●64 御本仏「池田大作」誕生、捏造神話を安易に採用した学者やジャーナリスト達 | ラケットちゃんのつぶやき

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●64 御本仏「池田大作」誕生、捏造神話を安易に採用した御用学者やジャーナリスト達

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P64, 御本仏「池田大作」誕生、捏造神話を安易に採用した御用学者やジャーナリスト達
です。
 P63に目次(一部リンク付き)を掲載しております。
 なお、以下は、過去の拙記事「私の池田大作観(1)ページ4」を一部改訂・アップデートして再掲載したものです。


■問題となっている出会いの座談会

 話が前後したが、小説人間革命での池田大作と戸田城聖との出会いの座談会ついて、その場に居合わせた竜年光が、自著「池田創価学会を解散させよ」1991/8/1日新報道、P63-64で、以下の如く記載している。
「池田大作が現われたのは、三宅さんの家で先生(註、戸田城聖)が『立正安国論』の講義をされていた時であった…中略…
 そういう厳粛な中に『こんばんは』と入って来たのが池田大作だった。三宅さんの次女が池田と小学校の同級生で、戸田先生に合わせようと連れて来たのだ。池田は、末席にいた私の前の、玄関の脇に坐った。
 やがて講義が終わり、戸田先生が、『何か聞きたいことがあれば……』と仰ると、池田がスッと立ち上がって、『天皇制はどうするんですか』とボソッと尋ねた。
 当時、マッカーサー占領下で、天皇制が盛んに議論されていたので、先生は懇切丁寧に説明をされると、池田は再びピョコンと立ち上がり、胸から紙を取り出して、何やらボソボソ読み出した。誰も何をいっているのかわからない。そして『失礼します』といって、スッと帰ってしまった。
 私は呆気にとられて、なんだ、ずいぶん失礼な奴だ、と思ったものだ。
 池田の著書『人間革命』では、この場面は見事に美化されている。池田は戸田先生と丁々発止のやりとりをしたのち、感動の余り朗々と詞を朗読したことになっている。
 後日、この日の座談会の責任者であった辻武寿に『人間革命』の池田登場の美化された一節について聞いてみたが、『俺は全然知らないな!』と首を振っていただけだった。池田の存在すら記憶にないというのである。私だけが、池田の前に坐っていたので、異常な行動が強く印象に残っていたのだ。
 また、同級生の女に連れてこられたというのではいかにも具合が悪いと思ったのか、もう一人、男の同級生を登場させて、その二人に連れてこられたことになっている。池田の創価学会活動歴は、初端からして、このように大変な粉飾が施されている。」


 また、後述するが、居合わせた三宅妙子や竜年光はこれを粉飾と暴露し、また、藤原行正も自著でそれを暴露している。

「「小説人間革命の入信決意の描写は、事実とは異なります。座談会で詩を諳んじたというのも、全くのフィクションそのものです。私は生き証人です。」(「サヨナラ私の池田大作―女たちの決別 」大作さんからのラブレター P40 三宅妙子)




■池田大作入信神話の完成への過程

 再びまとめてみよう。
 以下がこれまでに指摘したところの、歴史の必然のような創価三代の師弟の出合いを加えた、いわゆる池田大作入信神話の完成への過程である。

 八月十四日の初めての座談会以降、池田大作の言葉は、先述した小口偉一編「宗教と信仰の心理学」P57-59での生発言(テープに録音されている)によると、
「南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまった」
八月二十四日御受戒の後
「家に帰っても(御本尊を)三日間おがまずに ほっておきました。
「…必然的に弾圧される。その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」…
「一年間、もんもんと悩んできたのです。」
「私もはじめの動機を見れば、みっともない状態」…

 この生発言が、小説「人間革命」第二巻(建前上は小説)を経て、歴史上の年齢も含め、次のように都合よく変わる。


 はじめてお目にかかった八月十四日は「戸田先生との邂逅は決定的な瞬間」(池田大作著「私の履歴書」P77)
「それは、私がいつかこの人(戸田)のあとを継ぐだろう、継がなければいけない、私はそのために生まれてきたんだ――という強烈な直感…中略…
 私がそう直感した瞬間、戸田先生のほうでも、〝このやせこけた若者がいつかオレのあとを継ぐだろう。いまオレはついに後継者とめぐりあった〟――と、ひと目で直感された…中略…私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださったわけです…中略…池田は、前後も考えず、その場で戸田に弟子入りを申し出た。」(五島勉著「現代の英雄」P38 池田大作の生発言)

 「はじめて会って三十分もたたないうちですが…私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださった…」
「戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をしたのである」(池田大作著「私の履歴書」P78)
「それからの日々、私は戸田先生との運命的な出会いを深化させながら、生涯、人間革命を断行し、宗教革命、社会革命に自分を捧げつくせるか否かの自己検討をしていた。」(池田大作著「私の履歴書」P80-81)
となって、この捏造が永遠に創価学会の正史となって残っていくことになる。
「――その時、戸田城聖は十九歳で、牧口常三郎は四十八歳であった。
 いま、戸田は、その四十八歳になっている。そして、今夜の山本伸一は、十九歳だといった」(小説「人間革命」第二巻、P253)

 この捏造・脚色は一目瞭然だ。
 何度も先述したが、現実は戸田に質問したあとボソッと失礼しただけで、「「南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対」「一年間、もんもんと悩んできた」「みっともない状態」「寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考え」…これらが、はじめてお目にかかった八月十四日は「戸田先生との邂逅は決定的な瞬間」だったことが、「はじめて会って三十分もたたないうちですが…私の直感と決心を、そのとき、先生も完全に知ってくださった…」
「戸田先生の話を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をした」…(以下省略)」は、なんという脚色なのだろう。




