ある無名な男の生涯 Season7 | 社会不適合オヤジⅡ

社会不適合オヤジⅡ

好奇心、いよいよ旺盛なもので・・・

さていよいよ最終章です。脊椎カリエスに蝕まれた彦蔵にはつらい日々しか待っていないのでしょうか。

そして勿論彼を慕う寅松と妹のゑい、両親はどうすればこの現実を受け入れられるのでしょう。

 

題:『ある無名な男の生涯』

 

第7章・・侍の気構え

 

決して恵まれた環境に生まれたわけではなかった彦蔵であったが、持ち前の好奇心旺盛な性格と、決めたことにはとことん拘る仕事の仕方が、彼を有数の養蚕家へと導いた要因だった。

当時の農村の生活からすれば、現金収入のみで生活することはまずなかった。

勿論農家であるがゆえに作物を出荷し現金化することは当然のことであったが、日々の生活は誠に質素で、明治に入ってもその生活様式は江戸時代とそれほど変わらないものだった。

1867年(慶応2年)のパリ万博は日本が参加した初めての国際博覧会だった。

日本はヨーロッパの先進国に比肩する文明と文化を持つ国であることを披露するために様々な出品物を持ち込んだのだった。そしてその内容は当時のヨーロッパに驚きと尊敬の眼差しで受け入れられたのだった。

鎖国による情報の不足で日本という国の実態を知らされていなかったため、美術的にも工芸的にも優れた展示品に驚嘆しそれはすぐに憧れの対象になったと聞いている。

展示品は既に西洋にその名を知られていた陶磁器の伊万里や九谷を始め、浮世絵、漆芸、七宝、からくり細工など様々であったが、なんと言っても西洋人を驚かせたのは絹織物の素晴らしさだった。

西洋人が欲する日本の工芸品を積極的に輸出することは日本の国力を高めるために必要なことではあったが、政府の富国強兵政策は特に絹織物の増産を奨励し、外貨獲得の先鋒として位置づけられたのだった。

 

「なぁ寅松さん、俺はきっともうお蚕の仕事に戻れやしねぇなぁ。こんな躰でこうやってじっとしているだけの人生になるなんて思っても見なかったってことよ」見舞いに来た寅松に向かって彦蔵は独り言のようにつぶやいた。

「彦蔵さんよ、つまらねぇことを考えるんじゃねぇぞ。聞いたところによれば西洋じゃぁ労咳の薬を前から研究していて目鼻がついてきたとも聞いているぞ。すぐのすぐにオイラ達の手許に来るわけじゃァねぇかもしれん、だがな自暴自棄になっても良いことなど一つも無ぇ」

「俺一人のためにおっ父もおっ母も、それにゑいまで苦しませて面目ねぇ話だよ。ここの療養所の代金も安くは無ぇのだろ?いや、だからと言って自害しようとなどということじゃないぞ、あのな・・・・」

 

彦蔵は天下を取りたいとか望月のような社会的成功者になりたいわけではない。ただただ父母と妹のためだけに熱心に養蚕に取り組みたかっただけだった。そして故郷菅村の名を世に広めることができれば男として生まれた本懐を遂げられると、寅松に告げた。

 

「でな、寅松さん。おれは残された時間で自分のことを書き記しておきたいと思うんだよ。一つも取り柄が無ぇ大した男じゃなかったくせに、今じゃみんなのおかげで 官営規範工場で技術指導などを任されるようになれた。 実はな、菅村の希望の星になりてぇなどと夢を見ていたんだぜオレは。身の丈に合わねぇ望みなんぞするもんだから、きっとこんな病に罹って・・・」

寅松は彦蔵と一緒に始めたあの朽ち果てた納屋で養蚕を始めた頃のことを思いだしていた。

確かに療養生活は冗長な時間の過ごし方を求められる。何もせずにじっと横たわり検査以外は手洗いに行っては飯を食うという繰り返しの毎日は、彦蔵のような者にとってどれだけ沈痛な日々であろうかと、彦蔵の語る言葉を聞きながら、そんなことも考えていた。

「おぉ、彦蔵さん、そりゃぁ良い!うん、そうだよ、俺もな、彦蔵さんがどれだけのことを成し遂げてきたか、村の皆にも知らせてぇ。俺は大賛成だ。それじゃァ早速、硯と紙を持って来よう。すぐに準備するからな、次の休みの日まで待ってくれねぇか、なぁ彦蔵さん」

療養所を後にした寅松は下諏訪の街で硯と和紙を探したが気が利いた文房具屋が見つからず、馬子を呼び馬の背に揺られて開業したばかりの大月駅を目指した。

 

