●63 捏造・脚色の「創価学会正史」完成過程、自分の履歴も一部都合よく捏造し著作した池田大作 | ラケットちゃんのつぶやき

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●63 捏造・脚色の「創価学会正史」完成過程、小説「人間革命」に合わせて自分の履歴も一部捏造し著作出版した池田大作


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P63, 捏造・脚色の「創価学会正史」、自分の履歴も一部都合よく捏造し著作した池田大作
です。
 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。
 なお、以下は、過去の拙記事「私の池田大作観(1)ページ3」を一部改訂し再掲載したものです。


■第四章  創作された「創価学会正史」の完成

 1960年5月3日、日大講堂で開かれた第22回本部総会で、池田大作は「若輩ではございますが、本日より戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらせていただきます」(会長講演集第一巻、1961年8月24日初版P1)と第一声の挨拶とともに、創価学会第三代会長に就任した。

 以後、順にその後の資料に基づいて、創価三代の師弟不二を宣揚する捏造・脚色が正史として造られていく過程をみていく。

 1962年5月 学会関連の鳳書院刊行の創価学会紹介解説書「創価学会」は、池田大作を折伏した小平芳平教学部長が著したが、P79で、
「池田会長は…十九歳のとき、当時、創価学会の再建に着手していた戸田城聖会長に会い、その深い確信と秀でた人格に感動して、昭和二十二年八月二十四日に入信しました。一生涯、戸田会長に師事しとおす信念で、戸田会長が逝去されるまで十余年間、その厳しい薫陶をうけつつ、世人の想像を絶する大きな活躍をつづけていました。入信後まもなく、戸田会長の会社に入社し…」と、絶賛している。しかし「入信後まもなく、戸田会長の会社に入社し」とは事実と違う。


 

■ 1962年5月3日の東大法華経研究会編「日蓮正宗創価学会」P451には、
「昭和三年一月二日、池田子之吉の五男として、東京大田区大森に生まれた。東洋商業卒業後、大世学院政経科に学び、中退。十九の時、当時、創価学会の再建に着手していた戸田城聖会長に会い、その深い学識と、すぐれた人格に感動して決意、昭和二十二年八月二十四日、日蓮正宗に入信している。この入信を決意したときには、『すでに一生涯、戸田会長に師事しとおす信念ができていた』と語っている」(『』は、筆者注)

が、これも先述した事実と違う。

 


■ 1965年、後に池田大作の一番弟子と言われていた原島崇氏の著「創価学会」では、
「池田青年の入信は、昭和二十二年八月二十四日で、直接の動機は、その十日前に出席した折伏座談会で、戸田城聖の偉大な人格にふれたことであった」(P272)
「この時の、戸田城聖との運命的な出会いは、決定的な瞬間であった。以来、池田青年は、戸田城聖を終生の師と仰ぎ、公私にわたり、戸田を支え、学会の礎を築いたのである」(P273)
「一方、戸田も、初めて座談会に池田青年が出席した姿をみて、牧口会長をたずねていった〝二十歳〟の自己の青年時代を思い浮かべ、そこに仏法の師弟の宿縁の深さを実感していた。以来、池田青年は、入信後、一年有半にして、「日本正学館」に勤務することになり、戸田を公私にわたり支え、戦ったのである」(P274〝 〟は筆者)
「…戸田会長は、生前中から、池田会長を後継者とし…後事を託していた…いま戸田前会長が全てを託した池田会長に受け継がれたのである」(P321)
「仏法の師弟不二の原理にあっては、卓越した指導者のもとに、その指導者の意中の底まで汲み取り、それを実践する卓越した弟子が厳然と出現するのである。宗教革命を遂行する創価学会にも、この厳粛な師弟の関係が、脈々と流れていたのである」(P316)
「戸田会長は、生前中から、池田会長を後継者とし、学会の最高責任者としての一切の訓練をし、また後事を託していた。池田会長も、苦境に陥った事業面の再建をはじめ、戸田会長を公私にわたり守り、広布の基盤を確立してきたのである」(P320)

 

ただ池田大作の戸田城聖の出会いの年は19歳だが、戸田城聖の牧口常三郎との出会いは「仏法の不思議」とは違い〝二十歳〟であった。

 

 


■ 戸田城聖自身の論文においても、それは〝二十歳〟である。
「私は牧口会長の死を知らなかった。……〝二十歳〟の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である」(「創価学会の歴史と確信」戸田城聖全集第一巻 池田大作編P301〝 〟は筆者)

