●62 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討 | ラケットちゃんのつぶやき

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●62 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、

P62, 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討
です。
 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


 ここにきて、池田大作の人物像の原点を確認する必要を感じたため、過去の拙記事「私の池田大作観(1)ページ2」から一部画像を削除して改定・再掲載したものです。


■第一章 池田大作の入信当時の、信憑性の高い資料

 私の池田大作観を始めるに、最初に取りあげるのは、入信当時の状況についてである。

 1956年「新心理学講座第4巻 宗教と信仰の心理学」小口偉一編集のP57-59には、創価学会の組織者として、実名ではないが、その内容から確実に池田大作と分かる、テープに収録された生発言の体験談と、その解説が見られる。読者の皆様や後世の正確な検討のため、一字一句そのまま、読みやすいように適宜改行のみ加えて引用した。それ以後の資料も同様なスタンスで、その変化、移り変わりを解明していく。長くなってしまうが、どうかお許し願いたい。

 

「Ⅴ 創価学会E(男)
 話しぶりも、人柄からうける感じも強い信念に燃えているような感じがみられる。
青年期まで病気ばかりしていた人とはとうてい思えない。
折伏のときには強い戦士として教団内にも著名な人であり、青年部の部長をしている。

現在大倉商事(金融会社――前出)に勤務中。
『生まれは大森のノリ屋です。三歳くらいの時蒲田に移り、それ以後東京に住んでいるわけです。
小学校では栄養不良で三・四回も死にそこない、がんらい体が非常に弱かったんです。
終戦の年には六回目の肋膜をしていましたし、肛門性(コウモンネンパクビラン)のもので、耳や鼻などみんな悪く、血啖が出てたんです。
終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって、学校時代の友人にさそわれて創価学会の本部へいきました。
その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。
私は友人と二人で行ったのですが、三、四〇人もいたでしょうか。
五時間くらいもそこで締めあげられたのです。
南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。
負けたのでシャクにさわってしかたがない。
その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからない。
それだのに相手は確信をもって話している。
こちらは観念的で浮いているような感じがしたのです。
そのときの話というのはこうなんです。
『これから先のこと、二〇年先のことがわかるか。
これから年とって、その先なんのため生きたかを考えることになるがそれならば今のうちに考えたらいいではないか。
自分の宿命は自分でも知らないではないか。
誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。
宿命は解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。
この四つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。
わからなければ真面目に考えろ。信仰をしろ』
というのです、
私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。
それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。
友人は入信しないで黙っていました。

それから御本尊をお下げするという話で、私は三〇分間ほどいりませんとがんばったんです。
すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました。
 家に帰っても三日間おがまずに ほっておきました。
三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました。
それは高校をでて蒲田に勤めて出張していたときのことです。
それからは、おがみはじめるとなんとなく一日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。
それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです。
それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです。

前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。
全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。
その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました。
二年目に「立正安国論」の講義を聞いてから、よし、よい勉強をしようと考えるようになりました。
三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました。
信用組合にも入っていたんですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくて仕方なかったんです。戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした。
十四、五人の研究会からの仲間からもやられました。
そこで御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい。
という願いをして御題目を六〇万遍唱えることにしました。
逃れなければやめようと思っていたのです。
それが不思議にも百日過ぎて急によくなってきたのです。
その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。
私の体験は三年だけです。
信仰しなかったならば二三くらいで死んだだろうといわれています。
信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。
わたしは今それから六年経っていますがずっと順調で申し分のない幸を得ております。』

 この経験談だけでは現在のEさんの戦闘的行動派型の信仰生活をうかがうことは困難であるが、長い幼年期から青年期にいたるまでの闘病生活は強い意志がなければ続かないし、また学校生活や社会生活における身体の弱さからくる劣等意識は常に何かを求めてやまない精神的気魄を養ってきたであろう。したがって病弱が克服されたばあい、この気魄と意志はそのまま折伏の戦闘力に転化し、行動力に転化することは順当といわねばならない。」

 これは1956年7月出版の書だから、この時点で池田大作は入信9年であり、おそらく、入信当時を語る池田大作の生発言としては最古のものだろう。


 余談になるが、この本は宗教人の心理学の講義であり、実例として取材に応じてくれた人の言葉をテープにとって検討している。その中には創価学会の教祖として戸田城聖が実名で解説されている。また、創価学会D(男)もいる。彼は「創価学会―その思想と行動」佐木秋夫,小口偉一著P63-64から、当時の東京都議・小泉隆氏と考えられるが、詳細は割愛する。

 話を戻して以下、古いものから順にたどっていく。
その約1年後の1957年10月18日、『聖教新聞』第6面には、同年10月6日新潟県長岡市での指導会の時に、池田自身が入信当初を振り返り、以下のように語ったのが、顔写真付きで掲載されている。「私の初信当時」「池田参謀室長の場合」の欄に、大きな見出し〝生涯、信心しぬくぞ〟と〝腹すわるまで一年間悩む〟がついている。

「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。どういう理由で信仰したかというとそれは三つあるんですよ。
 折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の八畳と六畳の二間でした。そこは吉田松陰先生が、あの明治の大業をなしとげた勤皇の志士を養成された松下村塾と同じ畳数なんです。
 そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんですよ。

