小説 赤い花白い花(前編) | 社会不適合オヤジⅡ

社会不適合オヤジⅡ

好奇心、いよいよ旺盛なもので・・・

昨年の11月に上げた小説「赤い花白い花」
バックアップをとってなかったので、FC2ブログには収められませんでした。
手許にWordで保存してありましたので、ここにに再掲いたします。

4000文字以上の文章は一度に上げられませんので、前編、後編の二部制でお送りいたします。

では先ず前編を。

第一章/紗季子

「このところ落ち着いているようですね。夜も眠れているみたいですし」

その医師は目の前の、やや背中を丸めちょこんと座っている、若い小柄な美しい女性にそう声を掛けた。

「・・・・はい。薬を変えてもらってから・・・」

それでも表情は無理に作っていることは医師、矢川の目には明らかだった。

「それではもう少しこの薬で様子を見てみましょう。いいですね?」

その小柄な若い女性は矢川の目を見ることができないまま、小さくうなずき

「・・・・ハイ、いいです」と、それでもはっきりとした声で返答した。



矢川はカルテの入力を終え、腕時計を見た。時計の針は11時半になるところだった。
白衣を壁のハンガーフックに掛け、近くにいた看護師に早めの昼にすると伝え診察室を出た。
彼は事務局に向かい、奥の部屋のドアをノックもせずに開け、こう声を掛けた。
「やぁ、林田さん。少し早いけれど昼飯にしませんか?」

「うん、そうだな。俺も取り敢えず時間が空いた。それに今なら食堂もまだ行列ができていないだろうし」

林田と呼ばれたその男は、この病院の事務長職を任ぜられた50代後半の男だった。

「さて今日のランチはなんだ?なになに、銀鱈の西京焼きと和え物、根菜の煮物と澄まし汁、そしてご飯か。まぁ健康食だな。これだと600kcal程度だろうな」

「我々にはちょうどいいけれど、医局の若いヤツらにはちょっと物足りないかもしれませんね」



医師と事務長で話す話題など取り立てて面白い話はない。子供の就職のこととか妻の買い物のことぐらいだ。
しかし林田には妻はいなかった。いや決してずっと独り身でいたわけではなかったが、別れた理由はつまらない行き違いからだった。

「おや?あの子。ここでお昼ごはん食べてるのか」

先ほど診察に来たその若い女性、竹内紗季子が食堂の隅で一人で食事をしているのを矢川は見つけた。

「林田さん。あそこに座っている女の子、先月から私が見ている患者だ。非常に優秀な才女なのにどうも世の中っていうのは非情なところがあるね。その感性と表現が他人との協調性に欠けてる程度の個性と呼ぶべきレベルじゃないかと俺は思う。ところが彼女は思春期を迎えてからその食い違いを常人との精神的な相違と誤解して、それが蓄積された結果軽いうつ傾向にある。私が思うには非常に繊細な心を持っている女性で、だから余計に精神面の成熟度が不足しているだけだと思うのだけど」

「ほう。事務屋の俺には難しい話だ。もう少し簡単に言ってくれ」

「う~ん、そうだな。例えば美術、絵画、造 形、歴史、それらの対象に常人以上の感じ方と理解力、いやその人独自の理解力だが、を持っているって思ってくれ。だから興味を持つ様々な対象物を自分の頭の中できちんと完結できている。ところが、いや、だからこそ、個の形成が偏ってしまうことになるんだ。知らない人から見れば彼女は非常識な人間だと思われるかもしれない」

林田はそういうことがあるのかと少し箸を休めて言葉を探したがうまく言葉にならず、午後から出向くメインバンクの営業部長との遣り取りを上手いこと進めなければならないことなどを話題にし、昼飯を終えた。
昼休みを終えた林田は洗面所で歯磨きをし、髪を直しネクタイを整えて自分の車を停めてあるパーキングへと向かった。

業務で出かけるのだから本来は法人所有の業務車両で出向くのであるが、林田はどうもあのCVTとかいうトランスミッションが好きになれず、その上接地感が乏しいのに出足だけ俊敏なセッティングも彼の好むところではなかった。



彼の愛車はアルファロメオ156。もう15年以上も前の車だったが彼はこの前に乗っていたメルセデス190E・2.6からこのジャジャ馬に乗り換えた。
メルセデスと比べ、このアルファロメオという車は、あちこち手を入れなくてはならない面倒な車であることは確かだった。
しかし長く付き合えば付き合うほど引きこまれていくような、そんな不思議な魅力を感じさせる車だった。
もしかしたら本当に愛した女性と暮らすことっていうのはこういう感情なのかもしれないと、結婚に失敗した林田は感じていた。

