◆ 丹後の原像【18. 「徐福」の余福】
ま…ダジャレですけど。
いろいろ悩んだ上、このテーマについて。
「徐福」(ジョフク、シューフー)の上陸地とされるところをいくつか巡っていますが、いずれも村人にとても慕われていたという伝承が残ります。
大陸から多くのものを伝えたように思います。「徐福」が残した「余福」は、あまりにも偉大だったと。
丹後にもはっきりとした伝承地があります。
まず「徐福」について簡単に。
日本での読みは「ジョフク」、
中国での読みは「シューフー」。
正確な名は「徐市」(ジョフツ)。
紀元前219年、秦の始皇帝の時代。「海中に三つの神山あり」(「史記」による)と始皇帝に奏上しています。
ところが10年後に「徐市らは海に入り神薬を求めるも、歳を数えても得ず」と。
徐福は海の向こうの「神山」に「神薬」を求めたのです。「神薬」とは不老不死の薬のこと。
初めて中国全土を統一した始皇帝が次に狙ったのが不老不死、つまり寿命。
徐福らは大船団を組んで東方の海へ航海に出ました。
始皇帝に要求したのは金銀財宝、男女500人、大船85隻。実際に繰り出した人数は500~6000人(資料により異なる)。
そして目指した「海中」「東方」というのが日本だったと考えられます。日本では弥生時代に入った辺り。
最終到着点だったとされる富士山の麓には、「徐福古文書」というのがあるそうです。
当然のことながら「富士」は「不死」であり、徐福由縁でその名になった可能性も。
そこには、徐福は孝霊天皇72年(紀元前219年)に到着したと記されているようです(孝霊天皇の真偽については、ここでは差し控えます)。
さらに九州北部、四国南部、熊野、不二(富士)などそれぞれに七人の御子を定住させたと。
実際それぞれに上陸伝承地が存在しています。
「余福」とは金銀財宝のおかげという考えもできないことはないかと。
とんでもないウィルスをばらまいておきながら、自国はいつの間にやら収束させている、ちゃっかり者ですから。
なお「神薬」は「大和橘」ではないかという説もあることを付記しておきます。
さて…ここまで丹後の「た」の字も出てきてはいませんが、紛れも無く丹後にも伝承地があるのです。
それが冒頭よりさりげな~く、こっそりと写真を載せ続けている新井崎神社。
與謝郡の「伊根」の海岸、とんでもない断崖絶壁に鎮座します。到着というよりは、難破して漂着という表現が似合うでしょうか。
大のお気に入りの神社で、かれこれ30回以上は参拝に上がっています。
「伊根」と言えば「舟屋」。
「釣りバカ日誌」など数々のロケ地として有名ですが、さほど遠くないこの社に参拝する人を見たことがありません。
残念ながら無名の社(実はあまり知られたくない!)。
この神社を初めて訪れた時に、ただものではないなと感じました。
この神社参拝の後は丹波郡や熊野郡を10社ほど巡り、帰りにもう一度と思い当日二度目の参拝。
後にも先にもこの神社だけ。
徐福の上陸地であり、
「冠島」「沓島」の遥拝所でも。
両島がもっとも美しく見えるのはこの地であることも丹念に探りました。
この鳥居越しに春春分の日には、「冠島」から朝日が登ることを宇良神社(浦嶋神社)の宮司さんから教えて頂きました。
また後方の山は「蝙蝠岳(こうもりたけ)」と呼ばれていますが、これは「神が籠る」からの転訛であろうということも。
そういう特別な場所であったのです。
また当地には「黒茎の蓮」や「九節の菖蒲」という仙薬が存在したという伝承も。
何らかの伝承が変化したものかも。
当社に徐福の御子七人の一人が定住したのかどうかは不明。
徐福船団は二ルートに分かれて航海したとされます。一つは黒潮ルートで中国からそのまま日本へ潮の流れそのままに。
もう一つは朝鮮半島経由ルート。渤海を沿岸沿いに進み肥前国に上陸、日本海に入るルート。
日本海に入ったのは意図したものか、不慮によるものかまでは分かっていません。
ここで一つ考えなければいけないことは、徐福の「神仙思想」。
これは浦嶋太郎(水江浦嶋子)の「神仙思想」に受け継がれているのではないかということ。
既にその地盤がこの時代に出来上がったのではないでしょうか。
宇良神社(浦嶋神社)は内陸部に鎮座します。浦嶋太郎の舞台はここだったのではないかとも思ったりもしています。
水江浦嶋子の日下部氏は製鉄鍛冶氏族。当社境内の赤土がそれを物語っているのではと考えています。