 ところで、池田大作が聖教新聞等で、後からの意味付けや不都合な歴史の改竄等が始まったのは、どうやら戸田城聖没後~第三代会長就任前後からではないかと私は考えている。
 つまり、これ以後は、機関誌である聖教新聞や学会関係企業がらみの出版は、信憑性が格段に落ちることになる。
 戸田城聖は、亡くなる前までも、後から考えて不都合なことでもあけすけに公にしていた。
 しかし師弟継承の話につながっている戸田城聖の生前の言葉は、ほとんどその後になって池田大作だけから始めて発言されていて、他の側近からは聞かれない。(これも後に検討したい)

 そのなかで、池田大作の指揮下、創価学会は、破竹の如き発展を遂げ、その5年後には600万世帯へと拡大した。
 後述するが、やがて評論家、高瀬広居の前で、池田大作は、
『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』と豪語する。
そして高瀬広居はこれを後述のように採用・掲載する。

 むろん、これとよく似た言葉が、日蓮の遺文にもあった…

 たとえば日蓮は、開目抄(大石寺では第26世日寛以降で人本尊開顕の重書としている)で、
「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべ からず」(日蓮大聖人御書全集P232)
(われは日本の柱となろう、われは日本の眼目となろう、われは日本の大船となろう、等(主師親の三徳をもって末法の一切衆生を救済しよう)との誓いは絶対に破ることができないのである。
とあり、その5ぺージ後にも
「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(日蓮は日本国の諸人の主、師、父母(親)である)
 また、他にも、
「日蓮は日本国の人の為には賢父なり聖親なり導師なり」(同書P140)
「日蓮は天上・天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり」(同書P879)
等とある。

 当時の「貧・病・争」に苦悩する創価学会員にとって池田大作は、まさに人生の師であり、お父さんであり、一家の主人よりも大切な「主」であった。
 だから、創価学会員の中には、この確信に満ちた発言を伝え聞いて、池田大作が主・師・親の三徳を備えた仏、日蓮の再誕と思いこんだ人が大勢いただろう。
「貧・病・争」は、仏法でいうところの「穀貴・疫病・兵革」に相当する。
 三災七難に苦悩する末法の時代ならではであろう。
 こうして、次第に実質的な池田本仏論へと発展していく。




■捏造神話にのせられた評論家たち。はじめに高瀬広居著

 これ以後の文献をたどってみよう。
 捏造された師弟の出会いと入信神話を真実と思いこんで評価した(させられた)ジャーナリストたちの文献がこの時期以降、多々著わされているが、古いものをいくつか紹介する。
 

 1965年10月出版、後に創価学会をよく評価し報道した高瀬広居は自著「人間革命をめざす 池田大作―その思想と生き方―」の中、P149—P156の「戸田城聖との出会い」においては、小説人間革命第二巻における師弟の出会いに迫る創作が見られる。
「『さあ、おはいんなさい』
 連れの男は、大作少年を小さな家の玄関に押し入れた…中略…
 大作少年には、話(註、戸田城聖の話)の内容がよく解からなかった。十九歳の今日まで、さまざまな文学書や哲学書を読み漁ってきたが…中略…
――いつの間にか、その宗教家の視線が、自分に注がれているのに気づいた。
 かれは、はにかんだ。一瞬燃えるように熱いはじらいがこみあげてきた。かれには経験のないことだった。その人は……かわらぬ口調で話つづけている。
 少年はぐるぐると体内をかけ回っていく得体の知れない光線が、刻々と肉体に泌しこむ
のを感じた。焦燥にかられた精神が少しずつ落着きをもどしてくる。
 もしかしたら……とかれは想った。
 なぜだかわからない。邂逅と啓示というものは単一の純な精神がとらえる直観的なものなのであろう。
 私は、この人を探していたのだろうか……。人間の生成に転機が訪れるのは、つねに瞬間的だ。無限の不安が徐々にうすらぎ、自分では量ることのできない微妙な力が生まれてくる。あらゆる物事の正体を疑いもなく凝視してみよ。どのように強烈無惨であっても……。
 その人の眼は語りかけている。
 少年の絶望は回心の気根であったのだ。
 この人と歩んでいけば救われる、……自分だけではない、母も兄も多くの日本人も救えるかも知れない……。しかし、信仰はいやだ。信仰などというものは、卑怯な人間の選ぶ逃避だ。
 やがて、話が終った。蒼味をおびた顔の宗教家が大作少年を招いた。
 戸田城聖と池田大作の永遠の邂逅の瞬間だった。
『君の、これからの長い人生には、どんな宿命が待ち構えているか知れない。いつどのようになるかわからない。君は一生を悠々と生きていく信念があるかね』
 人を食った話だ。他人の人生にこんな物のいい方で話しかけてくるのはよほどの自信家かか狂信家かだ。かれの理解している宗教者とは、もっと静的で柔和で観照的なものだった。少年は記憶にたたみこんであるあらゆる思想をぶちまけ戸田にくってかかった。西欧の哲人の名が、革命家の言葉が、宗教家の証言が、かれの口をついて出た。
 戸田は黙ってじいっと池田をみていた。
 かれは、ポケットから紙を出した。そして一つ一つ、戸田会長に問いただした。
 コミュニズムのこと、天皇制のこと、革命のこと、これからの日本のこと……。戸田は答えた。列席の人々は二人のはげしいやりとりに息をのんでいた。
 病み衰え、頬の肉のゲッソリとおちた少年とたんたんたる瓢々たる酒徒戸田城聖との対話は、やがてはじまる二人の師と弟子との長い美しい愛の実りゆく瞬間瞬間であったようだ。
『言葉を交した、その一瞬、わたしは、この人のあとをついでいくだろうという予感がひらめいた』
 と池田会長は述懐しているが、戸田城聖もまた同じだったという。
 生涯をともにする弟子を見出した喜びを抑えながら、戸田はなおもいいきった。
『ウソか、本当か、日蓮大聖人の仏法を学び実践してみなさい。いっさいの人生航路、生命航路はきびしい。それを打開していく根本であるが故に、大聖人の仏法を勉強してごらん。実践してみてごらん。もし、ウソだったなら、戸田の首をあげよう。いつでもやめたまえ、一銭も払うわけではないし、君のためであって、なんら学会のためではないんだからね。』
 それでも、池田少年は首をたてにふらなかった。
 すでに心の底では、先生と呼びたい気持に駆られているのに、それがいえない。
 戸田は声をはげました。
『死に直面したとき、ゆうゆうと死んでいけるか!』
 かれはうなだれた。人々は見守った。戸田会長は目をとじた。
 池田大作の心は開いた。――入信。
 先輩は、かれのそばに寄ってきていった。
『池田君、君はみどころがあるよ。妙法は絶対に間違いない。しっかりがんばって、戸田先生のりっぱな弟子となりなさいよ』
 暗い焼けあとを、かれはさまざまの想いにかられながら歩いていった。ただ、それほどの仏法の奥義を自分はつかむことができるだろうかという不安、あの戸田城聖という強烈な個性のもとで、生涯を共にしていくことが果して可能だろうかという自身のなさ、それに苦しんでいた。完全主義でラジカルなかれの性情は、物事を途中で放棄し挫折することを許さない。
 もし、崩れたらそのときは死を選ぶほかはない。選択は賭けであり、宗教的回心は生と死の選択でもあるのだ。

