藤社神社
(ふじこそじんじゃ)


丹後国丹波郡
京都府京丹後市峰山町鱒留540
(一の鳥居少し手前にギリギリ停め置きできそうなスペースあり)

■延喜式神名帳
比沼麻奈爲神社の論社

■祭神
保食神


豊受大神宮の元伊勢「比治真名井」の候補地の一。近くの比沼麻奈爲神社との長年に渡る激しい論争の末、比定社とはなりませんでした。
◎元伊勢「比治真名井」とは、天照大神が五十鈴川の川上(現在の伊勢神宮)に鎮まった後、雄略天皇の枕元に現れ、丹波国(当時は丹後国はまだ分離独立していない)の「比治真名井」に居る食饌神の豊受大神を呼び寄せるようにとの神託があり、外宮に遷したというもの。
◎鎮座地は「竹野川」の支流、「鱒留川」上流にあたる峰山町「鱒留(ますどめ)」。天女(豊受大神)が降ったという「磯砂山(いさなごやま)」の北麓。
「鱒留」とは、藤社明神の使いである鱒が川を遡りこの地で留まった…云々が伝わっています。また別に川上摩須、或いは娘の川上摩須郎女(丹波道主命の后)の所縁の地であるとも(「中郡誌稿」による)。一般に遥か西方の熊野郡川上郷もにいたとされ、芦高神社または衆良神社辺りが居住地と伝わります。古代のことでもあり、移動した可能性は十分に考えられますが。
かつては「益富」という表記も。豊受大神が和奈佐夫婦の元で、そちらも地域に富をもたらしたからとするのは飛躍し過ぎでしょうか。
◎当社ではご祭神の保食神を豊受大神と同神としていますが、これは丹波郡周辺では多く見られるもの。豊宇賀能売命などとも。
◎当地方には「天女の羽衣伝説」が伝わります。以下は「丹後国風土記」逸文に記されるもの。
━━「比治山」の「真名井ヶ原」に八人の天女が舞い降り水浴していた。そこに和奈佐老夫婦が現れ、一人の天女の衣装を隠した。衣を隠された天女は天に帰られなくなり、老夫婦のいうがままに従い娘となって10余年間暮らした。天女は酒造りが上手く、一杯飲めば万病に効く酒を造り機織りも教えた━━━
この天に帰られなくなり、和奈佐老夫婦の元で暮らしたというのが豊受大神のこと(→ 京丹後の二つの「羽衣伝説」の記事参照)
◎この「比治山」に関して、比沼麻奈爲神社が「久次岳」を豊受大神(天女)の降臨地とするのに対し、当社は「磯砂山(いさなごやま)」を降臨地としています。
◎激しい論争が続いた理由は、双方ともにもっともな伝承を多く有するため。以下、当社に関してのみ記しておきます。
* 「磯砂山」山頂には磐座(磐境か)が座し、元々の鎮座地であったのだろうと思われる。
* 「磯砂山」中腹には天女が水浴した「比治真名井」であると伝わる「女池」がある。また「男池」が存在し、そちらも候補の一つとされる。
* 丹波郡、竹野郡の多くの神社が「磯砂山」を向いて建てられている。また主要な古墳も「磯砂山」を意識して築かれている。
* 社名「藤」は「比治」からの転訛の可能性有り。また当地は「士方(ひじかた)」とも称される(「丹後舊事記」より)。
* 古来より蚕の神を祀ると伝わる(「丹哥府志」より)。
* 当社の奥地に乙女神社が鎮座、豊宇賀能売命或いはその三人娘の一人を祀るともされる。
* 京丹後に伝わるもう一つの「羽衣伝説」は、和奈佐老夫婦ではなく、三右衛門(さんねも)という漁師が登場するが、その末裔とされる安達家が「磯砂山」麓に現住される(→ 京丹後の二つの「羽衣伝説」の記事参照)

*写真は2018年4月と2022年11月撮影のものとが混在しています。




比定社とならなかったためか、かなり古びた社となってしまっています。


聖地と呼ぶに相応しい神々しさ。天目一箇を祀る境内社も。

ご本殿の真裏の和奈佐翁を祀る境内社。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。