●29 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘 | ラケットちゃんのつぶやき

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●29 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P29,言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


■藤原弘達著「創価学会を斬る」での、指摘の一部

 言論出版妨害事件は、創価学会史上、重要な事件であり、IT時代の現在は、ウィキペディア(Wikipedia)で詳細を知ることができる。
 史実の検討に入る前に、そのきっかけとなった藤原弘達著「創価学会を斬る」について、少々検討してみる。
 内容表現の様子はさておき、この書における藤原弘達の創価学会・公明党に対する分析は、まことに緻密で的を得ていると思える。
 まず、例としてP31-32にある指摘を以下にあげる。

 「あらゆる宗教が、高遠な理想をかかげながら、現実には大衆の情感にピントをあわせ、さまざまな手を打っているという点については、一応の普遍性を認めるにしても、もし理想の実現が真底からの願いであるとするならば、学会の現実はおそらく際限のない自己矛盾におち入らざるをえない宿命をもっているといわざるをえない。宗教は何よりも内面の矛盾を恐れなければならない。しかるに、彼らの外に向かってとる強い攻撃的態度、宗教の高遠な理想とは無関係に、宗教を勢力とし、政党を勢力として拡大していこうとする方法は、宗教を単なる方便に使用しているに過ぎないと受けとられてもしかたがないものをもっており、内面に矛盾をもちきたらすといわざるをえない。そういう側面からみた創価学会のさまざまな奇妙さについては、幾多これを例示することができるであろう。
 その最も大きなものは、いわゆる邪教論の後退である。創価学会が公明党という政治支店ないし政治出店を出して以来、いわゆる他の一切の既成宗教は邪教であるという主張が、だんだんと声の小さいものとなってしまった。これは彼らの基本的発想、立場が変化したということを意味するものではない。他宗を邪教としてその存在を原理的に否定するということは、そもそも日蓮正宗の基本的立脚点であり、宗教的な伝統であったはずである。
 それが公明党という政治支店を開き、衆議院に進出すると、そうしたラジカルな邪教論の立場がどんどんと後退してしまっている。政治と宗教のいずれが学会の主体なのか。政治は妥協である、宗教は純粋でなければならない。こうした矛盾、現実と理想の分裂、それが邪教論を政治的配慮のために後退させているものなのである。このことを裏返せば、邪教論の後退は、とりもなおさず、宗教をパワーとしての宗教勢力、パワーとしての政党勢力拡大の便宜的手段として用いているということであり、邪教論後退は戦術的後退というほかなく、現実に対する妥協的な適応態度といわなければならない。そういう政治手段の先行が、宗教に与える変質については、驚くべきことにきわめてリアリスティックに割り切られている。そこにも創価学会の大きな問題点があるといわざるをえないであろう。」


 私見では、この指摘は、50年以上経過した現在においても、なおその傾向を強めている創価学会の現状を見事に指摘・予言した点であろう。
 どうして、科学的な道理を広めているならば、謙虚な姿勢でこの指摘を受け入れしなかったのであろう。

 創価学会の姿勢は、前記事にも指摘した如き、一切の批判拒否の態度であり、科学的真理を主張する態度としては真逆の姿勢だった。

 ここにも、池田大作の偽りズムが顕れている。
 この時点においても、創価学会・公明党は而二不二であったから、政権獲得を目指す公明党での邪教論の後退は、政教分離の建前上、やむをえないところである。
 宗教を便宜的手段として用いているとの指摘を始め、おおむね彼の指摘は的を得ている。
 この藤原の指摘通り、今でも創価学会では、選挙の票取りが、まさに「政治手段」が、宗教に「変質」を与え「割り切られている」ものと見なせるものである。

 さらに、同著P32-33には
「〝折伏〟という奇妙なる説得方法
 それにしても創価学会は、実に巧みに大衆心理のなかにくいこんでゆくさまざまな手をあみだしている。
 学会員にとって、折伏なるものは、大衆を幸福に導くための『慈悲の行為』ということになっている。
折伏自体が精神であり、魂である、ともいわれている。したがって、そもそも慈悲の行為なのであるから、これを遠慮なく他人に及ぼしてゆくということは、少なくとも信仰をもっている会員にとっては、当然の使命なのである。積極果敢な折伏が行われれば行われるほど、そのこと自体が信仰の深さ、信念の深さを実証するものとなる。こういう理論的組み立てなのである。
 したがって、ただ自分だけが入信しておればそれでよいということは、創価学会においては絶対に許されない。学会員は自分自身の内面を深く内省するという行為以上にわかってもらえなくてもいいから、他人にぶつかり、自分と同じような信念をもたせるために、強く働きかけることを要請されている。そこから信者獲得数が学会員のメリットとなり、そのメリットが彼らを一種の立身出世、学会内出世主義のエスカレーターに乗せるキメ手になっている。」


 現在では、聖教新聞購読者数(通称、ポイント)や選挙においての票獲得(F(フレンド票)、マル外(Fの友達の数)、マル地(地方選挙においての票獲得数))などが、かつての折伏や本尊流布に取って代わっている。