 

 

■ さらには、1970年青娥書房出版の戸田城聖著「若き日の手記・獄中記」にも池田大作は序文をよせているが、それにも、

「戸田先生に、初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月であり、先生が四十七、八歳、私が十九歳の時であった。」

と、戸田の年齢に関してはぼかしていながら、

「それは私の生涯における決定的な瞬間であった……」

と、取り繕っているのである。

しかも、これが恩師の13回忌にあたっての序文というのである。


 また、詳細は後述するが、元来、仏法において「師弟」というときは、師とは仏、弟子とは衆生であって、仏と衆生の関係を意味する。決して世間での師弟関係をいうのではない。


■五島勉著「現代の英雄」での池田大作の生発言

 1968年、五島勉氏は「現代の英雄」P37-39で、池田大作の生発言を紹介している。
「池田はたいした期待ももたず、しかし気が向くままにその『新しい思想家』を訪ねていった。国電も都電もロクに動いていない混乱期、長い道の途中で時々血を吐き、もう引きかえそうと何度もあきらめながら。
 こうして、学会のなかではすでに伝説化されている戸田城聖(創価学会第二代会長)と池田との運命的な出会いがおとずれたのである。
『いまでも昨日のことのようにおぼえています。焼け野原の中の小さな家で、戸田先生は何人かの若い男女を相手に日蓮正宗の根本をなす生命哲学を説かれておられた。そのときはたまたま、非常にわかりやすい初歩的な法理の説明で、お互いにその日一日を全力で生ききろう、苦しみを回避せず、苦しみを克服するなかに喜びを見出そう、というようなお話でした。
 それを聞いたとき、なぜか知らないが、私は体中がビリビリするような感動を受けたんですね。いま考えればごくやさしい訓話ですから、ほかの人から言われたのなら、あんなに感動したかどうかわからない。しかし、戸田先生の言葉のひとつひとつには、なんというか、ひとかけらのウソもてらいもない人間のギリギリの叫びみたいなものが感じられたんです』
 戸田城聖という人がどんな人物だったか、私は知らないが、さまざまの迫害に耐えて独り新しい仏法を説いていたのだから、おそらく池田以上の信念の人だったことがわかる。敗戦後、教師や指導的なオトナたちのあさましい変身ぶりをみせつけられ、あらゆるものに不信の目を向けていた池田が、戸田の中の純粋さと『ウソのなさ』にいっぺんでひきつけられたのは、十分に理解できる。
 そして、池田がさらに戸田の話を聞いているうち、奇跡としかいいようのない神秘的な現象が、突然二人の間におこった。
‶『それは、私がいつかこの人(戸田)のあとを継ぐだろう、継がなければいけない、私はそのために生まれてきたんだ――という強烈な直感でした。それまで、そういう運命的な直感などむしろ軽蔑していた私が、どうしてああいう気持ちに襲われたのか、いまもって不思議ですね。
 しかし、もっと不思議なことは、これはあとでわかったんですが、私がそう直感した瞬間、戸田先生のほうでも、〝このやせこけた若者がいつかオレのあとを継ぐだろう。いまオレはついに後継者とめぐりあった〟――と、ひと目で直感されたというんですよ。
 はじめて会って三十分もたたないうちですが、戸田先生と目が会ったとき、私はそのことを――先生がなにを感じられたか――をハッキリ知りました。先生のほうも私の目の中を満足そうにジッと長いあいだ見ておられた。私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださったわけです』〟…中略…池田は、前後も考えず、その場で戸田に弟子入りを申し出た。戸田の信ずるものを自分も信ずることを誓った。むしばまれた肺への不安はまだ大きかったが、たとえ短い生命でもそれが尽きるまで戸田といっしょに働こうと――彼は生まれてはじめて自分の生きていく意義をハッキリつかんだ気持だった。」(〝 〟は筆者)


