◆ 丹後の原像【37.「丹後史料叢書」 ~緒言 2】
「緒言」の続きです。
今回もちょっと期間が開いてしまいました。
一記事を上げるのに大変な負荷がありまして…と毎度の言い訳を。
ところで…話は変わりますが
そもそも何故に、
遥々と大和から丹後まで足繁く通い…
またこのような大仰な記事を作り続けるのか…
それはただ一つの理由。
「豊受大神を知悉する」こと。
古代より連綿とこの神を恭しく祀り続ける丹後に、大変に魅せられたため。
大和にいながらにして、時に丹後へ足を運び、
同じように豊受大神を奉斎したい!
ひたすらその思いを持ち続けています。
年間二千社ほどバカみたいに拝し続けている原点はこれ。
自宅の神棚は三社造ですが、
もちろん中央は豊受大神に鎮まって頂いております。両脇殿も異なるお社で賜った豊受大神の御札を。
ちなみに配祀神はおそらく百座以上おられ、
ご神域は八百万の神々でごった返しておられますが(笑)
恒例の余談はここまでにて。
(これでも半分以上削りましたが…)
豊受大神がいつ頃丹後に降臨したのか。
もちろん弥生時代なのでしょうが、
具体的にいつ?丹後に稲作が伝わった時?
前回の記事で、「丹後国風土記」には豊受大神降臨以前に天火明神が降臨したとある…と記しました。筆者は天火明神の降臨を神話と見なしています。
豊受大神降臨の方が先なのだと思います。
そうしないと丹後の歴史が変わってしまう!
かなり引っ掛かる部分であるため、
今回も重点を置きます。
「(丹波)郡内には丹波郷があり 其の接続上流の水源が五箇谷の豊受大神降臨地で 雄略天皇の朝に皇太神の託宣によって伊勢に遷しまいらせたのが今の外宮であるが、郡内には神徳を讃えて奉祀した神社が多く延喜式には丹後九座ある。即ち大宮売神社二座名神大、咋岡神社、波彌神社、多久神社、稲代神社、名木神社、矢田神社、比沼麻奈爲神社の九座は豊受大神となって居るが 一郡一神を祭ることは全国に其の類例が無い」
「五箇谷」とは現在の京丹後市峰山町「五箇」のことと思われます。豊受大神の降臨地として名高い「磯砂山(いさなごさん)」から北側麓までの地域。
そして丹波郡内の式内社九座がすべて豊受大神を祀るという、全国唯一の郡であると。
そう言われてみるとそうでした!分かっているようで案外分かっていなかった…と。
「丹波の語原が田庭でニをンと鼻にかけたので 自然とハが濁ってバとなったまでで 我が瑞穂の国農業の発祥地は即ち我が丹後国であった」と。
これは日本の農業の発祥地を言っているのではなく、丹波国から分離独立した丹後国こそが、旧丹波国の中の発祥地であると言っています。
「夫れから出雲文化の影響を受けて漸次開発し 亞で(次いで)天日槍の斎した大陸文明を同化し 大和文化と交渉して著しい発達を遂げ 爰(ここ)に史上に燦然(さんぜん)たる丹波族の勃興を見るに至ったものか」と。
出雲文化の影響を受けたというのは、出雲式の四隅突出墓の分布を見ても明らか。また籠神社の源流となる社家の海部氏が祀っていたのは、出雲の熊野の神であるという説も(→「甲山」の熊野神社の記事を参照)。
「天日槍の斎した大陸文明」と大和文化については以降で。
この後は長くなるので直引きせず要点のみ載せます。いわゆる記紀等の史実通りの内容。
「丹後王国」の成立過程を、あらためて掲げておくにはちょうどよいかと思うので。
◎丹波大縣主由碁理(ユゴリ)の娘である竹野媛が、第9代開化天皇の妃となったのが始まり。神武天皇以来、初めて畿外から皇妃が立ちました。
◎開化天皇と竹野媛の間に彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)が生まれます。さらにその子が木筒木垂根王(キツツキタルネノミコ)。その娘の迦具夜姫命(カグヤヒメノミコト)が第11代垂仁天皇の妃となっています。
◎開化天皇の皇子である彦坐王のさらに子が丹波道主命。第10代崇神天皇の朝に「四道将軍」として丹波国(主に丹後国)へ派遣されました。
◎丹波道主命は熊野郡の河上麻須良の娘である河上麻須郎女(カワカミマスノイラツメ)を娶り、生まれたのが比婆須媛命(日葉酢媛命)。その比婆須媛命は垂仁天皇の皇后となりました。◎垂仁天皇と比婆須媛命の間には第12代景行天皇や倭姫命などが生まれています。また比婆須媛命の妹である沼羽田之入姫命、阿邪美能入姫命も垂仁天皇の妃となりました。
この時期で見逃せないのは以下のこと。
◎神武天皇から開化天皇まで天皇と同殿であった「三種神器」が、崇神天皇の御宇に神器と居を共にするのは神威を消す恐れがあるとの思召しから「倭笠縫邑」に遷されました。
垂仁天皇皇女 豊鋤入姫命をして斎祀らせたものの、幾くもなくうちにさらに大宮の地を定めて斎祀れという神勅がありました。
◎そして先ず向かったのが「吉佐宮」。この「吉佐宮」は「與謝郡文殊だとも、府中だとも、加佐郡河守邊だとも云ふが兎も角丹後であることは事実らしい」と記しています。
