●55 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友 | ラケットちゃんのつぶやき

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●55 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友
です。



 初めに、高橋公純著「冬は必ず春となる「創価学会の虚構と真実」」(1991/5/27、恒友出版、P74—P89)に、お詫び登山の決定的誘引となった血脈論と御本尊模刻の全貌についての記載があるので、振り返っておく。(以下〝…〟は中略という記号として使用する)

■ 血脈論について、

「正信覚醒運動のさ中、元創価学会顧問弁護士の山崎正友氏が池田大作氏より受けたという、『広宣流布血脈の新弟子たるを証す』という血脈記別の証が突然出てきた。これはいったい何ごとかと、また池田大作氏の珍妙な言動に大騒ぎとなった。
 釈尊は菩提樹の下で悟りを開いてから四十二年目にして『法華経』を説き、その中の『第三譬喩品において智慧第一といわれた舎利弗に、あなたは未来世において間違いなく成仏するでしょうと証されたのが『成仏への受記』といい『記別』ともいう。
 さらに、大石寺開山日興上人は、大聖人様滅後五十年も長生きされ本弟子六人を定められたが、五十年間につぎつぎと逝去されてしまった。そこで作られたのが新弟子六人であり、前者を本六、後者を新六という。さらにいうならば、日興上人は『弟子分与帳』というものを作られ、日興上人の弟子の功罪を克明に記した。つまり、池田氏の『血脈の新弟子証』というのは、釈尊の成仏への記別と日興上人の『弟子分与帳』などを十分に想定し得るものである。
 弟子を励ますということに関してはどのような証書を出してもかまわないが、絶対許されない一点がある。それは、この証に『血脈』という言葉を使ったということである。『血脈』については『法体の血脈』と『信心の血脈』とがあるが、その『血脈』が自分の方にあるなどとなったら、これは一大事である。

 昭和四十七年(一九七二年)、正本堂建立後、学会内で『牧口会長と戸田会長の血脈』とか、『創価学会における信心の血脈』『池田先生直結の血脈でなければ絶対成仏は出来ない』などと、池田ー学会ー血脈ということが盛んに言われだしたのである。
『創価学会こそ唯一日蓮大聖人様からの広宣流布の血脈を受けつぐものである』ということになる。しかし、そうなると総本山に伝わる唯授一人、猊下から猊下に伝わる『血脈』とはいったい何なんだということになる。池田氏が言ったこの『学会血脈論』に狂喜した信者たちは、たとえば『池田先生は発電所であり、幹部は変電所であり、一般会員は家庭の電気で、池田先生から流れる血脈がなければ、一般信者の電気はつかない。すなわち、功徳はない』という始末であった。
『何を言うか、法体の血脈という猊下があればこそ、一人一人の信者の功徳があるのじゃないか』というと、しぶしぶ『法体の血脈』の発電所は大石寺猊下と認める。しかし信者の血脈は池田先生にあり、変電所の長である池田先生がスイッチを押さないかぎり、どんなすばらしい血脈を発電所でもっていても一般家庭(信者)に電流という功徳は流れないのであるという珍説までとび出した…
 ともかく、池田氏が言った『学会血脈論』に宗内は大いに困惑したのである…山崎正友氏が受けた『血脈』の新弟子証は『昭和五十一年七月三日、第三十三号』であった。翌昭和五十二年二月十一日に中原正男氏が受けた新弟子証は『第一五〇七号』となっている。わずか半年ほどで池田大作氏は『血脈』の新弟子を千五百人余り作ったということである。こんなに『血脈の新弟子』を作ったならば、創価学会に『学会血脈論』が横行し、唯授一人の猊下から猊下への『法体の血脈』などがかすんでしまうのは必定ということになろう」

 ちなみに、新弟子証の第一号は、後に創価学会から造反した原島崇である。

「いったい池田氏は『血脈の新弟子』などと言うが、誰から『血脈』を受けたのか。戸田会長なのか。戸田氏は牧口会長から受けたとでも言うのであろうか。しかし戸田会長は『血脈』などと大それたことは一言も言わなかったはずである。ならば池田氏が『血脈の新弟子証』を発行するなどというのは、自分が本仏になったつもりでもあるのだろうか」

 前ページでも述べたが。池田大作自体が、自身が本仏になりきっていて、側近達や熱心で純真な会員が、結果としてそれを盛り立て煽っていたのであろう。
 この構図は、先述もしたが、奇しくも1969年の言論出版妨害事件の発端となった藤原弘達著「創価学会を斬る」においての指摘が、ものの見事に当たっていたと言えようか。


■ 再び、御本尊模刻の全貌

 「昭和五十三年(一九七八年)十月三日付の院達は、『創価学会においては、これまで彫刻した板本尊については、すべて総本山に納めることになりました。九月二十七日に板本尊が総本山に奉納せられました』と記していた。『まさか』『やっぱり』という電撃的なニュースが信徒の間をかけめぐった…
 しかし、池田先生がそんな大謗法をするはずがない、とわめき散らす学会員もあった。だがその一か月後の十一月七日、いわゆる池田創価学会の『お詫び登山』において、『不用意にご謹刻申し上げた御本尊については奉安殿にご奉納申し上げました』と当時の辻創価学会副会長が言い、学会の大幹部自らが本尊模刻の大罪を明らかにしたのである。
 故北条会長は、『板御本尊に関しては、昭和五十三年十月三日付を以って一切論じてはならない旨厳命を受けておりますので論じること自体が猊下の御命に背く謗法となります』と模刻の事実を認めた上で、これを論ずれば謗法となると開き直ったのであった。
 自分たちが大謗法を犯していて、『論ずること』が何で謗法なのか。厚顔無恥とはこういう言動をいうのであろう。論じてはならないような大謗法をいったい誰がしたのか。
 この池田大作氏が犯した絶対ぬぐい去ることの出来ない七百年宗門史上最大の大罪を言うと、学会員は『それを言うと宗務院命令違反になります』という。確かにこれは院達無視であるかもしれない。しかし、それを言うならば、今回の問題は学会側が御法主上人の御指南に耳を貸さなかったから起こったのではなかったか。
 故北条会長が『猊下の御命に背く謗法』といったのは、御法主上人猊下の御指南に信伏するという大前提があってのことであろう。それを、いま平気で猊座の尊厳性に泥をかけている人びとがどうして言えたのだろう。過去の罪を問わないということは、猊下の御指南に信伏するということが前提であり、池田名誉会長も、昭和五十五年四月二日付の『聖教新聞』に掲載された『恩師の二十三回忌に思う』という所感の中で、『永遠に御法主を仏法の師と仰ぐ』と題してその旨を誓いながら、それにもかかわらず、いまや学会は総本山、御法主上人にありったけの罵言をなげつけているのである…
 私は十年前、まだ僧階が低く、とうてい正信会の首謀者にはほど遠かった。しかし、その正信会は池田大作氏が八体の御本尊模刻という大謗法を犯さなかったら生まれなかったはずのものである。過去の自分の誤りには口をつぐんで、なんたる言い草であろうか。
 ともあれ、七百年の正宗歴史の中に、現今の創価学会ほど、宗門を悩ましめ猊座の尊厳性に汚泥をかけた集団はない。池田大作の本尊模刻という大罪について述べる理由は十分にあるのである。
もう少し詳しく記述したい。


