(丹後国一宮 籠神社)



◆ 丹後の原像【3. 郡別概史 ~與謝郡(前編)~】


◎概要

丹後国 全五郡の一。現在の与謝郡与謝野町と伊根町、宮津市がおおよその郡域。東は加佐郡(主に現在の舞鶴市)、西は竹野郡(主に現在の京丹後市網野町)と丹波郡(現在の京丹後市大宮町や峰山町)に隣接しています(竹野郡や丹波郡は今後記事を作成していきます)。

なんと言っても「日本三景」の一つ「天橋立」があることでしょう。與謝郡はここを舞台に始まり、この舞台を中心に歴史を繰り広げられたと言っても過言ではないかと。
「加悦谷(かやだに)」も非常に重要な地であることを記しておきます。

古代の主要な文化圏としては、上記の通りに天橋立があり丹後国一宮 籠神社とその奥宮 眞名井神社が鎮まる宮津市の一角、「加悦谷」と称される「野田川」流域周辺が挙げられるでしょうか。
他に「浦島太郎物語」が生み出されたという、浦嶋児ゆかりの宇良神社(浦嶋神社)から「新井崎」にかけての辺りが特記すべき地域かと考えています。また若狭湾に浮かぶ「冠島」、「沓島」に触れないわけにはいかないかと思います。

今回もこのような拙いGooglemap写真撮り地図で甚だ恐縮です。黄色の星印の近くに籠神社眞名井神社が鎮座します。中央の北に突き出た半島は「栗陀半島」、上部に伊根町が入るように写してみました。
真ん中やや上に見えている「岩滝口駅」から南西に広がる平野部に「野田川」が流れ、この辺りが「加悦谷」と呼ばれています。
「加悦谷」を少々拡大。


表記は延喜式に「與謝郡」とあり、当記事はあえてこれを用いています。正式な読みは「よさのこおり」、現在は「よさぐん」。地元では「よさ」ではなく「よざ」と濁って表現されていますが、理由は不明。追及すれば分かるのでしょうが、そこまで行っていません。後述するように「佐」の字が宛てられること、「枕草子」に「よさの海」と歌われていることから、やはり本来は「よさ」であったかと考えています。
紀には「餘社郡」や「余社郡」とも(一通り再確認しただけで他にも存在するかもしれません)。続紀には「與佐郡」や「与謝郡」とも。
眞名井神社は「匏宮(よさのみや)」や「吉佐宮(よさのみや)」、籠神社も「吉佐宮」と称されていました。

「よさ」の地名由来については『入り江の見られる郡域において、湾での「寄網(よせあみ)」漁法が「よさみ」、そして「よさ」へと転訛したものである』と「日本古代地名辞典」にはあります(Wikiより孫引きしました)。大変な研究をなされた上での記述であろうとは思われますが、丹後の深淵を探るのであればこのような単純なものではないかと。

別説として、「匏宮(よさのみや)」ということから「匏」、つまり「ヒョウタン」のことではないかというものも。これは「ヒョウタン」の古語を「天吉葛(あまのよさづら)」と言い、これに端を発するというもの。眞名井神社の創祀について、天香語山命が「天眞名井の水」、続いて「天磐境」を起こし豊受大神を祀った、そしてこの眞名井の地に泉が涌き出て「匏」が生え、天火明命三代目天村雲命が匏に眞名井の水を汲み神前に供えたとされています。
今のところこれがもっともらしい説かと。ところが、ではなぜヒョウタンを「天吉葛」と呼んでいたのかという説明が必要かと。確かに究極とも言える霊地から生えた「匏」ではあります。これではまだ足りない、古代朝鮮語に通じる方の意見を待つしかないのかもしれません。「よさ」といい、加佐郡の「かさ」といい、何らかの意味を持った言葉ではないかと考えています。


丹後国の国府は籠神社付近にあったとする説が有力。つまり隣接して設けられたと。周辺には「府中」という地名が残っています。また飯役社が鎮座しますが、こちらは国衙の印と鑰を収蔵していた「印鑰社」であったと考えられていることからも。



当地にゆかりのある人物は与謝野鉄幹や妻の与謝野晶子、与謝蕪村など。
鉄幹の父が当地出身。鉄幹は京都市内で、晶子は堺市生まれ。夫妻は鉄幹の父である「与謝」、特に天橋立をこよなく愛したようで、幾度となく訪れています。
与謝蕪村は堺市で生まれていますが、母が当地出身であり、また幼少期をここで過ごしたという説も。わざわざ「与謝」姓を名乗るということは、天橋立に魅入られた一人なのでしょうか。
手前みそながら私も魅入られた一人。在住の奈良には立派な神社もあれば遥か上古からの遺跡も山のようにあるのに、大和国を差し置き丹後国のこのような記事をしたためている「丹後バカ」の一人。


◎籠神社・眞名井神社と周辺

眞名井神社こそが丹後国の根源中の根源。ここを中心に丹後国の歴史が始まり、ここを中心に歴史が動いたと。

上記内容をもう一度繰り返します。
『天香語山命が天地を繋げる「天眞名井の水」を起こし通し、さらに「天磐境」を起こし豊受大神を祀った。そしてこの眞名井の地に泉が涌き出て「匏(ひさご、=ひょうたん)」が生え、三代目天村雲命が匏に眞名井の水を汲み神前に供えた』

