●51 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1) | ラケットちゃんのつぶやき

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●51 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)
です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。

■暴露された池田大作の手前勝手な血脈論

 昭和48年、正本堂東側広場、大勢の信者の前で池田大作が細井日達を、「これだけご奉公したんです…中略…学会を奴隷にしないで下さい」等と怒鳴りつけ、創価女子学園や創価大学への寄附や「坊主に対する教育」を強要したことを、拙論文P47 にて先述した。(原島崇著「池田先生への手紙」P29-31)

 ちなみに、日蓮は、自身の生涯を通じて、自分は本仏である意味のことを、一言も言っていないし書き残してもいないことは、前述した。
拙論文では、純真な創価学会員がけっして知らされてこなかった不都合な事実・真実を敢えて取り上げている。これらもふまえて、原島崇が指摘した池田本仏論の実例を以下に挙げてみる。

「昭和48年12月29日、第二回御義口伝受講者大会において、
「実は、本門事の戒壇は正本堂という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ」
「『三大秘法の二つは大聖人がした。一つは証明の本尊(文化会館七階ご安置の御本尊)だ』…中略…というような、大聖人の御生涯とご自身とを合わせることを、先生はたえずなさってこられました。
 また、『私の振る舞いが経である』とか、『私は福運の当体(そのままの体)』とか『私と感応妙があるかないかで信心は決まる』とか、『私が行ってあげなければ福運がつかない』とかおっしゃいますので、一方でどんなに『私は凡夫』と建前をいわれても、だれもが、いや『先生は仏様』と思ってしまうのもムリからぬことでしょう。
 私もかつて〝師弟感応の教学〟と叫んだ人間です。しかし、仏法上、感応妙というのは仏と衆生との関係をいうのです。ということは、先生を仏様として拝さなければ〝師弟感応の教学〟というものは成立いたしません。
 さらには、『私と境智冥合するかしないかだ』というお話も伺いました。日蓮正宗においては、大御本尊がそのまま境智冥合なのです…中略…
しかも、その〝感応〟とか〝境智冥合〟というのも、先生にご満足いただけるようにするのが、先生との〝感応妙〟〝境智冥合〟であり、そうでない場合は〝お前は感応がない。かわいげがない〟と叱咤されることになるわけです。つまり、池田先生の言動を絶対とし、それに合わせて厳正な日蓮大聖人の法義が手段化されていったのです。
 先生との〝アウンの呼吸〟が、〝感応〟になり〝境智冥合〟となったのです。こうした仏法の手段化が〝創価教学〟〝創価仏法〟〝実践の教学〟の大きな比重を占めていたことを、私は心から懺悔するものです。
 昭和四九年一月元旦において、先生は『倶体・倶用なんだ。僕(先生)は倶体だ。皆は倶用だ。倶体は動かない。皆は倶用だ。だから動かなくてはいけない』という趣旨の話をされました。
 これも大きな仏法の歪曲であり、倶体倶用とは、大御本尊の法体とその偉大なるお力を意味しているのです。これでは、大聖人の仏法の厳正さに対して、まったくの感覚麻痺といわれても仕方がないでしょう。この〝倶体倶用〟を、先生は様々な機会にお用いになり、とくにご自身が責任回避なされるときに、『私は倶体だから動けない。みんなが倶用で責任をもって動くんだ』といって、他の方々が〝池田先生をお守りする〟ためにどれだけ苦労されたかを私は知っています。

言論出版妨害事件の舞台裏
「いわゆる創価学会・公明党による言論出版妨害問題が起こり、池田先生への批判記事を載せた出版物を回収したり、権力をつうじて圧力をかけたということで、国会でこの問題がとりあげられ、先生の国会喚問まで取り沙汰されるにいたりました。
 この背景には〝池田先生は絶対でなければならない、無謬でなければならない〟という考え方があったのです。これが、仏法上からいってもどれほど誤っているかは、後述することにします。現北条会長や公明党の幹部、聖教新聞社出版総局等がその阻止に総力をあげたのです。
 なにしろ先生は、異常なほど国会喚問を恐れられていました。…中略…私としても、先生を国会でさらし者にされることは絶対に回避しなければならないという心でいっぱいでした」(原島崇著「池田先生への手紙」P36—)