明治28年になり、彦蔵は36歳になっていた。

寅松に相談した自叙伝のような日記も随分筆が進んで来ていた。

「彦造さんよ、元気かぁ?」春の息吹が霧ヶ峰にもやってくる季節、寅松は見舞いにやってきた。

「お・・ぉ、寅・・・さんか。うん・・・・この頃はちょっと具合がな・・・・・良くねぇんだ」

彦蔵の症状はあきらかに悪化していた。ひどい痛みはモルヒネの皮下注射でなんとか抑えられていた。

この時代には高額ではあったがモルヒネによる鎮痛施術も行われ始めていて、日清戦争でも医療従軍者にはモルヒネの携行が行われた。

「そうか、辛ぇなぁ・・・・でももう春になるからよ、暖かくなりゃぁ痛みも少しは良くなるってことよ。

でな、日記はどうなったんだい?今はどの辺りを書いているんだい?」

彦蔵の衰弱した姿を注視できない寅松は日記の話題へと話を移した。

ぽつりぽつりと彦蔵が話し始めたことによると、今はちょうど納屋を改築して蚕室へと改築しているところを書いていたようだった。

大工仕事の殆どは寅松の仕事だった。資金など無い二人だったので村の中の壊れた廃屋を材料として譲り受けたりして苦労の連続だった。そんなことも二人にとっては既に良い思い出になっていた。

「でな・・・寅・・松さん、綴じて本のように・・・するには表紙・・・・が必要だろう?俺な、こんなふうにしてみたけんど・・・どうかなぁ・・・・」

「おぉ!うまいもんだ、彦蔵さんは字も達者だなぁ!すげぇやこれ。俺な、望月様にこの話をしてみたんだぜ、彦蔵さんが日記を書いているってことをな。するとさ、望月様は大層感激して喜んでおられたよ。もしかすると彦蔵さんの日記を本にすることもやってくれるかもしれねぇな」

「う・・ん。あのな、寅松さん。・・・・・頼みてぇことがある」望月の好意の話を遮って彦蔵はそう言うと更にこう続けた。

それは納屋を改造した蚕室に大事なものがあるということで、一階の土間の奥の地袋にそれは仕舞い込んであるという。自分はもうそれを取りにいけそうにないから、寅松に取ってきてほしいと。

行くときは父親の源蔵にひと声かけて、それを持ってきてくれるときはゑいも一緒に来てくれとも伝えた。

「おぉよ、分かったよ彦蔵さん。これから帰って源蔵さんに会いに行ってみんべぇな」

寅松はそう言うと療養所を後にした。

『・・・・・もう長くねえかもなァ彦蔵さん。なんでこんな事になっちまったんだい、なぁ神様、俺は毎朝毎晩薬師如来様を拝んで、酒もあれからずっと断ってるんだぜ。なぁ薬師様、あんた、お薬の神様なんだろう?頼むよ、お願ぇだから彦蔵さんにいい薬を授けてやっておくれよ』

 

***菅村 源蔵宅***

 

「おぅおぅ、寅松っつあんじゃねえか。よく来たな、久しぶりだ。え?彦蔵のところに見舞いに行ってくれたのかい?ありがてぇなぁ、なぁトミ」

「ほんとうにありがてぇ。いつもいつも心がけて下すって、本当に申し訳ねぇ。彦も寅松っつぁんがいてくれてどれほど心強いことだろう」

「いや、俺が今の仕事をしていられるのも彦蔵さんのおかげだ。感謝しても感謝しすぎるこたぁ無ぇ。でな、話があるんだが・・・・」

 

納屋を改造した蚕室は小綺麗に片付いていた。彦蔵とゑいが寅松と一緒に養蚕に取り組んだこの納屋は、源蔵とトミにとって宝物だった。

「え~と、地袋は・・・おぉここだ」

寅松は地袋の引き戸を引く。そこには古びた葛籠(つづら)があり、引きずり出して開けてみた。

「・・・なんてこった。。。こりゃぁおめぇ・・・・・」

源蔵が息を飲み、トミの背を叩いた。

「お前ぇさん、これはひぃじいさまから授かった侍ぇの武具じゃぁねぇか。彦のやつはこんなところに取っておいたのか。きっとなにか思いがあったんだろうなぁ、オラには分かんねぇんけんど」

トミは涙をこぼしながら綺麗にまとめられた武具一式を見つめていた。

 

寅松はすぐにその葛籠を療養所へと運び入れた。彦蔵はその武具一式を葛籠の上に乗せてほしいと寅松に頼み、部屋の片隅に懐かしい甲冑や刀が飾られた。

『・・・・オレはこれを見つけた時に顔も知らねぇお爺のことをかんげぇたんだったっけ。おっ父のまたその爺さまもこの武具一式を大事にしてきた。オレもこの名も知れねぇ侍のように戦って行きてぇと覚悟したんだ。そうさ、オレは名前も残らねぇ百姓の出だけんど、お父とお母とゑいのために・・・・』

 

 

明治28年5月、いよいよその恐れていたことがやってきた。

「望月様、療養所から電報です!きっとこれは・・・・・」

寅松が血相を変えて製糸場の役員室に飛び込んできた。電報を受け取り、文面を読んだ望月の顔が曇る。

「うむ、寅松よすぐに車を呼べ。それとゑいも呼びなさい。一緒に向かおう。それで源蔵様とトミ様には知らせは届いているのだろうか、念の為すぐに電報を打っておきなさい」

 

