決して裕福な家に生まれたわけではなかった彦蔵であったが、幼少期からの好奇心の高さと家族への思いの強さから、養蚕農家という道を歩むことに至る。
一方、明治という新しい時代は、日本という国そのものを大きく動かし続けていたのだった。
題:『ある無名な男の生涯』
第三章・・ゑい
明治9年になり、細々とはいえ彦蔵と寅松の養蚕も次第に定着してきたようだった。
源蔵とトミが先祖代々守ってきた田畑の畦にはたくさんの桑の木が植え付けられて、少なくとも彦蔵が蚕を飼うのに十分な桑を自前で調達できる程度は確保できていた。
「寅松っつぁん、俺、金治郎さんとこ、行ってくる。そろそろお蚕の種が売りに出されるっていうことだ」
「おぅ!金治郎に言ってな、とびきり良い種を分けてもらって来な。何しろ菅村の彦蔵が育て上げるお蚕だ、金治郎も鼻が高いってもんだからな」
蚕の卵は「種屋さん」と呼ばれる、限られた免状を与えられたものだけが販売を許された。
金治郎の家は元々が村役を務めていた豪農で養蚕業も早い時期から始めており、そのため種屋として蚕の卵を売ることを認められていた。
一方、不定時ではあったが彦蔵は望月に請われ、富岡製糸への訪問を始めていた。
どうやら彦蔵は彼が体得してきた高品位な生糸を紡ぎ出すコツのようなものを技術向上へ繋げ、この大規模な製糸工場の生産品質を向上させる手伝いをする立場にもなっていたようだった。
これも後年、近親者へ彦蔵が語ったとされる記述の中に、「(富岡)製糸場の湯返し機は最初の頃はうまく作用していなかった。俺が見るには釜の形が成ってなく、あれじゃぁ生糸がくっつき合う。揚返しがどれだけ綺麗に出来るか否かで、生糸の仕上がりは雲泥の差だ。望月さんの英断で全部の湯返し機を入れ替えて、それから製糸場の生糸は本当にきれいになったものだ」とある。
ところで彼の妹のゑいは数えで15歳になっていた。
源蔵は知り合いを通じて、ゑいを大きな造り酒屋へ奉公に出すつもりだった。
3年、もしくは5年の奉公をさせることで、接客などの付き合いできちんとした受け答えができるようになり、旦那やおかみさんの身の回りの世話で裁縫や掃除、炊事も習得できる。もちろんそれまでも両親の手伝いは幼いうちから仕込まれてはいたが、大店の造り酒屋での奉公で得られるものは全く異なる。
ところが彦蔵はもう2年前からゑいに養蚕の手伝いをさせていた。いや、すでに今は手伝いというよりも彦蔵と寅松とゑいとの3名で、この家内制手工業と呼ぶレベルの養蚕業をなんとか維持していたと言ったほうがいい。
「お父、ゑいのことだけど・・・・」ある日、彦蔵が父親の源蔵に声を掛ける。
「おぉ、ゑいは16になったら奉公へ出すことになってる。本当は13の頃には行かせるつもりだったが、お前のお蚕様を手伝わなければどうにもならない時だった。仕方なく3年先延ばしはしたが、もうそれも時を失ってはゑいの為にならねぇ。大きな店で嫁っ子の修行をさせて顔を覚えてもらって、いいところに嫁の口を紹介して貰いてぇ。こんな田舎の貧乏な家でずっと暮らさせるのは、俺には耐えられねぇ」
それは彦蔵もよく理解していた。
本来ならばとっくに大店の奉公に行って様々な作法を教わりながら旦那さんと奥様に仕えなければならない年だった。
大店であればあるほど付き合いの幅は広く、お付き合いのある店の若い衆にも見初められるかもしれぬ。もしも万が一にもゑいが立派な商家の旦那に気に入られて嫁に入れれば、それは父母にとっても彦蔵にとっても望外のことに違いなかった。
「おっ父、俺もそう思うんだ。ゑいが手伝ってくれることはとても有難てぇ。でもな、ずっとこのままじゃいけねぇってこともよくわかってる。いちどゑいとおっ父と三人でこれからのことを話してぇんだ」
彦蔵はゑいとの別れを覚悟しなければならないと、それを覚悟して源蔵の目をじっと見つめていた。
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はい。今夜はここまで。
彦蔵は跡取りの長男ではあるが、ゑいは家を出ていく身。
若い二人のこの先に待つものとは一体どんな世界なのでしょう。
彦蔵はこのまま養蚕で身を立てるのか、それとも・・・・・・
続きは・・・・・・・・・・また明日ね('-^*)/
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