 以上の、こういった心は、山崎正友や福島源次郎など、当時の造反者たちや反学会ジャーナリストたちが異口同音に共通して指摘している。


 「昭和四五年春、ある雑誌には『私は自殺したいくらいです』とその心境を語っていますが、そんな先生に対して、一面あの七百年前の文永八年九月一〇日、竜口法難の二日前に毅然と現在の法廷ともいうべき門注所で、裁く側の平左衛門尉をかえって叱咤された御本仏日蓮大聖人の尊いお姿と対比し、大恩人にこんなことをいっては申し訳ないのですが、これが池田先生の素顔かと、内心疑念がわいてこないでもなかったのです。もっとも、この発言は何とかうまくここを切りぬけたいために、同情心を買うための演出であったことが、最近になってよくわかりました。
 また、当時の創価学会担当ジャーナリストであった高瀬広居氏のインタビューに答えて『まるで処女が強姦にあったようなものです』と発言されています。〝処女〟とは創価学会を、〝強姦〟とは言論出版問題での社会からの指弾(正しい批判だったのですが)をさしているのですが、学会が社会問題を起こしたのであり、しかも当の責任者でありながら、純粋無垢な風を装い、被害者であるかのように印象づけようとされたことは、かえすがえすみっともないご発言を歴史にのこしたものと、残念でなりません。
 昭和四五年五月三日には、年次の総会が行われました。その総会において、社会の注視の中、先生は何らかの態度表明を余儀なくされていたのです。その原稿の草案は、箱根研修所で先生の指示のもと、桐山泰次氏(現教学部長)と私の二人でつくらせていただきました。
 先生はその原稿の中に『関係者の方々に直接お詫びにいきたい』というのをどうしても入れたい、と首脳幹部に打診したのです。当時、そのご本心は私にはわかりませんでした。後になってわかったことですが、それはできるだけ〝誠実〟〝謙虚〟を装い、その場を切り抜けようとするためだったのです。
 当時の私は、先生の講演がその真実の心をあらわしていると思い、これで学会は生まれ変わることができると喜んだのです。私は『朝日』、『読売』の記者の方に『創価学会にとってマイナスどころか、千載一隅のチャンスです。これを機会に新しい学会が生まれるのです』と語ったのでした。(浅野秀満著『私の見た創価学会』二七七ページ参照)。
 私たちの小グループ(特別書籍といって池田先生のブレーンでした)は、これを機にとして、創価学会の体質改善のために『大白蓮華』のコラム欄を使ってペンで打ちはじめたのです。主として桐山泰次氏が筆を執りました。…中略…
たとえば、昭和四五年七月号では『学会の体質改善という問題をめぐって、会長の提案を受け、活発に論議が交わされている姿がみられる。下からの盛りあがる声こそ、学会の前身のエネルギーだ…中略…
 命令主義で動く組織は〝同体異心〟である。一人一人が責任と自覚をもった組織は〝異体同心〟である。この〝全員参加〟の異体同心を築いていくのが我々の使命といえよう』…中略…
この同心とは御本尊(法)に対する信心が同じであるということであります。この〝異体同心〟という言葉は、学会でもっともひんぱんに使われてきた用語でありますが、いつの間にかこの〝同心〟という言葉が、学会を守る、先生を守る、といった組織の論理や、先生という〝人〟を中心とした団結の意味合いにすりかえられていったのでした」(同書)





 これは、現在の創価学会の組織でも何ら変わらない。生死一大事血脈抄の「異体同心にして」を切り文にして、「(血脈は)創価学会しかない」と、今でも言い張って、組織のみの団結を煽っている。
 これは明らかに邪論であり、本当の意味は、組織に関わらず、日蓮門下全員に対して〝異体同心〟を呼び掛ける日蓮の血脈の重要事項なのである。



「それはともかく、このコラムで言おうとしたことは、当時、社会から指摘されたごとく、対社会との問題というだけではなく会内的にもさらに厳しく存在していた批判拒否体質、〝知らしむべからず依らしむべし〟という旧態依然たる統治方式が、厳然と貫かれていたことを反省しようという前向きなものだったのですが、それは後に譲ることにいたします。
 また翌月号(八月号)の『大白牛車』というコラム(九五ページ)には『文上、文底という言葉がある。釈尊の経文をそのまま読むのは、正像二千年までに既に利益がなくなり、末法は法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法の仏法によらなければならないということである。この仏法本来の意義を離れて、学会の指導、とくに池田会長の話についてまで、文上と文底をたてわける者がいるとすれば、それは仏法の歪曲である。文底仏法に、そのまた文底があるわけはない』とあります」(同書)




 ここで、「釈尊の経文をそのまま読むのは、正像二千年までに既に利益がなくなり、末法は法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法の仏法によらなければならないということである」これは、法華経に説かれていることであるが、歴史的・科学的見地に立てば、科学や文明の発展にともなって、相対的に非科学的なドグマが通用しなくなることを示しているといえよう。文上のドグマ部分は、歴史(正像末)にかかわらず変わることはない。ただ、それを信じることによるプラセボ効果が変化するだけである。文上であっても真理の部分は不変である。
文底というのは日蓮が法華経を利用して南無妙法蓮華経を定義するために加えた新たな解釈を意味するから、正確には法華経そのものではなく、日蓮独自の教えである。




「仏法用語があってわかりにくいでしょうが、要するに、池田先生の指導が、公の席上で行われたものは、建前(文上)であり、本音(文底)は別にある、といった考え方を否定したものでした。
 ところが、その後の現実をみるとき、建て前と本音の区別がこれほどたくみに行われている団体もめずらしいのではないでしょうか。池田先生がいみじくも、よく『公の席上の話はセレモニーであり、こうして三、四人で話をしているなかに、本当の仏法がある』と語っているように、どこまでも公の席上の話は〝建て前〟であり、〝本音〟は別なのです。こんなことに、文上、文底という日蓮正宗の法義の根本が使用されてきたということは悲しむべきことです。
 言論問題の責任をとって、池田先生が『関係者の方にお詫びに行きたい』などというのも、やはり建て前であったことはその後の歴史が明確に物語っています。事実、その当時、逆に、私にすごい形相で『タカシ!(私の名前) いいか! 必ず仇をうて、いつか、この本は何だ!と本人の前にたたきつけるのだ』と、それは恐ろしいけんまくで言うのでした。私は、『ハイ!必ず先生の仇をうちます!』と返事をし、必ず先生を苦しめた人間たちを先生の前にひれふさせてみせるという誓いを心に決めたのです」(同書)



