今日は終戦記念日 | 社会不適合オヤジⅡ

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戦争体験談、聞いたことある?

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そうです。今日は8月15日。終戦記念日です。
終戦記念日という呼び方と敗戦記念日という二つの呼び方があるのですが、私は(私の世代は)終戦記念日という呼び方のほうが耳慣れています。
 
どちらが正しい呼び名などと意見を述べるつもりはありませんが、終戦記念日という呼び方にはやっと終戦を迎えることができたというような嫌戦感を感じます。
戦争に勝とうが負けようが、ともかく戦争が終わったんだというニュアンスを感じます。
比べて敗戦記念日は戦争に敗れたという暗澹たる思いが少しだけ覗きます。
もしかすると戦いに敗れたことを少し悔やんでいるような、そんなニュアンスが含まれているように思えます。
あくまでも私の個人的な感覚ですから、読み飛ばしてください(^▽^)
 
で、戦争体験、聞いたことある?というお題ですが父親からは多少聞いております。
父は子供に恵まれなかった父方の叔母に養子として預けられました。もちろんそれは8人兄弟という大所帯の口減らしの意味もあったと思いますが。
ともかく父は尋常小学校卒業後、機織りの丁稚奉公に出されて16歳で招集されました。
父は大正14年生まれでしたので昭和の元号がそのまま満年齢でした。つまり昭和16年に招集されたというわけです。
父は大陸にも行ったとのことでした。銃の扱いを認められて狙撃手にも任ぜられたこともありました。
大きな幅の広い河川で向こうの将校(だったかな?)が馬に乗って視察しているところを狙撃したんだそうな。
引き金を引いて撃鉄が信管を打って、頬から銃を下ろしてしばらくすると馬から落ちる姿が見えた。
不思議と命中した時には銃身に手ごたえを感じることが常だったと聞いています。
 
南方に船で輸送されたこともあったそうで、何気なく目に入った木製の樽を見て飲み水が入っているのだろうとぼんやり考えていたとのこと。
それが昭和何年のことかは聞いてはいないのですが、すでに制空権も日本にはなく突然の空襲で輸送船は沈没。
父はとっさにその飲み水が入った樽を抱えて海に飛び込んだんだそうです。
幸いなことに樽はぷかぷかと海に浮いてくれてそれにつかまっていたのだけれど、ヘルキャットだかグラマンだったのか、ともかくアメリカの艦載機が漂流している日本兵へ向けて容赦なく空から銃撃をしていたのだそうですが、父はその樽に隠れることができて一命をとりとめた。
敵機は遠ざかったものの回りの仲間の生存者は僅かになり、日本軍の艦船が救援に来てくれるまで数日大海原を漂っていたとのこと。
 
何とか日本に戻って一度帰省を許され実家である八王子に戻ってくると、母親が自分のことをわからない様子。南方の海上で数日波間に揺れて食事もせずに漂っていたおかげで、さしずめ亡霊のような風貌ではなかったかと述懐していた。
母親に説明するとさらに母は金切り声を上げて、座敷の奥へ父を引きずるように連れて行った。
仏壇には自分の位牌と出征した時の写真が飾られ、白木の箱には遺骨の代わりに丸い小さな石が入っていたそうです。
縁起でもねぇと父はその石を通りへと放り投げ、位牌も始末して写真も写真帳へ貼りなおしたと。
その出征した時の写真を見たことがあります。まるで子供のような立ち姿。それほど大柄な躰ではなかった父だったけれど、それにしてもこんな幼い顔をして戦場へ向かったとは言葉がありませんでした。
 
