ある無名な男の生涯 Season6 | 社会不適合オヤジⅡ

社会不適合オヤジⅡ

好奇心、いよいよ旺盛なもので・・・

自分のやるべきことに真摯に取り組み困難を打ち砕き、求める成果の為に全てを打ち込んできた彦蔵。そんな彼を突然襲ってきた病魔の手。彦蔵の行く末に暗雲が垂れこめます。

 

題:『ある無名な男の生涯』

 

第6章・・別れの覚悟

 

事務所ドアの前で倒れ込んだ彦蔵はすぐに発見され、製糸場内にある診療室へと運ばれた。

ゑいが彦蔵に訴え、望月の号令で進められた労働環境改善の一環で、製糸場には医師が常駐していた。

「あんちゃん、でぇじょぶか!?オラの声が聞こえるか?なんてことだぁ、オラはあんちゃんの具合が悪かったことなんぞ知らねかったよ。あんちゃん、しっかりしてくれよぅ!」ゑいは彦蔵の手を握りずっと呼びかけていた。

彦蔵をいち早く発見したのは寅松だった。錯乱状態のゑいをなだめるように彼はこう言った。

「ゑいちゃん、大丈夫だ。こんなことに彦蔵さんは負けやしねぇ。俺と二人で始めたばかりの頃から比べりゃあ、今は嘘みてぇに体が楽になった。大丈夫だぞ、な、ゑいちゃん」

 

彦蔵の処置は一段落し、先程のような苦痛に顔を歪ませることはなくなった。体の痛みも抑えられたようで、彦蔵は寝息を立てて寝入ったようだった。

彦蔵の処置を行ったその日の当番医師は、望月に目配せをして役員室へと促した。

「どうだい?先生。彦蔵さんは何が原因であんなに苦しんだのかい?」望月は当番医師に訊ねた。

「はい、まだはっきりと決めることは難しいですが、一番可能性が高いのは労咳でしょう」

労咳とは結核のことだが、当時からも不治の病とされ「亡国病」とまで呼ばれる恐ろしい病気だった。

彦蔵が一体どこで結核菌に罹患したのかは定かではないがここ数日、罹患したまま広い工場を歩き回ったことは確かだった。

医師は「西洋の指南書によれば労咳患者は目に見えぬ労咳の種を咳やくしゃみで撒き散らしてしまうとのことだ。彦蔵さんが製糸場以外に出掛けた場所があれば、そこも含めて強い焼酎で洗わなければならぬ。織機もいっとき止めなければならぬ。女工さんに蔓延したら大事ですぞ、望月様」

大正14年に上梓された女工哀史にも、製糸場の劣悪な労働環境からくる感染症の記述がある。

それによると「3ヶ月間で労咳(結核)が治らない場合は、自動的に解雇されて、故郷に戻されても周囲の者に感染させないよう、農家の納屋に潜みながら若い命を落としていった」というような内容であった。

富岡製糸場はゑいの訴えと望月理事のおかげで労働環境は他の製糸場から比べれば雲泥の差であった。しかし後年、その生産性の低さから民間へ売却されることになり、労働時間もその他の福利厚生も見直しが図られることになった。

余談ながら、この時代以降では富岡製糸場も女工哀史の歴史は長くあったのだった。

その後彦蔵は東京の大病院へ移され、精密な検査を受けることになった。

源蔵とトミは居ても立っても居られず病院の近くに宿を取り、しばらく滞在することにした。

「おっとう、おっかぁ・・・・申し訳ねぇ」彦蔵はやっとそれだけ言うと辛そうに目を閉じた。

「彦蔵、あんにもしんペぇしねぇでいいぞ。ここの病院様は日本で一番立派な病院だっつぅこんだ。先生様がきっちりと見てくださるってこんだから、お前様はたんと飯を食らって養生していりゃぁ良い」

トミはそう言うと袂で目を拭ったきり、もう言葉が出なかった。

 

トミは到底担当医との打ち合わせになど参加できる状態ではなかった。源蔵もそれを承知していて、望月理事が来るときを見計らって担当医との打ち合わせに出向いた。

医師が言うには彦蔵は脊椎カリエスだという見立てだった。今までも相当の痛みが背中を襲っていたことと思われ、おそらく胸骨の溶解と癒着も始まっているようだった。

「せきつい・・カリエス、ってのは何でしょう、先生」初めて聞く病名に源蔵はたじろいでいた。

「えぇ。わかりやすく言えば、労咳の菌が背骨に入って蝕む病だとご理解ください。残念ながら彦蔵さんはこれからずっと空気がきれいな療養所でお過ごしいただくことになる。お仕事も諦めなければならないことをご覚悟いただきたい」

 