「おや?あの娘は」

林田の156をジロジロと見ていたのは、先程矢川から聞いた若い女性患者のようだった。

「どうしました?私の車に何か御用ですか?」

「・・・・かっこいい車ですね。乗せて下さい。車の中も見たいです」

林田は突然の申し出に少したじろいだがすぐに取り直し、こう告げた。
「えぇ、かっこいいでしょ。自分でも気に入って長く乗っているんです。ただ、これから仕事で出かけなくちゃいけなくて急いでいる。約束は必ず守るから、また会える日と時間をきちんと決めておこう。それでいいかな?」
「・・・・こんど、私は再来週の火曜日に、矢川先生のところに来ます」

「よし。ちょうどいい。私は再来週の火曜日は午後から休みだ。午後2時にまたここに来て下さい。そしたら貴女をお乗せ出来る」

そう言うと林田はドアを開けて乗り込み、紗季子を残したままゆっくりと走りだした。

『矢川から聞いてはいたが、ナルホド変な子だ。でも常人からは理解されづらい俺の車に興味を持つなんて、そういう意味では俺と同じ仲間かもしれないな』

林田は彼女と自分を引き寄せて理解したことを自分でも不思議な気持ちがしたが、大通りで車の群れに合流した頃にはそれも忘れていた。


第2章/もうひとりの自分

突然の巡り合わせに約束をした林田だったが、これは否応なく起きた事故のようなものだと回避できなかったことを自分なりに解釈した。
半休にしてあった火曜日はその理由があり、この日は日比谷にある美術館に特別展を見に行く予定だった。

「やあ、こんにちは。具合はどう? 矢川から紗季子さんのことは少し聞いた。もし途中で気分が悪くなったら遠慮無く言ってくれ」

「・・・・はい。多分大丈夫。薬、良く効くし」

「そうか、それならいいんだが無理はしちゃダメだぞ」

「・・・・約束守ってくれてありがとう。迷惑かけてるよね・・・」

「いいんだよそんなこと。俺の方から約束させたんだから守って当然だ」

林田は立体のパーキングを下り、車を晴海通りへと向け、しばらくすると隅田川を渡る勝鬨橋に差し掛かった。

「・・・・バスは嫌い。この橋はいつもは歩いて渡るんだ」
「・・・・自分の足元をすごく広い川が流れてるって不思議」
「・・・・空中に浮いてるみたいだからこのまま飛べそうな気がして気持ちが晴れるんだ」



「・・・・時々トンビも飛んで来る。餌は何をたべてるんだろう」
「・・・・ああやって翼を広げてゆっくりと飛んでいるの羨ましい」

感情を表情に表さずにポツポツとしゃべる紗季子を横目で見ながら林田は「ふ~ん」とだけ返事をし、この話はそこで終わってしまい続くことはなかった。

やがて東銀座を過ぎ、二人を乗せたシルバーの156は日比谷交差点で皇居のお堀に出て右折し、そして帝国劇場ビルへと向かった。

「・・・・劇場の上に美術館があるなんて変」

紗季子は相変わらず表情を変えずにポツリと呟き、林田は「そうだね」とだけ答え、向かいのビルの地下駐車場へと車を滑りこませた。
林田の見たかったのは狩野派の絵画を時代別、作者別に分けて展示した特別展だった。
紗季子は日本の絵画にも興味を持った時期があったらしく、林田は日本の御用絵師についてこんな若い子と会話をするなんて夢にも思わなかった。



展示してある絵画や屏風など一つ一つに足を止め長い時間を掛けて鑑賞していた紗季子だったが、この「伝狩野元信筆 老松小禽図屏風」の前に来た時、彼女の足が止まった。

「どうした?この屏風が気に入ったのかい?」

林田は今度は紗季子の顔を正面から覗きこむようにしてそう訊ねた。
紗季子は林田に一瞥をくれること無く、その魅力的な瞳は屏風を食い入る様に見つめ、そしてやおら今までとは違った喋り方で感想と意見を述べ始めた。

「・・・ この絵、不思議な感じがするの。今は展示の為に平たくされてるけど、障壁画っていうことは本来少し折って立てるのでしょ?そうすると左の幹は左手前に近寄って、右の枝は右手前に近寄って見えるはず。ちょうど右雙と左雙の中央上部に見切れて描かれていない太い枝が頭上に横たわるってことよね。当時は遠近法という概念は無かったはずなのに、もしかしたら三次元的な配置をすることで二次元の屏風に描かれた風景にリアリティをもたせる技巧的処理を狙ったってことかな。日本人て異常だわ」

面白いことを言う娘だと、林田は感心した。そしてさっきまでと違って一気に喋ったことに少し驚いたのも事実だった。
彼が狩野派の絵画を好むのは、元来中国の宋元時代の模倣から始まり、やがて日本独自の絵画へと昇華させた狩野一族の持つ日本的な審美眼に惹かれたからだった。
そこには確かに遠近法という概念はまだ生まれておらず、水墨画独特の滲みやぼかしなどにデフォルメを加え、後世の印象派なども模索していた光と空気を既に描いていたことこそが林田の心を惹きつけていた。むしろ積極的に描かないことで饒舌な絵画を表現するという、我が国独自の技法を感じ取れるこの若い女性に感 心した。