霧ヶ峰は遠かった。危篤の知らせが届いてから現着まで、誰しも押し黙って一言も言葉を発するものは居なかった。

それでも彦蔵はまだ生きていた。先日ゑいと寅松が一緒に届けに来た曽祖父の武具一式が部屋の傍らに飾ってあった。

「よく来ました。モルヒネで苦痛は抑えられては居ますが、おそらくきっと会話はできません。昨晩から一睡もせず、彦蔵さんはずっとあの鎧や兜を見つめてうわ言のような言葉を発してます」

療養所の医師はそれだけ言うと看護婦にモルヒネの薬注の指示をして一旦部屋の外に出た。

モルヒネの投与が済むと、同じく看護婦も一礼して退室していった。

 

望月が口を開く。

「彦蔵さん、もう良いんだよ。苦しむことはないから。彦蔵さんの尽力のおかげで製糸場は東洋最大の生産量を誇る工場になった。ありがとう。私は彦蔵さんが居てくれたからあの工場をここまで大きく立派にできたのだと思う。じつは払い下げも決まってこれからは民間の工場になることも決まっている。時代は大きく変わっていくんだ。その変革期に彦蔵さんは多大な貢献をしてくれた。それは君の父様も母様も、ここにいるゑいさんにとっても素晴らしく名誉なことだと私は思う。残念だけど彦蔵さんの名前は後世には伝わらないかもしれない。それにご自身もそれを望んではいないと寅松さんから聞いている。私はそのお気持ちを尊重する。だけど君が著した日記だけは上梓させてくれ。菅村の皆もきっと喜んでくれるはずだ。彦蔵さん、こんな私を許してくれ」

望月は最後の別れだと観念していた。

 

「彦蔵さん。俺はもう十分だ。あんたの苦しむところは十分に見させてもらった。生きてぇだろうなぁ、やりてぇことが山ほどあるお方なのに、なんでこんなことになっちまったんだろうなぁって。俺はそんなことばかりかんげぇてた。でもな、あの武具一式を持ってきた時、彦蔵さんの顔は如来様のように穏やかだった。朝晩欠かさずお祈りしてた如来様が降りてきて下すったと、俺はそう思って諦めが付いたんだよ。

ちいせぇころ納屋で見つけた侍の刀や鎧は彦蔵さんの心の拠り所だったんだなぁ。日記にもそう書いてあったことを読んで俺は合点がいったよ、彦蔵さんは戦っていたんだったってことを。学も無ぇ、貧乏な村に生まれた俺達だもの、一度くれぇは表舞台で戦ってよ、たとえ斬り殺されてもいいからよ、侍のように死んで行きてぇ。名もなき侍だけんど、世の中のためになったってことは俺たちがみんな知ってるんだ。見事な侍だったよ彦蔵さんは・・・・」

寅松はそう言うと彦蔵の脇に泣き崩れた。辺り構わず大きな声で泣き続けた。

 

「・・・・あんちゃん。とうとう逝っちまうのかい・・・・あんまりだ、あんちゃん。オラはまだ嫁っこに行く先も決まって無ぇんだぞ。あんちゃんが居てくれたからいつもいつもオラは心配ぇしねぇで来れたのに。早く良い旦那さんを見つけてあんちゃんに楽してもらいたかったのによぅ・・・」

そこまで言うとゑいはもう言葉が続かなかった。

 

明治28年5月8日、彦蔵は短い生涯を閉じた。

享年36歳の春だった。

 

実は製糸場は、彦蔵の没する以前に(1893年・・・明治26年)に三井家のもとに売却されていた。

望月は引き続き三井家に請われその職を続けたが、寅松ともども彦蔵の死を契機に離職した。

望月は彦蔵が書いた日記を「ある無名な男の生涯」という題名で出版したが、それは販売するための出版ではなく、富岡製糸場資料室に一冊、源蔵夫妻に一冊、菅村の役場に一冊、そして寅松とゑいに一冊づつ手渡しただけの発刊だった。無名な男の生きざまを、望月は親類縁者だけには知らせておきたい。それが望月の思いだった。

 

故郷から駆けつけた源蔵夫妻だったが、彦蔵の死に目には会えなかった。

彦蔵は感染症で亡くなったこともあり、療養所敷地内で荼毘に付され、夫妻は遺骨を故郷の先祖代々の墓に納めた。源蔵の意向で裏山に祀った侍の墓標も墓に祀り直した。

彦蔵の戒名は慈光院繭道彦滋居士と付けられた。

名もなき男は彼らの子々孫々へ伝わり、いまでは菅村の源蔵家跡地には小さな石碑が立てられている。望月自身が所有していた一冊も、望月が没する際には望月の家族の意向で菩提寺に寄贈されたという。

 

 

****************** 了 *******************

 

あ~やっと校了です。難しかったです(^_^;)

遅ればせながら、富岡製糸場の名前を使いましたが、史実とは異なることもありますゆえ、どうぞご了承くださいませ。

season1からずっとお読みくださった方、ありがとうございました。

また明日ね('-^*)/


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【遠い呼び声】第1章・第2章・第3章・あとがき

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