 それからの一年間は、池田大作にとって、師を識り、信仰の絶対性を身証する闘いであった…(以下略)」


■五島勉著「池田大作という人」

 その後、五島勉氏は1971年の自著「池田大作という人」P114-115で、更に師弟の運命の出会いを記している。
「こうして、あらゆる思想に絶望。
 仕方なく、さいごは詩を読んだ。リルケや北村透谷の作品がかすかななぐさめになった。できるかどうかわからないけど、自分もこんなきれいな悲しい詩を一篇でも書いて、それから死のうかな、と、池田青年はぼんやり考えこんだりした。
『新しい哲学を教えてくれる思想家がいるようだ。いっしょに話をききにいかないか』
 いつも本を貸してくれる友だちが、そういってかれをさそってくれたのは、ちょうどそんなときだった。
 池田青年は、たいした期待ももたず、あいかわらず血タンに苦しめられながら、ききにいった。
だが戸田さんとめぐりあい、その話をきいてみたら、それはただの新しい哲学なんてもんじゃなかった。それはシャカが考えぬき、日蓮が確立した、深い大きな最高の仏法だった。
〝生命のよろこびをめざして生ききれ。みんなの幸福と平和のためにたたかえ。それによって、そのひと自身の生命と幸福も必ずよみがえる〟。
 池田青年が必死にもとめていた、どう生きるべきかの答えは、この哲学のなかにあざやかに示されていた。
 うれしかったろうと思う。池田青年をみたとたん、(ついにめぐりあったぞ!)と戸田さんは直感したけど、池田青年も(これだ! この人だ!)って思った。でも、かれは慎重派だったから、いったん家にかえって、十日間、昼も夜も考えつづけた。いろいろ批判も考えた。
 だが、考えれば考えるほど、(これはまちがいない。これはほんものだ。よし! あのひとのもとでたたかおう、仏法のために!)という決心が、日ごとに強まるばかりだった。
 それで、戸田さんとめぐりあってから十日目、かれは創価学会にはいった」



■室伏高室著「池田大作」

 室伏高室著「池田大作」P243-にも、当時の池田大作の姿が評価されている。
「池田青年が病弱で、その家もそれほど豊かでなかったのは、前に書いている。たいていの青年は、ここで躓き、仆れ、世を呪い、人生に絶望する。ここに危険がある。池田はこの危険に打ち克った。病弱にくじけなかっただけでなく、それ以上に最高の人生観を求めて信仰している。
 逆境がかえって一つの転機である。池田はこの機会をしっかり掴んだ。そこに人は新たに生まれる。ヴィダ・ノヴァである。カイザーリングはこういってもいる『逆境に意味をあたえるのが天才である』


 「そこで戸田城聖のことにかえるが、戸田にはいろいろの裏もあったろう。それを知りながら池田は、これを師と仰ぎ、これに仕え、いまもなお仕えている。わたしはここに池田の純潔さも見るが、戸田の信仰の強烈さも、見落としてはならないと思っている。ありていにいうと、池田の『人間革命』を読んで、信仰の人が、どんなに強く、またどんなに強烈なものだかに心を打たれるのである」(前掲書P272)

「いまの大衆は、むかしの庶民とは、まったく裏腹でその生活も、知識も精神も、ビヘイビョも、目的も、何も彼もちがっている。そこから立ち上がるのが、リーダーであり、エリートであり、スターであり、エースである。
 池田はよくこれを知っている。ただ知っているだけでなく、その中に生き、生きぬき、把握し、それも身をもって把握する。そしてこれに呼びかけ、目標をあたえ、これを指導し、組織する。
 こういう人がもとめられている。創価学会がこういう人物をもとめているだけではなく、時代がもとめ、日本がもとめている。池田はこれを創価学会の中で実現した。
 ここに彼の事業もあり、事業の性質もある。池田と創価学会とは一つである。池田が創価学会をつくったといってもよく、創価学会が池田をつくったといってもよい。これは二つにして不二であり、一如である。
 池田はよくこれを知っていようし、学会の六百二十万世帯もよくこれを知っていよう。心と心と通ずる。指導するものが指導され、指導されるものが指導する。これが大衆社会における指導の、真の意味である。これを実践し、実現しているのが池田大作である。」(前掲書P277)