 昭和二十六年(一九五一年)五月三日、創価学会二代会長戸田城聖氏の会長就任式が向島の常泉寺において挙行された。このときすでに総本山に創価学会としての御本尊が申請されていたのであろうか。同年五月十九日、時の御法主上人、総本山六四世日昇猊下より『大法弘通慈折広布、大願成就』の御本尊が下付されたのである。この御本尊こそ創価学会の重宝の中の重宝として、常に本部の中心に御安置され、この御本尊とともに創価学会は順調に伸びていったのである。
 それから二十三年という歳月が流れた昭和四十九年のある日、登山してきた池田会長が、日達上人に『紙幅の御本尊を板御本尊にしていただきたい』と申し入れた。猊下は即座に『いいでしょう』と答えたとのことである。これが池田氏による板曼荼羅模刻の伏線であった。つまり『猊下はいいと言ったんだ』というわけである。
 だが、紙幅の御本尊を板本尊に直すときは、一度本山に御本尊を返し、御法主上人の閉眼があって、そのうえ板本尊として彫刻、さらにその本尊を御法主上人が御開眼することが紙幅の本尊を板本尊に代える正しい手順である。しかし池田会長はそんな手順はまるで踏まなかった。
『一千万の信徒』(本尊流布は一千万~一千五百万、実情は二百万~三百万と言われる)を率いる長たるものが、こんな初歩的なミスを犯すはずがないのである。
 これはどういう弁明をしても初歩的ミスなどではない。なぜならば学会本部安置の紙幅本尊のみならず、その外(ママ)七体の本尊をも池田氏は板本尊にしていたからである。つまり、猊下に対する『紙幅の本尊を板本尊にしたい』というお目通りの言葉の裏には、学会本部に安置されている本尊のみではなく、他の会館等にある紙幅の本尊を板本尊にするという池田式の底意があったと見ていいだろう。
 某日、聖教新聞の地下(ママ)において本尊は写真にとられ、浅草の赤澤朝陽(有名な仏具商)へ送られていった。昭和五十年一月四日付の『聖教新聞』はそのトップ記事に『学会本部では、常住板本尊の入仏式』と題し、つぎのように書いている。

 新しい年の門出を飾る『元旦初勤行』は、一日午前十時から世界平和祈願広布勤行会をかねて全国約五千九百の会場で一斉に行われた……特に学会本部では勤行に先立ち、創価学会常住、慈折広布の板御本尊入仏式が会長の唱導で厳粛に営まれ、甚深の意義を刻む元旦初勤行となった。

 創価学会の御本尊が板本尊に謹刻されその入仏式が初勤行に先立ち池田会長が出席して営まれた。……入仏式は会長の唱導で方便品、自我偈の読経、唱題の声が和すなか、これまでの紙幅の御本尊は北条浩理事長、森田康夫事務総長らの手によって収納され、そのあと板本尊に参加者はお目通り、これより『大法弘通慈折広宣流布、大願成就』の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。
 なお、これまでの紙幅の常住御本尊は、学会の重宝として、永久に保存されることになった。(傍点は著者)

 結果的には、この本来なら晴々しい昭和五十年の学会元旦初勤行のトップニュースが、池田学会の墓穴を掘ることになってしまったのである。すでにこの時点に置いて池田氏は二つの大罪を犯していた。
 一つは御本尊を勝手に模刻した大罪であり、一つは、板本尊の入仏は猊下にかぎるという法制を越えて、何と自分が猊下になったつもりで入仏式の導師をつとめているということである。
 宗門未曽有の大謗法を、麗々しく文章にし、写真までとって池田氏はわれわれに見せてくれたのである。ウソだと思うなら昭和五十年一月四日付の『聖教新聞』を見て確認するがよかろう。…
『おかしいな』『会長が入仏式だって?』『猊下が前もってされていたのかね?』『ん~、わかんないね』……というような疑問が宗門の人びとの間でささやき合われたが、面と向かって『池田さん、あんたは勝手に入仏式をしたんですか。僧侶を呼ばないとはどういうことですか』などと言える状態ではなかったのである。
 だが、仏法の慢は高ければ高いほどくずれ易い。この昭和五十年あたりからはじまった創価学会独立路線――宗門無視、宗門化儀破壊の信心に、心ある僧侶はクビ覚悟で反対しはじめ、少しずつ正義を主張する僧が出はじめていた。池田氏に忠告する人もあったのであろうか、その年の十月二十三日の学会本部における板本尊入仏式には、宗門の高僧が出席して行われたのである。そして池田氏はこの日を以て法主の許可を得たと発表した。
 しかし、猊下の正式な許可もなく御本尊を模刻したことは、うすうす僧侶たちにバレていた。加えて、板本尊の入仏式は猊下がその法要を営むことが原則である。創価学会本部という地方末寺より大きな場所に安置される場合には、その入仏式は、果たして宗門高僧だけでいいのかということも問題であり、論争の火だねが燃え上がるのは時間の問題であった。