「そうだね。そんなこと今まで考えたこともなかったよ。やはり矢川の言うのは正しいね。貴女は非常に興味深い感性をお持ちだ。今まで室町や鎌倉時代の日本絵画に触れたことはあるのかい?」

「・・・・画集でパラパラとめくって見る程度でしたら見たことがある」
「・・・・でもやはり本物は写真とは違う。多分初めて見たと同じこと」

と、ここでまたブツ切りの話し方に戻ってしまった。
林田は彼女との会話の入り口をどこに求めればよいのか考えあぐねていた。

「俺はね、ホームページで狩野派の絵画について取るに足らない私見をつらつらと書いているんだ。是非紗季子さんにも見てほしいな。できれば感想などもコメントしてくれると有り難い」
そういうと林田はスマホで自分のホームページを検索し、一昨日アップした記事を紗季子に見せた。

『俺は一体どうしたっていうんだ。156に興味を示してくれる若い女性だからって、そんなことで親しくなるのは変だぜ。それとも何かオレの琴線に触れるってやつか?わからない。いい年してるのにかまってくれる若い女の子が欲しいっていうのか。そりゃ益々変だ』

結局美術館では4時間ほど過ごしたが、この美術館で4時間なんて鑑賞時間は最長記録だった。
紗季子の興味はデザインや画風のみに留まらず、描かれた時代背景や権力者の相関図まで俺に訪ねてくるほどだった。
おかげでこっちも絵画に対峙の仕方を改めて考えさせなおされたと言えなくもないが。
いやはや面白い。矢川の見立ては大したものだ。

林田は自分と遊んでくれたお礼に夕飯くらいご馳走しなきゃなと思い、車を銀座へと向けた。

・・・・・・翌日・・・・・・・

「全く林田さんにも驚かされる。自分の病院の患者さんと、しかも二回り近く年が違うっていう若い女の子と美術館でデートしたなんて。独り身だからってあまり奔放な行動はまずいぞ。病院内ってのは変な噂はあっという間に広がるからさ。気を付けなよ」

翌日出勤すると矢川は林田に向かって、こんな忠告ともやっかみとも聞こえるような言葉をかけた。

「あぁ、 わかってる。気を付けるさ。ただ彼女の精神構造をお前から聞いいていただろう?約束を破ったらまずいと思ってね。引率みたいなもんだったけど、美術館の後は夕飯を一緒に食って新橋駅まで送っていったよ。もともとはオレの車に乗ってみたいっていうのが彼女の目的だったから首都高を少し流してさ、芝公園あたり ではライトアップされた東京タワーを不思議そうな顔で見てたっけ。ただ面白い子だなって感じたのは絵画の印象を聞いた時だ。お前の言うとおり勉強も嫌い じゃないし理解力も高い。そして感受性が強く感性は鋭いね。狩野派を研究しているって自負してる俺でさえ感心して意見を求めたこともあったほどだ」



「だろう?おれは別に安定剤や睡眠導入剤を処方する必要性はそれほど感じていないんだ。ただ、自分の気持ちが自分の神経を過敏に刺激してしまっているところがあって、それを抑制するにはある程度の薬剤の摂取は必要かなと思って処方してる」

「矢川、俺は医者じゃないからわからないんだが、その過敏に刺激している部分っていうのを薬剤ではなくて別な方法で抑制もしくは緩和させる手段は考えられないか」

「そ うだな。例えば彼女なりに受け入れられるような恋人を作ることかな。互いに良き理解者になれるような恋人を作れば少なくとも不安感や焦燥感は抑制できる。 他の誰の言葉も受け入れられないような精神状態のステージに落ちても、恋人の言葉まで拒絶するようなことは無いと思う。なぜならその彼は彼女自身でもある はずだからさ。そんな彼がいればステージを上げ、維持向上させることも可能性としては考えられるな・・・・って、お前まさか」

「いや、ちょっと気になっただけだ。それだけだ」

あの日以降、林田は紗季子のことが気になって仕方なかったのは正直な気持ちだった。
二回り近く年が離れた紗季子を男女の関係で考えることは無かったが、156のデザインのことや初めて見る屏風絵を自分なりに直感的にそして独創的な受け入れ方をした彼女のことを思うと、もしかしたら自分に徹底的に欠落している物を彼女は持っているのではないかと、その人間的な魅力に惹かれ始めていた。

軽い気持ちで言ったホームページへのコメントも時々書き込んでくれている。それも一度読んだだけでは彼女の本意が図りかねるような文章で。
難解な心理を読み解くようなコメントは、これもまた林田の心情的興味を大いに奮い立たせることになっていた。

「不思議な女の子に出会ったもんだ」

林田はそうつぶやくと事務局の部屋へゆっくりと歩を進めた。

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まずは前編。続いて後編をお送りいたします。