■過去記事



◆ 丹後の原像【6. 郡別概史 ~竹野郡~】 


◎概要

丹後国 全五郡の一。読みは「たかののこおり」。「たけの」と呼ばれるようになったのはいつの頃からかは不明ですが、当郡を象徴するかの如くの姫神は「竹野媛(タカノヒメ)」。また冒頭写真の竹野神社の詠みも「たかのじんじゃ」。郡域は丹後半島の中~北部地域。海に面した丹後町と網野町、内陸部の弥栄町。
半島として日本海に少々突き出していることから、古代より日本海の玄関口の一つとして大陸等との交易が盛んに行われていたようです。
また気になるのは隣の但馬国美含郡(みくのこおり)にも「竹野」という地があり(現在の豊岡市竹野町)、船を使えば目と鼻の先ほどの距離、関連があるのでしょうか。そちらは未だ私用を除いては未踏の地であり、今後の課題の一つとしています。


(「丹後古代の里資料館」パンフより拝借、この程度ならお許し頂けますでしょうか)



丹後の歴史が大きく動いたのは、竹野媛が第9代開化天皇の皇后となった時ではないかと考えています。開化天皇との間には彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)が生まれています。紀の異伝には丹波道主王と垂仁天皇に嫁いだ5人娘と(もう一人の)竹野媛が生まれており、一気に朝廷と丹後国の関係が密に。また開化天皇の別の妃から彦坐王が生まれ、四道将軍として丹後に派遣されています。
これは丹後国(正確には当時はまだ「丹波国」)が大和朝廷の支配下となったことを意味します。大和朝廷の決定的弱点は鉄資源の不足。弥生~古墳時代にかけては「鉄の時代」と個人的には考えています。武器用農耕用にしろ鉄が無ければ話にならないほどの時代であったかと。丹後にはその鉄があったのです。鉄の一大産地があったわけではなく、ガラス玉等の装飾品を造り朝鮮半島と交易し鉄を仕入れていたと考えられています。大和朝廷はそれに目を着けたと一般的には考えられています。伊勢の外宮に丹後の豊受大神が引っ張っていかれたのも、もちろん関わりのあること。
ところが、近江国と美濃国との境である伊吹山にも鉄が豊富にあるではないかという疑問も。その地は尾張氏の拠点、丹後の海部氏も尾張氏も同祖同族であり、つまりそちらも支配下に治めることができたと、つまり一挙両得であったと。これはあまり言われていないことですが、個人的にはそう考えています。
少々脱線しましたが、丹後国においては大変重要な転換期、この場で取り上げました。以降は丹後町・網野町・弥栄町と各地域ごとに見ていきます。


(丹後松島)



◎丹後町

関西では最北端となる丹後半島の日本海側に面した地、中央を「竹野川」が流れています。「竹野川」は丹後半島中央部の山地から丹波郡、竹野郡弥栄町を通り丹後町へ。この流域で縄文時代から人々が生活を営んだようです。
この地には何と言っても神明山古墳が築造されていること。「丹後王国」の最盛期をここで迎えたのではないかと思わせる存在(「丹後王国」説については必ずしも全評価はしておらず「王国」レベルという意味で)。190m超と破格の規模であり、これは日本海側No.2のもの。ちなみに隣の網野町にある網野銚子山古墳が198mでNo.1、加悦谷の蛭子山古墳が145mでNo.3。築造時期は4世紀末~5世紀初頭と、いわゆる「王国」の最盛期と合致します。竹野媛あるいは丹波道主命が眠っているのではないかと考えられています。





神明山古墳に隣接して鎮座するのが竹野神社・齋宮神社。この社は開化天皇皇后となった竹野媛が、晩年に里帰りして天照皇大神を祀ったとされる竹野神社と、竹野媛・開化天皇の二皇子(建豊波豆羅和氣命・日子坐王命)の計三座を祀る齋宮神社の二社で構成される社。冒頭写真の大きい方の社殿が竹野神社、小さく横に並んでいるのが齋宮神社。

里帰りというからには、竹野媛の出身地と考えていいのであろうと思います。竹野媛の父は由碁理(ユゴリ)。丹波大県主であり丹後初代王と考えられています。その由碁理を建諸隅命と同神であるとするのは「勘注系図」。そこには、丹波国の丹波郡と余社郡(與佐郡)を割いて竹野媛の屯倉を置いたとする、そして建諸隅命は開化天皇に仕えたと。さらに建諸隅命の亦たの名を竹野別といい、竹野郡の地名由来になったと記されています。
建諸隅命は天火明命七世孫であり、第5代孝昭天皇に仕えたとされます。少々時代がズレてしまいますが、第6~8代天皇が短命で終わったとするならあり得ることかも。

神明山古墳の頂から日本海を見やると、否が応でも目に入るのが「立岩」。ここは「間人(たいざ)ガニ」でも有名な漁港近く。圧倒的な大きさの柱状岩盤、数キロ先からでも見られるほど。
その「立岩」の記事にも記しましたが、麿子親王の鬼退治伝説があります。丹後には他にも大江山など麿子親王の鬼退治伝説がいくつかあります。これらの多くはおそらく、丹波道主命による当地平定伝説が置き換えられたものと思われます。もちろん鬼とは各地を支配していた首長であろうかと。