 昭和五十二年(一九七七年)、さらに学会の独立路線が顕著となり、宗門の勇気ある僧侶が創価学会の謗法ひとつひとつに立ち向かいはじめたのである。
 昭和五十二年四月二十七日、名古屋の中部文化会館の落慶式があった。二年前、学会本部にあった紙幅の本尊は、永久に学会本部の重宝として保存されることになったはずなのに、池田氏はこの名古屋文化会館にその重宝本尊を持って行ったのである。
 池田氏は、『私の心境や歴史的意義を含めて、中部の同志にこれから創価学会の真実の歴史を作ってさしあげたい、そういう発露から本部の御本尊をご安置申し上げたことを知っていただきたい』と述べた。
 御本尊を他所に移すことを『遷座式』という。お形木御本尊ならいざ知らず、常住御本尊である。学会重宝たる本尊なら、自分で安置せずに僧を呼んで遷座式をしていただいたらよい。しかし池田氏の僧侶軽視、無視が、いよいよ佳境に達していくのである。
 その半年後の十一月九日、創価学会は突然学会本部に御法主日達上人を迎えて創立四十七周年法要を営んだのである。四十五周年とか五十周年ならわかりもするが、四十六周年にも猊下を呼ばなかった学会がなぜ四十七周年にとってつけたように呼んだのか。
 それは、そのころ全国各地で決起した寺院僧侶が、学会の日蓮正宗にあらざる謗法ひとつひとつをあばきはじめたことと無関係ではなかった。当然、十か月も遅れた上、宗門高僧を呼んで形式だけは整えようとして行なった学会本部の板本尊入仏式に追及の手がのびた。それを猊下を呼んで法要を営むことによってかわそうとしたのである。普通、猊下お出ましの法要は一回か二回である。だがこの四十七周年法要では何と半日に計五回の御経をつとめられた。つまり、五か所の本尊開眼というわけであろう。こうした事後承認によって、学会は本尊問題の難局を切り抜けようとしていたのである。しかし、そんなツジツマ合わせがうまくいくはずもない。池田氏自身の発言によって池田氏はボロを出した。

 昭和五十三年四月十五日は埼玉県創価学会の文化祭であった。池田氏は文化祭に地域の僧侶を招待し、正宗僧侶の懐柔を計っていたのである。ところが僧侶たちは謗法の張本人池田氏に怒り心頭であるから、ご馳走などには目もくれない。ある一人の僧が池田氏に質問した。
『池田会長は本部の本尊を板にしたということですが、どうしてしたのですか』
 それに対する池田会長の答えは、『学会本部の紙幅の御本尊は日差しが直接当たり年月も経っているし、このままではさらにひどくなり、不敬になるので板本尊にした。また入仏法要に高僧に来てもらったが、それだけでは具合いが悪いので法主に来てもらった』というものであった。
 本尊は何度も言うように根本崇拝である。『法重人軽』でどんな偉大な人材であれ、法の存在なくしてあり得ない。故にわれわれは、こと御本尊の尊厳に関しては神経を使うのである。
ところが池田氏の口調は、『ああ、あれかい、あの御本尊はね、日ざしが当たってさ、年月もたっているし、板にしたけれども、それが何か問題なのかい』といったふうだったと質問した大宮の八島住職(当時)は言っている。そうであろう、八体もの御本尊を模刻し、『君達にお守り御本尊をあげよう』などと当宗の化儀を無視して会館等で特別御本尊を在家に渡せる池田氏であるから。
 さらに二か月後の六月二十九日、全国から集まった僧侶の前で日達上人が発言された。
『学会の方で板本尊に直した所があります。それを私は知らなかった。しかし、あとで了解して、こちらも承認したのだから、そういうことを突ついて、ケンカをしないように』
 この発言は池田氏の失態が、あまりにも騒ぎを大きくしたことによるものである。
 また、僧侶の怒りもさることながら、『ニセ本尊を拝まされた』『ニセ本尊を作った』大悪人『池田大作』となれば、信者の怒りが池田学会に向いてしまう。かくして御先師日達上人は助け舟を出されたのであろうが、信仰の根本、正宗の命脈にかかわることだけに猊下の御指南が出ても燃え上がった炎はおさまりそうになかった。
 それを察知した学会側は翌日、『聖教新聞』に『代々の御法主上人の御内証によってお認めの御本尊を受持したことが正しい信心のあり方である』とわけのわからない発表をした。これは池田氏自身が御本尊を模刻し勝手に入仏式をしたけれど、二年後猊下がいらっしゃって入仏式をしてくれたのだから――つまり、法主が認められたのだから、われわれの信仰は正しいのであるというこじつけ、開きなおりなのである。こんな言いのがれが通用するはずがない。全国で決起した檀徒がつぎつぎに各会館の板本尊についての情報を僧侶に入れはじめた。…
 フランスのパリ郊外にある会館の本尊も板であるという話になった。あそこもここも、という人が出てきて、学会側は退くことも逃げることもできない。
 九月三日、学会側は、『今まで本部として謹刻されていただいた数体の板本尊については、学会の宝物として納めて結構です』という御法主上人の御指南であったことを報道した。御本尊模刻は本部本尊の一体のみではなく、数体あることを自ら明らかにした上、御法主上人を楯にして逃げようとしたわけである。
 正法の僧侶にとって、それは前代未聞の大謗法であり、あいた口がふさがらないとはこのことであろう。信者の怒りはさらに激しいものにかわった。
『学会が模刻したニセ本尊は何幅なのか。池田をひきずり出して白状させよ』『七百年宗門史に残る未曽有の天敵、池田を宗門より追放しろ』『池田の悪を断じて許すな』……
 檀徒たちの未曽有の大逆罪を追及する声が八方にあがった。猊下が宝物として納めておけと言っても、学会本部にその模刻本尊を収納しておけばどういう事態になるか予想がつかない。