天香語山命とはいったいどのような神なのか。この神のことさえ分かれば、神々の系譜は解き明かされるであろう全神々のうちの五柱のうちの一柱に含めています(個人的見解において)。

古代史をかじっている程度のものが解き明かせるはずもなければ、この神を解き明かすために一生を捧げる気概も持ち合わせていません。
ここではあくまでも概略と、かじった者ならではのちょっとしたものを添える程度に留めます。

まずは丹後国の太祖である天火明命の御子であること。天火明命を饒速日命と同神とする「先代旧事本紀」では天道日女との間に生まれ、ウマシマヂ命とは異母兄弟となっています。尾張氏の祖とされています。「新撰姓氏録」においては伊福部氏、津守氏などの祖であると。高倉下命(タカクラジノミコト)と同神であるかのように記され、神武東征時には紀伊国の熊野で神武軍を救ったとされ、神武即位後には越国平定に向かい最期は彌彦神社に鎮まっているとされます(背後の彌彦山に御神廟と奥宮有り)。


ここで問題なのは天火明命と饒速日命を「同神」としていること。これも詳述は避けますが「別神」として差し支えないかと思います。
ではどの神から生まれたのか、天火明命の御子であるということを信用するなら市杵嶋姫命の間の御子ではないかと(後述の「冠島・沓島」より)。
高倉下命と同神とすることについても意見が分かれています。また彌彦神社に鎮まっているとされることについても異論有り、別神としての高倉下命が鎮まっているとするなど意見が分かれています。結局のところ多少は分かっていそうにも思えても、その実何も分かっていない神というべきかと。

ここで「ちょっとしたもの」を添えておきます。この神の印象として「祭司者」ということしか見えてきません。眞名井神社の創祀においてもそうであった。各地で祀られている社でも、そういった印象を持っています。また大和国の「天香山」は、「祭司者」であるこの神を意識した山であろうと思わずにはいられません。神武東征時にはこの山の土を用いて祭祀用具を拵え天神地祇に祈ったり、この山の「波波迦の木」を用いて占ったりと。この山そのものを高天原に見立てていたとする説もあり個人的にもそうではないかと思っていますが、山名は天香語山命を意識して付けられものではないかと考えています。

(天香山神社境内 「波波迦の木」と「白埴聖地」)


巫女とは神に仕える女性のことであり、神と結ばれるために未婚女性であるのが古代においては絶対条件でした。
丹後国の場合は豊受大神という女神であり、巫女であると同性婚となり、素直に考えるのであれば神に仕えるのは男性でなければならないかと。つまり天香語山命は「男性版巫女」だったのではないかという想像も。

その天香語山命は「天の眞名井の水を起こし」通し、「天磐境」を起こし、豊受大神を祀ったとされます。
「眞名井の水」は上部写真にて境内入ってすぐの「眞名井の水神社」の写真を掲載しましたが、原初がどこをそう呼んでいたのかは分かっていません。籠神社先代宮司は海ではないかとも言っておられます。そもそも眞名井神社境内は、天橋立を含め周辺すべてではないかと考えられるとも。10km以上はあろうかという想像を絶するスケール。あるいは天橋立の途中にある「磯清水」という、海中の浮橋ながら真水が涌き出るところがそうなのかもしれません。もうひとついうならそういう霊地を多く抱える天橋立、そして周りの海が「眞名井の水」なのかも。
「天磐境」については眞名井神社の記事にて記していますが、ご本殿裏側の「磐座三座」がそれに当たるもの。各地の磐座を多く見て来ていますが、これほどこの時代の祭祀の様子が分かるのも珍しいもの。ただし境内からは縄文時代の祭祀遺跡もあるらしく、この時代より遥か上古からの磐座であったかと。いわゆる「磐境」としたのが天香語山命ということでしょうか。

現在は撮影禁止、磐座を拝することも叶わず斜めからようやく一部が見える程度。アメンバーさん限定ですが、まだ直接拝することができた時代の写真を記事に上げています。奥津磐座も手の届きそうなところまで近付くことができました。(眞名井神社 秘蔵写真籠神社 秘蔵写真)

※スピリチュアル系の方、仏教・修験道関係者の方以外ならほぼアメンバー申請して下さって結構です。プライベート記事がほとんどですが。



この項の最後に飯役社について触れておきます。詳細は本編の記事にて、ここでは簡潔に。

元々は「吹井社(ふけいのやしろ)」であったとし、「うけい(誓約)」からの転訛ではないかと。天橋立のある若狭湾のうち、この周辺辺りを「阿蘇浦(阿蘇湾)」と呼んでいますが、かつては「吹飯浦(ふけいうら)」であったとか。和泉国日根郡の「深日(ふけ)」など各地に「ふけい」が見られます。おそらく何かしらの意味があるのだろうと思われます。
その吹井社について、豊宇賀能咩神が比治の真奈井原より通って与佐宮大神へ御饗を奉った跡であるため「飯役大明神」と称されると籠神社先代宮司は説いておられます。
さらに社家相伝の秘伝として、眞名井神社を「奥宮真名井原」、当社を「御饌殿真名井原」と称していたと。
誰も訪れないような小さな社となっているのが残念なところですが。



少々長くなったので、前編と後編に分けました。次回はいよいよ「加悦谷」、そして冠島・沓島や伊根町の辺りなどを。


丹後国の原像 (記事一覧)