■自身の履歴を、小説「人間革命」の内容にあわせて捏造

 その後こうして、前資料での「前言」を覆し、捏造した著作を、池田大作自らが事実として世間に対し著作物を出していく。

 1969年、毎日新聞社出版の池田大作著「私はこう思う」では ”人生に負けてはいけない〟P86-93で、その入信の時の様子を、小説「人間革命」第2巻に準じて語っている。(1969年といえば創価学会による言論出版妨害事件が明るみに出た年でもある)これは後に文庫本にもなり、聖教新聞社版ではP78-85に掲載されている。
1975年 聖教新聞社刊の池田大作著「青春抄」では「師との出会い」でP220-227(1969/1/10)
後の青春抄文庫本ではP230-237(1969/1/10)
1981年 池田会長全集第2巻P57-61(1968.11.7))
1989年 池田大作全集第18巻P88-95(昭和四十四年一月『人生の恩師』所収)に、
何度も何度も掲載している。一部のかなと漢字が異なるが文章が同じなので、三つに分けて引用する。

「私が、先生に、はじめてお目にかかったのは、昭和22年、19歳の夏の暑い夜であった…(中略)…私の家といえば、家業の海苔製造業は、戦時中から細々ながらつづいて、戦争に奪われた四人の兄弟たちは、一人戦死し、あとの三人は、まだ帰還していなかった。…(中略)…焦燥と不安は、日を追って身を心を苛んだのも当然なことだろう。
 そのような生活のなかで、一人二人と友人が集まり、小さな読書グループが自然と出来たのである。…(中略)…私には、このグループのほかに、小学校時代からの友人で、時折り訪ねてくる仲間があった。そして、ある日、その友人の家で『生命の哲学について』の会があるからと、誘われたのである。この時、戸田城聖という名を、はじめて耳にしたのであった。
 私は、好奇心から誘われるままに、読者仲間もつれて出かけたのである」(私はこう思うP86-88)

 


「ややしゃがれた声で、屈託なく語っているのは、四十代の人であった。度の強い厚い眼鏡が光り、広い額は、すっきり禿でている。…(中略)…
 いわゆる宗教の講話でもなく、伝統的な哲学の話でもなかった。話は、きわめて即物的で、観念を弄ぶようなところはなく、卑近な事実が、そのまま高度の真理を語っているようにさえ思われた。部屋には、中年の男や、家庭の主婦や、若い娘や、元気な青年たちが溢れている。服はいずれも貧しかったが、戸田先生にじっと注目して真剣そのものの姿である。善良な街の庶民の人々にまちがいない。そこには不思議な活気が燃えていた。…(中略)…私の先生をみつめる視線が、しばしば先生の視線にぶつかった。私は戸惑い、眼を伏せて、しばらくして顔をあげると、先生の視線はなおも私に注がれているようでならない。おかしなことだったが、いつか旧知の親しさという感情を覚えたのである。
 話が終わると、友人は私を先生に紹介した。先生は、ほう、といいながら、眼鏡の奥から眼を光らせて、一瞬、私の顔をまじまじと見てとった。そして、何かを知ったように、なんとも人なつこい微笑をうかべていったのである。
『君、いくつになったかね』
 私の旧知の感情は、即座に答えた。
『十九歳です』
『十九歳か』と、先生はなにかに思いあたるようにいった。『十九歳といえば、僕が東京に出てきた時だ。北海道から、おのぼりさんで、はじめて東京に出てきたのだよ……』