 さらに続いて、同著P33に、
 「創価学会員の布教活動が、細胞分裂といわれるのもそのためである。細胞組織戦術なるものは、共産党がしばしば用いた手であり、まさに細胞という表現は、そのまま共産党組織に存在するものにほかならない。この戦術が、いうなれば本家である共産党を凌ぐほどにキメ手となったのは何故であろうか。それは、日本共産党を含む革新勢力の、大衆の情感からの浮きあがり、ないしは大衆感覚の欠如という側面からも分析できるであろうし、さらには日本の大衆のまさに日本的とでもいえる宗教的情感、宗教的なるものへの渇望、あるいは政治不振への不満、精神的空洞化の現象等々からも説明できよう。この戦術が創価学会において一つの成功をおさめたことは、日本の政治、宗教にとってまことに皮肉な現象といわなければならない。
 ともあれ、この折伏方式を通じて細胞組織を拡大し、しかもそれを底辺大衆にしぶとく展開していったところに創価学会伸張の基本的な路線があり、その政治と宗教の使い分けは、まこと巧妙であり、その限りにおいては見事であったといってもよい。たしかに精力的な折伏行為が行なわれ、それはしばしば行き過ぎながらも情熱をもって試みられた。しばしば引用されているものではあるが、池田大作は折伏について次のように述べている。」
 と述べ、以下の、立正安国論講義で展開されている折伏を引用している。




■藤原が引用した、立正安国論講義で展開されている折伏の検討

 池田は自著「立正安国論講義」を昭和41年に出版し、その中で折伏について、
 「まことに折伏こそ、民主主義の先駆をなすものであり、真の寛容なる振舞いであり、民衆に真実の幸福を与えていく源泉である。すなわち、折伏は、あらゆる人々が平等に尊厳なる妙法の当体であるとの前提にもとづいて行なわれているのである。妙法の当体でなければ、なんで折伏する必要があろうか。
 われわれが折伏するのは、相手が駄目な人間であると、非難したり、悪口を言ったりするものではない。事実は全く逆であり、相手のもつ邪法を打ち破り、邪見、偏見におおわれていた、清浄無染にして、力強い、尊厳極まりなき、妙法蓮華経という大生命をあらわさんがためである。これ最も相手を尊敬する行為であり、かつ生命の尊厳を基調とする民主主義の先駆をなすものではないか。しかもまた、いかなる迫害にも屈することなく一切衆生の幸福を願って忍耐強く折伏しゆくことは、最大の寛容ではないか。」(池田大作著「「立正安国論講義」P722)

 また、
 「大聖人は曾谷殿御返事(一〇五六㌻)に『此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候』と仰せである。
 折伏するわれわれは、謗法の者の迷蒙を開き、仏果を得させようと努力するのであるが、折伏される方は、そうとは取らず『忠言耳に逆う』のである。だが、先の御文の『いまだこりず候』こそ、わが学会の折伏精神である。広宣流布、王仏冥合達成まで、われわれは悪口をいわれようが、迫害されようが『いまだこりず候』と、莞爾として折伏行にいそしんでいかなければならない。
 創価学会がなぜ強いかと言えば、創価学会の目的が全民衆の幸福にあるからである。われわれには、なんの野心もない。権力に迎合する必要もない。右でもなければ左でもない。われわれは、中道をまっしぐらに進むのである。折伏は創価学会の精神であり、魂である。だれがなんといおうか、永久に折伏は続けていくのである。されば、折伏の功徳もまた絶大である。
 しかして、折伏は、御本仏、日蓮大聖人の使いとして、如来の事を行ずる行為である。ゆえに御本仏の冥々の加護が、日常の生活に現れると同時に、折伏の功徳によって強い生命力があふれ出てきて、世の中のことを処するのに勇気が出るのと、以信代慧の原理により、御本尊を信ずる信力は智慧と化するので、この三拍子そろって、日常生活がぐんぐん改まってくるのである。
 これこそ経文にある『現世安穏、後生善処』であり、必ず成仏できるという証拠でもある。」(池田大作著「「立正安国論講義」P727)
 と講義している。

 なお、著者の藤原の引用は、上記のP722では「われわれが折伏するのは…中略…最大の寛容ではないか」、及びP727では「創価学会がなぜ強いかと言えば…中略…永久に折伏は続けていくのである」の部分のみであるが、文意をとらえ損なわないために、各々前後を含めて検討する。


 第一に挙げたP722の部分について、
 「折伏こそ、民主主義の先駆をなすもの」という文言の通り、仏法における修行であるべき「折伏」を、時代の観念にとらわれた政治の分野にまで転用している点である。
 藤原は、創価学会の実態という結果について詳細に指摘しているが、ここに根本的理念の誤りがあることを見逃している。
 前ページでも何回も述べたが、折伏とは布施とともに純粋に仏道修行の一つであり、その態度はいかなる民衆をも成仏に導くという慈悲の精神に貫かれているべきもので、民衆の政治的理念の如何を問わない。
 過去には、仏法において善政を敷いたという政権は皆独裁政権であり、日蓮が広宣流布の理想として述べた「ぎのうの世」というのもまた、この限りである、
ここに、「民主主義」を仏法の理念として掲げること自体が、日蓮仏法から逸脱しているのであり、仏法の曲解といわなければならない。
 先述したが、日蓮が国家諫暁した目的は「立正安国論」にあるごとく、道理に基づいた政治を行うように時の最高権力者を諫めたことであり、たまたまその時の学問的な最高・最勝の道理が、仏法の法華経であっただけである。
 したがって、続く文の(折伏こそ)「真の寛容なる振舞いであり、民衆に真実の幸福を与えていく源泉」というのは、特定の政治理念を強要することにつながり、まったく仏法の理念と離れたこじつけとなる。