 彼のこの指摘は今となっては極めて的はずれで、それらの指摘は一次的な現象であったことになる。
 依正不二・諸行無常の原理がそのままあらわされている。

 こうした中で、聖教新聞に連載されていた小説人間革命第2巻が出版され、永遠にわたる「正史」としての、創価三代目の「師弟の出会い」という捏造物語が確立されたのである。


 それ以後の創価学会関連の書物の内容は、推して図るべしである。
 さらには、池田大作を語る様々なジャーナリストの論述にも、悲しいかな、このウソと捏造が大きく影響を及ぼしている。私が検討した創価学会をもち上げた文献のほとんどすべて、古くは央忠邦著「池田大作論」から、最近では田原総一朗著「創価学会」まで、先述の捏造・脚色をすべて(程度の差はあれ)ベースとした内容となっているのであるから、個人の科学的良心に照らしてみれば罪なものであろうという感じを受ける。これらの多くのジャーナリストはこの点について訂正・謝罪などの記事を出版していないのではないか。



■「革命の大河―創価学会四十五年史」

 1975年の「革命の大河―創価学会四十五年史」上藤和之・大野靖之編では、P86-90で池田大作の入信について紹介されている。
8月14日の座談会で、戸田城聖との出会いがあったとし、「池田はこのとき『何と、話の早い人であろう。しかも、少しの迷いもない。この人の指導ならば自分は信じられそうだ』と、直感したと、後に『人間革命』で述べている」とあり、既にこの時点で、小説人間革命が確立された「正史」として引用されていることが分かる。
 さらには、池田を誘った三宅淑子など関係者も実名で以下の如く記されているが、自らの創作を自らの創価学会史で引用していることが、なんとも白々しい。
「戸田城聖に対する謝意の意を即興詩に託して吟詠した『旅びとよ…(中略)…われ 地より湧き出でんとするか』で終わる。この最後の一節が、地涌の菩薩の義について全く知らないはずの池田の口から出たとき、戸田は微笑したと伝えられる。
当時、座談会で詞を吟詠する青年など皆無だったので、居合わせた三宅たち友人や原島夫妻、竜年光などは、なんと変わった青年かと声もなくあっけにとられていた。しかし、戸田と池田の、この宿命的な出会いは、創価学会にとって、いや、世界の歴史において決定的な意味をもつのだが、当時だれ一人としてそれを予想した人はなかった。
 戸田城聖が恩師牧口常三郎に会ったのが十九歳のころ、そしてこの池田大作が戸田に会ったのも、同じく十九歳のときだったのである」


 これなどは、もうすっかり定着した感がある。


■前原政之著「池田大作 行動と軌跡」

 それから今世紀に入って、前原政之著「池田大作 行動と軌跡」では、「生涯の師との出会い」(同書P51-)のところで、前章で私が取り上げた三つの資料も、巧みに取り上げられているが、その後に出て来た脚色も同時につけられていて、両者の折衷案を思い浮かばせる。

「昭和二十二年八月十四日の夜、十九歳の池田は、小学校時代からの友人に誘われ、自宅近くの糀谷で開かれた創価学会の座談会に出席した。…
この日も、当時の最高幹部だった原島宏治、小泉隆、辻武寿、吉田顕之助、小平芳平、森田一也らが参加していた。…
戸田先生にいろいろ質問したのです。ほんとうの人生観とはどういうものか、ほんとうの愛国心とはなにか、神道に対してはどう見るのか、生命の本質はなにか、などいろいろ聞きました。それに対して戸田先生は、なんのためらいもなく、気どりもなく、思ったままを話してくれました。(『文芸春秋』昭和四十三年二月号)…
 池田の矢継ぎ早の質問に、次々と答えていく戸田を見ながら、『なんと話の早い人であろう。しかも少しの迷いもない。この人の指導なら自分は信じられそうだ』と思った。『戸田先生は、これから生きていく上において、天皇制や労働組合を論じるよりも、まず自分はどういうものか、そこから出発したほうがいいんじゃないか。もし、そうしたいなら、おれについてこい。体当たりしてこい。なんでも言え。なんでも聞く。嫌だったらやめていっていい』と叱咤された』(『中央公論』平成七年四月号)…
森田は、初めて見た池田の印象をこう語る。
『なんか妙な青年が入ってきて、戸田先生に質問をはじめたうえ、『自作の詩です』と詩を朗読した。みんな、唖然としてました』…
この出会いから十日後の八月二十四日、池田は創価学会に入会する。池田に入会を決意させたのは、座談会で触れた戸田の人柄そのものであった。
『なんともいえない、戸田先生の吸引力というか、それに引き入れられた、といったほうが正確でしょう』…
『二年間の獄中生活に耐え、軍国主義思想と戦った人物には、信念に生きる人間の崇高さと輝きがある。極論すれば、当時の私にとっては『戦争に反対して獄に入ったか否か』ということが、その人間を信用するかしないかを判断する大きな尺度になっていた』(『私の履歴書』)
 戸田と出会った池田が、ではすんなり信仰の道に入ったかというと、そうではないようだ。座談会の夜から入会までの十日間の間に、池田は他の幹部からも重ねて仏法の話を聞かされた。あるときは、創価学会本部へ赴き、延々五時間にわたって幹部と議論をした。
『初めて聞く仏法の話だから、私には理論をうけとめる素地がないわけです。なのに相手は確信をもって話してくるから、私のほうは観念的な話ばかりで浮いていました。』
 池田にとって戸田との出会いは強烈だったものの、それがただちに宗教に入ることとは結びつかなかった。『宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかったし、むしろ『やります』と返事はさいたものの、若いのに題目なんてイヤだ、と三日間眠られませんでした』という。
 入会後二日間はまったく題目もあげなかった。
『三日目に、ものすごい雷が私の上でゴロゴロ鳴ったんです。こわくて、思わず南無妙法蓮華経と言っていました。』
 だが、池田はその後もなお迷いつづける。
『宗教に入るなんてことは考えていなかったから、相当長い期間にわたって心の中に抵抗があった』(文芸春秋』昭和四十三年二月号)
 その最大の理由も、また、戸田の姿にあった。
『戸田先生の姿をみて、この宗教には迫害があるかもしれないと恐れたんです。もし難があって退転するようなら、始めから信心をやめよう、信仰しきっていけるなら一生涯、信心していこうと、一年間、もんもんと悩んできた。この道に入っていくと、大変なことになる。病弱の自分にやりとおせるだろうか、ほんとうは自信がなかったんです。』
 子之吉(父親)からも猛反対された。…
 また、創価学会の組織の体質に対する反発もあった。当時の創価学会は『折伏』という布教の一点に純化された戦闘的な集団だった。…『信ずることにせっかちな一般会員の強引さや、情熱にまかせて壮士気取りの青年たちの言動に、ひそかに強い反撥を抱いたこともある』という。
『『折伏をしろ』っていうから、私は自分の友だちを十人ぐらい呼んだのです。信心してから間もなくのことです。しかしだれも信心しない。一生懸命やっても、みな友だちが離れてしまう。私ひとりぼっちになって、これはえらいことを始めてしまったと思った。だから、勤めに行く時も、座談会があった家の前を通るのがいやだから、ずっと遠まわりして、帰りも遠まわりしていた。別にだれも見ていないのだが、はじめはそんなもんです』
 会合に行くことがいやでたまらず、座談会に行かずに映画を観てしまった日もあるという。池田の逡巡は続いていた。…」
「昭和二十三年、入会から一年がすぎた秋、池田は戸田から、戸田が経営する出版社『日本正学館』で働いてみないかと打診された。人を介しての話だったが、池田は即座に『お願いします』と答えた。
 このことが、池田が創価学会に生きようと決めるきっかけとなった。
『ほんとうに生涯を、仏法の探求と宣揚に捧げて悔いない決意を固めたのは、入会して一年後、戸田先生の経営されていた会社で働かないかと誘われたときでした。』
 心の底に残っていた迷いを消せずにいたとき『どうしても来てくれないか』との戸田の誘いに、いわば背中を押される形で、池田は決定的な一歩を踏み出した。
 そして、この年の年末には、当時勤めていた蒲田工業会を退社、翌年から日本正学館で編集の仕事に携わることになる…」