 先生はその時、仁丹をかみながら、煙草をふかしていたと記憶する。私は、そのころ抱いていた、人生上の、また社会上のいくつかの疑問を自然に質問せざるを得なくなっていた。
 ――正しい人生とはどういう人生をいうのですか。真の愛国者とは? 天皇制について? 仏法の神髄とは?
 先生の解答は、はなはだ、直截でよどむところがなかった。…(中略)…私は充分に満足し、真理がこれほど身近にあることに、生れてはじめて感動したことをおぼえている。」(青春抄P222-224)
「この夜から、十日後の八月二十四日、私は日蓮正宗に入信し、創価学会員となった。次第に仏法哲学の正当さももわかり、戸田城聖という稀有の人格を知ったものの、なお心に躊躇しつつ、昼間はある企業団体に勤め、夜は学生として学校に通っていた。一年をすぎたころ、先生の経営する出版社へ勤務することが、自然の成行のように決定した。
 二十四年正月から、恩師の下で働くことになったのである。仕事は厳しく忙しかった。敗戦後の日本経済は、難破船のごとくインフレ波濤のなかで喘いでいた。中小企業の一つである恩師の事業も、この不況の波をかぶらざるを得なくなってしまった。二十四年暮れから二十六年の春まで、連日のように悪戦苦闘がつづいたのである。
 多くの社員は一人去り、二人去り、いつか債権者と渡り合うのは、私ひとりになってしまった。私の健康も生活の不如意も危殆に瀕していたが、先生のもとを去ることはなかった。むしろ、地獄の底までも、お供しようという決心が、いつかついていたのである。恩師を信じ、大聖人の仏法の正しさを信じ、ギリギリの限界で孤軍奮闘をつづけたものであった。
『ぼくは事業にやぶれたが、人生に、仏法にはやぶれない』
 恩師は、ご自分の使命だけを自覚されていたのであろう。それが私には痛切に感じられたのだ。一切は、ここから再建の途に向かったのである。
 恩師の事業再建と、学会の再建のため、学業を抛棄せざるを得なくなった。一人の弟子の私を憐れんで、先生はいった。
『ぼくが全部教えてやるからな』
 それから数年にわたって、先生のお宅や、朝早く会社で、個人教授がはじまったのである。法律、政治、経済、物理化学、天文学、漢文といった科目を、外国語を除いて、あらゆることを懇切に教えて下さった。先生は、ご自分のなかにある、すべての学問を、私に移そうとさえしたのである。
 恩師の学問の道は、自ら研鑽されたものであった。北海道の小学校を卒業すると、札幌で丁稚奉公をしながら、小学校準教員の資格をとり、夕張の炭山の小学校で教員となり、さらに正教員の資格をとられている。‶十九歳〟で上京し、生涯の師・牧口常三郎にめぐりあい、夜間中学に編入し、旧制中学四年修了の検定試験に合格し、後に中央大学に学んだ。…(中略)…学会再建におけるご自身の活動、日常生活の一切が、先生の命がけの教授であったと、私はいまつきぬ思いに駆られるのである。
 私もまた、先生の厳しき薫陶に、懸命になって堪えた。そして一切をわが身にうけたつもりである。逝去寸前まで叱られどおしの不肖の弟子ではあったが――。
 今日、凡々たる私が、戸田先生亡きあと、創価学会をつぎ、その使命とする広宣流布という空前の事業の中に生きられるのは、一瞬といえども、戸田城聖先生が私の脳裡からはなれることがないためである。私の人生における最大の幸福は、戸田城聖という生涯の師にめぐりあい、師弟の道を貫くことができたことである。(昭和四十四年一月『人生の恩師』所収)」(池田大作全集第18巻P92-95)