 続く「折伏は、あらゆる人々が平等に尊厳なる妙法の当体であるとの前提にもとづいて行なわれている」及び「相手のもつ邪法を打ち破り、邪見、偏見におおわれていた、清浄無染にして、力強い、尊厳極まりなき、妙法蓮華経という大生命をあらわさんがためである。これ最も相手を尊敬する行為」であることは、そのとおりである。
 しかし、当時の創価学会では、仏法の慈悲の精神で行う折伏とは全然違うところの、暴力的脅迫的に相手を自身の配下に折り伏せ従わせる自己増殖手段として用いられていたのが創価学会でいうところの「折伏」であったことは、先述した通りである。


 だから、「相手が駄目な人間であると、非難したり、悪口を言ったりするものではない。」という主張は、そのものズバリ、自身の文言の通り「事実は全く逆であ」り、この現状が、藤原の指摘になっているのである。
 続く文言の「民主主義の先駆をなすもの」かどうかは、時代の民衆が総じて価値判断することであって、ここでは単なる一意見でしかない。


 更に、「いかなる迫害にも屈することなく一切衆生の幸福を願って忍耐強く」日蓮仏法を広宣流布することは「最大の寛容」ではあるが、残念ながら、この時点では、創価の展開していた「折伏」なる行為は、「最大の寛容」とは対極のものであった。

 こういった創価学会の理念の欠陥と、それによる垂れ流しである悪弊・軋轢に対する社会からのフィードバックを、すべて無視し、自分たちのみが正しいという独善にこだわりながら、狂信的な賛同者を集めて拡大してきたことは、藤原が指摘するところの、ドイツ史におけるナチスに「類似する」といっても過言ではないように思われる。


 正直に、現実に、我が国、創価学会員以外の日本国民において戦後、一貫して不安視され懸念されてきた事実が、これである。
 憲法に保障された、政教分離の厳密な概念における網の目をかいくぐるかのように、宗教団体の政治進出は自由であると、信教の自由の権利を振りかざしてきた創価学会であるが、自分たちに、ドイツ史におけるヒトラー、ナチスの興隆およびそれがもたらした惨状を、正直に分析する能力がないのではないか。
 第一次大戦後の荒廃したドイツの立て直しの中で、政教分離も入っていた理想的なワイマール憲法の網の目をくぐり、信教の自由をかかげて狂信的な支持者を集め、民衆を扇動して勢力を拡大したのがナチスではなかったか。
 ナチスの諸理念はあえてここでは検討しないが、創価学会と共通しているのは、自らのみが正しく他はすべて誤りとして、他の指摘や批判を拒否するという独善であり、しかも、池田大作という、たったひとりのカリスマに、すべての権力が集中しているという、「依法不依人」のアニミズムである。
 これは、同様の事を、くり返して先述してきた通りである。

 だから、言論問題は起こるべくして起こった、因果応報の事件であって、決して法難とはいえないのである。

 第二に挙げたP727の部分について、
 日蓮の遺文、
 『此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候』
 をあげて、さも「謗法の者の迷蒙を開き、仏果を得させようと努力」しているのが創価学会のわれわれであるとしているが、その目的が自己増殖・組織拡大という不埒な目的を含んでいて、藤原のいうように「細胞増殖」という側面も否定できないどころか、方途の枝葉末節に、仏法律に従うなら国法・世間法を犯しても良いという折伏経典で説かれた方針に従っているため、国法・世間法を犯した場合については当然に、『忠言耳に逆う』ことになるのであって、「折伏される方は、そうとは取らず」のみならず、折伏されていない周りの者や社会一般に対しても『耳に逆う』という批判になって、自らにフィードバックされることになるのである。
 これは、日蓮の遺文にあるような「法門を」「申す故に」ではなく、国法・世間法を犯しているから当然の因果応報なのである。


 それを、慈悲を根底とし道理の勝劣を訴えた真の「折伏」を行なっている日蓮の『いまだこりず候』と同様視していることは、修羅の増上慢であり、社会からの正しい指摘を受けながらも『いまだこりず候』として独善の折伏を続けるのは反社会的行為を正当化する修羅道そのものではないか。


 「創価学会がなぜ強いか」として「目的が全民衆の幸福にある」というのはとても立派な大志である。


 しかし「なんの野心もない」というのは、完全な欺瞞である。
 それは、藤原が指摘する以外にも、いちいち挙げないが、創価学会内部の側近や、池田の弟子たち、また少なからず識者たちの著作の中に池田大作について「天下取り」「天下盗り」「野望」などという文言が数多くみられることで証明されている。
 そしてこの独善の「折伏は創価学会の精神であり、魂である。だれがなんといおうか、永久に折伏は続けていくのである」とする折伏の功徳が「絶大である」とするならば、日蓮が大ウソをついていることになる。
 この言論出版妨害事件において、池田大作が言い張っているような「御本仏の冥々の加護」「強い生命力があふれ出て」「以信代慧の原理により、御本尊を信ずる信力は智慧と化する」ことが、はたしてどれだけあったであろうか。
 以後、それを検証すれば、明々白々であることが判明する。

 ちなみに日蓮は、「腹 あ(悪)しき者をば 天は守らせ給はぬ」(御書P1171)と言っているのである。


 池田大作が、自らも間違って利用していた日蓮の「折伏」の概念を、政治的利用のため、民主主義の建前へ無理やり押し込めたことによって、さまざまな誤解を生むことになっているのである。
 藤原の指摘は、まさにこれによる。