 ついに本山が助け舟をだした。九月二十八日、大石寺内事部へ八体の板本尊のうち七体が返納され、二十九日に奉安殿に納入されたのである。十月三日の院達二九一五号は、『創価学会においては、これまで彫刻申し上げた板本尊については、すべて総本山に納めることとなり、九月二十八日、七体の板本尊が総本山へ奉納せられ、二十九日奉安殿に納めました』
 そして十月七日(ママ、註、十一月七日の間違い)のいわゆる『お詫び登山』ということになるのである。この日、われわれ僧侶に『全国教師総会』という名の集合がかかった。『全国教師総会』の内容は『池田会長以下、学会幹部が謝るらしい』ということであった。
『お詫び登山』に学会側は『四十八周年記念幹部会』という名称をつけていた。ここまで来て見栄を張らなくてもいいものを、池田大作氏は全国代表幹部を引きつれて猊下と御僧侶に謝りに来たと言えば、われわれもすっきりするし、学会員もその方が後々の問題を起こすことはなかったろう。
 ともかく『幹部会』の二番手として登場した辻副会長が、『不用意にご謹刻申し上げた御本尊については……奉安殿にご奉納申し上げました』と述べた。『不用意にもご謹刻』もないだろう。それは計画的であり、慢ゆえ自分の野望を満たすためではなかったのか。
 最後に池田会長(当時)が立って、『尚、これまで、いろいろ問題について行き過ぎがあり、宗内をお騒がせし、又、その収容にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかった事は、総講頭の立場にある身として、この席で深くお詫びいたします』と猊下の方を向き頭を下げ、われわれ僧の方を向いて頭を下げた。しかし、珍妙なことに詫びる側の学会代表者幹部が大講堂の壇上にあって、詫びられるわれわれ僧侶は一段下がった畳の上に正座したままであった。
 これが引き金となり翌年四月、池田氏は創価学会の会長職を退くことになる。『不用意に謹刻した』とされた八体の板本尊は、①創価学会本部安置本尊、②正本堂記念の本尊、③ヨーロッパ本部安置の本尊、④日昇上人昭和二十六年五月三日の守り本尊、⑤会長室安置の本尊、⑥アメリカ本部の本尊、創価学会文化会館の本尊、関西本部安置の本尊の八体である」(以上、同書P74-P89)



 ちなみに、この『不用意に謹刻した』①創価学会本部安置本尊が、現在、広宣流布大誓堂に安置されている板マンダラである。
 前ページで、反逆者扱いの原島崇の著を引用して紹介したが、彼でさえ、正式な本尊と叫んでいる。
 この経緯を知らない多くの純真な創価学会員は、広宣流布大誓堂の入場券がまわってきたら喜んで有難く参拝しに来るという。
 「知らぬが仏」とは、こういうことを言うのだろうか。
 みんなが嬉しかったら、満足したらそれでいいのか。
 かなり前のページで指摘したが、小口偉一の指摘する論理でいえば、教祖も信者も、ただ単に、「満足」を求めて互いに利用し利用されているだけではないのか。
 「満足」と「幸福」とは別物であることは過去にも拙記事で述べたが、こういう事実を考察したら、宗教とは、全くもって不可思議というほかない。



 続いて、その後の創価学会昭和52年路線の経過を再度まとめて振り返っておく。
 この関連略年表は、下山正行がその著「私は創価学会の「スパイ」だった」(1979/12/15、晩聲社)の中で、『富士』『妙信講一年の歩み』等を参考にして作成したものを基盤にして当方が作成したもので、拙論文ではP49にてその前半を先述したが、以下はその後半部分である。