■池田大作著「私の履歴書」――これにも捏造した入信神話と師弟の出会いを記す――


 そして、池田大作著「私の履歴書」が、1975年5月、日本経済新聞社から刊行される。

 


「二回目の終戦記念日を迎えようとしていた蒸し暑い真夏のある夜である。
小学校時代の友だちが訪ねてきて『生命哲学について』の会があるからこないかという。生命の内的自発性を強調したベルグソンの『生の哲学』のことかと、一瞬思って、尋ねてみたが『そうではない』という。私は興味を持った。約束の八月十四日、読書グループの二人の友人と連れ立って、その『生命哲学』なるものを聞きに向かった。…(中略)…その座は、不思議な活気が燃えていた。自由闊達な話を聞いていると、いかなる灰色の脳細胞でも燦然と輝きだすような力があった。
 この人物が、私の人生を決定づけ、私の人生の師となった戸田城聖先生であった。」(私の履歴書〝森ケ崎海岸〟P72-75)

「この日、この運命の師と会ったことが、私の生涯を方向づけることになったのであるが、その時は知るべくもなかった。ただ、初対面ながらも、不思議に親しみの情がわき上がってくるのを禁じえなかった。講義と質問への応答が一段落すると、戸田先生は微笑しながら『幾つになったね』と尋ねられた。仁丹をかみ、たばこをふかしておられた。十九歳ということを耳にして、ご自身も故郷の北海道から東京へ初めて上京した時もそんな年ごろだったと懐かしげに語られる。
 私は、教えていただきたい、と質問をした。『正しい人生とは』『本当の愛国者とは』『天皇をどう考えるか』、この三点であった。簡明直截な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。『これだ!』と思った。この人のいっていることは本当だ! 私は、この人なら信じられる、と思った。一切のもののあまりにも急激な変化のためであろう、何も信じられない、といったような心とともに、しかし、何かを探し求めていたのである。
 深い深い思いにふけり、自己の心の山々の峰をいかに越えようか、と考えながらも結論が得られずに悩んでいた私にとって、戸田先生との邂逅は決定的な瞬間となってしまった。その屈託のない声は、私の胸中の奥深くしみ入ってきたといってよい。私は、なにかしらうれしかった。その日、自分の所懐を即興の詩に託して誦した。
 夜十時近く、その家を辞した。蒸し暑い夏の夜であった。快い興奮と複雑な心境が入り混じり、精神は緊張していた。当時の青年にとって宗教なかんずく仏教の話ほど、無縁の存在はなかったといってよい。正直いって、その時の私自身、宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった。
戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をしたのである。
 さらに話を聞くと、この戸田先生という人物は、戦時中、あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず毅然として節を曲げずに、昭和十八年、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも己れの信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった。二年間の獄中生活に耐え、軍国主義思想と戦った人物には、信念に生きる人間の崇高さと輝きがある。極論すれば、当時の私にとっては『戦争に反対して獄に入ったか否か』ということが、その人間を信用するかしないかを判断する大きな尺度になっていたといっても過言ではない。…(中略)…思想上の〝安眠〟から精神的な〝不眠〟へと進む危機一髪のときに、私は人生の師に会うことができたのである。
 十日後の八月二十四日の日曜日、私は東京・中野にある日蓮正宗寺院で授戒を受け、創価学会の一員として出発することになった。
 それからの日々、私は戸田先生との運命的な出会いを深化させながら、生涯、人間革命を断行し、宗教革命、社会革命に自分を捧げつくせるか否かの自己検討をしていた。決して強靭とはいえない自分の身体とのかかわりあいもあったからである。しかし、私は、やがてルビコンを渡った――。他に道がなかったからである。仏法教義とその現実の実践との振幅に悩みながら。」(私の履歴書〝人生の師〟P76-81〝 〟は筆者)



■ これをうけ、学会関連の第三文明社発刊「年譜・池田大作Ⅰ 限定版」1981年1月2日 年譜・池田大作編纂委員会編P26-27では、以下のように記される。
「8月14日 小学校時代の同級生に誘われ、創価学会の座談会に、「協友会」の友人二人を伴って出席(蒲田・三宅ゆたか宅)。戸田城聖と出会う。立正安国論の講義が終了した後、戸田に紹介される。その際、これまで思索し続けてきた「正しい人生とは、どういう人生か」「本当の愛国者とは、どういう人のことをいうのか」「天皇をどう考えるのか」との三点について質問し、戸田の明快な回答を得る。さりげない話のなかにも、簡明直截な確固とした心理があることを直感し、また、戸田の屈託のない誠実な人柄に感銘する。しばらくして、突然立ち上がり、「先生が、青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます」(『人間革命』第二巻 二四頁)とお礼の言葉を述べ、さらに即興詩を披露して感謝の意を表す。「正直いって、その時の私自身、宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった。戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をした」(『私の履歴書』七八頁)
8月24日 小平芳平教学部長らに付き添われて、東京・中野の日蓮正宗歓喜寮(現・昭倫寺)において、住職の堀込奏栄尊師(後の第六十五世日淳上人猊下)より御受戒を受け、日蓮正宗創価学会に入る」

 ここでも「人間革命」第二巻が小説ではなく「事実」として引用されているが、注目すべきなのはその部分が「二四頁」なのである。この引用部分は前記で指摘したが1966年の初版ではP248であるから、14-5年を経た後1981年時点での「人間革命」第2巻は、大幅な変更がなされていることになるのか。

 

 

 

 

 

■ 今も語り継がれている入信神話

 

 さて、世間がコロナ禍で外出自粛がなされている最中、2020年5月3日発行の「池田先生 会長就任60周年記念『栄光の共戦譜』」が、創価学会員一世帯に一冊ずつ、「家庭訪問」にて配布された。

 


このP4にも、「1947年8月14日、19歳 、創価学会の座談会に参加。生涯の師・戸田城聖と出会う」と記載されている。

 こうして現在でも、訂正されることなく、この神話は事実として、創価学会組織内では語り継がれている。


 しかしながら、「永遠に正史となって残っていく…」のは、創価学会の熱心な信者やシンパの人たちだけで、一歩範囲外へ出たら、不都合な歴史の改ざんという恥に、更に上塗りを重ねていく永遠の傾向性(業)でしかない。
 悲しむべきことだが、小説「人間革命」をはじめ、これらの捏造に基づいた著作は翻訳され、世界中に出版されている。