 再び、藤原の論説にもどる。
 上記の立正安国論を引用して彼は、ここに、創価学会の「折伏なるもの」がほぼ要約されているとする。
 「折伏なるもの」が創価学会の基本的姿勢で、民主主義そのものであり、折伏行為を通じて、民衆に幸福をもたらすと考え、それ以外には、「何もない」こと、「何の政治的野心もなく」、「右でも左でもなく、永遠に折伏を続けることにこそ創価学会の基本的姿勢があるという。その点が強調されている」と指摘している。
 その上で、
 「『なんの野心もない』というところに傍点をつけたが、こういう単純な発想、素朴な表現の中に、まさにそれなりの野心が秘められていることを否定することはできないであろう。」
 と指摘して、その根拠を、
 「われわれは宗教団体であり、政権をとるなんてとんでもない、そういうことは考えてもいない、というような表現は、かつて創価学会が政治に進出した当初、くり返し述べられてきたところである。
 つまり、地方選挙や衆議院選挙に出馬することによって、日本政治に対する批判勢力であろうとすることに当面の目標がおかれ、直接、政権獲得をめざすような政党活動を行う意思はないと、はじめはくり返し強調してきた。たとえば、池田大作は一九六〇年六月の中部総支部幹部会で『創価学会は衆議院には出ません。なぜかならば、あくまで宗教団体ですから。政治団体ではありません』と述べている。」
ことをもって、
 「次の飛躍をするための一種の戦略戦術であったということであり、なんの野心もないということのウラには、大きな戦略、場合によっては謀略、陰謀がかくされているとみることも、こと創価学会に関する限り必ずしも不当な見方ではないということである。むしろ彼等のいうことの背後にはそういうウラがあるとみてもよい。当面の妥協と、背後にかくされた真意というものをよく見抜いて判断しないと、しばしば大きなミステークをおかすことになるのだ。こういうやり方自体が、彼等のいう折伏方式のまさにストラテジーになっており、この手ぐちで大衆を折伏している。そういうことを感じさせる事例は数限りなくある。」
 と、見なしている。

 このことは、その後の創価学会・公明党の歴史をみれば明白であり、彼は、この時点で見事にその後の歴史をも、喝破しているのである。

 この理由について、
 「創価学会の基本的な立場は故戸田城聖の王仏冥合論からいえば、政治への進出は当然の帰結であり、政治へ進出するからには政権獲得の野望もまた当然視されなければならない。」
 として、当然のことながら、
 「問題は、そうでありながら、『野心はない』というようなことをいっているところにある。創価学会の政治的出店とでもいうべき公明党は、王仏冥合実現のため、実は具体的には政権獲得のため、手段を選ばず精力的に東奔西走している。母体ないし本店にあたる創価学会自身も、そういう公明党に対し、物心両面でバックアップを行ない、これをリードし、折伏行為を通じてその選挙地盤を固め、宗教即政治を実践しているのである。」(藤原弘達、前掲書P36)
 と、見事に本音の真実を突いているのである。

 この指摘は、ナチスなどの文言がなかったとしても、政権獲得の後に国立戒壇を建設しようという野望の実現を抱きつつ、それを隠蔽しながら政教分離を建前として行動していた創価学会・公明党の本音を鋭く暴露した内容であり、当然のことながら、これが暴露されると社会的非難を浴びることになるのであって、創価学会・公明党にとっては非常に都合の悪い著作と見えたのだろう。

 政治進出するのに本音を隠したために、
 「状況次第でクルクル変わる〝創価学会〟」という状況になる。
 このことを、彼は以下のように述べている。

 「ところで、日蓮の至上命令としたものに『国立戒壇建立』があるのは周知のところである。『国立』とは笠原一男の表現によれば『今日でいえば国会の議決に相当する』ものといわれる。ということは、とりもなおさず衆議院において多数を占め、議会制民主政治のもとにおいて政権を合法的に獲得することが前提になるわけなのである。
 この『国立戒壇』なるものと政権構想を結びつけると、口ではなんといおうと、内容的、実質的には日蓮正宗を国教にする、という意味に受けとられる可能性が大いにあるといわなければなるまい。創価学会は、こういう批判に対し、必ず一種のいいわけをするクセをもっている。学会では、『国立』とは、国民主権の原則のもとでは『国教』という意味ではないということをしきりに強調し、信仰の自由と抵触する国教という発想自体をおさえる形によって、さまざまの批判に対応しようとしている。しかし、日蓮正宗の本質の中にはまさに国教化ということが使命感としてうたわれているのだ。
 だが、それを認め、これを強く表面に打ち出すということになると、憲法に保障されている信仰の自由にたちまち抵触し、重要問題化し、公明党の議会制を前提とする政党活動に大いに障碍となる可能性がある。したがって、国立戒壇なるものと政権との関係を否定し、日蓮正宗国教主義を一時おさえるということは、彼等の戦術からして至極当然ななりゆきであり、そういう形の合理化のしかた自体のなかに、彼等のインチキ合理主義といわれるもの、政治的理由によって表面を糊塗するやり方、手ぐちがありありとうかがわれるといわなければならない。
 日蓮正宗を国教にするための政党というのでは、民主主義の原理とあらゆる面で背反することになる。そこで、国立戒壇の建立ということは正本堂の建立で当面間に合わせるという方便をとり、とりあえずは活動目標から削除するというご都合主義的な判断がでてくることになったのである。
 こういうやり方は、創価学会の常套手段なのである。明らかに『衆議員にはでない』と天下に広言しておりながら、『時代と民衆の展望によって、でていかざるをえなくなった』としてでていく。国会で多数をとれるまでは正本堂でがまんしておいて、いよいよ政権をとってしまったら、そこで国立戒壇建立を多数をもって議決しても構わないではないか、といったまさにご都合主義的な戦略戦術の積み重ねは、いったい何を意味するのであろうか。」(藤原弘達、前掲書P38-39)