〇〇〇〇〇〇〇〇
一寸先はまっくら

 第一に、これから長い人生を生きていく上において、明日の命も分からない、一寸先は闇ではないか。
君には10年、20年先の生活に確信はあるのか、と言われた。
僕はあると威張ったよ。(笑)
それから、青年時代はまだいいけれど、"光陰矢のごとし"と言うように、アッという間に白髪の老人になってしまうではないか。
その時に自分は何のために人生を歩んできたか、何を目的として生きてきたか、と考えた時に、"我れ人生をあやまてり〟と悲しんでも始まらないということを、君は考えないかと言われたんです。
 次に、今は健康であるが、どういう宿命が自分の生命にせん在していて、いっ自動車にはねとばされたり、人に殺されたり、重病にかかったりするか分からないだろう。そういう宿命をどう打開するか、この信心以外に打開の道はありませんよ、と言われたんです。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〝死〟が解決できる

 もう一つは、死ぬという問題をどう解決するか、と云われたことです。
フランスの有名な文豪ユゴーが云った言葉に、『人は生まれながらにして死刑囚の執行猶予をされたのと同じようなものだ』という言葉があります
死ぬということは、絶対なものです。この問題は、大臣になろうが、学者になろうが、絶対に解決できない問題です。この問題が解決できるのか、と云われたんです。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
なるほどと思った

その生きていくという生活の根本問題、それからすぐに老人になって死んでいかなければならない人生の目的の問題、自分の宿業、宿命、死ぬという問題にっいて、全部解決できるのがこの信仰なんだよといわれたのです。
私はなるほどなあと思ったんです。
 青年はより高いものを求めて行き給え、勉強し給えといわれて、いやだったが信心する気になったんです。一応信仰したけれども、ずい分悩みました。
『えらいことやっちゃったな、一生、南無妙法蓮華経と唱えるのか、みんな気狂いだと思うだろうなあ!』などと、ずい分苦しみました。
 だが、『発心真実ならずとも正境に縁すれば功徳多し』というように、必ず幸福になれますからね。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇
胸打った国家諫暁

 もう一つ、私の胸を打ったのは、創価学会が、あの戦時中にまっ向から軍部と対抗して、天照大神では日本の国は救えないと、日蓮大聖人の仏法 立正安国論、顕仏未来記の予言、諫暁八幡抄の哲理をもって、軍部を攻撃したあげく、初代の牧口会長先生、現会長先生始め二十何名の人々が牢獄へ行ったんです
 それと、他は全部邪宗教であると断言して、軍部にまっ向から反対した確信があるからには、何か真実の宗教があるのだろうと感じたのです。
 世の中の人たちは、他宗を批判するからあの宗教はダメだ、というが、私は反対だった。他の宗教は邪宗だと言いきれるんだから正しいのだろう、と感じたんですよ。

〇〇〇〇〇〇〇〇〇
学会と運命を共に

 そして、会長先生の姿を見て この宗教には迫害があるかもしれないと恐れたんです。
もし、難があって退転するようなことなら、始めから信心をやめよう、
信仰しきって行けるなら一生涯信心していこうと、一年間、もんもんと悩んできたのです。
 利益とか罰とかは別問題でした。
学会と運命を共にして行けるか、大御本尊様を一生涯護持して行けるか、それが私のいつわらざる心境でした。
始めの一年間、その時に『よし、この立派な会長先生のもとであるならば、何でこの身を惜しもうか、学会のためにつくそう、広宣流布のために、凡愚の身であるがつくさせて頂こう』と決心して十年目です。だから信心してきたんです。退転なんかできませんよ。」

いかがだろう。生々しい池田大作の発言が載っている。

 以上は、改めて「会長就任」後に「初信当時の確信」と題して、会長講演集第四巻、池田大作著 昭和36年12月23日初版P31-34に掲載されている。

 次に、神立孝一氏は、論文「創価大学における池田研究の現状と課題」(創価教育研究第4号)にて、『聖教新聞』1959年2月6日、「池田参謀室長の指導から」を紹介している。
「折伏と一口にいってもなかなか大変なのですが、参謀室長が折伏をはじめられたときは、どのようでしたか?」
「私が信心をしたのは満18歳のときで、小学校の同僚で女の人から折伏されたんです」
(前記の「入信当初を振り返る」では、小平教学部長から折伏されたとあり、つまり、複数の人から折伏されている。)
「それが運命を変えちゃっていました。いま思えば本当に幸せだと思いますね。
"やります"と返事をしたものの、一生涯若いのに題目はあげるなんて、いやだなあ一、と3日間ねられなかったよ」
「やるならやる。やめるならいまのうちと腹をきめて、先輩のいわれる通りにやりました。
『折伏をしろ』というから、私は自分の友だちを10人ぐらいよんだのです。
信心してから間もなくのことですよ。
一生懸命いいました。御本尊様の話を。
一度なんかは、会長先生がわざわざ私のおよびした会合に出てくださったこともありました。
しかしだれも信心しないのですよ。
一生懸命やってもね。
みな友達がはなれちゃうんだよ。
私ひとりぼっちになっちゃって、これはえらいことをはじめてしまったと思っちゃった。
だから、勤めに行くのでも、折伏をしてくれた家の前を通るのがいやだから、ずっと遠まわりして、帰りも遠まわりしていたんだ。
別にだれも見ていないのだが,,,はじめはそんなものだ」