 ああ、南無妙法蓮華経。宇宙一切根源の法よ。

 思えばこれが、科学的に見た、いわゆる宗教なのかもしれない。
三大世界宗教としてあげられているキリスト教、イスラム教、仏教の教えなども、非科学的な神話が多く存在し、それを「信じる」ことで成立し広まっている。
 だが、最新の科学の一つである量子論は、神の不在・非存在を証明して久しい。
 むろん、これは量子論という難解なレベルではなく、正確な情報と一片の理性がありさえすれば判別がつくレベルであろう。


 だが、私は池田大作の「私の人生における最大の幸福は、戸田城聖という生涯の師にめぐりあい、師弟の道を貫くことができたことである。」は、確かに永遠の真実と、個人的には思いこみたかったが、今では既に目が覚めた。

 この事実の経過と永遠の真実との乖離(のように見える矛盾)は、もはやどのような言い逃れも説得力がないばかりか、いかなる科学的再現性をもってしても説明できないことが判明した。

 そして既に最初から、創価三代の永遠性は、科学と袂を分かつ、いわゆる単なる呪術的「宗教」であったことになる。
 この事実・真実に向き合うことは多くの熱心な創価学会会員にとっての大いなる試練であろう。
これを乗り越えなければ、自身の生命に関する根本的矛盾を解決できず、自身の、創価でいう真の「人間革命」は遂げられないことになる。
 私は前々記事で思い立った、宗教へも科学のメスで強く深く鋭く切り込み、客観的に再現性のある真実の法則を明らかにすることにチャレンジし始めたばかりであり、この挫折感はとても大きかった。
 この師弟の出会いを創価三代の永遠性の基盤とする「師弟不二」およびそれに関連した様々な演出は、そもそも仏法でいうところの、「以信代慧」――信をもって慧に代える――べき崇高な論理ではなく、単なる虚飾・演出の代物であろう。

 私にとって、この試練は、まだまだ序の口であったが、だからこそそれに気づくまでは池田大作を「永遠の師」と仰ぐにふさわしい合理的法理と思い込んできたのだった。
 こういった特徴――無疑日信――疑わずに信じること――は、創価学会の重要でしかも一貫した、「師弟不二」の精神の重要な部分であった。
 だからこそ多くの熱心な会員は池田大作を「永遠の師」と仰ぎ、尊敬しているし、創価学会員として誇りを持っているのが実情であろう。
 この重要な点を踏まえていない(又は故意におべんちゃらのため覆い隠した)池田大作論は、たとえば白アリの巣喰っている柱を使っている豪邸のようである。


 なぜに「立派な」?――指導者である池田大作が、後から誰からでも指摘されるような、こんなあからさまな「捏造」をもっともらしく行い続けたのか。

 しかしながらこの性質は、その後の創価学会=公明党の歴史にも一貫して、受け継がれている仏法上の理念の一つなのだ。それはその後の多くの社会的軋轢を繰り返し引き起こした重要な要素である。
 だが、多くの批判本等は、表面的に反学会として指摘、単に貶めることのみに終始しているものも多い。

 だが、前拙記事のも記した宇宙一切根源の法、依正不二の原理をもとに、池田大作と、その側近から末端までの創価学会会員の両方の利益、時代の背景等も含めたその関係性に十分な光を当てると、これが明確に見えてくる。


  P64へ、続きます。

 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像1、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」

P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)

P52, 時事懇談会資料の検討、謝罪演出と約束破棄、揺らぐ細井日達(2)

P53, 池田本仏論のおさらい、醸成されていた〝人〟の無謬化・絶対化

P54, 創価学会52年路線(池田vs日達)その後, 山崎正友と阿部信雄、ジャーナリズムの見解
P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友

P56, 偽装和解だった11・7お詫び登山、教育者としての池田大作、会長辞任も偽装ポーズ、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(2)

P57, 創価の「師弟不二」の精神、サドマゾ的人間関係、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(3)

P58, 池田大作の独裁化進行、造反者続出、暴力団の利用後切り捨て

P59, 自分一人が「本物の弟子」、暴力団の利用後切り捨て(2)

P60, 人間革命の終わり、消えた非科学的奇跡的信仰体験、病気をする人間は信心が足りない…

P61, 虚妄のベール、原理主義的な学会員と隠れ会員、査問・除名ー切り捨てズム

P62, 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討

P63, 捏造・脚色の「創価学会正史」、自分の履歴も一部都合よく捏造し著作した池田大作