なお竹野神社・齋宮神社の背後(東方)は「依遅山」、こちらの山中は磐座群があるとされ(現地未確認)、太古からの霊地とみなされていたようです。


◎網野町

道路が全てX字に交差するように不自然に区画された市街地を中心とする地。野村克也氏の出身地というのが有名でしょうか。
地名由来は、話すことができないホムチワケ皇子のために天湯河板挙命が当地まで鵠(クグイ)を追ってきて、捕まえるために水辺に網を仕掛けたというもの(「モノ言わぬホムチワケ皇子のためなら」記事参照)。





この市街地のちょうど真ん中辺りに鎮座するのが網野神社。この神社は中世の頃、それまで別々に鎮座していた三社を合体させた社。うち一社は日子坐王を祀っていた社。現在の南方に鎮座していたらしく、こちらが式内社 網野神社だったのではないかと考えられています。うちもう一社は浦嶋児にまつわる社とされます。浦嶋児はもちろん「浦島太郎」物語の主人公。これまで何度も記事にしてきましたが、統括的な記事をこのシリーズの中で上げようと思います。浦嶋児は日下部氏の祖であり、日子坐王の後裔、そして鍛冶製鉄と関わりのある氏族であったとも考えられています。これは地名由来で触れた天湯河板挙命と関わりがあるのかもしれません。そもそも鵠を捕えにここまでやって来たというのは鉱山を求めてのものを神話化させたという説もあるくらい。隣の弥栄町には「丹後町鳥取」という地名もあり、後裔が授かった「鳥取姓」から鳥取氏が拠点としていたと考えられます。




網野神社の合体三社のうち、元南方に鎮座し日子坐王を祀っていた社というのは、網野銚子山古墳のすぐ側に鎮座していたとされます。
日本海側で最大198mの規模、4世紀後半のものとされます。大王級の墳墓であることは間違いなく、丹後を支配した王、これまで神名が上がっているいずれかかと。その日子坐王を祀っていた社があったと考えられることから、この古墳こそが日子坐王が被葬者ではないかとも。


(網野銚子山古墳出土の円筒埴輪など…「丹後古代の里資料館」パンフより拝借)



◎弥栄町

丹後半島の内陸部、丹後町や網野町の中心からは少々離れており、逆に丹波郡とは隣接。竹野川沿いであることからでしょうか。当地への関心は特に「奈具岡遺跡」と奈具神社の二箇所。

まずは「奈具岡遺跡」。弥生時代中期、一世紀頃の遺跡のようです。住居跡や土器等の定番物も相当数発見されたようですが、水晶玉の一貫生産が窺える工房跡が発見されたことが出色。最先端のハイテク工業地帯であったことが分かり、これを元に朝鮮半島と活発な交易を行っていたとされます。
3年ほど前から探しているものの、未だ現地を確認できていません。おおよその場所は特定できているのですが。

続いて奈具神社。「丹後国風土記」逸文に『竹野郡船木里奈具村に到り 即ち村人等に謂ひけらく「此處にして 我が心なぐしく成りぬ 古事に平善きをば 奈具志と云ふ」といひて乃ち此の村に留まり居りき 斯はいはゆる竹野郡奈具社に坐す豊宇賀能賣命なり』で有名な社。
豊宇賀能賣命とは豊受大神と同神。この逸文の話は比沼山に舞い降りた天女のうち、羽衣を盗み隠され天に帰られなくなったというもの(羽衣伝説の記事参照)。引き取られた老夫婦(羽衣を盗み隠したのもこの老夫婦)の元で酒造りを行うが、生活が潤ってくると追い出されてしまう。そして各地を転々とし、奈具村に到り「我が心なぐしく…云々」というあまりの悲哀な説話。





同名社が加佐郡の丹後由良にも鎮座します。そして同じ伝承も持ち合わせています。神名帳においては加佐郡と記されており、比定社は丹後由良の方とせざるをえません。ところが当社から勧請されたという説も。
そもそも豊宇賀能賣命が鎮まったのは遥か上古のことであり、当地へ鎮まったものの加佐郡丹後由良に分霊勧請、神名帳が編纂される時代には加佐郡丹後由良の方が比定社となったとみるべきでしょうか。それにしても当社が式内社とならなかったのは謎。
なお当社は中世に豪雨災害で村ごと流され、一旦は式内比定社 溝谷神社へ遷座し存命したわずかな村人もそちらへ避難したとか。現社地に復社した時期は不明。また旧社地がどこであったのかも不明。溝谷神社では今もなお豊宇賀能賣命の神霊は鎮まっています。

この溝谷神社も寂れきった古社ながら、新羅大明神を祀るというなかなか興味深い社。丹波道主命の御子である大矢田宿禰が創建したと伝わっていますが、神功皇后の三韓征伐に従軍し新羅に留まっていたとされます(創建は帰国後のこと)。





さて次回は「郡別概視」のラスト、熊野郡を。籠神社を創建した海部氏がそれまで拠点としていた地。次回もボリュームたっぷりの記事となりそうです。



P.S. 
「丹後古代の里資料館」さんのパンフより写真をいくつか拝借しました。この程度なら許されるのではないかという範囲で。
その代わりにというわけではないですが、当館には京丹後市(丹波郡・竹野郡・熊野郡)で発掘された出土品を数多く展示されておられる、大変貴重な資料館であると付記しておきます。再度訪れないといけないと考えており、その際には当シリーズ記事「丹後の原像」を大きく追加修正を施すことになろうと思います。
竹野神社・齋宮神社の道路向かいにあります。