 この結論部分では、
「はじめの3年間というものは、いわれた通り、気違いみたいになって、一生懸命折伏をやりました」
いろんな失敗をしたが、
「御本尊様の話をしていくのが折伏だから、ちゃんと功徳が自分のところにもどってくるんですよ。
ご飯を食べると同じように、当然、もう話をするのだという気持ちが大事だ思うのです」と述べられている。
 さらには、「参謀室長が1日に沢山の題目を唱えて、闘争されたときのようすをお聞かせ下さい」という質問に対し、
「私が信仰したのは22年8月24目で、ちょうど3年目の25年8月23日に、自分にとって最大の三障四魔があったんです」と述べられている。
その”三障四魔”とは、このちょうど8月の段階で戸田先生の事業が失敗し、誰も彼もが離れていって、池田先生だけが残っていくという状況の時であり、大きなポイントの一つになっていくと指摘している。
「その時、私も体が弱くて、随分やせていました。血タンはでてくるし、寝られないし、そのうえ家では信心に反対だ、親せきには行けないし_一体どうしようかと思った。その時、私はどうか御本尊様、この仕事の苦しみからのがして下さいと、はじまったのです。それまでの3年間の信心なんて、なってない状態なんですよ」と述べている。
つまり、初めから「いいんだ」と思って入信したわけではない。
しかし、一番の拠り所としていたのは戸田先生の存在だったこと。
このあたりが非常に重要であり、この段階から、青年池田大作がぐっと大転換をしていくと指摘している。


 さらに、創価学会会長に就任後、1962年2月17日、中野昭倫寺での入仏落慶法要の際の挨拶が、聖教新聞 1962年2月20日で見られる。「池田会長あいさつ **東京・昭倫寺で** 〝全魂こめてご奉公 日淳上人への報恩胸に〟」という見出しと、ご自身の写真付きである。

「本日はたいへんにおめでとうございました。…(中略)…しっかりがんばりましょうね。
 また、さきほどもお話がありましたが、私も十五年前に、この昭倫寺で、日淳上人より御受戒をうけたものでございます。したがって私個人にとっても一生忘れることのできない寺院であります。
 ちょうど十五年前に、小平教学部長と、それから矢島尊師に連れられて、ちょうど日淳上人様の勤行ご導師をいただいて、だった三人だけの御受戒でした。
それで私は、真ん中にすわらされてしまって、勤行がはじまったけれども、またひじょうに長い勤行で(笑い)、びっくりしてしまいました。
それで日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)と、もったいない話ではございますが、そのときは”信心は結構でございますから、今日は御本尊様はいただかないようにします〟と、そういうように申し上げたのです、その場所で。
 すると日淳上人は「まあ、そういわないで、きょうは御本尊様をもっていきなさい」と(笑い)。何回も何回も押し問答になりまして、とうとう日淳上人様はひじょうにがん固な方であって、私は負けまして(笑い)、そしてちょうだいして今日にいたったわけであります。
 私もはじめの動機を見れば、みっともない状態なのです。
だが、むりやりに、日淳猊下が強引にといっていいくらいに御本尊様をお下げ渡しくださったおかげで、私は十九歳で日淳猊下の弟子となることができました。そのことに対しましては、心から感謝しておるしだいなのでございます。…(中略)…
 その日淳上人様のご報恩感謝のためにも、ご恩返しのためにも、創価学会としても、また私としても、力のあらん限り、御法主上人猊下に日達上人猊下にお使え申し上げて、そして日蓮大聖人様よりおほめのことばをいただき、また恩師戸田先生よりおほめのことばをいただくまで、私も全魂を打ち込んで今後また戦っていきますゆえに、皆さんも私とともに前進をしていっていただきたいと思います。以上をもってごあいさつといたします。」

 これも、改めて「昭倫寺落成に」と題して、会長講演集第六巻、池田大作著 昭和37年7月20日初版 P51-53に掲載されている。

 以上は、謙遜もあるが、池田大作のオーソドックスな信仰体験と思われる。
 どこの末端組織でも普段の座談会や本部総会等でよくみられる、新入信者の体験発表のような、初々しく涙が出る、素晴らしい信仰体験である。こうして多くの同志がみんな、御本尊のすばらしさ(=功徳)を身に刻み、成長していったことであろう。

 さて、ここで、今の二世・三世の創価学会員の同志に、前向きに伝えたいことがある。
折伏ができなくても、御本尊送りができなくても、落ち込むことはない。
聖教新聞啓蒙がなくても、選挙でFが取れなくても、なおさらひがむことはない。
ただ一人師弟不二の道を貫いたと仰る池田大作でも、最初は以上のように語っている。

「私もはじめの動機を見れば、みっともない状態」…
溺れる者は藁をもすがる、だが、すがったものが藁では溺れてしまう。

 池田大作のすがったものが、何の役にも立たない藁ではなく、宇宙一切根源の法=南無妙法蓮華経だったことである。
 そして、入会からかなり経って2年後の昭和二十四年、戸田城聖にスカウトされ、「日本正学館」に就職し、現実的に師弟の道へと入ることになった。
 だが、再度念を押すが、この師弟不二の道は、あくまで仏法への一つの縁としての重要性に限られるのであって、それ以上に、本来最も重要とされるべき内容とは、池田大作のすがったものが、宇宙一切根源の法=南無妙法蓮華経だったことである。



