◆ 丹後の原像【8. 「丹後王国論」雑考】 


予告とは異なり…「丹後王国論」についてあれやこれやと書いてみようかと。

そもそも「丹後王国論」とは門脇禎二氏が提唱したもの。この影響力は凄まじいもので、未だに丹後へ赴くと、この「丹後王国」を冠した様々なものに出くわします。土産物から店名から…確か道の駅の名前にも…。

手前味噌ながら若い頃に「丹後王国論序説」に出会い、もう夢中で読み漁ったのを覚えています。まだ古代史を深く知らなかった頃のこと。
これから古代史をという時に、偶然にもこのような書にいくつか出会ったのは幸運としか言いようがありません。すっかりと日本古代史探究という泥沼に引きずり込まれました。

「丹後王国論序説」というのは「古代日本海域史と地域国家」という書の中の一部分。能登・角鹿・丹後・但馬・出雲と、大陸との結びつきを持った先進地域があり、王国を形成していたというもの。
日本列島を上下(南北)逆さにした地図を使い出したのは、氏が初めてなのでしょうか。もう目からウロコ…に。

ま…丹後は尾張氏の統治域の一部という説もありますが、その辺りはまたいずれ…追々と。


◎「丹後王国論」とは

上述のように門脇禎二氏が提唱したもので、昭和58年のこと。丹後には「王国」と呼べるような巨大な勢力が存在していたというものです。

時は大和王権に統一される以前の弥生時代から、古墳時代辺りにかけて。
ところがこの時代に「丹後」という呼称は存在しません。「丹波国」でした。8世紀初頭に「丹波国」より分割されたのが「丹後国」。「丹波国」としてしまうと、遥か南の亀岡市まで含んでしまうために、便宜上「丹後王国」としています。確かにこの方がしっくり!


◎「王国」とは

一般人にとっては「王国」という言葉でおおよそイメージができます。特にテキトーこの上ないO型さんは、そんな感じ~で済ましてしまいたがりますが、ここは生粋の学者さん、しっかりと定義付けをなされています。
ま…これは案外重要なところではあると、分かっちゃいるけど…まあまあね…なO型さんですが。いや!ここは姿勢を正してしっかり掲載しておきます!

1.地域における王権と、その支配体制があること
2.定められた支配領域があること
3.独自の文化や支配イデオロギー(その中で信じられている信仰、独自の風習など)があること


◎「丹後王国」の支配領域とは

テキトーこの上ないO型さんは、これまでウダウダと長い記事をウザイほど上げてきたにもかかわらず、まだ一度もはっきりさせていませんでした。大いに反省して…あらためて。

中心は紛れもなく丹波郡。門脇氏は「丹波国丹波郡丹波郷」としており、これは現在の「峰山町丹波」の辺りだろうとされます。駅で言うなら「京丹後鉄道」の「峰山駅」から「京丹後大宮駅」を中心とした平地部。
当地では「扇谷遺跡」が発見されています。ちょうど峰山駅の西側すぐの辺り。紀元前300年頃のものであるとか。

ところがこの地名内に主要社は見当たりません。古代の「丹波郷」はもっと広い範囲だったのではないかと。

そうしてみていくと…なかでも外せないのは大宮売神社境内、さらにピンポイントでいうならご本殿背後の「禁足の杜」。ここが祭祀場の中心地だったのでしょうか。
(大宮売神社 ご本殿背後の「禁足の杜」)



東方は野田川が流れ、その流域には加佐郡「加悦谷」。この地こそが丹後発祥地であると考えています。河口部は與佐郡であり、これまた重要な地。
北西へは福田川が流れ、網野町網野の平野部が開けています。ここには首長級の網野銚子山古墳が築かれました。そして上流には赤坂今井墳墓。
北には竹野川が流れ、河口には竹野郡(網野町竹野)の平野部が開けています。こちらには首長級の神明山古墳が築かれています。
ただ熊野郡が少々離れてはいますが、こちらは海を伝って移動していたのでしょうか。こちらにも首長級と伝わる墳墓がある「明神崎」が。

この辺りまでが主だったところ。他には南部の氷上郡(兵庫県丹波市)までを含むとしています。個人的には但馬国城崎郡までを含める必要があるのではないかと考えています。



◎丹後の「王権」とは

順序が入れ替わりましたが、丹後の「王権」について。
門脇氏は五代に渡る「丹後国王」を挙げ、いずれも竹野川流域を中心に支配したとしています。

・初代…大県主由碁理(ユゴリ)
・二代目…竹野媛の兄または弟
・三代目…日子坐王
・四代目…丹波道主王
・五代目…朝廷別王(ミカドワケオウ)

由碁理は竹野媛の父。「県主」の前に「大」が付されています。修飾語とみるべきなのでしょうか。「勘注系図」では建諸隅命と同神となっています。
竹野媛は臺与ではないかという説も根強くあります。これについてはここで触れるわけにもいかないので、またいずれ…追々と。こんなんばっかりですが。開化天皇の妃となりました。
日子坐王丹波道主王は神名記事にて。
朝廷別王は垂仁天皇皇后である日葉酢媛命の弟。穂国造の祖。「穂国」は律令制では三河国に合併させられました。

ざっくりと、ごく表面的にプロフを表しました。書きたいことは山ほどありますが…。


◎墳墓から読み解く

4世紀末から5世紀初頭にかけて築かれたいわゆる「日本海三大古墳」(網野銚子山古墳・神明山古墳・蛭子山古墳)の、さらに以前のものについて触れてみます。
つまり弥生時代のものであり、この時代のものは「古墳」分類はなされず「墳墓」という呼称に。

前述の「扇谷遺跡」のすぐ近くの丘陵上に「七尾遺跡」があり、そこでは「台状墓」というものが発見されています。
また久美浜町南東丘陵地の「豊谷墳墓群」にて、こちらも「台状墓」二基が発見されています。
なお豊岡市の「駄坂船隠遺跡」では「方形周溝墓」が発見されています。
これらはいずれも弥生時代前期から中期前半のもの。

これが弥生中期になると「方形周溝墓」の他に、「円形周溝墓」、「方形台状墓」、「方形貼石墓」が現れます。
このうち「方形貼石墓」というのは当地方において特徴的なもの。墳墓は専門外でもあり詳述は避けますが、これが出雲地方など日本海側で「四隅突出型墳丘墓」に発達していくもの。ところが丹後においては四隅が突出せず、そのまま大型化していきます。
丹後だけを除く日本海側で「四隅突出型墳丘墓」が築かれました。これについてはいずれ触れないといけませんね…。


余談が多くなり、今回はここまで留めておきます。次回はこのタイトルの続きを。