 このような、この上なく優れた一番弟子に、諫められても態度を変えず、逆に閑職に追いやって、結局造反された池田大作の、真価が問われるべきであろう。


「しかし、結局のところあの五月三日の発言は、一時撤退、ないしは迂回作戦にすぎなかったのです。報道関係者、文化人を多数呼び、公の席上発表したことも平気でホゴにしてしまうことが、はたして仏法の上でも、社会の上でも許されることなのでしょうか。
仏法の明鏡に照らして
 後に池田先生は、あの言論問題を、『法難』としきりに言うようになりました。はたして『法難』といえるものだったのでしょうか。自らを絶対化するというのは仏法上誤りです。
 日蓮大聖人の御書(御遺文集)に『仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるを何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か』(御書全集九ページ)とあります。
 仏法は、法に依って人に依らない(依法不依人)のであります。それが、先生を無謬化し、絶対化し、それを批判(いい意味での批判があることを学会は見失っていますが)することに対しては相手がだれであろうと、ありとあらゆる手段で圧力をかけたことは、仏法上、社会上、ともに許されることでしょうか。私には、いまのあの言論問題は法難というより仏罰と思えてなりません。
 なぜ十年も前のことを問題にするかといえば、これが過去のことではなく、現在もまた同じ轍をふみつづけているからであり、私は言論問題を法難としてかたづけ、いまも私たちの問題提起を法難とし、私たちを獅子身中の虫、反逆者、裏切者のレッテルをはって、問題をすりかえているからです。
 私はいま日蓮大聖人の仏法の明鏡に照らし、七百年来厳護されてきた日蓮正宗の教義のもとに、さらには創価学会二代会長・戸田城聖先生の精神にかんがみ、私自身の慚愧と悔恨の念をもってこの一書をしたためております。決して、いわゆるスキャンダルや世間的事象ではなく、仏法そのものの歪曲を正してしくことに、この書の意図があることを知っていただければ幸いです。
 長年教学部長の重責にありながら、池田先生という〝人〟の絶対化に手をかし、仏法の峻厳な法理を中心とする、つまり〝法〟を絶対とする精神を貫けなかった愚かな人間の告白の書として読んでください。
 よく池田先生は、あの言論問題のとき『私を守ってくれたひとは一人もいなかった。私は
もうだれも信じまいと思った。私は宇宙を語る』ともらされました
…中略…
 しかし、その後の醜い姿を見たときに、私の決意は固まりました。この辺の事情については後述することにいたします」(同書)


 以上、原島崇著「池田先生への手紙」P36—46の告発を検討したが、、それにしても、先述した藤原弘達が「創価学会を斬る」で指摘していた様相が、見事に現れているといえる。創価学会の体質は、既に彼の指摘時点で確立されていたといえよう。

 その創価学会が言論出版妨害事件につまずき、支配の矛先の重点を本格的に宗門へ向けたのが昭和52年路線であった。
 この事は拙論文P45以降にて、重点的に検討中である。なぜなら、このシステムは、安定した江戸時代に処施術として発生した日寬アニミズムにおける発生過程でもあり、さらには、それが民主主義の発展過程である安定した現代において、同様のシステムに則って発生したと考えられるのが池田本仏論であるからだ。
 日寬アニミズムも、先述の通り、日蓮を本仏と仰ぎ、板マンダラに絶対的霊力の存在を定義した、非科学的な宗教である。これと同様の根、考え方が、池田本仏、法主本仏へと結びついているのである。
 ちなみに何度も確認するが、日蓮は、生涯を通じて自らの仏法については「依法不依人」(法に依って、人に依らざれ)と述べているのであり、自分自身が本仏だとか、絶対的存在であるなどとは一切述べていないのである。
 
 歴史はくり返す、人間は歴史からは何も学ばないといわれるが、ある特定の人物を本仏(又はそれに相当する絶対的な存在)と仰ぐのはアニミズムであり、日蓮仏法でもなければ、真実の法則でもない。
 アニミズムは、これらをはじめとした、誤った非科学的宗教の発生と興亡に貫かれた法則のひとつと考えられる。




■昭和53年での攻防、時事懇談会、細井日達の切迫した思い


 前ページの最後で山崎正友の「ある信者からの手紙」を取り上げたが、ここに創価学会の実態があらわに示されている。細井日達は1月19日、本山対面所で僧侶約二百人に対し傍らにいた僧侶に読み上げさせた後、「遠からず学会と縁を切るから末寺は檀信徒名簿を整備しておけ」と発言した。


 以後の流れは、吊し上げを食らった菅野憲通が、後にまとめた「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」1990/2/16、P4-6を引用して説明する。

「かくして、翌五十三年一月十九日、佐々木師、渡辺師、丸岡師、山口師等が中心となって大石寺に百四十七名の若手住職を結集、対面所にて日達上人にお目通りし、池田大作の策略から宗門の伝統と法義を守ることを誓いあい、今後は末寺所属の学会員信徒に直接日蓮正宗信徒としての自覚を訴えかけ、寺院に所属する檀徒づくりの運動を展開することを確認した。
 一方、池田大作は、さきの五か条の原則案に基づく協定によって批判派を封じ込めようと試みたが、その原案が通らないのであればと、阿部教学部長をつかって修正案(宗務院案)を作成させてなんとか宗門に飲ませ、この協定を弾力的に運用し、宗務院と学会首脳の連携によって批判派を封じ込めようと画策した。すなわち創共協定にも見られた手法である。ところが、この宗務院案については、日達上人は自らが反対の先頭に立って宗門幹部不一致の混乱を招くことないよう配慮し、かつ宗門全体の総意に計るべきであるとして、若手僧侶の反撃を期待、『時事懇談会』なる緊急代表者会議を開催する事に決したのである。
 こうした事態の急変に対して池田会長は二月五日、情勢分析のため、親池田派の僧侶十名を集めて『宗学友人会』なる会合を開き、宗門情報の収集につとめている。この席上、
『人が変わればまた変わると思う。新しい人が台頭していただいて。先は明るいと思う。一番心配しているのは阿部さんではないか。』といって、暗に次期阿部法主の時代を待望することを述べている。さらに、
『九日は総監もみえるのでしょう。少し前進するような気がする。何とかなって欲しい』
とも述べて、時事懇談会にきわめて強い関心を寄せている事が記録されている。
 かくして同年二月九日の時事懇談会が開催された」