■第二章  資料から見えてくる「流れ」

 解りやすいように再度、上記の池田大作の入信前後を経時的に並べ、背景を適宜、引用も用いて加えてまとめてみる。

「私が信心をしたのは満18歳のときで、小学校の同僚で女の人から折伏されたんです」
「それは高校をでて蒲田に勤めて出張していたときのことです」

 池田大作が、東洋商業をでて、蒲田工業会に勤めはじめてまもない時だった。
昭和22年8月14日、池田先生は小学校の同級生である三宅ゆたか家の次女に誘われ、座談会に出席した。当時は彼女に好意を抱いていて、それに魅かれて出席した(『週刊文春』昭和55年6月19日号)
 そこでも折伏され、その後、
「終戦の反動でなにかやりたいという気持ちがあって、学校時代の友人にさそわれて創価学会の本部へ行きました。その友達は哲学のいい話があるがこないか、とさそったのです。私は友人と二人で行ったのですが三、四十人もいたでしょうか。五時間くらいもそこで締め上げられたのです」

「なにかやりたい」と人生の支えを求める純真な池田大作に、学会幹部による強引な折伏の様子がうかがえる。

「私はそこで教学部長から折伏されたんですよ。」

「南無妙法蓮華経は嫌いだったので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰しなければいけないということになってしまったのです。
負けたのでシャクにさわってしかたがない。」

 戸田先生に薫陶を受けた小平芳平教学部長の大確信の前に、東洋商業卒の学歴や協友会の読書での知識では全く勝負にならず、「利剣を以て瓜を切る」が如く、当然に圧倒されてしまった。

「その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地が(自分に)ないからわからない。
それだのに相手は確信をもって話している。
こちらは観念的で浮いているような感じがしたのです。」
『これから先のこと、二〇年先のことがわかるか。
これから年とって、その先なんのため生きたかを考えることになるがそれならば今のうちに考えたらいいではないか。
自分の宿命は自分でも知らないではないか。
誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。
宿命は解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。
この四つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。
わからなければ真面目に考えろ。信仰をしろ』

「私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです」
『青年はより高いものを求めて行き給え、勉強し給え』
「いやだったが信心する気になったんです。一応信仰したけれども、ずい分悩みました」
「それでお題目を唱えろということでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです」

 十日後の昭和22年8月24日、池田大作は昭倫寺でしぶしぶ御受戒を受けた。

「小平教学部長と、それから矢島尊師に連れられて、ちょうど日淳上人様の勤行ご導師をいただいて、だった三人だけの御受戒でした。」

「日淳上人より御本尊様をお下げ渡しいただくときに、もう足がしびれて、このまま一生信心するのでは、もうたまったものではない(笑い)と、もったいない話ではございますが、そのときは”信心は結構でございますから、今日は御本尊様はいただかないようにします〟と、そういうように申し上げたのです」
謙遜か最後の抵抗だっただろうが、それもはかなく、
 「すると日淳上人は『まあ、そういわないで、きょうは御本尊様をもっていきなさい』と(笑い)。何回も何回も押し問答になりまして」
「私は三〇分間ほどいりませんとがんばったんです」が、
「とうとう日淳上人様はひじょうにがん固な方であって、私は負けまして(笑い)、そしてちょうだいして今日にいたったわけであります。
 私もはじめの動機を見れば、みっともない状態なのです」
つまり「むりやりに、日淳猊下が強引にといっていいくらいに御本尊様をお下げ渡しくださった」

 帰宅後も
「えらいことやっちゃったな、一生、南無妙法蓮華経と唱えるのか、みんな気狂いだと思うだろうなあ!」
「一生涯若いのに題目はあげるなんて、いやだなあ一、と3日間ねられなかったよ」
「家に帰っても三日間おがまずに ほっておきました」

御安置せずほおっておいた、放置しておいたら、当時では明らかに御本尊不敬罪で、仏罰があたることになる。

「三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って私ばかり狙っているように思ったので、そのとき思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」

まさに、自ら防衛反射で呪文として唱えた「南無妙法蓮華経」、苦しい時の神頼み。

「それからは、おがみはじめるとなんとなく一日安心感があって、おがまない日は仕事もなにも落着かない。それでおがむとこうなんだから信仰は大事だなあと思ったのです」

これは、苦境の中でのささやかな初信の功徳か、それとも仏罰か?諸天の加護だったか?

「それから一年は普通にやっていました。そのころはバチがこわかったのです」

バチが恐くてやめられない。そもそも当時の組織は罰論を脅しに常用していて、消極的な会員にはそれで十分効果的だった。

「戦前の国家神道にコリゴリして、宗教は嫌いだった。なんとか逃げようという煩悶は一年間ははつづいた」(「創価学会の歴史と伝統」1976/6/6 聖教新聞社編P81)


「前の信者さんたちが牢獄へいったということが気になりました。
全部の宗教に反対するから必然的に弾圧される。
その時はどうしようか、寝ても覚めても考え、やめるなら今のうちがよいと考えました」


 このインタビュー時、池田大作は渉外部長と参謀室長をかねていたが、牧口常三郎・戸田城聖以下幹部21名が投獄された宗教的意義にまでは到底分からず、その原因は創価学会が唯一絶対だとする独善性にあり、再び弾圧を受ける恐れがあると、「寝ても覚めても」恐ろしく「やめるなら今のうちがよいと考えた」と、あけすけに言っていた。
「ざっくばらんな気性で、都合のわるい履歴であってもあけすけに話す戸田が、小口偉一の学問的な立場、問題の取り上げ方を理解して便宜をはかったからである(『聖教新聞』昭和34年4月10日)」(溝口敦著「池田大作『権力者』の構造」P77)