脊椎カリエスとは結核菌により脊椎が侵される病気であり、背中や腰の痛みが長期間続き、次には隣り合った椎間板、さらには脊椎の周囲まで炎症が広がって膿が蓄積されていく。

病気の進行に連れて背骨が変形し、また湾曲したり屈曲したり麻痺が生じることもある。

現代であれば化学療法という対処があるものの、彦蔵が生きた時代にはまだまだ無理な話だった。

 

三週間の後、彦蔵は長野の結核療養所へと移送されることになった。

しかし東京の病院から療養所のある霧ヶ峰までは並大抵の移動ではなかった。望月のフォードに乗り凸凹だらけの甲州街道を一路諏訪湖まで目指した。それから下諏訪の街で一度休み、そのままどこかで宿を取らねばならない。しかし労咳患者などを泊めてくれる宿などあろうはずもなく、下諏訪の在で富岡製糸場に縁がある農家の納屋を見つけ出し、なんとか頼み込んでそこで一夜を過ごすことになった。

翌朝車で行けるところまで進んだが、途中からは地元の強力(荷役人夫)を雇い、霧ヶ峰高原まで大八車で登っていった。

山道は整備されていると言ってもゴロタ道が続き、牛歩の如き移動では療養所まで丸々1日以上の旅だった。

「あんちゃん、ここはセツさんの故郷に近い場所だ。セツさんもこの地で安静にしていたらすぐに元気になって戻ってこれたべ、だからあんちゃんもでぇじょぶだ。いいかあんちゃん、ヤケを起こしちゃなんねぇぞ。今までずっとおっ父とおっ母とオラのことばかりかんげぇて働き詰めだったもんな、神様がちったァ休めって言って下さったんだべ、きっと。だから・・・・だから・・・もう無理しねぇでくれな、あんちゃん」

ゑいが言った通り、以前体を悪くした同僚のセツが帰郷して療養したのも諏訪の山の中だった。

とはいえ、セツは労咳ではなかったが。。。。。

 

明治27年になると重税に苦しむ朝鮮で農民反乱が起こった。結果としてそれが日清戦争へと広がっていったのだったが、そのニュースは療養所にいる彦蔵の耳にも届いていた。

「・・・お国のために俺もお役に立たにゃぁならん、だがな、この病弱の躰じゃぁな、皆の迷惑にしかならん。全く俺は不甲斐ねぇことだ」

ベッドを部屋の脇に置き、窓から見える霧ヶ峰の山々と湧き上がる真っ白な雲は平和そのものだった。

ムクムクとした白い雲が繭玉に見えたのは療養が始まってからずっとだったが、今の彦蔵にはそれが野戦砲の放つ硝煙の煙に見えていた。

『おっ父、おっ母、ゑい、俺は一生ここから出れそうにねぇや。入院には大層な金子(きんす)も必要なこったろう。きっとゑいが工面してくれているに違げぇねぇ。申し訳ねえぇこった・・・なぁ』

何もせずにじっとしていることは彦蔵の心を蝕んでいた。

『そうだ、寅松のおじさんは幾つになったかなぁ。確かおっ父の八つ下だったから、もういい年になるなぁ。相変わらず汗びっしょりで朝から晩まで働いているんかなぁ』

 

彦蔵は働けることがすごく羨ましかった。それでももうじき自分はこの世から消え去ってしまうことも朧気に理解していた。

『俺に残された、俺に出来ること。そりゃぁ一体何だ。郷土の星になりてぇなんぞと、身の丈に合わねぇことを願ったんで、それで罰が当たったのかなぁ』

『そうだ、手記を残そうか。寅松のおじさんとゑいと三人で納屋でお蚕を紡いでいた頃が懐かしい。あの頃が一番楽しかったなぁ。いつ命が途絶えても良いように、俺の思い出を書き記すことがしてぇなぁ』

 

死期を悟ったかのような彦蔵の思いは、自己の生い立ちと養蚕業への関わりを手記に残すということに行き着いた。

自分の両親よりも先に旅立つことが一番の親不孝だと分かっていたが、それでも彦蔵はもう後戻りできない所まで来ていることを悟っていた。

 

世情は戦争への道へと歩みを進め、労働者への搾取はいよいよ激しくなっていった。

それに合わせたかのように、過酷な労働へと移行していく製糸場のことも彦蔵の耳には届いていないようだった。

 

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いよいよ「名もなき男」の核心部分へと話は進みます。

幸せな結末は迎えられそうにありませんが、源蔵とトミとゑいはどのように彦蔵の死を受け入れるのでしょう。

また明日ね('-^*)/


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【車窓】その1その2その3その4

老人の夢】

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【雲に乗ったよ】

 

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