 かなり後になっての森田副会長の新たな証言が入ったりして信憑性の乏しいが、前述した小口偉一氏の生発言の内容が見逃されていないことについては評価に値する。



■溝口敦の指摘する矛盾の正体

 これについては溝口敦が明確に以下の如く明確に指摘している。
 「が、それでも戸田の講話、人格にうたれたにもかかわらず、五時間も締め上げられ、理論に負けてシャクにさわるという矛盾はまるで解消されない。
 池田が戸田の講話に感動したというのは明らかに捏造である。だが、さらに注目されるべきことは、池田がこれらの嘘を年齢の一致という嘘の伏線、下ごしらえとした点にある。すなわち、池田は、出会い時の池田19歳、戸田48歳という年齢を会長就任という自らの跡目相続の正統性の論拠とした」(池田大作「権力者の構造」P68)



■須田晴夫著「日興門流と創価学会」

 最近の、学術級レベルの著書「日興門流と創価学会」2018年,須田晴夫著)でも、
戸田城聖との出会いについて、(P302下段-303上段)
「同年八月十四日、池田は小学校時代の同級生に誘われ、大田区蒲田で開催されていた創価学会の座談会に出席。その場で戸田城聖と初めて出会った。戸田はその座談会で『立正安国論』の講義をしていたが、講義終了後、池田は戸田に三点の質問をした。その質問とは『正しい人生とは』『本当の愛国者とは』『天皇をどう考えるか』という三点であった。終戦によって、それまで教え込まれてきた天皇絶対の価値観が社会的にも崩壊し、青年たちは自身を支えるべき思想を模索していた。この質問にも池田がこの当時、確かな人生観を真剣に求めていたことがうかがわれる。
 池田は、戸田がこれらの質問に誠実に答えてくれたことに感銘を受け、さらに戸田が戦時中に投獄されながらも自身の信念を貫いてきたことに感動した。池田は、この時の感銘によって日蓮仏法に入信することを決意し、八月二十四日に御受戒を受け、創価学会の会員となった。」
とある。


 残念ながら、彼ほどの研究者・学者においても、過去の文献(小口偉一など)を確認しないで捏造された事実・内容を取り入れていることになる。
 これは、彼の立場や信仰心などが、純粋な科学的学問的良心を曲げた結果とはいえまいか。


 以下にもあげるが、1965年の小口偉一編インタビューによれば「戸田が戦時中に投獄されながらも自身の「反戦という信念」を貫いてきたこと」はありえない。



■ 昭和の御本仏「池田大作」の誕生
――「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」――

 そして、このような中、高瀬広居の自著「人間革命をめざす 池田大作―その思想と生き方―」のP76-78においては、その時代の背景とともに創価学会の発展模様が絶賛されているのである。