 ちなみに、上記で出てくる以下の文、
 「国立戒壇の建立ということは正本堂の建立で当面間に合わせるという方便をとり、とりあえずは活動目標から削除するというご都合主義的な判断」と、
 「国会で多数をとれるまでは正本堂でがまんして」
 は、前述のP28で引用した池田大作の講演をふまえての文である。
 つまり、
 「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりになります。したがって、全体的な御供養といたしましては、今度の正本堂の御供養だけで、一切将来はいたしません。…以下略」(池田大作著「会長講演集」第十一巻、P170-172)
 のなかで、
 「あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりになります。」
 と、述べているとおり、この「本門戒壇堂」が、公明党が政権を取った後、国会の議決により建立しようとする「国立戒壇」を指すことは、明白である。
(だだ、この思惑も、言論出版妨害事件で挫折し、正本堂に対する意味づけを変更する事態になり、また建立前にも再度変更される事態となり、板まんだら事件へと発展していく事は後述する)


 そして、創価学会・公明党は、その目的・本音が、本質的に政教分離と衝突することを隠すために、ご都合主義的な戦略戦術の積み重ねていることに対する意味として、彼の指摘することは、以下の如くである。
 「われわれはナチスが政権をとるために行なったところの変転自在なる政権工作、かけひきというものを第一次世界大戦後のドイツ史の中でありありと読みとることができるのであるが、創価学会のやり方はまさにこのヒトラー・ナチスの手ぐちときわめて類似しているといわなければならないであろう。
 創価学会・公明党には、この意味において時代と民衆の要望を口実として、どのような原則をも状況次第によって変えるという政治的作為の論理が、いつもその底流にあるといわねばなるまい。
 こうしたことをそのままそっとしておいて、口さきだけの『王仏冥合』の理想実現とか、『仏法民主主義』とか、『人間性社会主義』とか『地球民族主義』というような観念的な言葉を羅列し、その時その時の民衆の低次元の願望に密着し、これを利用し、そのエネルギーを吸収していく手ぐちは、まこと恐るべきものといわなければならないということである。」(藤原弘達、前掲書P39)


 「ヒトラー・ナチスの手ぐち」が、具体的に例を挙げて示されているわけではないが、これはドイツ史を丹念にみれば明白であろう。
 創価学会の依りどころとなっていた日蓮正宗の教学は、まさに日寬のアニミズムであり、依人不依法である。
 これに対して政治の場でより所となるのは憲法、およびこれに基づく国法という「法」である。
 国会は、憲法という「法」に基づいて様々な議決を行う、「依法不依人」の場でなければならない。
 公明党は、創立者が池田大作であり、支持母体は創価学会であるが、選挙で選ばれた議員が活躍する国会や政治は、憲法を依法とする「依法不依人」の論議と実践の場であって、池田大作の勝手な指導を無批判に依り所とする創価学会の論理「依人不依法」を持ち込むことは、憲法違反となることは明白である。
 公明党の議員は、ひとたび選挙で選ばれた議員となった以上は、その公私ともに、憲法を依法とした「依法不依人」の実践が国民から義務として求められているのであって、当然ながら、自身の持っている所の創価学会の論理「依人不依法」を、いくら強い信念であっても、議員の間は捨てていなければならないのである。

 藤原が、おおいに懸念して、上記の如く論を展開したのも、また多くの国民が懸念・疑問視している点も、この重大な点にある。
 そして、戦後一貫して、この点についての改善について、憲法の政教分離の解釈を盾にして、一切省みることがないのが、現創価学会である。

 繰り返すが、正直に、現実に、創価学会員以外の日本国民において、戦後一貫して不安視され懸念されてきた事実が、この創価学会・公明党の本音・野望である。
 戦後GHQの指導の下、我が国にできた日本国憲法においては、国家が信教の自由を保障し、特定の宗教やこの団体に便宜供与や弾圧などの関与を行なってはならないという、政教分離の原則がある。
 ちなみに、この政教分離という概念は、西洋の、キリスト教という宗教が国教とされ、宗教が政治を支配したという、永い暗黒の歴史を克服する過程で生み出されたものでもある。
 文言では、国家が宗教に関与してはならないとあるが、当然の如く、その国家が宗教に支配されていたという前提が含まれているのである。

 日本国憲法の成立過程には、このような歴史上の試練や葛藤がない。
 文言においてだけ、国家の宗教に対する関与を禁じているだけである。
 これには当然の如く、個人や宗教団体の政治活動は自由であり、それに携わる議員や官僚になることも制限するものではない。
 しかし、司法を司る裁判所を例にあげれば分かりやすいが、そのより所は憲法であって、仏法ではない。
 折伏教典には、世間法・国法・仏法という三法律が説かれていて、創価学会の組織内ではこれを曲解することによる法律違反が正当化されてきたことは拙論文P21で前述した。

