[丹後国熊野郡] 衆良神社




■表記

河上麻須、河上麻須良、川上眞稚など


■概要
丹後国熊野郡川上庄「須田」(現在の京丹後市久美浜町須田)を拠点とした人物(神)。衆良神社の近くには屋敷跡伝承があります。

◎「熊野郡誌」の衆良神社の条には以下が記されます。
━━大字須田は河上摩須居住の地にして、小字下山は其の館跡なりといひ、古来平民の此山に居住するを忌む。又殿垣、オノミヤ(王の宮か)などの地名ありて、此処を館跡なりともいへど、下山の方正しきが如し。河上摩須は丹波道主王の外舅にして、上代地方の豪族たりしなり━━

衆良神社から少しだけ伯耆峠を登ると湯舟坂2号墳があります。川上摩須よりも後の時代となるものの、「金銅装双龍環頭大刀」という当時の最高傑作とも言える遺物が出土しています。川上摩須の血を引く人物(神)が葬られたのでしょうか。


◎「丹後国舊事記」には「開化・崇神・垂仁の三朝 熊野郡川上庄須郎(すら)の里に館を造る 丹波道主命は麻須良女を娶る」とあります。

丹波道主命と娘の麻須郎女(マスノイラツメ)との間には三女一男が生まれています。そして長女である日葉酢媛が垂仁天皇の後宮に入ります。その間に生まれた皇子が景行天皇となるので、その外戚となりました。非常に大きな権力を有することになったと思われます。

なお次女以下の真砥野媛命、弟比売命、朝廷別王が生まれ、次女と三女も垂仁天皇の妃となっています。朝廷別王は第5代「丹後国王」とも(丹波道主命は第4代国王とされる)


衆良神社から北東2kmほどに鎮座する芦高神社は、川上摩須郎女の墳墓の上に建てられたと伝わっています。その北側すぐの丘陵地には丹波道主命と川上摩須郎女との屋敷跡伝承地があります。

◎「勘注系図」によると志理都彦命の御子、十四世として登場します。ところが時代的に合わず、もう五世ほど遡る必要があるのではないかと考えています。

◎丹波郡土方里「鱒留(益富)村」(現在の京丹後市峰山町「鱒留」)の「鱒」は、川上摩須の「マス」ではないかという考えも。一般には鱒が「竹野川」を当地まで遡ってきていたからとされます。

「磯砂山」の南麓で藤社神社が鎮座しており、「比治眞名爲原」の有力候補地の一。丹波道主命の居館跡とされる船岡神社が鎮座します。


熊野郡からは峠を越さねばならないものの、「佐濃谷川」沿いの現在の国道312号線を遡り、わずか標高250m分水嶺を越えれば「鱒留川」へ。古代より繋がっていたと考えます。
また「鱒留」は「マス戸畔(トベ)」、つまり川上摩須郎女は「マス」の女酋長だった可能性もあるかと考えています。


■祀られる社(参拝済み社のみ)
[丹後国熊野郡] 衆良神社

*関連社・史跡(参拝済み社のみ)

[丹後国熊野郡] 芦高神社

[丹後国熊野郡] 伊豆志彌神社

[丹後国熊野郡] 熊野神社(甲山)

[丹後国熊野郡] 三嶋田神社

[丹後国熊野郡] 聴部神社

[丹後国熊野郡] 丸田神社

[丹後国熊野郡] 矢田神社(京丹後市久美浜町海士)

[丹後国熊野郡] 賣布神社(京丹後市久美浜町女布)

[丹後国熊野郡] 川上摩須屋敷跡

[丹後国丹波郡] 藤社神社




[丹後国熊野郡] 賣布神社(久美浜町女布)


[丹後国熊野郡] 川上摩須屋敷地




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