 でもその十年後に振り返ってでは、
「創価学会が、あの戦時中にまっ向から軍部と対抗して、天照大神では日本の国は救えないと、日蓮大聖人の仏法 立正安国論、顕仏未来記の予言、諫暁八幡抄の哲理をもって、軍部を攻撃したあげく、初代の牧口会長先生、現会長先生始め二十何名の人々が牢獄へ行ったんです
 それと、他は全部邪宗教であると断言して、軍部にまっ向から反対した確信があるからには、何か真実の宗教があるのだろうと感じたのです。」
「そして、会長先生の姿を見て この宗教には迫害があるかもしれないと恐れたんです。
もし、難があって退転するようなことなら、始めから信心をやめよう、
信仰しきって行けるなら一生涯信心していこうと、一年間、もんもんと悩んできたのです。
 利益とか罰とかは別問題でした。」

ここでは表現が微妙に変わっている。



「この二十歳の青年は、入信して一年しかたっていなかった。…中略…あの入信の夜以来、戸田と直接話す機会もなく、はや一年の歳月が流れていたのだ。」(人間革命第3巻P160)


そして、積極的な信心に変わった契機となったのが、戸田城聖の、
「二年目に『立正安国論』の講義を聞いてから、よし、よい勉強をしようと考えるようになりました」

実家の父は大反対であったので、
「家からは勘当同然でした」



だが、

「しかし、戸田の志は、あらゆる遮蔽物を越えて、そのまま、山本伸一の心の底で育ちはじめていた…」(人間革命第3巻P160)

と、後から脚色している。


そして、戸田先生にスカウトされて、
「三年目の八月に戸田さんの出版に小僧から入りました」

「…しかし、戸田城聖という人間的な魅力にはどうすることもできなかった」(「創価学会の歴史と伝統」P81)

 戦後の社会的経済的混乱の中、絶好のスカウトに、池田大作は深く戸田先生の恩に謝し、忠誠を誓っていた。

「信用組合にも入っていたんですが、アパートに住んで、給与もなく乞食同然で苦しくて仕方なかったんです。戸田のところへいったからというので、家からは勘当同然でした」
「十四、五人の研究会からの仲間からもやられました」

「連日のように悪戦苦闘がつづいた」(「青春抄」)
 池田大作もやせて頬がこけ「お前の顔で、指にささったトゲが掘れる」と揶揄され、24年秋、一年半通った大世学院を中退するはめになった。
「体が悪かったのも中退の原因でしたが、本当のところ、戸田先生がやめろ、と言われたんです。“おれが教えてやるから十分だ”というのです」(央忠邦「日本の潮流」)。



 ところが、出版事業も信用組合も、一年ももたずに破産した。
昭和25年7月には東京建設信用組合の取りつけまがいの騒ぎも起こり、ひたすら居留守か平謝りの毎日が続いた。翌々26年にかけて戸田城聖や池田大作は債鬼に追われ困窮し、過労が蓄積しゆく。数少ない社員も給与が半年以上も出ない、仕方なく次々と去っていった。

「いつか債権者と渡り合うのは、私ひとりになってしまった」(「私はこう思う」)

 その8月、東京建設信用組合は大蔵省からは営業停止命令、また組合法違反も問われ、取り立てにからむ刑事事件をひきおこし、債権者からは告訴されることになった。

「昭和25年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜悪口を云った。(池田大作が)私1人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。25年の12月には、もう駄目かも知れぬと思った…とにかく、私が一騎駆でおし切った」(「社長会全記録」P59)

「東京建設信用組合は春をひさぐしか生きられない底辺庶民の金さえ、結果的にはだましとったのだから、その瓦解が明らかになったとき、出資者たちの怒りが戸田や社員に集中したのは当然である。若い二十二歳の池田ならずとも、修羅場と感じる」(「池田大作『権力者』の構造」P111)

「『さあ、寝るか、伸、ぼくの布団で一緒に寝ようよ』戸田は隣室の布団に入った」(人間革命第4巻P256)
「憔悴した不出世の師は、愛する憔悴した一人の弟子のために、御本尊に懸命な祈念をした…
伸一は、じっと涙をこらえるのに懸命であった…深夜、一人の青年の感涙は、一首の歌に結晶した…
『古の 奇しき縁に仕えしを 人は変れど われは変らじ』…中略…
戸田はペンを…さっと勢いよく認めた。
『幾度か 戦の庭に 起てる身の 捨てず持つは 君が太刀ぞよ』…
『色は褪せ 力は抜けし 吾が王者 死すとも残すは 君が冠』…」(人間革命第4巻P268-270)
「私の健康も生活の不如意も危殆に瀕していたが、先生のもとを去ることはなかった。むしろ、地獄の底までも、お供しようという決心が、いつかついていたのである。恩師を信じ、大聖人の仏法の正しさを信じ、ギリギリの限界で孤軍奮闘をつづけた」(「私はこう思う」)