 司法だけでなく、国会や行政機関も、いうまでもなく憲法を最高法とする国法がよりどころとなっていることはいうまでもない。
 信教の自由、思想信条の自由が保障されているといっても、こういった国家公務員になれば、国法を依法とする「依法不依人」に準ずることは当然の事である。

 しかしながら、国法にも抜け穴、セキュリティーホールは多く存在し、すべての犯罪や紛争を公平に解決する完璧は法ではないこともまた自明であって、時代に応じて適切に変更したり増設・廃止していかねばならないのであって、これを審議・議決担当するのが国会の場である。

 その、国会の場において、憲法に保障された、政教分離の厳密な概念における網の目をかいくぐるかのように、宗教団体の政治進出は自由であるとして、信教の自由の権利を振りかざしてきたこの時の池田大作崇拝の創価学会・公明党が、政権をとる事態に至ったらどうなるか。
 依人不依法の創価学会の意向がもろに国会に反映され、池田大作による独裁政権が事実上誕生することになる。


 繰り返すが、創価学会の中にも、反戦平和を訴える人たちは多くいるが、創価学会の組織として、自分たちに、ドイツ史におけるヒトラー、ナチスの興隆およびそれがもたらした惨状を、正確・正直に分析し、自分たちのやっていることがそれに類似していると指摘する能力がない、又はあったとしても封印されるのではないか。
 第一次大戦後の荒廃したドイツの立て直しの中で、政教分離もうたっていた理想的なワイマール憲法の網の目をくぐり、まず最初に狂信的な支持者を集め、民衆を扇動して勢力を拡大したのがナチスではなかったか。
 国家が宗教に関与する前に、宗教(この場合はナチズム)が国家に段階的に潜入して起こった惨事ではなかったか。
 このナチスの理念・行動と、自分たちが戦後行ってきた理念と布教活動とを、この藤原の指摘を真摯に受け止め、照らし合わせて類似点などを比較した事はあったか。
 すべては、池田大作の「鶴の一声」で動いていたと言われても仕方がないのではないか。


 ナチスの諸理念はあえてここでは検討しないが、ナチスと創価学会とが共通しているのは、自らのみが正しく他はすべて誤りとして、他の指摘や批判を拒否するという独善であり、しかも、池田大作という、たったひとりのカリスマに、すべての権力が集中しているという、「依人不依法」のアニミズムである。



 創価学会・公明党は、この点をきちんと自覚すべきである。
 依法不依人こそが、日蓮の説いた、科学的道理に基づく国家諫暁なのではないか。

 
 そのためには、政治に携わる議員やこれを応援する党員や支持者はとくに、自分たちの依り所の根底にある依人不依法の日蓮本仏論、日寬アニミズムを見直し、創価三代の崇拝を正当化する「師弟不二」という概念を捨て、あらゆる批判を受け入れて自身の教義をアップデートしながら発展しゆく科学的合理主義の教理を確立することが急務であろう。

 


■池田大作の神格化



 藤原弘達は、さらに同書(P163-164)において、創価学会の頂点に君臨する指導者池田大作について、当時の様子を以下のように指摘している。

 「オールマイティな人間像のデッチ上げと神格化
 創価学会・公明党の両方の手綱をしっかりと握りしめているのは、ほかでもない池田大作会長である。池田会長はなかなか演出力に富み、フェースも千両役者に優るとも劣らない美男子である。ラスキーは『現代の政治家は大衆消費用の高度の俳優である』というようなことをいっているが、たしかに、池田大作は高度の俳優であり、フェースとしても風格にしてもまさにスターたる資格をもつタイプである、といって過言であるまい。今度、この本の出版にあたって創価学会からさまざまな圧力があったが、そのなかで『池田大作会長のことについての批判は許さない』という注文もつけられた。そこで私は、『そろそろ池田会長が公明党委員長になって政界にのりだしたらどうだ』といったところ、『それは非常に結構です、どうかそういうように池田会長が政界に出馬できるように論陣をはって下さい』というようなことを、私のところにやってきた公明党都議会議員が強調していた。・・・
・・・彼は、創価学会の究極の理想――言葉に現わせば非常に立派なものなのであるが――を実現するために、次のように述べている。
『日蓮大聖人の御遺命である、広宣流布であります。…中略…』
(池田大作著『私はこう思う』所収『20の質問に答える』より)」
 と、なかなか親しげ・好意的に持ち上げている。

 さらに、P165-166には、
 「当人は『偉大なる凡夫でありたい』などといっているけれども、そうした平凡に徹するポーズはなかなか非凡な面でもある。まあ現在の日本を見渡したところ、昭和生まれの若い指導者として、良きにつけ悪しきにつけ池田大作クラスの人物はそうざらにはいない。七百万世帯、一千万人余の大集団という未曽有の宗教集団を組織したところの才能、手腕というものは、それなりに大したもんだとはいえるだろう。
 この種の宗教組織の頂点に存在する教祖的存在と組織そのものを考えるなら、そこには一つの相関関係があるといえるだろう。池田大作の場合には、教祖的資格として卓越した能力をもっていると同時に、オルガナイザーとしての才腕をも両立してもっている点が特徴的である。元来、この種の信仰団体の教祖という存在は、死んではじめて神格化されるというようなことが起こるものだが、池田会長の場合は十年足らずですでに一種の神格化がはじまっている。ここにも政治的意味がある。少なくとも日本の近代史の中でも前例のないケースとして興味をよぶものである。戦前においては、天皇がそうであったけれども、戦後社会において、この種の生存型神格化パーソナリティとして、池田会長は、その筆頭にあげられてしかるべき人物かもしれない。もっとも神格化を支えているものは、国民全体ではなく、ごく限られた創価学会信者であることは当然の前提なのである。」