「池田会長はかつて一度も、世俗的権威者に近づくことで、価値を高めようとしたことはない。むしろ、唯一の正法を知らざる権力者に憐憫をもっていたのだった。
 そして、池田会長自身もいうように、かれのこの立場は、仏法上―法華経と日蓮上人の『御書』―によって裏づけられているというのだ。
 かれは公明党結成の直前、教学部長との対談で『報恩抄』のうちにある『国主は但一人なり。二人ともなれば国土穏やかならず。家に二の主あれば其家必ず破る』という一句の意味を解して、
『一人になると独裁政治となるのですね。根性まがりは』と笑いながら、
『ぜんぜん、そういう意味とは違います。あくまでも、一人を中心として、みんなで合議すればいいのだということだす。一家も、お父さんを中心にして、それで皆がいろいろ協議しあって一家を守っていく。それを拡大して国家にすればよいのです』
 これは、家庭のように国家をみていこうという家庭国家観とは違う。中心となる『一人』とは『正法によって福運を積んだ人が、王にならなくてはならない。すなわち政治家にならなくてはならない』ということなのである。もちろん、かつてはそれが天皇だった。
 思い出そう。『一応は天皇、再往には時の最高権力者』それは『法華論の総講頭』『創価学会の会長』が不開門を開くというかれの言葉を。
 法華経―『諸経の中に於て最も其上に在り』―『仏は所生、法華は能生。仏は身なり、法華経は神(たましい)』―それに帰依する者の最高のリーダーは当然『国主』となる……。
 民に安らぎと平和な国土での生活を与え導く者は、創価学会会長……。
 しかも、法華経でいう国とは日本だけをさすのではないと池田大作はいう。
 一応は日本、再往は地球全体。
 かれは、しばしば『私は政治に出ない』という。その政治とは既成の考えでいう『政治』であり、全文化を包合する意味での『王』―政治をさすならば、まさにかれは『王仏冥合の中心的実体』として政治の要となるのだ。
『私が戸田会長から教えられたこと、創価学会会長というものが、どのような存在であるか、注入され自覚させられたことだ。それは一体なにか』

 池田会長は、モダンな本部応接室のアームチェアーにアグラをかき直すと、煙草を一服し、静かに、そして激しい語気でいった。

『私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である』

 同席の大幹部数人は深く肯き、息をのんだ。ごく平和な空気が漂っている……。きびしい秋の陽をさえぎる茜色のカーテンが静かにゆれていた。彫りの深い池田大作の眉宇には、想像しえない決意の意志が刻みこまれていた。
 三十七歳の創価学会会長は、自らを全世界の指導者、日本の国主たる気概と現実的意志のもとに、数百万世帯の人々を背景に、舎衛三億の目標に向かっているのである。」

 日蓮の遺文を真似た、なんという傲慢な発言であろうかと感じるのは私一人だけではないだろう。


■反戦ではなかった牧口常三郎と戸田城聖

 話はそれるが、牧口常三郎は決して戦争反対の立場ではなかった。これは、拙論文でも先述したが、自身の論文「『皮を切らして肉を切り…』という剣道の真髄を、実践に現わして国民を安堵せしめられるのが、今回の日支事変および大東亜戦争において百戦百勝のゆえんである。それは銃後におけるすべての生活の理想の要諦でもある…」からもうかがわれるように、当時の大日本帝国国民と同様、太平洋戦争の勝利を礼賛していたそうだ。投獄された後の尋問調書などから明らかなのは、牧口の説いたのは日蓮の立正安国論に基づき国の謗法を誡め法華経に帰依せしむることが天下万民の安寧であり、あくまで国を護り戦争を勝利に導くために軍部に対して行った諫暁なのである。しかも投獄された原因は治安維持法違反の不敬罪(神札を捨てさせた)だった。

 

 

 創価教育学会時代に具体的な反戦運動を起こしたかどうかも詳細は明らかでない。

現に、昭和19年3月16日、牧口貞子宛獄中書簡においても、自ら「国法にはどんなにでも服従すると言うのだから、心配はいらない」と告げているのである。(宮田幸一監修「牧口常三郎 獄中の闘い」2000/12/10、第三文明社、P222)


 ちなみに日蓮の生きた鎌倉時代は、一方的に中国を統一した元からの侵攻があって、それを他国侵逼難と位置づけることができた。
これに反して、そもそも太平洋戦争は、歴史上は日中戦争も同じであるが、きっかけとなった事件やその背景はともあれ、始めのうちは日本から相手国に攻め入ったものであって、日本が仕掛けたと位置づけるべきであり、仏法でいう法難とは言い難い。
つまりは自業自得とすべきだろう。前半の戦況が好ましいため、日本中がそれにわいていたときもあったという。
そもそも日蓮の時代は封建制度であって、武力自体が正義であった。
 日蓮自身も、反戦――武力行使に反対した――という史実や遺文はみられないし、信者からの供養の刀を持っていた。
「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(四条金吾殿御返事、日蓮大聖人御書全集P1295)などをはじめとして、封建時代における武力行使を容認して踏まえた指導の遺文を多く挙げることができる。

 したがって、牧口常三郎の国家諫暁といっても、日蓮の教えが根拠だったが、その意味では投獄された原因は「殉教」であって「反戦」ではない。

■戸田城聖の戦争観(生発言)


 牧口の弟子である戸田城聖も、獄中までは、決して反戦の立場ではなかった。


「戦争では勝ちたかった。負けるとは思つていなかった。私の今もっている信念は、当時はなかった。私には教学もなかったし、勉強もしてなかったからなんだ。初代会長は勝つといっていた。教線が伸びたのは日本の戦勝と一致していたし、学会の弾圧と敗戦への方向が一致し、初代会長の獄死と共に本土空襲がはじまったので、その結びつきは考えた。…」(「宗教と信仰の心理学」P36)と、自身でも直接語っているのである。

 


 戸田の反戦平和の主張は、出獄後、創価学会再建の中で、原水爆禁止宣言前後ぐらいといえる。

 この事実は「創価学会秘史」などに詳しく展開されている。宮田幸一(創価大学教授)がこれについて、前掲書や第三文明 2018年7月号P83に苦しまぎれの反論を載せているが、ここでは割愛する。

