密接、かつ複雑にからまりあって、池田の野望が達せられると否とにかかわらず、野望実現に向けた過程自体がすでにして害悪をたれ流すことである。
 創価学会の迷惑はいうまでもない。前章までに触れたように、学会員は自ら好んですることとはいえ、身も心も金も奪われ、家庭を壊され、体を傷めて、はては犯罪まで走る。
 社会病理学的な現象といっても過言ではない。
 加えて非会員にとっても、公明党政治にさらされる以外に、悪しき人気を数えねばなるまい。
およそ現世利益を追い、欲望を満たすことを手放しで礼賛し、真実を軽んじてウソも方便とする創価学会教学、公明党の無原則で利害だけに基づく突然の方針転換など――これらの今いわれる荒んだ人の心の原型は、池田創価学会が先駆けとなって範を示したものともいえよう。おそらく学会が本尊を幸福製造機と呼ぶ以前には、人が立身出世や金儲けを口にするとき多少の後ろめたさを感じたものだし、公明党が衆院に出る前は政党はよし悪しはともかく、今少し分りやすい行動をとったはずである。
 あるいは、筆者は全体と部分を取りちがえているのかもしれない。つまり荒廃に向かう社会に創価学会の教えがフィットしたからこそ、ここまで池田創価学会が伸びたのだ、と。そういいかえてもいい。
 池田大作はすぐれて今の社会が持つ負の側面の化身である。もし彼の野望が将来、達せられるならば、それは時代が望んだことになろう。」(溝口敦著「池田大作 創価王国の野望」1983/6/10、紀尾井書房、P256-257)

「…これらは内部告発によって初めて世間に知られるところとなったものだが、明らかにされた不正に対する創価学会の事後対応もまた、社会的な未成熟を十分疑わせるものであった。
 すなわち、批判者に転じた同会の幹部である山崎正友、原島崇両氏に責任を転嫁し、同会の負うべき責めに頬かぶりを通しているばかりか、両氏をはじめ創価学会批判の内藤国夫氏などに対する個人攻撃を重ね、批判そのものを圧殺しようとしている。
 創価学会に対する批判は昭和四十五年時とは異なり、同会と公明党がマスコミ、政界などに対し一定の勢力を食い入らせているがために十分でない。一部団体と個人は同会の提供する利便を受けて、創価学会の実像を曇らせ、美しい虚像を社会に売り込む役割を果たしている。…中略…
 池田大作氏は、いまだに『創価王国』の野望を捨てきってはいない。目指すところは創価学会による日本支配であり、それが実現するか否かは一にかかって、池田氏と創価学会を見つめる社会の目にあるといえよう。同会の〝平和運動〟に幻惑されるのはもちろん、その実力を侮るのも危うすぎる。」(溝口敦著「池田大作 創価王国の野望」1983/6/10、紀尾井書房、P258-259)


 以上の文献をもって、自らも文言とともに、また、回りの側近やジャーナリストも、池田大作の「天下取りの野望」を語っていたのである。
 決して、「新・人間革命」でいうところの、「噂」などではないことは明白である。
 創価学会の正史と、教義を語るという聖典「新・人間革命」は、ここでも事実の隠蔽・捏造をしているのである。


 日蓮は、国家を諫めたが、権力を握ろうとしたことはなかった。
 天下を取ろうなんて、日蓮の姿勢からはまったく正反対である。
 現在の創価学会は、この事件以降、財務としてばく大なカネを毎年集め、さまざまな団体や企業を経済的な取引で操り、豪華な伽藍や会館、贅沢な施設を国内や世界に建て、池田大作唯一人の名誉称号を集めるために多くのカネや人を動員し、学会員の票を国会対策や選挙取引に利用してはばからない。その結果、自らの議員の中からも汚濁事件などの不始末を起こしたり、他党の金まみれ選挙違反に加担した議員を当選させていることは、広く国民に知れわたりところとなっている。
 こうした中には、日蓮の血脈がまったく存在しないことを明確に示す証拠である。
 日蓮は決して民集を利用して天下を取るのではなく、封建制度の中にあっても、さまざまな特権や国家権力を利用することは微塵もなく、あくまで民衆の中で、清貧を貫いて、厳しい自然の中、民衆のレベル以下の草庵を拠点に、草の根の布教活動を、生涯貫いたし、このことを門下にも徹底していたことを、あらためて確認しておく。

 

 P39へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件