 ごく普通の評価、正直な印象を語るものである。
 この論調に、私は正直言って悪意などはあまり感じない。
 「一種の神格化がはじまっている。ここにも政治的意味がある」
 という指摘は、少なからぬ識者が指摘しているところである。


 そして、P166-167では
 「少なくとも池田会長は、いまや創価学会において絶対的な権力者であるだけでなく、学会の政治支店である公明党の躍進とともに、学会外にまで、その指導的影響力を拡大しつつある。国内を飛行機旅行する場合、空港などで飛行機のタラップまで車を横づけにしていると聞くけれども、かつての天皇といえども、そういうことはめったにしなかったというから、池田会長が個人の意思によってそういうことをしているのか、池田を神格化するあまり、信者がタラップのところまで車を横づけにするのか、そのどちらであっても大へんな権勢ぶりといわなければならない。」

 続いて、
 「果たして池田自身が、そういう一種の神格化、個人崇拝の対象になることを必要と考えて、自分の意思でそうしているのかどうか、それとも池田をとりまく連中が、彼をことさらオミコシのようにまつりあげているのであろうか。おそらく現在においてはこの両者が相関的に作用しながら、池田神格化傾向として表面化している、といわなければならないだろう。しかし、ともかく池田会長を『会長先生はわれわれのお父さんのような方です』『会長の判断は絶対に誤りがないのです』といってはばからない、年齢的には池田のお父さんクラスの幹部連中の神経たるや、まさに異常性を示すものといわなければならない。だが同時に、そのような信仰の対象となって平然としている彼の神経のなかにも、大いに問題があるといわなければならないだろう。」
 といって、ここでようやく池田個人への批判が出てくる。


 一般的に、非科学的な宗教の教祖というものは、こういったものであろう。
 小口偉一の著作にもある様に、このような教祖を利用して利益を得ているのは、周りに群がる信者である。
 創価学会が、政界に進出しない、小さな単なるアニミズムの新興宗教にとどまり、社会的に軋轢を生まないかぎり、指摘するような池田大作や信者のありかたは、ローカルな団体の中に限り、何の問題もないであろう。


 「ともあれ、創価学会・公明党内部の特異な現象として池田神格化傾向が存在するのはまだしものこと、公明党の政治的影響力が拡大していったとき、それがどのような影響を日本の政治社会に及ぼすか、その点についてやはり一言いわざるをえない。創価学会では部外者の批判に対しては、異常なまでに神経をとがらし、とくにそのなかでも池田会長に及ぶ批判となると、正気のサタでないような反撃ぶりを示すのを常としている。この異常性は、かつて日本の特高警察や憲兵が天皇の批判に対しては徹底的に弾圧したときの行動様式とすこぶる似ている、といってよい。こと池田会長に対する批判となると、学会は総力をあげてこれを封殺しようする傾向さえある。そのやり方は程度の差こそあれ、戦前の官憲と似かよっている。そうした点とともに、そういう傾向が拡大再生産された組織の中に池田会長が平然としているということもまた、われわれとしてはやはり大いなる驚異と感ぜざるをえない。」(藤原弘達、前掲書P167-168)


 ここで、

 「池田会長に及ぶ批判となると、正気のサタでないような反撃ぶりを示す」
 「池田会長に対する批判となると、学会は総力をあげてこれを封殺しようする」
 ことなどをあげ、これが

 「戦前の官憲と似かよっている」ことは彼の主観ではあるからともあれ、
 「そういう傾向が拡大再生産された組織の中に池田会長が平然としている」点を、問題だとしている。

 この指摘は、当時もさることながら、現在においてもいささかも変わっていないように見える。


 続いて、
 「このようなことが起こっているということを、神格化的個人崇拝の対象となっている池田会長自身が果たして知っているのかどうか、あるいは知りながら知らん顔をしているのか。人間の影響力というものは何も特定の言動だけに限られるものではない。たとえば、隣国中国の毛沢東は、あれほど個人崇拝を峻烈にイデオロギーの立場から否定しておきながら、ついに自ら個人崇拝、神格化の対象となってしまったように、いままた創価学会の池田大作にしても自ら知ってか知らずか、そういう個人崇拝、神格化への道を歩みつつあるということなのである。そこでは、池田という人間とは別に創価学会の勢力拡大のためのオールマイティな人間像がデッチあげられているということである。こういう傾向のうえにある限り、池田の神格化はますます進むだろうし、個人崇拝はますます熱狂的なものになってるくだろう。たしかに宗教や信仰集団においては、その教祖的指導者にカリスマ的要素を必要とすることは、ある程度まで不可避な傾向である。そういうカリスマ的素質とでもいえるものが、いったいどのような影響をこの異常集団の中に及ぼしていくか、そこに創価学会を占なう一つの大きな問題点ある。池田はなるほど温和な静かな声で大衆に語りかける。彼の書いたさまざまな著述を読んでも、まことに平凡で淡々としており、そしてほとんどてらうことのない陳腐なまでの平凡な真理が述べられている。しかし、その真理を実行しようとする彼をとりまく幹部たちが、これをどういうように学会員大衆に伝えており、また学会員大衆はこれをどう受けとめているかということに問題がある。池田のいうことは、その内容の故に有難がられるのではなく、池田がいったが故に尊ばれ、無条件の服従の対象となっている。そこに多くの問題があるということなのである。そういう意味において、池田という人間の経歴はそれなりに多くの興味をよぶ。彼がどのような経歴の持主なのか、彼の履歴書とでもいえるものをここでめくってみることにしよう。」(藤原弘達、前掲書P168-169)