先に書いた東京大空襲はそれからしばらくしてからだったと聞いています。
空襲が落ち着いて日が昇ってからは、散り々になった部隊間の連絡を取るために燃え残った電柱や街路樹の先に電線を架けていくことの命を受け、どこか別の部隊の生き残りの兵士とともに大きな糸巻きにまかれた電線を持って大通りを歩くはずだった。
はずだった、というのには理由があって、清住公園あたりではおよそ4畳半に6人ほどの割りあいで焼死体が折り重なっているような状況が延々と続き歩くに歩けない。
焼け死んだ人々を避けながらでは一向に距離は稼げず、しまいには手を合わせて死体の上を軍靴で踏みながら歩かざるを得なかったと。
近くを流れる隅田川に浮かぶ焼死体は、干潮時には一度東京湾へ出るのだが、やがて潮が満ちてくると隅田川は川幅いっぱいに焼死体で溢れ、水面など見えないほどの状況だった。
 
どこかの小学校の校庭を再編成された部隊全員で背の高さくらいまで掘り下げて、腐敗し始めた亡骸を運んできては一列に並べて埋めて、土をかぶせてその上に再度亡骸を並べていく。
言い方はひどいが、いわば海苔弁当のようだったと父は言っていた。
何しろ背の高さほど掘ったため、4段ほど重ねて埋葬することができたらしい。
後年、人口が減少して東京中心部の小学校が廃校続きだというニュースを見た父は、「そのうち幾戦幾万の骸骨が出てくるぞ。とんでもない騒ぎになるだろうな」と言っていた。
東京大空襲は3月10日。それからしばらくして梅雨の時期に入ってしとしと雨が降り続く。湿気を帯びた宵の口に、その小学校の校庭が一面真四角に真っ青に火が燃えているのを見た父は、人間の燐が燃えていることを初めて見たということだった。
試しに軍靴で踏みつけ足を離すと、しばらくは靴の形に消えていた青白い炎がバッ!と周りから再び燃え始めた。近くにいた兵隊が試しにタバコの火をつけてみたら火が付いたという。
 
東京大空襲では高々度で巡行できるB-29でも、爆弾を投下するには高度を下げないと命中率が落ちる。そのおかげで数機のB-29が撃墜できたらしい。
夜が明けてから墜落したB-29の搭乗員や積まれていた物資を捕獲するのだが、当時のアメリカのパラシュートはナイロン製で日本にはない素材だった。(デュポン社製ナイロン6ですね)
日本軍のパラシュートは絹で作られていたため、海面に着水すると強度が失われてしまうのだったがアメリカ製のパラシュートは海に浮かんでいても何の異常もないことが不思議だったそうだ。
その後、アメリカのパラシュートは兵隊の間で争奪戦が起きるほどの人気素材になり、仕立て屋が本業の兵隊などはシャツにリメイクすることもあったそうだ。
そして父が最も感服したアメリカの装備は救命ボートだった。
今でいう寝袋のように円柱形にまとまったものに金属製のタンクが添えられていて、ひもを引くとそのタンクから圧縮空気がそれこそ一瞬に帆布地のボートに膨らませるのだそうで、ボートの装備品には飲料水はもちろん、赤十字のマークがついた救急箱と釣り竿まであったそうです。
「なぁ、アメリカってのは釣りをして食料を自分で取れということまで準備してくれてる。それに救急箱の中には今でいうバンドエイドやオキシフル、整腸剤まであったと軍医は言っていた。こんな奴らと俺たちは戦争しているかと思うと情けなくなった」
父はそんなことも言っていた。
 
もう少し断片的に聞いたこともあるのですが、記憶がつながりません。
父はあまり戦争中のことを積極的に話をしたがりませんでしたから。
それでもこうしてわずかながら書き残せる程度のことは聞いています。
 
今日は8月15日。
父親の戦友には優れた知識や見分を持つ若い兵士も多かったそうです。もし彼らが戦死しなかったら、今の日本は大きく変わっていたかもしれません。
破壊と破滅と殺戮をすることは未来の歴史をゆがめることになるんだと、そんなことも父親から学びました。
終戦の年から13年後、私はこの世に生を受けました。
つまり私は終戦からたった13年しか経っていない時に産まれたんです。
もちろん戦争の体験などなく、焼け野原の景色も知る由もありませんが、それほど隔たった時代でなかった事実が自分を驚かせます。

また明日ね(^O^)/~~~

 

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