 第一回時事懇談会の冒頭、細井日達は挨拶のなかで、これまでの経緯と今後の宗門の方針等について、以下(同書P23-25)のように流れと本音を赤裸々・克明に述べている。
 ここでは細井日達の切迫した思いが叫ばれているため、その全文を紹介する。

「本日は皆さん本山に於きまして時事懇談会を開く事になりまして、大勢登山せられまして、初めの予定は支院長、集会議員、参議等が主で御座居ましたが、その他最近学会と種々やりとりのあった十二、三人、この人もそれに加わった訳ですが、又傍聴として多勢の方が登山せられまして、こういう宗門の相談に皆様集まって一往(ママ)耳に入れとくということは大変結構な事で、又宗門も今後どうなっていくか解らない時に、種々宗門の内情を充分知って自分等の意見も述べて頂き度いと思うのであります。で私は最近思いますのに、昭和廿六年頃、学会の前会長戸田さんが創価学会の宗教法人をとったその事についても宗務院へ戸田さんに来てもらって種々懇談しました。それらの事について学会と宗門とは割合に摩擦がなく、摩擦が無いといえばおかしいけれども、種々ありましたけれども、兎に角宗教上の事、教義の事に於いて摩擦は無かったのであります。種々個人的、気に食ったとか食わないとかで学会から吊し上げられた事もあるし、或いは狸祭りとかいう事件の後は、あちらこちらの集会議員等も吊し上げられた例も御座居ます。私も戸田さんが吉原の警察へ捕らわれたと云う事で、私の常在寺へ多勢寄って来まして別にこっちから警察にやった訳じゃ無いんだけれども、若い人、原島さんが大将になって来まして、こっちは宗門の事だから警察へ話し合って行こうと思っても外に出られない。五分もたたずに又、次の団体が来る、又次の団体が来る、にっちもさっちも行かない。外に出れない。そうしては、どやどやっと次から次に来て言うのである。外に一往帰して次の人が来る前にすぐ裏から出て、吉原の警察に行って話をした事もあります。そういう風に個々の問題に於いて非常に吊し上げといいますか多々あったけれども、教義の事に於いては殆どそういう事は無かった筈であります。ところが戸田さんも亡くなり、大化城も出来、大客殿も出来、昭和四十七年に正本堂が建立せられた。その直後から非常に学会の態度がおかしくなって来た。大変僧侶も馬鹿にするし、又教義上に於いても非常に変化が多い様に思う。その都度私も種々な時にそれを指摘して、そういう事はいけない、日蓮正宗の教義に違うと指摘してきたつもりで御座居ます。併し乍ら各寺院に於いて、地方地方の寺院に於いて種々、又昔の小笠原狸祭り事件のようなことがちょいちょいありまして、それがこの二、三年前から続いて来た。そういう事からして宗門の人々も大変学会はおかしいと、又学会の信徒の内にも大変教義上おかしい事がある。昔の指導と大変違うという様な事も云われる様な立場になりました。
これはどうしても困ったものと思いまして居りました処が、十二月の四日、日向へ行った時、会長が種々な事を言いましてそれから大変納まったと思って居りました。十二月十二日、会長が本山に来まして対面所に来た時、私が今迄の事を指摘しまして、学会はおかしい、まるで別な教義を立てる様な事をしておる。例えば、池田会長は本門弘通の大導師だなどと盛んに言っておる。或は北条さんが、私が改宗する以前の宗旨が日蓮正宗であった。まるで本宗が謗法の寺の如く言っておる。等々皆指摘しまして、これじゃ治まりゃしない若い連中が学会と手を切ると言っておる、私がおさえておるが、彌々手を切るならば、宗会も開いてはっきりしなければならんと思っておる、と言いました。会長の方も私が手を切ると言った事に関して一寸驚いた様な顔をしていましたが、それでまあ旧年は済んだ。
それで表向きは大変おとなしくなり、或いは十一月でしたか、学会の方に私に来てくれと言うことで本部に御経に行きまして、その時の話も雑誌等に出されて居りますから皆さん御承知の事と思うのでありますが。これは勿論、私が建前として今まで学会と一緒にやって来たのであるからして、無理矢理に別れて世間の物笑いになりたくもないからして、今後も一緒にやって行き度い、こういう考えのつもりで『会長の信心を信ずるものである』と言う様な事を云って今日まで来ましたが、併し地方寺院に於いての種々の出来事、私も日蓮正宗の管長として一宗を統率していく以上は、兎に角、宗門を治めなければならない。唯、徒らに外部と仲良くする事によって宗門を守っていくという丈ではいけない。宗門をキチッと治めなければならんという考えが御座居まして、皆さんの意見を充分に聞き度いと思っておるのであります。去年の十一月頃でしたか学会から五ヶ条のまあ〝こういう事をはっきりしてくれ〟というので来ました。それに対して私は、非常に疑問を持つと
これはハッキリ答える事は出来ない。これはすぐ答えるというと大問題であるからして、一つ宗務院方でこれを考えキチッと返事をしなければならん。そういう風に考えておりまして、その内総監の方へ、‶あの答えはどうした〟という事があったそうですけれども、答えちゃいかん、答えるならば即座に別れるつもりで答えなきゃならんと云って答えなかった。
 今回、宗務院で一往是れに対する返事というものを起草せられました。それ等に就いて皆様方の意見を聞き、尚これで今後現在の通りで学会と仲良くやっていけるか、前の戸田さん時分、或いは牧口さん、牧口さんという人は非常に信心の強い人で、本当の信者である。それは自分の人生地理学かなんかの事で一生懸命説かれておるけれども信心があった。一信徒としてこれは立派な方であります。兎に角、今の三代の方も信心はあるでしょう。今日のこういう状態になって来て僧侶は馬鹿にされ、寺はまるで魔の栖の如く考えられて来ておる。もうここ二、三年前から、今ここには居ないけれども、金沢の寺あたり、態々学会の幹部が来て、寺に参りするな!こんな所にのこのこ来て何になるんだ!こういう事を信者が寺の仏様の前で平気で言っておる。これでは我々は我慢出来ないのである。
 こういう様な状態になって来て、我々もこれから先如何なる困難があろうとも、宗門として宗門を大聖人様の仏法を守る宗門として例え小さくなろうとも、どうであろうと是れは真直に切り抜いて行かなきゃならんという考えも、もっております。それが本音です。建前は仲良くしていこう、本音と建前が違うと近頃言いますけれども、この通りであります。どうか今日出席された方も宗務院の提出するものについて充分御相談下さい。或は傍聴として来ている方も、一宗の教師である。諸君は皆一宗の教師である。宗門を憂える事に関しては、ちっとも恥ずかしい事は無いのである。充分に意見を出してもらい度いと思います。ちょいちょい学会に行っちゃ種々な事を言っている人があります。そういう人は今日きてないでしょう。こういう宗門の心配の時に来ないで学会に行ってはべちゃべちゃ!、これで宗門は立ちますか?支院長に来いと言ったらば体が悪いから、副支院長を出すという、そういって二、三日前も学会に行ってごちゃごちやっているじゃないか、そういうやり方で宗門は務まって行くと思うか!諸君!憎まれたっていいじゃないか!ただおべっか使っていい顔して貰うと思って行く事はないじゃないか!こういう事がいいんだと思うならこういう処に来てどんどん言って述べてくれれば良いんだ。それが学会に行ってはどうの、こっちへ来てはどうのと、全く情無いと諸君は思いませんか!そんな事で宗門はやって行けはしないんだ!
 私は堀米猊下の時、総監をやってまして、やっぱり学会との交渉が多かった。いい加減な事を言ってると堀米猊下に怒られた!八方美人じゃいかん。八方美人で宗門は立つか、憎まれても良いんだ、宗門が立つ様にやっていけ、こう言われた事があります。今でも覚えています。そりゃ、向うへ行ってうまい事を言い、こっちでうまい事を言えば誰でも誉めてくれるでしょう。それでは宗門は立たないんですよ!腹を据えて、今後将しく大聖人の仏法を守る事を考えて、どうぞ皆さん行としていって戴き度いと思います。以上(拍手)」