 また、ちなみに意味ありげな戸田城聖自身の生発言として「私が日蓮正宗に入ったのがその年の秋で、目白小学校の校長さんの三谷さんから折伏されてねえ。正宗は、折伏されても、小さいのでやる気はなかったんだ。そうしたら、『こういう信仰心のない悪いやつは、御本山へ連れて行かねばならぬ。』といって本山へ連れていかれた…中略…その頃の信仰は拝まないとバチが当ると困ると思って拝んだ程度で、研究なんかしたことはなかった。昭和一八年警察に引張られて、未決でぶち込れていた頃、はじめて『五書』を読んだんです。初代会長は良く経典を読んでいましたなあ。私はそれを聞くのが嫌で良く逃げ出したもんだ。」(「宗教と信仰の心理学」P34下段)もある。


『五書』は御書のことだろうか。独房ではじめて読んだと言っている。
それにもまして、研究なんかしたことはなかったとか、牧口会長の経典を聞くのが嫌で良く逃げ出したというのには、今、創価学会の宣揚する信仰上の「師弟不二」の雰囲気すら感じられないことに、私は正直なところ驚いた。


反戦に限って言えば、戦前から戦争の被害者としての立場が一貫していたのは池田大作のみであるが、これらは多くの創価学会員の認識とは異なっている。



■師弟の出会い時の年齢の検討


 師弟の出会い時の年齢については、1965年までは、創価学会内でも、池田大作の師弟の出会いは19歳だったが、戸田城聖の師弟の出会いは20歳と考えられていた。

 戸田城聖自身の生発言は
「二〇歳で正教員の資格を得たので、二一の時に東京へ出たのだが、東京では食えなかったですよ。それで初代会長の牧口さんのところへ行って、下早小学校の代用教員にしてもらったんだが…」(「宗教と信仰の心理学」P33下段、二一は数え年の表現)
 会長になる前の池田大作編収録論文においても明確に〝二十歳〟と書かれている。
「私は牧口会長の死を知らなかった。……〝二十歳〟の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である」(「創価学会の歴史と確信」、戸田城聖全集第一巻1965/9/2 池田大作編P301〝 〟は筆者)


 これに従い、池田大作の一番弟子である原島崇の書いた昭和40年の「創価学会」では、戸田城聖の牧口常三郎との出会いは19歳ではなく〝二十歳〟と記載されていて、当時の側近たちの認識があらわれている。

「戸田が、牧口の門をたたいたのは、大正九年八月の〝二十歳〟の夏で、牧口が四十九歳、西町小学校の校長をしていた時であった。戸田は、その年の春まで北海道の夕張炭鉱の一区である真谷地という小学校で教鞭をとっていたが、校内の事情から、退職を余儀なくされ、同年三月に上京してきたばかりの青年であった。」(原島崇著「創価学会」P244-245〝 〟は筆者)

 1971年、日隈威徳氏の著作も同じ、出会いは20歳の夏であった
「明治三十三年(1900)二月十一日、戸田城聖は、石川県江沼郡塩屋村(現在の加賀市塩屋町)に生まれた。」(「戸田城聖ー創価学会 1971年2月 新人物往来社刊行」の復刻である「戸田城聖ー創価学会―復刻版」2018/6/26日隈威徳著 本の泉社P14)
「大正九年(千九百二〇)三月、在職一年九ヵ月で戸田は真谷地小学校を退職した。それは『校長が退職に追い込まれた事情』があって、戸田が『それを黙視できずに、退職の行動を共にした』(『人間革命』第2巻)のではなく、一に女性問題の清算にあった。
 二十歳の戸田は、退職と同時に、ただちに上京した。…(中略)…
 やがて戸田は、北海道の先輩の紹介状をもって、大正九年(千九百二〇)の夏八月ごろ、当時、下谷の西町小学校長であった牧口常三郎の自宅を訪ねた。『戸田先生は後に、牧口先生宅をはじめて訪れられたとき、奥さんが井戸の水を汲み上げておられた情景をよく話されていた』(大白蓮華152号)…
 牧口常三郎は、明治四年(1871)に新潟の漁村に生まれているので、戸田よりちょうど三十歳年上である…」(P25-28)

 このように、実際の戸田城聖の師との出会いは19歳ではなく20歳であり、周りも同じ認識であった。
それを19歳と言い張ったのは会長になってから以後の池田大作だった。そして、
「ウソも100回言ったら真実になる」(「嘘も100回言えば真実になる」は、ナチスのヨーゼフ・ゲッベルスの言葉)とばかり、言うだけでなく著作も出して、真実とした。

「戸田先生が、初代牧口先生に師事されたのが十九歳のおんとき。また、第三代会長池田先生が戸田先生の門下生になられたときも十九歳のおんときと聞く。まことに仏法の不思議!」(聖教新聞1960年5月13日)

 のちに「創価教育の源流」編纂委員会編に掲載されている、最近の学会関連の第三文明社「評伝 戸田城聖: 創価教育の源流 第二部(上)P141」や 、「評伝 牧口常三郎: 創価教育の源流 第一部 P249-250」では、ずっと後から出てきた大白蓮華302号(1976年6月)掲載の、窪田正隆が弟にあてた手紙や言動「初めて牧口常三郎先生にお目にかかったのは大正九年二月初旬のことである」を唯一つの根拠に、どうしても戸田城聖の出会いが誕生日2月11日を迎えるより前の19歳であったことにしたい意図が苦しながらに見える。
脚色のある人間革命第2巻よりもかなり経過してからのことであるから、利益相反を考えると、この掲載記事自体に信憑性が乏しく、同様のデッチあげの可能性が高い。

 生年月日について、池田大作は1928年1月2日、戸田城聖は1900年2月、年の差は28年だから、ともに誕生日を迎えた後の昭和22年(1947年)8月14日に会っていたとしても、その時の戸田先生は47歳であり、48歳ではない。戸籍まで偽ってもバレるのは明白なのに、どうしてこんなウソ・捏造を行なうのか。



 前頁で先述したが、若き日の手記・獄中記 1971/1/28では、1970年12月14日付けで「戸田城聖先生のこと」という寄せ文の中に「戸田先生に初めてお会いしたのは、昭和二十二年八月であり、先生が四十七、八歳、私が十九歳のとしであった」とあって、戸田城聖の年齢を「四十七、八歳」と曖昧にしている。