■ 関連略年表 昭和53年~54年

●昭和53年1月2日 細井日達、第七百遠忌について「池田大作を慶讃委員長に任じ」と訓諭発布(『大日蓮』2月号、『聖教新聞』1月4日)
1月4日 細井日達、本山で池田会長、北条理事長、辻副会長に対し「会長本仏論を本としている。改めなければ本宗の信者と認めない」と発言
1月6日 池田会長、学会教学部師範会議で「『減劫御書』の『智者とは世間の法より外に仏法を行ず』の文について、『行ぜず』が正しいと判明」と発表(『聖教新聞』1月7日)
1月6日 細井日達、全国末寺住職寺族初登山で早瀬総監の「本従の師云云」の発言を「弟子でありながら師匠を卑しみ、信徒にへつらって、唯自分の生活を豊かにしようと考える者が今日の僧侶にあるならば誠に残念。我々の師はどこまでも、大聖人であるということをどうぞ忘れずそれ以外に本従の師だなんてそういう間違った事を言う人があったらば、どうかこれを呵責して…」と述べ、池田大作を師匠とする創価学会の体制を批判(『大日蓮』2月号)
1月8日 池田、東北・信越合同本部長会で再び会長本仏論を釈明(『聖教新聞』1月9日)
1月11日 竹入委員長、公明党第十五回定期大会で「自衛隊の存在は既定の事実として認めなければならない」と発言
1月13日 池田会長、各部代表者会議で「さまざまなことが過去も現在もいわれてきているが、一切学会には不正などはない」と釈明(『聖教新聞』1月14日)
1月15日 『聖教新聞』「宗門と学会、本年初の連絡会議。戒壇の大御本尊の威光に照らされ、一段と僧俗和合の前進」と報道
1月19日 細井日達、本山対面所で僧侶約二百人に対し「遠からず学会と縁を切るから末寺は檀信徒名簿を整備しておけ」と発言
1月28日 池田大作が「広宣流布の拠点をつくることは、宗教本来の姿」と発言
2月9日 細井日達、僧侶の第1回時事懇談会で「戸田会長時代にも、創価学会との摩擦はいろいろあったが、こと教義に関してはなかった。ところが昭和四十七年に正本堂が建立された直後から、創価学会の態度がおかしくなってきた」等と非難。出席僧侶も激しく非難、結局、日達が、学会「五原則」は突き返す、宗務院案は撤回、手を切るか強調する為のアンケート実施の3点を裁断。
宗務院・阿部信雄(後の法主日顕)が信濃町の料亭で、これらを池田に内通し深夜まで対策会議。
2月12日 池田大作は、多額の御供養金(一説では数億円)を持って登山し、細井日達に「学会が誤っているところは改めますから、どうか破門だけはやめてください」と手をついて詫びるふりをする。細井日達は御供養金受取りを拒否。
2月14日 池田大作は再度登山し細井日達へ嘆願。
2月16日 池田大作は聖誕報恩記念勤行会で「いささかたりとも御法主上人猊下の御宸襟を悩ませることがあってはならない」と発言(『聖教新聞』2月17日)。
2月18日 細井日達は全国僧侶代表集会で「池田会長や学会がこんなに謝ってきているのだ。宗門としても、ここはガマンにガマンを重ねて学会を破門せずにやっていこう」と語る
2月22日 細井日達、再度全国僧侶代表集会開き「池田会長が頭を下げたんだから仕方がない、手をつないでやっていこう」と発現
2月24日 大石寺大化城で、学会のしかけた盗聴器が発見される
3月5日 池田大作は『聖教新聞』紙上(3月6日)で「会長本仏論」を再び否定し、弟子に責任を転嫁する。
3月5日 宗務院が、全国の僧侶に学会に対する意見書の提出を求める。
3月14日 細井日達は全国教師指導会で「破門をせず、学会と協調する方向で協議してほしい」と発言。
3月 宗門僧侶間に学会批判の怪文書が乱れ飛ぶ。
3月30日~31日 細井日達は、第十七回妙観会で「学会の幹部が私の写真を足で踏みつけ皆にも勧めた」と憤る。
4月19日 池田大作は、細井日達に中日友好協会副会長趙樸初の伝言を報告(『聖教新聞』4月20日)。
4月19日 細井日達講述の「日興遺誡置文」(二十六箇条)が『聖教新聞』に掲載。依然として「時の貫主たりと雖も」の一条文を〝管長の人事権〟と歪曲。
5月12日 創価学会、全国県長会議で学会版経本の作製中止を発表(『聖教新聞』5月13日)
6月8日 反学会僧侶代表、学会青年部幹部と教義問題について堅持院で会談
6月19日 宗門、全国僧侶の報告に基づき作成の教学上の質問状「創価学会の言論資料について」を学会に送付。回答を求める(『蓮華』7月号)
6月27日 創価学会、宗門の質問状に回答。但し両者とも御遺命の歪曲には触れず
6月29日 宗門、全国教師指導会で学会の回答を披露。細井日達は反学会先鋭僧侶を説得
6月30日 創価学会『聖教新聞』に「教義上の基本問題について」を掲載
7月13日 創価学会の〝お詫び姿勢〟の曖昧さに対し、反学会僧侶が末寺の御講で一斉に学会を厳しく批判。
7月27日 『週刊新潮』が池田大作の「マジック事件」現場写真を公開
7月29~30日 細井日達は法華講連合登山会で、創価学会の折伏と、「信心があれば謗法をしてもよいと考えるのはもってのほか。大聖人からの法体の血脈相承を無視した、信心の血脈の流れにも浴しない者」と創価学会のあり方を厳しく批判(『大日華』9月号)
8月1日 浄信寺住職佐野知道が「創価学会言論資料集」発行。この類書は反学会末寺で頻りに発行。
8月4日 細井日達は行学講習会で「最近はまた、よく新聞や雑誌に出ている解り易い教義を、正宗の真実の教義と思ってそのまま使用して、正宗の教義そのものを忘れてしまう。誠に残念なのであります」と、僧侶が創価学会の教義解釈に順ずる風潮を批判(『大日蓮』11月号)
8月14日 日蓮正宗重役常在住職・本種院日成能化が逝去
8月26日 池田大作は、第八回東海道本部長会で、脱会して檀徒となった者と争わないよう指示する。
8月26~27日 全国檀徒(学会脱退者)総決起大会が大石寺で開催され、六千四百名参加。席上細井日達は脱会者を激励。創価学会の教義解釈を批判する。
8月30日 細井日達は、教師講習会で「折伏しない者は地獄に堕ちるという御書を私は見たことがない。この間、学会からこちらの質問に対する回答があった。あのように質問状をきちんと出した。あれこそ折伏」と発言(『大日蓮』11月号)
9月3日 創価学会、御本尊模刻を認める記事を聖教新聞に発表
9月10日 早瀬義孔、常在寺住職となる(『大日蓮』11月号)
9月11日 創価中学・高等学校教職員組合が、池田大作に公開質問状を提出
9月11日 池田大作と宗務院役僧ら一行が、中国訪問に出発
9月14日 反学会僧侶代表と創価学会本部側が、寿福寺で会談。僧侶側の明確な〝お詫び〟要求に対し、学会側は十一月下旬まで猶予を求む
9月20日 反学会僧侶は、学会の本尊模刻事件を未曽有の大謗法と宣伝(無辺寺檀徒会会報『勇猛』)。
9月23日 池田大作は、本部幹部会で「学会員が五万や六万減ったってどうということはない」と発言。

9月27日 細井日達は、法華講連合会婦人部大会で「私は百万遍唱えたとか、十万遍唱えた徒か自慢する人がおりますが、それは本宗の信心ではない。信心なくして何万遍唱えてもしようがない」と創価学会を批判(『大日蓮』11月号)。
9月28日 創価学会は模刻本尊八体のうち、七体を総本山に納める。
10月3日 細井日達は、創価学会の本尊模刻事件に関して、一切の論議を禁じる旨の院達を発する。
10月15日 花野充道ら、細井日達の意を受け法華講連合会機関紙『慧燈』を発刊。妙信講を批判する。
10月15日 常修寺檀徒会の名で「真実の僧俗一致のために」のパンフレットが発行される。この種の学会批判の文書が全国の反学会寺院より多数刊行される。
11月2日 創価学会代表(山崎、原田、野崎、原島)、反学会僧侶五名(渡辺、佐々木、秋山、坂井、菅野)とが、ホテルニュージャパンで会談。創価学会側は十一月七日の和解内容を提示。
11月2日 反学会僧侶らは東京で集会を開き、学会の十一月七日の〝お詫び登山〟の欺瞞性を警戒し激論。
11月 「日蓮正宗全僧侶に訴う」の怪文書が宗内に出廻る。内容は創価学会の和解姿勢を偽装として全国僧侶に警戒を促すもの。
11月7日 池田大作が、幹部二千人を引き連れお詫び登山。辻副会長「①御本尊を勝手に模刻したが、今後は宗風を重んずる②宗門の法義を尊重したが今後は法主上人の指南にいっさい従う③会長への行き過ぎた表現はしない」等と宗門に詫びる

