(大宮売神社 境内)



◆ 丹後の原像【5. 郡別概史 ~丹波郡~】 


◎概要

丹後国 全五郡の一。郡域は京丹後市の大宮町と峰山町のみ。丹後半島の付け根に当たる内陸部の平地が中心。その中央を竹野川が流れており、下流は竹野郡となります。
この「丹波郡」は「中郡」と呼ばれることもあります。「丹波」郡であり、「中」郡でも。つまり丹波郡こそが丹波国(丹後国が分離される前)の中心地であったと言えるのではないかと。そして郡内唯一の名神大社であり丹後国二宮である大宮売神社が鎮座する「周枳(すき)」、なかでもこの地こそが丹波郡の中心地だったと考えています。まずはこの地から触れていきたいと思います。


(大宮売神社の駐車場に掲げられている「周枳」地区の遺跡)



◎「周枳」地区

「周枳(すき)」とはどういう意味なのか、この地名に触れて多くの人が抱く疑問かと。これについては今のところ三つほどの説が提示されているようです。
一つは書紀 安閑天皇二年の段に、丹波国に「蘇斯岐屯倉」を設置したとあります。これが当地のことであり、地名由来となったというもの。安閑天皇は各地に「屯倉」を設置したことで知られる天皇、高齢で即位したこともありこれくらいしか事績はありませんが。
次に大嘗祭において丹波国が「主基田(すきでん)」(「斎田定点の儀」の記事参照)に選定され、それが地名由来となったというもの。一の鳥居横にそれにまつわる大きな石碑も立てられています。
最後に古代朝鮮語の「村」(スク)が地名由来となったというもの。いずれとも判断し難いものであり、そこまでの知識は持ち合わせていません。ただ後述のように大宮売神社が「新羅明神社」と称されており、「村」説は十分にあり得るかと。

ごく簡単に遺跡群を紹介しておきます。まず大宮売神社の境内、拝殿のすぐ側より「大宮売神社祭祀遺跡」が発見されています。弥生時代後期のもので、土器や勾玉、管玉の他、鉄刀身なども。いずれも実用品ではなく祭祀用のものと考えられています。
ところがご本殿背後に禁足地があり、ここは発掘調査がなされていないのではないかと思います。至って平地、川なども無く一見しただけではただの「杜」。磐座なども無さそうであり、祭祀を行うために拵えられた、いわゆる「神籬(ひもろぎ)」のみがあったのではないでしょうか。あるいは「真奈井」などという神聖な泉でもあったのでしょうか。ただの「杜」であるはずもなく、もし掘り起こせば続々と祭祀用具が出てくるのではないかと…。


(こちらがご本殿背後の禁足地)


この大宮売神社の南300mほどに「石明神遺跡」という、磐座あるいは石室残骸跡とも判別し難いものがあります。
仮にこれを祭祀跡(磐座)と判断するのであれば、場所柄からして相当なものかと思うのです。丹波国の古代史の深淵に迫ることができる最重要コンテンツの一つかと。仮に古墳跡と判断するのであれば、大宮売神の墓所である可能性もあるのではないかと。そうすると、秘される宮中祭祀の謎に迫ることができる、手掛かりの一つとなり得る可能性も。
こちらは当社の御旅所となっています。「御旅所」というのは、祭礼の神幸の途中で「わざわざ立ち寄る」必要性のある重要な場所。それが目的地であるならなおさらのこと、その神社の神が本来おられるべきところであったりするケースなども。
当社のケースで言えば、大宮売神あるいは若宮売神の墓所であるとも考えられます。そうするとこれはまたとんでもない聖地なのかも。地元民と丹後を研究する学者くらいしか知らない遺跡ですが。天皇の守護を担うという、大変に重要な神の墓所である可能性もある遺跡、もっと注目されてもいいのではないかと思うのですが。


当社のごく簡単な紹介を挟んでおきます。神名帳においては「名神大二座」と記され、上記のように大宮売神と若宮売神が祀られているとされます。創建由緒については不詳ながらも、祭祀跡から明らかなように、少なくとも弥生後期から創祀されていたものと。
また当社は「新羅明神社」とも呼ばれています。やはりそうなのか…といったところですが。