■ 池田会長全集7にみられる、一次的に修正された人間革命第2巻

 さらに、池田会長全集7 1973/2/16にも人間革命第2巻があるが、戸田先生の年齢部分は、以下のように、前述引用した初版部分とは微妙に違って、P300-311で、正確に修正されて書かれている。
「『山本君は、いくつになったね?』
…中略…
『十九歳です』
『そうか、もうすぐ二十歳だね。僕は、〝二十歳〟の時に東京に出てきた。北海道から、はじめて東京に出てきたのだ』」(P302、‶ 〟は筆者)

 さらにまた、
「彼は、‶二十歳〟の春、北海道から上京したころのことを、しきりと思い出していた。
牧口常三郎と、はじめて会ったのは、その年の八月のことである。その日から、彼の今日までの運命というものが、大きく、新しく滑りだしたことを、珍しく思いめぐらしていた。
――その時、戸田城聖は‶二十歳〟で、牧口常三郎は‶四十九歳〟であった。
いま、戸田は、四十七歳になっている。そして、今夜の山本伸一(池田大作)は、十九歳だと言った。
彼は、‶二十歳〟より、牧口に師事し、牧口を護りきって戦い続けて来たのである。時代は移り変わり、自分にも、真実の黎明のような青年の弟子が現われることを、心ひそかに期待して居ったであろうか」(P311,‶ 〟と( )は筆者)
と、1973年時点では修正されている。
真実を正直に書いてあるではないか。
 拙論文で先述引用した小説「人間革命」第二巻と同じ部分を比べてみるがいい。


 ジャーナリスト溝口敦は、以下のように明確に断じている。
「池田がここでいいたいことは、牧口と戸田、戸田と池田、それぞれの出会い時の年齢の一致と、それによる呪術的ともいうべき池田自身への正統性、神性の付託である。この原始的な思惟に基づく発想は、池田の会長就任時に早くも表れている」(池田大作「権力者の構造」溝口敦著P69)
「池田の入信神話は、デマゴギーの発生と肥大に関する調査、研究に、貴重なデータを提供できるほどのもの」(同 P73)

 またこれより先の昭和58年著作である「池田大作『創価王国の野望』(1983/6/10、紀尾井書房、P201-203)において溝口敦は既にこう指摘している。
「池田はのちに入信時の模様を神格化し、戸田城聖との劇的な出会いを喧伝した。だが、関係者の話を総合すると、三宅家で戸田の講話を聞き、のちに西神田の学会本部に出向いて小平芳平から矢島周平、あるいはその両者から折伏を受け、歓喜寮に出向いて入信手続きをとったものと見られる。

『堀米日淳師からよく聞かされたものだが、池田は小平と一緒に歓喜寮に来たが、御授戒だけは受けたものの御本尊をいただくのはどうしても嫌だという。日淳師は仕方なく小平に持たせ、そのうち池田の気が変わるだろうからといったそうですよ』(当時『大日蓮』の編集を手伝っていた瀬尾正吉談)
 池田自身も初期のインタビューでは、その後のこととしてこう述べている。

『家に帰っても三日間おがまずにほっておきました…(先述引用したため以下略)』(先出「宗教と信仰の心理学」)…

『それから一年は普通にやってました。そのころはバチがこわかったのです。前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。その時はどうしょうか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました』(同前)

池田の小心さを如実に示す言葉である。戦前の弾圧はただ恐ろしいだけで、それが敗戦を境に名誉の履歴に変ったとみる青年らしい常識にも欠けていた。当時はレッドバーンの始まる前であり、人々の心は〝革命的昂揚期〟とでもいうべき時期に当っていた。池田はその時にあっても、貧しく実直な堅気の家庭が持つ牢獄を恐れる気持ちをストレートに持ち込み、おどおどと心を悩ましていた。

 ところが現在の回想では、この当時は次のようになるのだから、池田の無恥無慙はほとんどビョーキである。

『戸田先生の話を聞き、姿をみて、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をしたのである。

 さらに、話を聞くと、この戸田先生という人物は、戦時中、あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず毅然として節を曲げずに、昭和十八年、治安維持法違反ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも己の信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった。二年間の獄中生活に耐え、軍国主義思想と戦った人物には、信念に生きる人間の崇高さと輝きがある。極論すれば、当時の私にとっては『戦争に反対して獄に入ったか否か』ということが、その人間を信用するかしないかを判断する大きな尺度になっていたといっても過言ではない。(略)

 それからの日々、私は戸田先生との運命的な出会いを深化させながら、生涯、人間革命を断行し、宗教革命、社会革命に自分を捧げつくせるか否かの自己検討をしていた。決して強靭とはいえない自分の身体とのかかわりあいもあったからである』(池田「私の履歴書」)

 両書を読み比べると、まさしく池田は尊大な大物風への〝人間革命〟を断行したことが歴然としている。が、実像と虚像のギャップを埋めるものが、己を高しと見せかける作文(それもゴーストライターによる)であるならば、人間革命の結果は悲惨である」

 

 

 さらに、再びこう述べる。

「現在の彼の見栄や外部指向を前にすれば、インタビュー時の彼の無知は、いっそ初々しいものとさえいえる。尊大な大物風への「人間革命」の結果は悲惨としかいいようがない」(池田大作「権力者の構造」溝口敦著 P78)




 その後はご存知のように、様々な宣伝・讃嘆本や批判・告発本のオンパレードとなったが、こういう改竄が判明している以上、捏造・改竄の存在や利益相反の観点からも、大いに検討を要するだろう。

また、仏法で説くところの「因果応報」は、まことに厳然としていることは、現在の池田大作をみれば明らかだろう。

 

P65へ、続きます。