 上記において、
 「神格化的個人崇拝の対象となっている池田会長自身が果たして知っているのかどうか、あるいは知りながら知らん顔をしているのか。」
 これについては、後に造反した側近たちが、異口同音に「池田本仏論」を池田自らふりまき、側近や中枢幹部が末端組織や会員たちに口コミで知らしめ、ようするに会員全体でこぞって池田を本仏に祭り上げていったことが、わかっている。
 だから、その張本人は池田であるが、回りの会員も、池田を教祖的存在として、自らの理想を池田に投影することで酔いしれていたのである。
 それが、彼の指摘する、以下の内容に相当する。

 「池田という人間とは別に創価学会の勢力拡大のためのオールマイティな人間像がデッチあげられている」
 「個人崇拝はますます熱狂的なものになってるくだろう。」
 「その真理を実行しようとする彼をとりまく幹部たちが、これをどういうように学会員大衆に伝えており、また学会員大衆はこれをどう受けとめているかということに問題がある。池田のいうことは、その内容の故に有難がられるのではなく、池田がいったが故に尊ばれ、無条件の服従の対象となっている。そこに多くの問題があるということなのである。」



 池田大作自身も、会員から求められデッチあげられた理想的人格に、一生懸命に応えようとしてその役割を演じてきたのであろう。
 しばしば、日蓮とは対極の「臆病」な場面なども、側近の前ではみせていたが、巧みにまわりが繕ってきたともいえるのが、会長・名誉会長としての名俳優池田大作である。
 そして、ほんの短時間でしか会う事の出来ない会員、もしくは写真でしか目にしない会員までも、デッチあげられた理想的人格に群がって、それなりに生活の糧や経済的に利益を得る者、もしくは、それなりにメンタルは陶酔し、自身の生涯の師として、メンターとして、又は異性として、そして総じては、自己のパーソナリティの支えや重要な要素として利用・活用し、さまざまな困難を克服し生きてきた会員たちが多数いる。
 こうしたことで、創価学会が成り立っている。
 仏法の因果応報の視点に立てば、これもまさに、会員個人についても創価学会組織全体についても、依正不二・色心不二から始まる一念三千の生命現象である。
 つまりは、たとえば、多くの批判本の展開のように、池田大作一人が諸悪の根源とするような指摘は間違っている。
 教義や信念の正邪善悪はさておき、彼をささえ、祭り上げ、自身の理想やメンターの投影をして、利用・活用したところの、中枢から末端会員個々人の総集合のたまものなのだ。


 昨年の6月に投稿した拙記事で、池田大作入信神話の成り立ちからそのからくりを指摘したが、すでに池田会長就任10年目にして、こういった創価学会の組織自体が、できあがってしまっていたのであり、言論出版妨害事件は、起こるべくして起こったといえるのである。
 まさにこれも因果応報なのである。
 この点も、少なからず識者や側近が指摘するとおりである。


 ここには、現在の創価学会の状況、および相も変わらず抱えている問題点が、こんな昔から指摘されている点にも、あらためて驚きを感じるのである。


 言論出版妨害事件が国会で取り上げられた1970年は、バブル世帯数と揶揄されてはいるが、その1月には750万世帯を達成した年である。
 破竹の勢いで発展していた創価学会は、それまでもさまざまな出版妨害をしていた。
 この本も、創価学会の出版妨害がなければ、せいぜい他のマイナーな批判書ぐらいにとどまっていたであろうに、この事件が国会に取り上げられ、メディアでのウソの証言なども相重なって、4カ月にわたって厳しく追及された結果、広く国民に知れ渡って、百万部を超えるベストセラーとなったという。
 その後、創価学会アレルギーとも称される風潮が、会員以外の国民全体に広がり、その後の創価学会発展の勢いを自ら挫くことになった事件である。
 しかしながら、その反省と教訓は、残念ながらその後の創価学会発展の勢いを回復させるにはいたらなかった。
 
 それだけではない。
 創価学会は、半世紀たっても、この事件を正当化し、事実を捏造・改竄しながら、会員に池田大作を宣揚しているのである。


 この事件とその舞台裏については、後述する。

 このページでの最後に、上記で藤原が池田の『なんの野心もない』という表現に「まさにそれなりの野心が秘められている」と指摘したが、それを証明する、池田の衝撃的な「野心」を、すでにその1年以上前に語っていた文証を以下にあげておく。


 「正本堂に御本尊様を安置すれば、御宝蔵、奉安殿より広く拝ませる事になるが、あくまで入信者に限るので内拝である。
 将来一国の総理等が信者で、又、国家権力を押さえた時に国中の人に拝ませる。」
(昭和43年10月24日、第17会社長会記録、「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10,継命新聞社、P88-89)

 また、その後も、こんな本音がある。
 「今、世の中は個人主義、自由主義になっているが、本当は全体主義は一番理想の形態だ。」

(昭和47年6月15日、第61会社長会記録、「継命」編集部編「社長会全記録」1983/6/10,継命新聞社、P285)


 P30へ、続きます。



☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27,創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28,師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29,言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