厄介なのはこの二座というのがよく分からないこと。大宮売神は宮中三十六神の一柱であり、なかでも大御巫(おおみかんなぎ)により奉斎される天皇守護の八神。君臣との間を取り持つ神などとされています。一説には天鈿女命と同神などとも。一方の若宮売神は豊受大神ではないかと。
当社の神宝として神像二体があるようです。男神女神一体ずつとされていますが、これはご祭神にそぐわないもの。したがって当社本来のご祭神を丹波道主命と、大宮売神あるいは豊受大神とする説も。これとは別に神像は二体とも女神とし、定説通りに大宮売神と豊受大神とするものも。そもそも男神か女神か判然としない神像が多いと言えば多いですが。
いずれにしても大宮売神を主祭神とする、おそらく全国唯一の神社。この謎だらけの神の総本社と言えるでしょうか。

大宮売神社から東南の丘陵地には、200基ほどあるという群集墳があります。横穴式墳墓が多いとも(現地未確認)。古墳時代後期~末期のもののようです。大宮売神社を奉斎した一族の墳墓でしょうか。

「周枳」地区には古代丹後国史の鍵を握ると思われる、もう一つ重要な社があります。大宮売神社の南方、石明神遺跡のすぐ南側の荒塩神社。社名からしていかにも!といったところですが。もちろん「アラス」からの転訛でしょう。加佐郡には大江町の阿良須神社と東舞鶴の阿良須神社の二社が鎮座します。当然ながら渡来人系であろうし、鍛冶製鉄が絡んでいるであろうし。詳細は荒塩神社の記事に譲るとしますが、知名度ゼロであるのが非常に残念。




◎「峰山」地区

この地区も古代丹後国にとっては非常に重要な地。「元伊勢」とされる地です。
近接した南北に二つの伝承地があります。北の方は「久次岳(ひさつぐたけ)」を降臨地とし、麓に祀られる比沼麻奈爲神社。南の方は「磯砂山(いさなごやま)」を降臨地とし、中腹に乙女神社、麓に藤社神社(ふじこそじんじゃ)祀られるもの。




この双方で激しい論争が繰り広げられたものの、最終的に元伊勢「比治真奈井」は比沼麻奈爲神社にて一応の決着。両氏子の間には未だに遺恨が残っているとか。
ところが双方ともにしっかりとした由緒伝承や磐座等と、有形無形の根拠を有しており、容易には決し難いものかと。比沼麻奈爲神社の「久次岳」はもちろん本来は「クジ岳」、つまり降臨と関わりのある「クジフル」の「クジ」であろうし、藤社神社の方もまた乙女神社天女の羽衣伝説を持ち合わせます。そして両社ともに境内の雰囲気は元伊勢とするに相応しい、まさに霊地といった雰囲気そのもの(詳細は両社の記事を参照して下さい)。




問題はなぜ近接した二箇所が、このような伝承を持ち合わせているのか。これには「鱒留川」が鍵となる一つなのかもしれないと考えています。「鱒留川(ますどめかわ)」の源流は「磯砂山」。
「鱒」が魚の「鱒」になったのは後のこと、やはり丹後の祖である河上麻須神を意識せずにはいられません。当地において具体的な伝承は見られないものの、当地は竹野川の中流域であり、河上麻須神がこの辺りをうろうろとしていたことは必ずあったはず。川名こそがその名残であろうかと考えています。


(乙女神社社前の「鱒留川」)


降臨神話などというものは、あくまでも神話でありヒトが勝手に創り出したもの。ところがそれはその地において、純粋であり大変に崇高な信仰であるとも思います。
「久次岳」に元からあった信仰を、河上麻須神が当地をうろうろした結果、「磯砂山」にも持ち込まれたのではないかと。「磯砂山」山頂に磐座が座しているように(未登拝)、遥か上古からの霊地であったことは疑いようもないことですが。

もう一つ気になるのが、藤社神社の境内社の天目一箇神を祀る社。言うまでもなく鍛冶に携わる人々が厚く奉斎した祖神。
「磯砂山」で鉄が採鉱されていたことが分かりますが、この神が祀られているということはアメノヒボコ神を奉斎する一族が入植している可能性も。そうすると彼らが降臨神話を創り上げた可能性もあるかと。少々飛躍し過ぎでしょうか。



(藤社神社の境内社)



今回もまた長々と綴ってしまいました。エリア的には小さくサクサクと…などと安易に考えていましたが、結局記事作成にまる半日以上も費やすという結果に。これでも相当はしょってはいるのですが。

次回は竹野郡を。同じく小さなエリアですが…。頑張ろっと!