比沼麻奈爲神社
(ひぬまないじんじゃ)


丹後国丹波郡
京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷661
(P有)

■延喜式神名帳
比治真名井神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
豊受大神
[相殿] 瓊瓊杵尊 天之児屋根命 天太玉命



元伊勢「比治真名井」の比定地であり、式内社 比治真名井神社の比定社。
もう一つの候補社である藤社神社との長年の激しい論争の結果、当社が比定されています。ところが藤社神社を推す意見も多く、またかつて「久次岳」山頂に鎮座していた咋岡神社であるという意見もあり、真相は不明と言わざるを得ないかと思います。
◎創祀は天照大神が「吉佐宮」へ御霊が遷された崇神天皇三十九年とされています。鎮座地は豊受大神が降ったとされる「久次岳(ひさつぎたけ)」の東側麓。峰山町「ひさつぎ」の集落内。
◎豊受大神の降臨については「丹後國風土記」逸文の「奈具社」の項に、
━━「比治山」の「真名井ヶ原」に八人の天女が舞い降り水浴していた。そこに和奈佐老夫婦が現れ、一人の天女の衣装を隠した。衣を隠された天女は天に帰られなくなり、老夫婦のいうがままに従い娘となって10余年間暮らした。天女は酒造りが上手く、一杯飲めば万病に効く酒を造り機織りも教えた━━━
この天に「帰られなくなり、和奈佐老夫婦の…元で暮らした…」というのが豊受大神のこと(→ 京丹後の二つの「羽衣伝説」の記事参照)。
この「比治山」を、当社が「久次岳」を豊受大神(天女)の降臨地とするのに対し、藤社神社は「磯砂山(いさなごやま)」を降臨地としています。

◎以下、この比定論争を中心に当社を考察した「峰山郷土史」を原文のままに掲載しておきます(句読点や括弧書き等一部改変)。

━━比沼麻奈為神社 式内社 久次 宮の谷 祭神 豊受大神 瓊々杵命 天児屋根命 太玉命

「延喜式」にある丹波郡比沼麻奈為神社はこれであるという━━

*宝暦三年(1753年)「峯山旧記」
真奈井明神 三尺社 (以下略)
*文化七年(1810年)「丹後舊事記」
比治真奈爲神社 久次村 祭神 真奈爲大明神 豊宇賀能売命 相殿 和奈佐翁 和奈佐女(同 一書には比沼真奈爲神社 咋邑 久次邑 (中略) 祭神 真奈爲大明神 豊宇賀能売命 相殿 和奈佐翁 和奈佐女とある)
*天保十二年(1841年)「丹哥府志」
「丹哥府志」の説では、与謝郡の真名井原から、豊受大神を伊勢へお迎えしたのだから、その跡にまつられた真名井神社を「延喜式」に載せないで、丹波郡にある真名井神社を載せたもので、この祭神は豊受大神ではなく、四道将軍丹波道主命の孫の稲別命であるようにうけとれる。しかし、同じ「丹哥府志」の稲代神社の項でも、吉佐の吉原にいた稲別命をまつったのであろうといっている。同じ神をまつる例は多いが、何かすっきりしないものがある。
また、古い時代の与謝、丹波、竹野三郡の区分は実にあいまいで、「与謝郡比沼山頂に井があり、その名を麻奈井とよび、神のいる処である」などいっている(「神名秘書」)。他にもこうした例はたくさんある。
明治二年「峯山旧記」は「真名井大明神久次村にあり、祭神 真名井大明神 豊宇賀能売命 (以下略)」と記し、さらに、「延喜式」の咋岡神社は当村にあったものを吉原(吉原山のこと)に移した跡へ受持の神(宇気持=保食)をまつって、真名井大明神といったのだから、「延喜式」の比沼麻奈為神はこの社ではないと否定している。しかし、鱒留村は峯山領でなかったためか、藤社神社についての項が「峯山旧記」中にみえないから、この社を肯定したかどうか臆測でぎない。
「丹波、丹後式内神社取調」これはいろいろな説をそのまま列記している。そのうちの「豊岡県式内神社未定考案記」は、久次村は咋岡神社であるのを、同村の者は真名井神社といい張り、古い棟札を取り調べてみたら、真名井大神宮と記してあったが、もとの文字を消して書きなおしたものであり、比沼真名井は藤社神社にまちがいないであろう━━といい、
また、籠神社の大原美能理「丹後国式内神社考(式考)」には-比沼真名井神社は、中古から藤ノ神社とよび、比沼は比治の誤りであり、比治山は三国三郡にまたがり、丹後中での名山で、四つの名をもっており、この山の下の各郡に比治という神社がある。また、フジとヒジは同じ意味であるし、天の真名井は日向の国からこの地に移し、さらに伊勢の外宮に移したもので、真名井のある土地を藤岡、あるいは藤社(こそ)とよんでいる。鱒留村は麻須少女(ますおとめ)村の意味で、斎宮女(神社に奉仕する乙女)の住んでいたことから生まれた地名であるという。
また、宮本池臣「丹後但馬神社道志流倍」をみると、「摂津風土記」の、丹波国比遅乃麻奈葦および但馬国出石の比遅神社を例にとり、比沼は比治の誤りであるとし、比治山の下の養蚕の神である藤社大明神が麻奈為神社で、久次村の真名井明神は、久比志ヶ嶽のつづきで峯山の奥に当たり、式内神社としては社地も狭く、型も備えておらず、安産の神であることは不都合である(式内社として都合がよくないという意味)。また、藤ヶ森(出石郡)は比治ヶ森から、藤社(こそ)は比治社から呼び換えられたものである━━といっている。
では、今一度、久次村にあったという「延喜式」内の咋岡神社(現在、赤坂)について「式考」の説を略記して参考にしよう。
「丹後舊事記」に━━咋石嶽は久次村の後の山で、一般は久次嶽とよんでいる。ここは宇気持ノ神が天降られた地で、山頂に二間四面の平かな大岩があり、昔はこの岩を神としてあがめまつった。この岩の表面に人の死んだ形があるが、これは宇気持ノ神の死なれた姿である━━というとおり、ここは全く神代の遺跡で、「摂津風土記」に、稲倉山云々とあった事跡である、であるから、この霊石は、古老のいい伝えにある大饗石(高十二尺、縦十八尺、横十三尺余)で、その下に月読命の御手洗の滝があり、その上に大神社(かうさ)(おおかみのもり)という所があり(社は杜か)、右の方に来迎山(こむかいやま)があり、切果谿(きりはたしだに)があって、この霊石のある付近をすべて饗応渓という、こうして、咋岡神社は、この霊石を御神体としてまつったようであるから、奇霊石咋岡(くしくいおか)神社というわけであろう。それを、大神社(かうさ)という所に少々水が湧き出ているのを、真名井として咋石嶽の別名をマナ井嵩とも呼び、伊勢外宮の本社といっているのはいつわりである━━と。

