◆ 丹後の原像【19.失われた大王 「玖賀耳之御笠」 ~1】 


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丹後を巡っていると折に触れ登場するのが「玖賀耳之御笠」(クガミミノミカサ)。「陸耳御笠」という表記も。

敗者の歴史として、今回はこの人物(神)に焦点を当ててみたいと思います。


記の御真木入日子印惠命(崇神天皇)の状に、「また日子坐王をば旦波國に遣はして玖賀耳之御笠を殺さしめ給ひき」とあります。
これは四道将軍派遣の中の一行。紀には記されません。

「勘注系図」にも、土蜘蛛である陸耳御笠が日子坐王に討たれたとあります。

これらは大和王権が丹後を支配していく過程のもの。丹後国周辺を支配していた「大王」のようにも見受けられます。

丹後国の研究自体があまりに遅れていることもあり、玖賀耳之御笠についての研究などもってのほか。
素人ながらに素人レベルで、ちょっとあぶり出してみようではないかというのが今回の試み。


これまで「【丹後の原像】テーマ」で触れてきた大方の記事が、それ以降の歴史を書いてきたのに対して、その直前の時代ということになります。

一方で「丹後國風土記」残闕には多数表記が見られます。

記や「勘注系図」は大和王権側からの立場で書かれていますが、もちろん「風土記」も王権側からの立場の記述。

先ずは青葉山「甲岩」に関する記述から。
「甲岩は古老伝に曰く 御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の御代に 当國の青葉山中に陸耳御笠と云う土蜘蛛の者有り その状人民を賊う(そこなう) 故に日子坐王勅を奉り来てこれを伐つ」とあります。

この後には「甲岩」に関する記述が続くものの、残念ながら「青葉山」に登拝もしていなければ、ネット資料でもそれらしきものは見当たらず不明。本題に戻ります。

丹後国と若狭国の国境に「青葉山」があります。現在も同じ山名。丹後と若狭を繋ぐ大動脈、国道27号線の北側。東舞鶴になります。一帯は山々となっており、当時はある固有の山を指していたのか、全体を指していたのか不明。

ここで日子坐王が陸耳御笠を討ったと。陸耳御笠は「土蜘蛛」とされています。記紀など神武東征神話に多く登場する「土蜘蛛」。大和王権側にしてみれば、まつろわぬ者すべてを「土蜘蛛」などと呼んで片付けています。その一つ。

その「青葉山」西方5kmほど、国道27号線沿いに鎮座するのが阿良須神社陸耳御笠を討つために、日子坐王が豊受大神に御加護を求めたことを由来とする社。

現在の「青葉山」を御神体としているのではないかとされるのが、南東3kmほどに鎮座する青海神社。また南方中腹に鎮座するのは金劔神社(未参拝)。



阿良須神社を含め、いずれも製鉄鍛冶の匂いをぷんぷんさせる社。

そもそも大和王権の四道将軍派遣は、勢力拡大を一番の目的とするものの、鉄資源確保という目的も持ち合わせていたと考えています。

この時代、「鉄」が無ければ戦もできず、農耕もできず。「鉄がすべて!」な時代。

残念ながら大和国の最大の弱点は、「鉱山」の致命的な不足。丹後や吉備などに鉄を求めて四道将軍を派遣したと考えるには十分かと(※丹後は交易により鉄資源が豊富にあった)。
この玖賀耳之御笠征討においても、当てはまるのではないかと考えています。


続いての「丹後國風土記」残闕の記述。
「爾保崎 爾保と名付けられる所以は 往昔日子坐王勅を奉り土蜘蛛を逐する時に その採り持つところの裸劔は潮水に触れて以て銕精を生ずる 即ち二羽鳥忽ち並び飛び来たりて その劔の為に貫き徹され死す これによりて銕精は消えて故に戻る 故にその地を爾保と云うなり

「爾保崎」という地名は見当たりません。下安久に「匂崎」という少々海に突き出た場所があり、そこではないかと考えます。「二尾」というバス停も有り。舞鶴西港としてかなり埋め立てがなされているので、古代の地勢は分からなくなっていますが。

「ニホ」「ニオ」と来れば、それはもう「丹生」を連想せずにはいられません。残闕にも鍛冶を匂わすような記述がありますし。



…今回はここまで。


《続く》