 以上の挨拶の後、日達は会場を退座した。
 池田大作と共に二人三脚で、正本堂建立まで日蓮正宗創価学会を発展せしめた細井日達の胸中が思いやられる。
 特に、「兎に角宗教上の事、教義の事に於いて摩擦は無かった」戸田時代から、「正本堂が建立せられた。その直後から非常に学会の態度がおかしくなって来た」「池田会長は本門弘通の大導師だなどと盛んに言っておる。或は北条さんが、私が改宗する以前の宗旨が日蓮正宗であった。まるで本宗が謗法の寺の如く言っておる。等々皆指摘しまして、これじゃ治まりゃしない若い連中が学会と手を切ると言っておる、私がおさえておるが、彌々手を切るならば、宗会も開いてはっきりしなければならんと思っておる」
 五ヶ条の僧俗一致の原則について、学会とつるんでいる早瀬総監に答えを迫られても「答えちゃいかん、答えるならば即座に別れるつもりで答えなきゃならんと云って答えなかった」
「態々学会の幹部が来て、寺に参りするな!こんな所にのこのこ来て何になるんだ!こういう事を信者が寺の仏様の前で平気で言っておる。これでは我々は我慢出来ないのである。
 こういう様な状態になって来て、我々もこれから先如何なる困難があろうとも、宗門として宗門を大聖人様の仏法を守る宗門として例え小さくなろうとも、どうであろうと是れは真直に切り抜いて行かなきゃならん」と本音を語る。
「ちょいちょい学会に行っちゃ種々な事を言っている人」等は、宗務院の早瀬総監や阿部教学部長等を指しているのは言うまでもない。また、
「そういうやり方で宗門は務まって行くと思うか!諸君!憎まれたっていいじゃないか!ただおべっか使っていい顔して貰うと思って行く事はないじゃないか!こういう事がいいんだと思うならこういう処に来てどんどん言って述べてくれれば良いんだ。それが学会に行ってはどうの、こっちへ来てはどうのと、全く情無いと諸君は思いませんか!そんな事で宗門はやって行けはしないんだ!」
には、日達の並々ならぬ決意が込められている。

 さて、細井日達が退座したあと、皮肉にも宗務院の早瀬総監を司会として、阿部信雄教学部長(後の阿部日顕)が質問に答える形で討論が行われた。


「この会議で学会側の五原則案が反発をかったのは当然のこととして、宗務院案もまた創価学会の自主性を尊重するとか、学会を批判してはいけないとか、学会員はお寺に相談しにきても学会組織につくよう指導する、などという学会案の文句を多少変えた程度の内容であった。しかも、一見すると対等に見える協調案の文言も、よくみれば、信徒は学会で指導するから寺では学会員に指導するなというものであり、そのうえ寺院総代は学会幹部を送り込んで運営に関与してくる方式であるから、実質的には信徒団体が宗門を包囲して管理下におくという、いかにも本末転倒した内容である。そして長時間にわたる阿部教学部長のねばりにもかかわらず、この両案ともに僧俗全体の大変な反発をかい、最終的に会議の意見を集約した日達上人の裁断によって①学会案は突き返す。②宗務院案は撤回、③学会と手を切るか、また協調するためにはどうしたらよいかというアンケートを実施するという結論になった。
 また、この宗務院案が一顧だにされなかったことによって、いかに阿部教学部長の感覚が、宗内世論や日達上人のご意志ともかけはなれ、学会べったり姿勢であるかを示す格好の場になってしまった。そして、この日以降次第に阿部教学部長は宗内で孤立し、学会との連絡会議すら開かれなくなった事によってその政治力は著しく低下していったのである」(同書)