「池田にとって戸田とともにする労苦は信仰の危機ではなく、信仰の証だった。彼は、『この地を受けつぐだけでなく、天国をも受けつぐことを定められながら…(中略)…あと半年通えば卒業できた大世学院を断念させられようと、金銭的に恵まれなさ過ぎようと、戸田を見限るなどは論外であり、彼はひたすらマゾヒスティックな快感さえ覚えて、日々を試練として耐えつづけた。一方、それは池田のいうとおり、使われるよりは仕える境地でもあり、彼の前時代的な作風が、自己犠牲をしのびやすくしたのも事実である」(「池田大作『権力者』の構造」P103)

「池田会長は、戸田城聖という人間を知り、また『人間』というものをおそわった。そこに仏法があった」(「創価学会の歴史と伝統」P81)


「そこで御本尊さまにこの苦しみだけ逃れさして下さい。
という願いをして御題目を六〇万遍唱えることにしました。
逃れなければやめようと思っていたのです。
それが不思議にも百日過ぎて急によくなってきたのです。
その時先生は事業を譲っていましたが、それをこしてから完全になにからなにまでよくなって、身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も過分なまでによくなったんです。」

「『この苦しみ』とは貧困や病弱、家族や友人からの信仰への反対も指そうが、中心は東京建設信用組合の事後処理問題であろう。池田は一切から閉ざされてもなお将来を賭けた戸田に、最大の苦悩を背負わされた。『逃れられなければやめようと思っていた』は、信用組合や信仰を、であろう。
 のちに池田は『大半の人がいなくなり、私一人になった。その時、しめた! これで自分の人生は勝った! と思った』(昭和50年6月6日、第一回本部代表者会議で、内部文書)と述べているが、自らの先見性を証するための創作であり、『やめようと思った』が偽りのない気持ちだったろう…中略…
 池田が六十万遍の唱題を発心したのは、入信から満三年を経た25年晩秋のことであったが、唱題の当初は、相変わらず給料遅配で、その冬もオーバーをあきらめざるを得ないような実効性にとぼしいものであった。が、彼のいう『身体も、生活も、物質的にも、社会的地位も』のうち、まず『社会的地位』が早くも彼にほほえんでくれた」(「池田大作『権力者』の構造」P112-113)

これはある意味では大いなる信仰の功徳だといえそうである。

「本日、営業部長に、昇格する。一、経済の勉強をいたすべき事、一、事業の発展に、責任を、一段と深くすべき事、一、学会の前進に、遅れざる事」(「若き日の日記」11月27日)

「大蔵商事の社員は池田のほか、戸田の親戚二、三人にすぎなかったというから、「営業部長」は、およそ名刺上の箔づけだけにとどまっていたにちがいない。事実、部長にともなう手当や給与の方も、翌二十八日を見ると、「今月で、三ヵ月給料遅配。本日、少々戴く。帰り、大森にて、シャツ等を購入。金、百六十円也」という情けない仕儀であった…(中略)…が、二十二歳の池田は生まれてはじめて『長』を与えられ、大いに戸田への心証をよくしたと同時に、その妾にも仕える腰巾着の地位を、職制のうえで確立したのだった。
 池田が唱題を始めて、ほぼ『百日』後の二十六年年二月ころから、効験はいよいよ実をともないはじめた。二月初旬、信用組合を解散してもよい、という大蔵省の内意が伝えられて三月十一日、東京建設信用組合は正式に解散し、戸田への責任追及はひとまず解消した。」(「池田大作『権力者』の構造」P114)


 そして、この生発言の最終時点となる。

「私の体験は三年だけです。
信仰しなかったならば二三くらいで死んだだろうといわれています。
信仰していなかったら貧乏で、病気で死んでいたでしょう。
わたしは今それから六年経っていますがずっと順調で申し分のない幸を得ております。」



■第三章   創作された小説「人間革命」、「創価学会の正史」

 昭和40年ごろから聖教新聞に、小説「人間革命」の連載が始まる。
これは、一応、小説であるが、現代の御書ともいわれる創価学会の聖典であり正史である。学会員は地区活動や座談会や勉強会で、その切り抜きを集めたものを読み合わせて、師弟不二の精神を学んでいた。これを集めて発刊した小説「人間革命」は第1巻~12巻まであり、その後に発刊の「新・人間革命」が全30巻で完結している。昭和時代には小説ではなくノンフィクション部門扱いでベストセラーになっている。その人間革命第2巻初版では、入信の時の様子が、山本伸一(=池田大作)として、雄大に描かれている。
その内容の詳細は後の改竄の検討材料になる。
池田大作の師弟の最初の出会いの描写が、いかに史実を改ざんし創作されているかを、先述の史実と比べながら一字一句なめるように、じっくりと見てみたい。

人間革命第2巻(昭和41年5月20日6版)P221-
「『十四日の夜、私の家で哲学の話があるのよ。いらっしゃらない?』
『哲学?』…
『ベルグソンですか?』…(中略)…

「山本伸一は、生まじめで、あまりはったりを好まない性質であった。その彼にも、この光景は、深い感動を与えずにおかなかった…(中略)…
 戸田は、仁丹をかみかみ、質問を聞いている。そして、たまたま、山本達の方に視線を注ぎながら、質問者に明快な回答を与えていた。