池田大作は「これまでいろいろな問題について行き過ぎがあり、宗門をお騒がせし、その収拾にあたっても、不本意ながら十分な手を尽くせなかったことは、総講頭の立場にある身として、この席で深くお詫びいたします」等と発言。
細井日達は「信徒が寺院を非難中傷し、圧迫するようなことがあれば、僧侶はまことに悲しい思いをいたして、否応なく反論しなくてはならないのであります。賢明なる幹部の皆様がこの辺をよく理解の上、正しい寺檀関係の確立に努力されるなら、各僧侶も信頼と感謝をもって応えるにやぶさかではない。大聖人以来、七百年間守りつづけてきた伝統の教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならない。これをふまえなかったらば、かりにこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったのかとの後世の批判を受けよう。今日以後、真の僧俗の和合を実現して我が宗門を守って頂きたい」と挨拶(『大日蓮』12月号・号外)。
11月7日 池田大作は〝お詫び登山〟後の県長会で『僧侶の前で私に頭を下げさせたが、私は広宣流布・令法久住・全学会員を思うが故に頭を下げたのだ。必ず五年から十年の間に私が今何をやってきたかわかる時がくる。その時は坊主ども全員に頭を下げさせてみせる」と発言。
細井日達も池田の〝お詫び〟発言後の全国僧侶集会で「一~二年学会を見て、もしまた同じようなことが繰り返されたら、それが最後だ。その時は僧侶が一丸となって学会と立ち向かう」と語る
11月19日 涌化寺檀徒大会開催。反学会僧侶が多数参加
11月24日 細井日達は、富士学林研究科後期講習会閉講式で「……今、学会の方針についていかれない人が檀徒となっておる。その檀徒の方々の面倒をみて、本当の日蓮正宗の信者としていくことが、我々僧侶の役目」と発言(『大日蓮』54年1月号)
11月26日 細井日達は、法華講青年部大会で「本宗において少しも謗法をしたことがない、日興上人の二十六箇条、あるいは日有上人の百二十一箇条の化儀抄に謗法がやかましく誡めておられる」と発言(『大日蓮』54年1月号)
11月30日 『週刊現代』、宗門と創価学会の抗争・和解は金銭問題として「和解の生臭すぎる真実」を報道
12月4日 宗門、『週刊現代』に対し、抗議文送付(『蓮華』54年1月号)
12月6日 反学会僧侶約二百名が大阪源立寺で決起集会。〝お詫び登山は偽装〟として今後の行動を協議する。
12月10日 徳島県・広徳寺、千葉県・仏心時、仙台市・仏眼寺等で一斉に檀徒会集会開き学会攻撃強める。


●昭和54年1月 学会批判の書『蓮華八十七号の正しい読み方資料』を、本山・各末寺で販売
1月1日 『中外日報』は「改めて問う〝現代の僧宝〟論」掲載。創価学会を弁護し正宗僧侶を批判。
1月5日 住職寺族が初登山で「折角学会の指導では正しくないとみてお寺を頼りにして来た檀徒を、いま改めて学会の人が大勢来るから、そんな者追い出してくれと云ったらすぐ追い出して大勢来た方へついて行くと。そういう僧侶があるということは誠に私は情けなく思います」と語る(『大日蓮』2月号)
1月7日 細井日達は、山口法興を妙真寺住職に任命し、東京における反学会活動の活発化を策す。
1月16日 宗門は、『中外日報』に対し抗議文を送付(『蓮華』1月別冊号)
1月20日 細井日達は、学会脱会者・藤野喜久命に法華講寿福寺時支部組織を許可(『大日蓮』3月号)。
1月27~28日 日蓮正宗檀徒第二回大会が大石寺で開催。学会脱会者五千五百名、僧侶二百五十名が参加。細井日達も出席し「僧侶達が学会に対してその誤りを指摘してそしてここに結束して皆様と共に檀徒を作って日蓮正宗の根本の精神を広宣流布する為であるという深い赤誠であることを認めて貰いたいと思うのであります。……今後できるだけ間違った教義だけをどこまでも追及して正宗の七百年来の大聖人の御本意である広宣流布を正しい道において守って貰いたい」と、反学会僧侶と脱会者を賞讃し親学会派僧侶を批判(『大日蓮』2月号)。
3月6日 福島源次郎創価学会副会長が、大牟田市で「墓地問題で御本尊を抵当に入れて借金した僧侶がいたり、カツラかぶって酒を飲みに行ったクソ坊主がいた」「会長本仏論というのは、我々が先生を尊敬するあまりに誤解されたことである。本山においても、池田先生がいれば皆ワッと寄ってくる。しかし猊下が通られても、どこのおじいさんだ、という感覚しかない」と発言して物議をかもす。
3月12日 宗務院庶務部長藤本栄道は、福島発言の件で創価学会へ抗議書提出(『継命』4月28日号)
3月13日 総本山内事部も、福島発言で創価学会へ抗議書提出(同)
3月15日 総本山内事部、再び福島発言への抗議書と質問書を創価学会に送付(同)
3月15日 源立寺住職菅野憲道が、学会へ公開質問状を発する(同)
3月16日 創価中学・高等学校教職員組合が、再び池田大作へ公開質問状を提出。
3月24日 創価学会が本山内事部へ回答。福島発言は逸脱と認め、讃岐本門寺関係については事実無根と釈明(『継命』4月28日号)。
3月31日 法華講連合会が細井日達の意を受け、池田大作に対し総講頭辞任を勧告
3月31日 細井日達は、妙観会で「学会の功績は大きいが教義が間違い、宗門から逸脱してしまえば何にもならない。……(創価学会の逸脱は)昭和三十八、九年のころからもうすでに十六、七年に及ぶ、だから今紛争が起きておるんです。僧侶は腹を決めて教義の間違ったところを指摘していかなければならない」と挨拶(『大日蓮』4月号)。但し妙信講の指摘する御遺命違背には一言も触れず。
4月2日 総本山内事部、創価学会の三月二十四日付回答を不満とし、再回答を求める勧告書を送付。
4月2日 池田大作は、山崎正友に『私は、総講頭と会長をやめようと思う。そのことで、いまのさわぎを、君の手で完全に収束してくれないか』と依頼し、渋々引き受けさせる。
4月3日 総講頭辞任勧告記事を掲載した『大白法』号外大量に出廻る。

4月8日 北条浩創価学会理事長は、福島発言を「信徒にあるまじき不穏当・不謹慎なもの」と、宗門に陳謝の談話発表(『聖教新聞』4月8日)
4月10日 細井日達は、知見寺落慶法要で「本従の師」について「世間では之を間違って一般的に世間の人、或は僧侶にもっていく、これではなくして之は仏である」と、創価学会と法道院のありかたを批判(『大日蓮』6月号)
4月12日 創価学会、菅野憲道に詫び状を書く(『継命』6月1日号)
4月19日 細井日達の喜熟寿祝賀会が開かれる
4月21日 池田大作の会長・総講頭辞任について、創価学会代表と反学会僧侶代表が、都内ホテルで打合せ。
4月22日 池田大作が、会長及び総講頭の辞任を細井日達に申し出る。
4月24日 池田大作は、創価学会会長を辞任し名誉会長になる。後任会長に北条浩が就任
4月24日 創価学会は「創価学会会則」ならびに「宗教法人・創価学会会則」を改訂・公表。
4月25日 早瀬日慈能化が日蓮正宗総監を辞任。
4月26日 池田大作は『聖教新聞』に会員へのメッセージを寄せ「近年、御宗門との関係で皆様方に多大なご心労をおかけし、御法主上人猊下のご宸襟を悩まし申し上げてきたことに対し、過去の経過の一切の責任をとらせていただくものであります」と辞任理由を説明する。
4月26日 池田大作は、法華講総講頭を辞任する。同日名誉総講頭の称号を細井日達より贈られる。