■創価学会は『お客様』(阿部信雄の答弁)

 さて、第一回時事懇談会での討論はこの史料に克明に記録されている。
池田本仏の実態、ご本尊の模刻など、多くの問題となっていることが次々にあらわに指摘されているが、中でも阿部教学部長の頓珍漢な答弁を含んだ部分を紹介しておく。 

 要するに、創価学会は「お客さま」だという、日蓮の姿勢に反して周囲や強者に阿諛迎合する、日蓮信者にあるまじき姿勢、宗教者としてあるべき自覚を疑うものである。(以下、阿部信雄の言論部分のみ「お客さま」の部分を『 』で示した)


「尾花泰順師 去年の大阪の戸田記念講堂で、会長が講演した、それが発端となった訳ですが、あの原稿を会長が当局の方へ一往目を通して貰いたいという事が有ったでしょうか、お聞きしたいんですが。

司会 もう一度お願い致します。

尾花泰順師 戸田記念講堂で会長が『仏教史観を語る』と講演しましたね。その原稿を当局の方へ目を通してくれという様な事があったでしょうか。

教学部長 有りません。ここにいる当局者五人、記憶御座居ません。無かったと申し上げておきます。

尾花泰順師 去年の一月から種々問題が起って来た訳で御座居ますが、その一年間に於いて連絡会議というものが月一回は行なわれておったんじゃないかと思われますけれども、その連絡会に於いて、当局として種々話し合いを交して居ると思うんですけども、種々教義の問題とか、種々の事に就いて言う可き事が一杯(ママ)有ったんじゃないかと思うんですけどもそういう事に就いて論議を闘わした事が有るのでしょうか。(笑い)

教学部長 別に特に記憶に有りませんね。えー、して居りませんでしたね。
尾花泰順師 御当局としての種々意見、こちらから積極的に云った話し合いは無かったという事ですか。

教学部長 まあー、そういった意味での御質問ですから、私自身の考え方なんですが、所謂宗務当局全体として言っていいか私個人のとして言っていいか!一寸解りませんが、所謂このー考え方がですね、確かに創価学会従って学会幹部、会長以下と連絡会議をしているのですから所謂『お客様』である。『信徒は全部お客様』であると昔から言いましたがね、一般論として、そういった意味からはやはりお客様であるという考え方で来たという事は確かに今、この是非は別として、そういった考え方は御座居ましたね。従ってそれが過去から一つのずーっと来た事は種々な表現が出来るかもしれません。第三者としては、或は癒着という風な見方があるかどうか、これも解りませんが、併しまあ長い間の種々な面で接触という事がありまして、そこに『お客様』であるという考え方によって或程度ハッキリ厳しくこの問題とかという事をしていったという事は所謂殆んど無かった。是れはハッキリ言える事だと思います。

尾花泰順師 私としては、云うべき事は言って戴きたかったなーという気がします。

丸岡雄道師 最近の聖教新聞、学会の体質問題に関する原点的なものですが、誠に本音と建前が使い分けられて居るかの如く我々には見受けられる御座居ますが、誠に日向以後僧俗一致の麗わしい姿が聖教新聞氏上では見事に演出されております。併し我々は、この記事にならない記事に非常に関心を持つので御座居ます。過去の新聞が御座居ますが、昭和廿七年六月廿日付の新聞の論調と只今の論調を見ると雲泥の差が御座居ます。当時の新聞では『学会と飽迄戦うと狸をかばう浅井広竜師』と大きな見出しで出ております。或いは『第二次狸祭り実現か、青年部の闘争市川師に集中』、『宗会会議に全面的に反対、日浄寺高橋信道師言明』、こういった記事もキチンと出しております。という事は、我々はこの時点での聖教新聞は多少の事はあっても、裏も表もある程度書いておるという信頼性というものが多少置けるので御座居ます。而るに昨今の聖教新聞ではそういう事は無い。末端の純信な(ママ)御信者方は表面に表われた記事を以って全てを認識していくのであります。こういう所に大きな認識のギャップがあるので御座居ます。現実に僧俗一致の麗しい姿を体現したのでありますけれども、それ以後現実問題として登山がどの程度なされているであろうかということになりますと…中略…而るに日向以後…中略…去年の粗半数であります。何を物語っているか、僧俗一致で御戒壇様を中心とした信心に目覚めるならば、何故これだけ人数が半減しているのだろうか!それを純信なる信徒の皆様方には、私が聞いたのはこういう風に言っております。只今は申し込み者が非常に多いので、あんたの順番までまだ廻って来ないんだよ、待ってくれ、という様な事で止められておると伺ったので御座居ます。是は何を物語っているのか、これが本音と建前の使い分けの学会の本質を見たと思うので御座居ます。大方の意見を伺いたいと思うので御座居ます。(拍手)」(同書P37-38 )

 また、以下にも見られる。
「鈴木秀喜師 先程教学部長さんが笑った人が居ると云いましたが、私も笑いました。それに対して失礼だと私はそう思います。けども笑った理由は大体連絡会議一つにしても東京迄僧侶が出かけていって行くという事と、何故信徒の団体であるものが総本山に詣うでてそして連絡会議をするということならば解ります。それを当局側は今どういう事をしたらいいかという事で、それに対して私は笑った訳なんですが、そういう事を一つ見ても当局がもっと主体性をもって呼びつける位の気持があってもいいんではないかと思います。その点如何でしょうか。(拍手)