 一通り質疑応答が終わったところで、つと三川英子は立ち上がり、戸田に紹介した。
『先生、山本伸一さんをお連れしました。私の小学校の同窓です』
 山本は機敏にぺこんと頭を下げた。
『ほう』
 戸田はニッコリ笑った。まるで友人の息子にでも話しかけるような口調である。
『山本君は、いくつになったね?』
 戸田は『いくつだ』とは訊かなかった。『いくつになったね』と聞いたのである。初対面であったが、旧知に対しての言葉であった。
『十九歳です』
『そうか、ぼくもね、十九歳の時には東京に出てきた。北海道から、はじめて東京に出て来た年だ。
 まるっきり、お上りさんでね。知った人はいないし、金はないし、心細かったよ。さすがのぼくも閉口したな』
 戸田の笑いながらの述懐に、一座の人達の顔にも笑いが浮かんだ…(中略)…
 一座の空気は、何か暖かさにつつまれていた。
『先生!』
 突然、山本伸一が、元気な声で沈黙を破った。一同の視線は、いっせいに山本に集まった。
『教えていただきたいことがあるのですが……』
 戸田は、眼鏡の奥で、眼を細めながら山本を見た。
『なにかね……なんでも聞いてあげるよ』
『先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか。考えれば、考えるほど、わからなくなるのです』
 山本は、真剣な表情で、目を大きく見開いて言った。
 やや長い睫毛が、影を落とし、稚けない眼元を涼しくしていたが、また、そのあたりに憂いを帯びていた。
『さあ、これは難問中の難問だな』
 戸田は頬をほころばせて、煙草を揉み消しながら、
『この質問に正しく答えられる人は、今の時代には一人もいないと思う。しかし、ぼくには答えることが出来る。何故ならば、ぼくは福運あって、日蓮大聖人の仏法の大生命哲学を、いささかでも、身で読むことが出来たからです…(中略)…正しい人生とは何ぞや、と考えるのも良い。しかし、考える暇に大聖人の哲学を実践してごらんなさい。青年じゃありませんか。必ずいつか、自然に自分が正しい人生を歩んでいることを、いやでも発見するでしょう。
 私は、これだけは間違いないといえます』
 彼は、こう言って煙草に火をつけた。
 山本伸一は、眼をキラキラと輝かせていた。
『もう一つお願いします。本当の愛国者というのは、どういう人をいいますか?』
 戸田は、煙草をうまそうにふかしながら、軽く言った。
『これは簡単だ。楠正成も愛国者でしょう。…(中略)…妙法を根底にした国家社会が、必ず現出するのです。歴史、思想、民族の流れから見ても、それ以外に絶対にない。いや、なくなって来るだろう。
 それまで、多くの人は信じないかも知れない。現出してきた姿を見て、はじめて、あっと驚くのです。それだけの力が、大聖人の仏法、南無妙法蓮華経には、たしかにあるのです。後世百年、二百年たったとき、歴史家は、必ず認めることと思う』
 戸田は、遠い将来に、想いを馳せるように語り終わった。
 無造作のなかに明快な回答となっている。もっと深く教学を通して、語りたかったかも知れない。だが伸一達にこれ以上、話しても、わからないと思って、概略的な論調で終わったともとれた。
『その南無妙法蓮華経というのは、どういうことなんでしょうか?』
『これは、やかましくいえば、いくらでもやかましくいえる…(中略)…
 要するに、一言にしていえば、一切の諸の法則の根本です。宇宙はもちろん、人間や草木にいたるまでの、一切の宇宙現象は、みな妙法蓮華経の活動なのです。だから、あらゆる人間の宿命さえも転換しうる力を備えている。
…(中略)…恐ろしいことに、人間の不幸の根本的原因は、間違ったものを、正しいと信ずるところにあるのです。
……話せといえば、一晩でも、二晩でも、話してあげたい。だが、山本君も、少し勉強してからにしようじゃないか』
 戸田は、一青年に対し、なんのハンディキャップもつけず、一対一で話していた。
 誠実な言語であり、態度である。
 山本伸一は、それを直感し、仏法の話はわからなかったが、戸田城聖という、誠実な人物に、心で好感を抱いた…(中略)…
『わかりました。わかったというのは嘘ですが、私も勉強してみます。もう一つだけ、お聞きしたいことがあるのですが』
『なんだね……』
『先生は、天皇をとうお考えですか』
 天皇のことが、大きな問題になっていた時である。
 戸田は、極めて平静に話しはじめた。
『…(中略)…天皇も、仏様から見るならば、同じ人間です。凡夫です。どこか違うところでもあるだろうか。そんなこともないだろう…(中略)…
 いま問題なのは、天皇も含めて、わが日本民族が、この敗戦の苦悩より、一日も早く立ち上がり、いかにして安穏な、平和な文化国家を建設するかということではなかろうか。――姑息な考えでは、日本民族の興隆は出来ない。世界人類のために貢献する国には、なれなくなってしまう。どうだろう!』
 簡明直截な回答である。あっけないともいえる。彼の所論には、理論を弄ぶような影は、さらさらなかった。山本伸一は、戸田の顔をじっと見つめていた。
 彼に決定的瞬間がやってきたのは、この時である。
――何と、話の早い人であろう。しかも、少しの迷いもない。この人の指導ならば自分は信じられそうだ。
 世間には、人格ぶった、偽君子も多い。理論・思想・哲学を、さも大学者ぶり、知識人ぶってふり回し、慢心している人も多い…(中略)…
 しかし今夜のこの人は、無駄なく、懇切丁寧に、しかも誠実に答えてくれた。いったい、自分にとって、どういう人なのであろうか…(中略)…
 この夜の座談会には、学会の首脳幹部のほとんどが、列席していた。原山、小西、関の蒲田の三羽烏をはじめ、三島、山平、滝本、吉川なども揃って出席していた。
 そして、山本伸一の入信決定が、どんな風に運ばれてゆくかを、祈るような気持ちで、戸田と山本の顔を見守っていた。
 戸田は何もいわない。山本は、顔を紅潮させ、瞳を凝らしていた。再び、何か発言しそうな面持ちで、落ち着かなかった。
 彼は意を決したように、突然立ち上がって、挨拶したのである。
『先生、ありがとうございました。中国の礼記に〝同感できても、もう一度考えるがいい。同感できなくても、もう一度考えるがいい〟という俚言がありますが、先生が、青年らしく勉強し、実践してごらんと、おっしゃったことを信じて、先生について、勉強させていただきます。
 いま、感謝の微意を、詩に託して所懐とさせていただきたいと思います。下手な、即興詩ですが…』
 戸田は無言でうなずいた。
 一座の人々は、呆っ気にとられていた。
 伸一は、軽く眼を閉じ、朗々と誦しはじめた。