4月28日 宗門は教師代表者会議を開き、細井日達が、池田大作の会長辞任に至るまでの経過を説明。「宗門としても一応解決したものと思う。今後、学会から無理に檀徒として引っ張ってくることはいけない」と反学会活動を抑える。細井日達に対する批判的な質問が反学会僧侶らから続出。
北条会長ら学会首脳幹部、教師代表者会議に出席し、外護と法義の厳正を誓う。創価学会幹部に対し、反学会派僧侶が集中質問し、細井日達が反学会僧侶の発言を抑える。
4月28日 創価学会、既刊の学会版経本の使用を中止し、大石寺版に限ることを決定。
4月28日 日蓮正宗全国檀徒新聞『継命』(責任者・山口法興)創刊。細井日達、祝辞を寄せる。
5月1日 細井日達「①御講等において教義以外の説法は固く禁ずる②学会員に対しては、自発的に檀徒となることを希望する者は受け入れてもよいが、それ以外は一切働きかけを固く禁ずる③今日以後これに違背する者は処分も辞さない」との院達を発す。
5月3日 創価学会は第十四回本部総会を開催。細井日達が出席し「これまでの経緯は水に流して、大同団結して宗門の発展ひいては広宣流布に協力していただきたい」と挨拶(『聖教新聞』5月4日)
5月7日 宗務役員の新人事が発表される。総監・阿部信雄、渉外部長・吉田義誠、庶務部長・藤本栄道、教学部長・大村寿顕、海外部長・菅野慈雲、財務部長・丸岡雄道、それぞれが就任(『大日蓮』6月号)
5月8日 妙真寺で反学会派僧侶が集会を開き、院達等の新事態の対処を協議。管長への憤懣みなぎる
5月13日 「細井管長は速かに猊下を退くべし」の怪文書が、全国末寺に送付される。
5月14日 細井日達は、山崎正友や北条浩ら学会首脳六名を法華講大講頭に任命。
5月14日 初の最高教導会議が総本山で開催。細井日達「最高教導会議は法義の厳正を期すためのものである」と発言(『聖教新聞』6月15日)。但し妙信講の指摘する御遺命歪曲については依然指摘なし
5月 『週刊文春』は妙信講の立場について「国立戒壇は日蓮正宗の悲願でもあった。創価学会は宗門側を説得して、教義そのものから国立戒壇を抜き取ってしまった。……要するに宗門ぐるみで教義歪曲しておきながら、それに異を唱えた妙信講を破門してしまった」との記事を掲載(6月7日号)
5月29日 細井日達は、寺族同心会で『週刊文春』の記事を取り上げ、国立戒壇と妙信講を批判。また日興上人の二十六箇条の「時の貫首……」の一条の解釈について「私はまだ猊座に登る前には、今まで妙信講が云っておるようなふうに解釈しておりました。しかし猊座に登ってみて、いろいろ総合して考えてみると、これは違いがある。これは『時の貫首は何でもできるけれども、己義を構えて間違ったことをした――そのような者を用いてはいけない』これが本当である」と説明。さらに「今の若い人達の中には妙信講の宣伝に染った人もあると聞いております。また『国立戒壇は正しいのであって、宗門が間違ったんだ』というようなことを云ったという人のことも聞いております。(そのような人は)どんどんやめて頂いて妙信講へ行って結構です。妙信講でも僧侶が少ないから今も募集しているでしょう」と発言(『大白法』6月16日号)。
5月30日 細井日達、‶学会員への働きかけの禁止命令は僧侶に対してだけでなく、法華講・檀徒会員にも及ぶ〟旨の院達を発す。
5月31日 細井日達、僧侶ならびに法華講員に対し、五月十三日付怪文書と『週刊文春』の記事について釈明(『大白法』6月16日号)
7月22日 第六十六世細井日達管長御遷化




■ 弟子としての山崎正友について


 言論問題における、共産党の追及(国会や鶴のタブーなど)は、池田大作、北条浩に、情報戦の必要性を煽り立て、これが、山崎正友による宮本宅盗聴事件のきっかけとなった。ガセネタに大金を払うこともあったとの山崎正友による指摘もある。

 組織を有利に導くため、盗聴師団が形成され、これが、妙振興問題、浅井父子との談判、正本堂の意義、細井日達に対する盗聴、宗門問題を有利に乗り切るために山崎正友が力を発揮した。
 正本堂建立に関する、富士宮地元対策など、ダーティな仕事を山崎正友にさせ、正本堂の意義が、供養の時に叫ばれた内容とは一変し、宗門に対しての対立姿勢が強くなった。
 創価大学への寄付も細井日達を総括して出させた。
 正本堂に、美女をはべらせた自身の裸のレリーフ像を置いたとの指摘がある。


 こうした流れの中で、宗門と学会の調整役であった山崎正友が、池田本仏論を改善させようとして動いた。
「ある信者からの手紙」も、彼の創作であったと、後の裁判で認定されている。


 一般に、前言を覆す人は、信用できない。
 状況の変化に自分の都合よく主張を変え、一貫したポリシーがない人は、一時は正しい主張をしても、結局覆されて裏切られることになる確率が高い。
人も物も、状況も、諸行無常・是生滅法である。
 しかし、法は時空を超えて不変である。
 依法不依人ではなく、依人不依法・人物本位・人物や組織に対する信頼を絶対の法としてみなすと、とんでもない結果を被ることになる。
 歴史や世間における修羅道などは、こうしてふつうにみられるものである。