教学部長 確かにそういう風な見方も一面出来ると思います。えーまあーこういう風な形的に状況になりますと、特にそういう風な考え方も強く浮かんで来ることは事実だと思います。えー先程一寸お客さんという風なですね、信仰信者を私共御本尊様の『お客様』であると、ですから大事にすると、こういう風な事がまあ色々な面に於いて言われておりまして、そういう風なことも含めて今迄の在り方がやはり大変御苦労様でしたと、そんならば私共が行きましょうという様な敬重的な形が、ずっとこの例によっておる様な感じもあると思います。えーまーそういう事ですね。ですからまあーえーですが、そういう御意見があるという事は充分伺っておきたいと思います」(同書P47)


 ここで、「信仰信者を私共御本尊様の『お客様』であると、ですから大事にする」等との主張は、いかにも板マンダラを絶対視するアニミズムがあらわれていると同時に、「お客様は神様」という、現世の商売人根性があらわに覗いている。
これらは、三世永遠の真理・法則に基づく本来の日蓮仏法とは何ら関係ない。


 その他にもこの会議で注目すべきことは、細井日達が若手僧侶と共に、以前からの創価学会の体質と池田大作の野望、そして宗務院の行動などを正確に見抜き、情報共有をしながらこれに対応しようとしていたことがあらわに記録されていることである。
 それを指摘した部分を挙げておく。



「佐々木秀明師 …中略…何故この五ヶ条が出て来たかと言う事が大事だと思います。…中略…この五原則の後に実は十一月十三日に御講で説法をしました。各末寺でその時に、(創価学会側が)こう云うけしからん事を言っておるではないかという事を十一人羅列して来ております…中略…その一番最後の倉光哲正さんのこの話は『三沢抄』を引き血脈相承に就いて(ママ)話をし、血脈には唯受一人の血脈と普通の信心の血脈がある。大事なのは唯受一人の血脈であり、大聖人から代々の猊下に受け継がれているのが正しい。この事を間違えれば罰を受ける。田中智学の様に凡夫の師弟を言っている者もある。信心の根本の血脈は、代々の猊下御一人である』(ママ)と、ここはどこが間違っておるんですか、こういうことを平気で言って、そして、この前に血脈を守る、そしてそれを大事にしていくんだという創価学会の本音と建前も、この時点に於いて出ておるんです。ですから今、この論点は創価学会を宗教法人として認めるか、それとも認めるんならば前の三原則をぴっちりと約束どうりやっていくという事を聖教新聞又は大々的に宣伝して貰うか、それともどうしても創価学会というものを宗教法人として認めていくと、日蓮正宗も宗教法人です。ならばややこしく、このお盆、彼岸、誕生会、宗旨建立会という様なものをしないで、もう全部やって戴いて、葬式も、結婚式も、御受戒も。そしてそれ以外にどうしても我々は日蓮正宗の信者としてやっていきたいという人がいらっしゃれば、その人を信者として認めて檀信徒としてやっていくという様な、せっぱ詰まった問題になって来ていると思うんであります。(拍手)ですからこの問題は宗教法人として何だとか、信徒として何だとかと云うよりも、この五原則はどういう事で出て来たかという事をもう一度よく、…中略…そういう奥があるという事、もう一度検討してそして今日だけではこれは話がつかないと思います。(拍手)

菅野憲通師 えー先程、教学部長(註、阿部信雄)さんのお話の中に創価学会側が、かなり反省をして来て、そういう事を言いだしたという言葉がありましたけれども、この昨年の一月からの路線(註、昭和52年路線)、これは亦、手の平を返した様に変えた、その根底というのは、結局あのマスコミの一連の記事によって世間からたたかれて来たからこそそこで亦、方針を転回したというのが最もこれは妥当な考えと思います。決してそれは本質的に信仰の上に立って反省をしたから、亦宗門の方に戻ってきたという様な事では無いと思います。本当に反省するならば、それを聖教新聞紙上なりにはっきりとそれを訂正し撤回してその迷惑を懸け、亦迷わした所の会員に謝罪しなければ反省したという事にはならないと思います。ですからその様に取られるのであれば、一寸甘いんではないかという風に考える訳であります。(拍手)

渡辺広済師 聖教新聞の今年一月廿八日の五千六百十七号の中に、会長が広宣会館に於いて『一、我々の願望で我々の力で我々の広宣流布の拠点を作る事は宗教本来の姿である。誰人にも迷惑を懸けず、亦援助も受けず、その建設運営を担当役員が宗教法人法に基づき全会員の意見を体して行っているのである』と、こういう指導されておりますけれども、勿論これは日向以後(註、御寛恕願いの以後)の事であります。先程、佐々木師のあれにもありましたけれども、学会の方がこういう考えでいるならば、飽迄も宗門としては学会に宗教法人の解散を命じていって戴きたい!そしてもう、もし共にやっていくという事でであれば全面的に先程の佐々木師の意見の様に、これを認めまして、葬式も法事も御受戒も全部信徒の寺でやって戴きたい。学会の方でやって戴きたい。この様に思う訳であります。(拍手)

小牟礼匡道師 えー宗務当局は学会に申し入れると先程からよく言っておりますけれども現在はクソ坊主とか、クソ小僧とか言っております。現在、力の差においてですね、現実は宗務当局は創価学会に厳重に申し入れる勇気があるかどうか、(拍手・笑い)これを一言。
…中略…