『旅人よ
 いずこより来たり
 いづこへ往かんとするか

 月は沈みぬ
 日は いまだ昇らず

 夜明け前の混沌(カオス)に
 光 求めて
 われ 進みゆく

 心の 暗雲をはらわんと
 嵐に動かぬ大樹を求めて
 われ 地より湧き出でんとするか』

 同行した、二人の文学青年は、拍手を送っていた。
 一座の人々も、それにつられたように、ちょっと拍手を送った。だが、なんと変わった青年だろう――と、いささか度肝を抜かれた思いであった…(中略)…
 山本が、照れたように、腰をおろすと、戸田は、
『山本君、なかなか元気のようだが、体はどうかね…(中略)…まあ、体は大事にしなさいよ』
 彼はこう言った後、ひとりつぶやくように言った。
『十九か、大丈夫、十九か……』
 戸田城聖にとって、この夜、現われた山本伸一が、なぜか、いとしかった…(中略)…
『また来るよ。こんどは、来月になるな。』
 戸田は、席を立った。
…(中略)…
 居残った三島や山平が、いろいろ説明を加えながら入信手続きをとろうと、三人の青年に話しかけてきた。
 二人の友は、決心がつかない――。と、拒否した…(中略)…
 山本にとっても、入信とは――なにかに束縛されるような、いまだみたこともない別世界に行くような感じでもあった。お先真っ暗な、不安のいりまじった複雑な気持ちであった。しかし、今夜の衝撃は、どうしようもなかったのである。
 もう、入信の手続きなど、どっちでもよかった…(中略)…
 戸田城聖という人――それが彼にとって、実に不思議に、なつかしく思えてならなかったのである。
 それから十日後の八月二十四日――日曜日、山本伸一は、三島由造、山平忠平につきそわれて、中野の歓喜寮(現在の昭倫寺)で御受戒をうけた。
…(中略)…
 戸田は、十九歳の春――北海道から上京した頃のことを、しきりと思い出していた。
 牧口常三郎と、初めて会ったのは、その年の八月のことである。その日から、彼の今日までの運命というものが、大きく、新しく滑り出したことを、珍しく思いめぐらしてした。
 ――その時、戸田城聖は十九歳で、牧口常三郎は四十八歳であった。
 いま、戸田は、その四十八歳になっている。そして、今夜の山本伸一は、十九歳だといった。
 彼は、十九歳より、牧口に師事し、牧口を護りきって戦い続けて来たのである。時代は移り変わり、自分にも、真実の黎明の如き青年の弟子が現われることを、心ひそかに期待して居ったであろうか」(P234-254)


 以上が、まさに「正史」にふさわしい、素晴らしく描写された池田大作の師弟の出会いとその後である。
 御覧の通り、見事な創作であり、同時に歴史の改竄を伴っているのが明らかである。
 後に検討するが、その当時の学会員は、これが故・篠原善太郎氏の代作などとは、夢にも思わなかったであろう。

 日蓮は、きっと顔をしかめているだろう。

 

 

  P63へ、続きます。
 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像1、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」

P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)

P52, 時事懇談会資料の検討、謝罪演出と約束破棄、揺らぐ細井日達(2)

P53, 池田本仏論のおさらい、醸成されていた〝人〟の無謬化・絶対化

P54, 創価学会52年路線(池田vs日達)その後, 山崎正友と阿部信雄、ジャーナリズムの見解
P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友

P56, 偽装和解だった11・7お詫び登山、教育者としての池田大作、会長辞任も偽装ポーズ、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(2)

P57, 創価の「師弟不二」の精神、サドマゾ的人間関係、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(3)

P58, 池田大作の独裁化進行、造反者続出、暴力団の利用後切り捨て

P59, 自分一人が「本物の弟子」、暴力団の利用後切り捨て(2)

P60, 人間革命の終わり、消えた非科学的奇跡的信仰体験、病気をする人間は信心が足りない…

P61, 虚妄のベール、原理主義的な学会員と隠れ会員、査問・除名ー切り捨てズム

P62, 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討