「與謝郡文殊」とは「天橋立」の南側付け根のこと。「與謝郡府中」とは眞名井神社のこと。加佐郡河守邊とは皇大神社のことと思われます。
笶原神社や竹野神社も候補地として挙げて頂きたかったところですが…。
◎これと相前後して紀に記されるのが、「日子坐王(彦坐王)を丹波国に遣わして玖賀耳之御笠(クカミミノミカサ)を討たしめた」。
(参照記事 → 失われた大王「玖賀耳之御笠」 1・2・3)
◎彦坐王の子で丹波道主命の弟が山代大筒城真若王。その子が迦邇米雷王。そこに丹波遠津臣の娘である高材姫を送り、生まれたのが息長宿禰王。
息長宿禰王は但馬国造となり、その娘である息長帯姫命が仲哀天皇の皇后となり、神功皇后と称されたと(→ 息長氏系譜の記事参照)。
皇室と丹後がいかに親接であったかが語られています。
少し話は飛びますが丹後の巨大古墳のことが記されています。これは皇室と丹後があまりに親接であったため、宇多天皇陵などと当時は誤解されていたという話の流れから記されたもの。
◎網野銚子山古墳は所在地名を「ミヤケ」ということから推して、皇族の御方であろうとの想像が附き、開化天皇皇子である彦坐王のものではないかと。一族は「日下部」を名乗ってこの地方に繁栄したという事実もあることからと。
◎竹野の大古墳(神明山古墳)も地名に「國主」というのがあり、國と道とが同義であることから推して丹波道主命ではないかと。
この二基の古墳についてはいろいろと説がありますが、おそらく父子の古墳とみるべきかと思っています。
「ミヤケ」(「宮家」のことか)、「國主」という小字名があるのをここで初めて知りました。
続いて非常に興味深い記述が掲げられているので上げておきます。
◎「竹野神社の社伝に国家変事のときは神前殿中から飛ぶと云ひ 又代々の斎女は熊野郡市場から上ると伝ふる所から推して、軍事に関係があって熊野郡に縁故のある御方と見れば 先づ丹波道主命を推すべきで…」と。
これは神明山古墳を丹波道主命の墳墓とする理由の一つとして上げられているもの。竹野神社はその古墳に隣接して鎮座します。個人的には竹野媛が眠る可能性もあると思っていますが。
「熊野郡市場」というのがなぜ関係するのかは不明。ただこの地には産霊七社神社という謎深き社が鎮座しており、古代丹後を紐解く鍵の一つになるのかもしれません。
また「神前殿中」から飛ぶというものが何なのかが示されていないため、よく分からないものとなっています。今後確認を取っていきたいと思うのですが…宮司不在のお社であるため難しいか…。
この後はいわゆる「丹後王国」というほどの繁栄は沈みます。歴史に現れるのは以下のこと。
◎第20代安康天皇、21代雄略天皇の朝に色々なことが起こりました(安康天皇暗殺、雄略天皇による周辺有力者の総殺害)。第17代履中天皇の皇孫である億計王・弘計王の二王の「難を丹波の余佐(与謝)に避く」。
周辺有力者を次々と葬った雄略天皇は二王の父も葬りました。身の危険を感じた二王は与謝へ隠棲。
◎二王を「庇護し奉ったのは三重谷の長者 日下部真黒人だと云ひ 筒川の長者 日下部首だと云ひ 或ひは須津だとも府中だとも温江だとも與謝だとも云ひ 或ひは加佐郡大内だとも伝へて一定せぬが…」と記しています。
おそらくは隠棲が露見されないように、各地を転々としていたのだろうと思います。また日下部氏が彦坐王の末裔であることから、安心して身を寄せられたのではないかと。
この日下部氏から輩出された者に伝説の浦島太郎がいます。雄略天皇の朝に龍宮に往き、342年後の淳和天皇の朝に還ってきたと。
水江浦嶋子(浦島太郎)が「雄略天皇二十二年秋七月」というのが問題では?と。
◎「皇太神宮史」には「人皇第21代雄略天皇)即位二十一年十月朔日に至り 皇祖大神の大御言として (中略) 宜しく丹波の比治の眞名井原に坐せる豊受大神を呼び寄せて (中略) 即位二十二年九月朔日 山田原なる新宮(現在の皇大神宮)に鎮座ましませり 之を外宮と申し…」とあります。
遷幸は同年七月から九月までかかったとのこと。これが水江浦嶋子が龍宮に往ったときと重なると。
◎「惟ふに島子は一介の漁師ではあるまい」としてこれは偶然の一致ではないとみています。
これは思いも寄らなかった展開!
確かに偶然の一致ではなく、必然のことなのかも。もちろん「乙姫」は豊受大神ではないというのが定説で、同神とするのはあり得ないこと。それよりも島子が同時期に龍宮へ向かったこと、また姿を消したこと、これこそが何か謎を秘めているように思います。
また一つ、生涯をかけて突き止めねばならない課題ができたと。
この後は短い挨拶文で締められています。
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
今回は長い記事となってしまいました。
文脈上ぶった切れなかったことと、「緒言」で3記事もかけるのはまずいな…と。
次回よりいよいよと
「丹後風土記」残缺の本文に入っていきます!