斉藤善道師 この原点に帰ってお話をするという事でございますが、日蓮正宗の信徒は日蓮正宗の教義を信仰するのが日蓮正宗の信徒である。で、先程の猊下の御言葉の中に、昔
は教義的に良かったと、そしてずっと功績があって、正本堂が出来て以後に僧侶の事、或いは教義の事に於いておかしい事がどんどん出来たんだと仰せになっております。ここで大切な事は、日蓮正宗の信徒であるならば日蓮正宗の教義をキチッと守って戴く、そして猊下が度々そういう間違いを指摘してきておられるんでありますから、そういう事を全てキチンと守って戴く、これが根本だと思います。こういう間違いを正さないで協調協調といってもこれは決して出来るものではありません。又この学会からの案の中に火の国新聞の事は当時厳重に注意したと書いてありますが、この帰命という事も今でも平気で言っております。或いは会長が仏という事に就いても、仏という言葉を使わないにしても、三世を見通すから仏の境涯なんだと、仏の境涯であればもう仏であります。(笑い)或いは経本にしてもそうであります。日蓮正宗の化儀から行けば日有上人の百二十箇条の中に日蓮正宗の勤行をする時は、正宗で決めた経本を使ってという事が載っております。それを勝手に自分たちで作ってやる自体、もう既に信仰が間違っておる。そういう風に結局間違ってきてる。教義の面が間違ってきて居るからどんどん枝葉も間違ってくる訳ですから、その根本である教義を猊下が度々注意して来ておられるんですから、よくキチッと守って戴くと、それで出来なければ先程仰しゃった(ママ)、この五ヶ条を答える時は別れる時だと、ここ迄やって戴きたいと思います。(拍手)」(同書P43-47)



 以上、一部の例を挙げた。

  また、それ以外にも重要と思われる指摘をコメント欄(コメント1~10)に、いくつか挙げた。

  その中には、浜田論文の主である浜田憲治(実際は彼の名前を借りただけで、作者は池田大作とその側近グループ)の処分もないこと、池田大作が何回も謝っても尚且つその姿勢を改めないのは大変な事であること、こうしてだんだん異流義になっていく事、純真な信者に真実が伝わっていない事など、重要な指摘が多くある。
 この史料では、当時の創価学会執行部と末端組織の状態、本音と建前の状況があらわに指摘され、創価学会の傀儡であった阿部教学部長(後の日顕)と早瀬総監以外は皆、細井日達も含めて、池田大作・創価学会の本音を見抜いていたことが分かる。
 後に大問題となった池田大作による本尊模刻問題も、既にこの時に指摘されていて、後ほど検討する。



「かくして同年二月九日の時事懇談会が開催された。この会議で学会側の五原則案が反発をかったのは当然のこととして、宗務院案もまた創価学会の自主性を尊重するとか、学会を批判してはいけないとか、学会員はお寺に相談しにきても学会組織につくよう指導する、などという学会案の文句を多少変えた程度の内容であった。しかも、一見すると対等に見える協調案の文言も、よくみれば、信徒は学会で指導するから寺では学会員に指導するなというものであり、そのうえ寺院総代は学会幹部を送り込んで運営に関与してくる方式であるから、実質的には信徒団体が宗門を包囲して管理下におくという、いかにも本末転倒した内容である。そして長時間にわたる阿部教学部長のねばりにもかかわらず、この両案ともに僧俗全体の大変な反発をかい、最終的に会議の意見を集約した日達上人の裁断によって①学会案は突き返す。②宗務院案は撤回、③学会と手を切るか、また協調するためにはどうしたらよいかというアンケートを実施するという結論になった。
 また、この宗務院案が一顧だにされなかったことによって、いかに阿部教学部長の感覚が、宗内世論や日達上人のご意志ともかけはなれ、学会べったり姿勢であるかを示す格好の場になってしまった。そして、この日以降次第に阿部教学部長は宗内で孤立し、学会との連絡会議すら開かれなくなった事によってその政治力は著しく低下していったのである。
 ところで、後日明らかになったところによると、山崎裁判の法廷において池田大作は『二月十日に私は当時の早瀬総監、当時の教学部長とお会いして、一体どういうことなんですかと、光亭さんで遅くまで懇談しました』(昭和五十八年十月三十一日)と証言している。
 阿部教学部長らは信濃町の本部前の料亭で池田と秘かに合い、深夜まで情報分析と対応策について検討していたのである。また当日の録音テープも同じ証言で山崎弁護士から即日入手していることを明かしている。用心深い池田大作は幾重もの情報ルートを持っていたであろうが、しかし何よりも本来宗門総意を代表して信徒団体の指導・監督にあたるべき宗務院中枢の役僧が内通し、こうした背信行為をするのであるから、もともと宗門の主体性や渉外などあったものではない。それにしても、この日も長い密談の末に例のごとく池田大作から御供養と称する『金一封』をもらって帰ったのであろうか。
 かくして情報分析の結果、急変に驚いた池田大作は自ら打開策にでた。急きょ十二日と十四日に登山して日達上人にお目通りし、多額の御供養金(一説には予定されていた七百遠忌御供養三十億の一部、数億円の現金といわれる。但し、この時の御供養金は日達上人に受取りを拒否された)をさしだし、手をついて詫びるふりをした。そして、誤りは徹底して改めるとか、規則改正して会長を選挙制にする等の約束をしたため、日達上人も『学会を切る』ということは見合わせることにし、再び第二回目の時事懇談会となったものである。
 過去の歴史に『もし』という仮説は通用しないが、それでも『もし』この時、阿部師等の内通がなければ、その後の情勢は大きく変わっていただろうと思わざるを得ない」(「時事懇談会記録――宗門覚醒のいぶき」1990/2/16、P6-7)



 創価学会を利用して後に大石寺第67世法主となり、後に創価学会を破門した阿部日顕の、教学部長時代での暗躍ぶりが如実に示されている資料の一つである。
 何度も先述してきたが、宗門にも池田大作や創価学会執行部にも、真実の日蓮仏法においての血脈や師弟不二などは、とうてい存在するとは言えない。
 建前では高尚な日蓮仏法の血脈を挙げてはいるが、本音・実は俗世間における低俗な紛争でしかなかった。

 

P52へ、続きます。
 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」

P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)