 これは臨床の場においても、よく見られることで、私も随分と痛い目にあった。
 例えば、科学的根拠に基づいてリスクとベネフィットを説明し、最悪の場面や確率も十分に伝え、納得の上で書面をかわして医療行為(検査や手術など)を行っても、期待した結果が得られなかった場合には、家族やまわりのギャラリー、さまざまな策士によって、前言を覆し、聞いてなかったなどとと、最初の判断時に提供しなかった(都合悪くて隠していた、または後からの捏造)内容を根拠に、医療過誤をでっちあげ、トラブルになるケースが多い。
 とくに、患者が手術をうけるか否かの判断を二転三転させ、一部の家族によって説得されて手術に至り、結果が悪かった場合は最悪である。家族も、対立する複数の主張を後から根拠として行ったり、一つにまとまっていた場合でも前言を覆してクレームとなることも少なからずある。
 まさに、依人不依法で危険な手術に加担した結果である。

 「前言を覆す人が信用できない」事については、なにも、一宗教団体に限らない。
 池田大作も自語相違は少なからずあり、それに当初10年間忠実に仕えた山崎正友も、「池田大作」コピーとなって、信頼しつつも互いに腹のさぐり合い、虚々実々の間柄となっていったのであろう。

 山崎正友も、宗教的信念や良心を持ちながらも、依人不依法にどっぷりとつかってしまい、汚れた末路となったと考えられる。
 自分自身が池田大作や創価学会のために尽くした様々な策謀・犯罪で成功を収めた反面、同様の策謀や手口によって、池田大作や創価学会によって陥れられることになった。池田大作の仇討チズム・裏切リズムが、そっくりそのまま、弟子の山崎正友に伝承され、その後の修羅道を演じることになった歴史は、まさに仏法で説く因果応報以外に表現しようがない。
 ただ、山崎正友にとって、唯一の救いなのは、池田大作と異なって、過去の創価学会での悪事をすべて懺悔し告発している点である。
彼は、人格を侵されながらも自身の良心(仏界)を取り戻し、アニミズムではあるが自ら日蓮の信心の血脈に目覚めることがあったに違いない。
 恐喝罪に陥れられて懲役3年の服役中も獄中で無実を訴え、出獄後も、受け継いだ池田大作の仇討チズム・裏切リズム、そして創価学会で培った様々な改竄・謀略などの手口を使って、真実の暴露=自ら行った捏造・謀略や犯罪を懺悔・暴露し、謀略・捏造を続ける創価学会・池田大作への仇討ちに人生を使うことになるのである。
 その、良心に目覚めたきっかけは、彼の顧問弁護士としての立場からいやいやながら池田や学会を守る仕事として引き受けたと主張する会社「シーホース」の破綻について、池田大作や創価学会から切り捨てられ、陥れられたことを悟るに至った昭和55年のことであった。その思いを、彼は、自著「盗聴教団」で述べている。
 その後、さまざまな策謀をうけ、結局、集団偽装や権力によって、かつて自らが行った策謀、たとえば警察を動かせて隈部大蔵を逮捕させたことなどと同様な策謀を受け、恐喝罪で逮捕・起訴され、懲役三年に服役となったのである。


 真実の叫びほど、快く、充実した価値のある実感を、山崎は述べている。
 悪魔に魂を売り続けている、良心の呵責に絶える地獄から、彼は抜け出した。
 獄中は、現実世界での地獄を創り出したものであると、彼の著作である獄中記にて述べているが、彼のなかでは、良心の呵責に耐え忍ぶ地獄から抜け出した快感の方がはるかに勝っていたのだろう。
 池田大作は、その後も策謀・捏造・隠蔽のかぎりを尽くしたが、結局それを懺悔・総括することもなく、真実を訴えることもなく、それをする機会も奪われたまま、公から姿を消している。

 師匠の池田大作と弟子の山崎正友、一体どちらが幸福なのだろうか。
 拙記事にも書いたが、「満足」と「幸福」とは別物である。
 私は、永遠の因果を説く仏法の視点からは、真実を述べ、ウソを懺悔した山崎正友の方に軍配をあげたい。


■ 前言を覆す池田大作


 池田大作が前言をいかに多く覆してきたか。

 会長辞任後も、前言は覆され続ける。


 一例をあげれば、池田大作著「広布と人生を語る〔3〕」1982/11/18、聖教新聞社、P294には、
「いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。
 広宣流布そして正法正信の直系を離れ、我見の教学を論じ、背信の一群をリードしたとしても、それは異説邪道である。そのようなごまかしの教学に、絶対にたぶらかされてはならない。また、摧尊入卑もけっしてあってはならない」
とあり、自らの誤りを訂正しているように見えるが、この次のページには、
「大聖人の仏法を学するものは『未だ得ざるを為れ得たりと謂い』という〝増上慢〟に断じてなってはならない。また汲めども汲めどもつきぬ大法門を、月々年々に求めゆく謙虚な姿勢がなくてはならない。
多少、教学の理解があり、かつまた講義が巧みであるからといって、それがただ自身の名誉や慢心であったり、エゴのアクセサリーであったりしては、けっしてならない。そのような轍を踏む者を、私たちは二度と出してはならない」(同、P295)
と、あるではないか。
『未だ得ざるを為れ得たりと謂い』、「名誉」や「エゴのアクセサリー」を今もなお集めまくっているのは一体どなたなのか。
自らが言いながら「そのような轍を踏」んでいることを、未来永劫気づかないのであろうか。

「汲めども汲めどもつきぬ大法門を、月々年々に求めゆく」とは、ドグマの盲目的追従ではない。
批判拒否の体質を廃し、月々年々に科学的客観的にアップデートし求めゆく、証拠や事実・真実の法則に対して謙虚な姿勢がなくてはならない。
 しかしながら、この時点でもなお、そうでなかったから、やがて、阿部日顕との争いが生じて、創価学会は破門されるのである。


 池田大作の自語相違についての指摘は多く、拙論文でもこれまでしばしば先述したが、破門後にその多くを覆した部分を、追加としてコメント欄にいくらか挙げておく。

 

  P56へ、続きます。
 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」

P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)

P52, 時事懇談会資料の検討、謝罪演出と約束破棄、揺らぐ細井日達(2)

P53, 池田本仏論のおさらい、醸成されていた〝人〟の無謬化・絶対化

P54, 創価学会52年路線(池田vs日達)その後, 山崎正友と阿部信雄、ジャーナリズムの見解
P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友