大正十三年、「中郡誌稿」は、久次村説の一番重要な資料として、田中頼庸の文をあげている。明治以降の社伝の多くは、これによってつづられている。その説によると-沼は治の誤りではない。久次村は奇霊(くしひ)のクシをとり、諸国部内の郡里の名は、二字を並用し、必ず嘉名を取れという当時の「民部式」の指図どおり、久次の縁起のよい二字を選んで、その字音にあてはめた。それが後になって、ヒサツギと訓よみにされたのである。ところが、神社名は奇霊(くしひ)を三字の字音を用いて久次比(くしひ)とし、久次比真名井のその比をとって、比真名井(ひのまない)とし、さらに、真名井の音を仮名で麻奈為と書き、比と麻奈為を接続するノを沼に書いただけで、他にたいした意味はない━━といっている。ノをヌと発音したのは古代の特徴である。
その他残存している地名の大宮屋敷、宮谷川、異井谷(こといだに)、裾垣(ぞぞがき)(雑垣)、下垣(しもがき)(下墻)、御屋敷(御師屋敷)、穂井段(ほいのだん)、あるいは豊受大神が山、里、海の珍味を山盛りにして、月読命をもてなされたという応石(おういし)、苗代水(清水戸)、月形田(月の輪、三日月田とも)、通川(とにがわ)について、それぞれ考証を行ない、さらに新治村(新沼村とも)の西の入口に麻奈為の一の鳥居があり(鳥居地)、通川の岸にそって下たって来た神輿は、この一の鳥居をくぐって、遠く下菅の久津方の森へ御旅をしたことを述べ、数百年を経た後陽成天皇御震筆という「比沼真名井原豊受皇大神宮」の古額などの例をあげて説明し、神楽童謡「戌亥の隅な井や、水又居呑み弥居呑みは並びて狭庭なる」、これは「丹後風土記」にいう郡家(郡を治める役所)の西北の隅に比沼の里があって、その地に真名井があることを証拠立てるものである-という意味のことを述べている。
童謡の意味は「麗水を呑みに集まる者が大勢並んで狭いようだ」ということで、弥(いや)はうたう時の掛声であるという。
神社の境内に立つ、栗田寛撰文「頌徳碑」(明治三十三年)は、五穀、養蚕、織物の神である豊受大神の徳をたたえたもので、崇神天皇御世三十九年に、豊受大神が現身(人間の姿)のままで丹波ノ国奇霊の里、比沼麻奈為神社に鎮座されていたことは明らかで、その大宮は久次村の真名井嶽の下の大宮屋敷にあったが、兵乱の際、ずっと奥の今の社地に移されたことがきざまれている。
大八州雑誌「飯田武郷紀行文」(明治三十年頃)が、「大日本地名辞書」中、咋岡神社の項に用いられている。すなわち-久次に比沼真名井原宮があり、五穀の神として、今も神殿の下の土の中から、米の形の土(土の米)が湧き出るが、ときどき沢山湧き出て、高くもりあがり、里の人は神様が喜んでおられるのだと、非常に尊敬している。ところが、近所の鱒留の藤社大明神が、「延喜式」にある真名井神社であると、明治維新の頃官へも申し出……とんでもない書物などつくって人にすすめ━━などと藤社説を否定し、比治山は咋石嶽といい、足卜山は伊去奈子ノ嶽とも、真名井嶽ともいうが、足卜山と比治山とは方角は少しちがうが、山脈が同じであるところから、どちらも真名井ノ嶽といったもので、今では知ることができないし、どちらの山に豊受大神が天降られたか定めがたい━━といい、さらに、道ばたの大石を、天神をおもてなしした机だとか、豊受大神が死なれた形が残っているとか、さまざまの怪しいことをいい伝えて━━と、つけ加えている。
「五箇村郷土誌二」(昭和十一年)は、雄略天皇二十二年、大佐々命が勅命によって、豊受大神を伊勢の山田原にお遷ししたとき、御分霊をとどめてまつったのであるといっている。


*写真は2016年晩秋頃、2018年11月、2022年11月撮影のものとが混在しています。



常に清浄に保たれた境内は大神を祀るに相応しい状態に。宮司の大神に対する御姿勢にはただ頭が下がるのみ。





神明大鳥居、そして神明造り。豊受大神宮と同じもの。







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