◆ 天橋立


日本三景の一、丹後のシンボル。

既に30回、40回は歩いたでしょうか、
人生の岐路に際しては、いつもここに居たように思います。

自分の中ではついに…ですが
「天橋立」について少しばかり触れてみたいと思います。





差し当たり「~その1」としておきます。

天橋立について書こうと思えば、成り立ち、概史、紀行文、この地での自伝、この地を舞台にした小説など、1冊や2冊の本では済まなさそうに思うので(中身の有る無しは別として)。


(昔の写真なので解像度が低いですが)



とても美しい観光名所ですが、これは古代人にとっても同様。
古代人には「天へ通うための梯が倒れたもの」と見えたようです。

「丹後国風土記」残欠には以下のように記されています。
「丹後国與謝郡 艮の方に速石の里が有り 長大な岬が有る 長さ二千二百二十九丈(現在は全長3.6kmとされます) 広さ九丈二尺 前方の突出部を天椅立と名づけ 後方を久志浜と名づける これは国生みした伊射奈芸命が天に通おうとして造り立てたもの それ故に天椅立という ところが大神が寝ている間に倒れ伏した そこで久志備(奇霊)であると思った それ故 久志備浜と言うようになった」(大意)

つまり天と地とを行き来する梯であり、イザナギ神が造ったものであるが、寝ている間に倒れ伏して現在の姿になったというもの。




この神話から読み取れることは、神だけでなく人も行き来できるのではないかと捉えられること。

これは神と人との距離感を測る上で重要なことと思います。

またイザナギ神がイザナミ神へ逢いにいくために拵えた梯とも捉えられること。
恋愛云々…ということでしょうか。


(中央に微かに見える島が「冠島」、その左側にさらに小さく見えるのが「沓島」)



この天橋立の少し先に籠神社が鎮座します。天橋立は明らかに参道であり、その到達点が籠神社ということは、籠神社が天界であるということに。
おそらく海部氏はそういうように見立て、創建したのであろうと思います。




籠神社は本来は熊野の神を祀っていたという説がありますが、天橋立がイザナギ・イザナミ神にまつわるというものであれば、そう捉えることも可能かと。

籠神社の奥宮である眞名井神社は、天香山命が豊受大神を奉斎したとされる社。海部氏によって籠神社が創建されるおそらく7世紀頃までは、天橋立は眞名井神社の参道であったのかもしれません。


(廻旋橋)


一方、この天橋立を昇龍とする見方も。




姿は確かに昇龍そのもの。

これがいつの時代からそう認識されるようになったのかは探る術もありませんが、風土記が編纂された以降でしょうか。


残念なことに中世頃から天橋立は
付根にある文珠院とかいう仏教施設の境内となってしまいます。

それらも含めてまた「その2」の記事をいずれ起こしたいと思います。