■表記
記 … 竹野比売(タカノヒメ)
紀 … 竹野媛
他に丹波竹野媛とも


■概要
第9代開化天皇皇后。
ところが第11代垂仁天皇に嫁ぐ予定であったが容姿が叶わず追い返されたのも竹野媛(5人姉妹は妃となり竹野媛のみ追い返された)。偶然の神名一致なのか、あるいはともに丹後出身であり、系譜混乱または作為的なものである可能性も。ここでは開化天皇皇后の竹野媛について記します。

◎竹野媛は丹波大県主(丹後初代国王)の由碁理(ユゴリ、=建諸隅命、天火明命七世孫)の娘として生まれます。竹野媛がヤマト王権の天皇の皇后となることで、丹後の歴史が大きく変わったと考えています。

◎開化天皇との間には彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)が生まれています。紀の異伝には丹波道主王と垂仁天皇に嫁いだ5人娘と(もう一人の)竹野媛が生まれており、一気に朝廷と丹後国の関係が密になります。また開化天皇の別の妃、姥都媛命から彦坐王が生まれ、四道将軍として丹後に派遣されています。

◎ところが第8代孝元天皇の妃であった伊香色謎命(イカガシコメノミコト)が、第9代開化天皇皇后となり竹野媛は妃に。これには父である内色許男命(ウツシコオノミコト)の関与があったと考えられています。

◎「勘注系図」の注記に、開化天皇の御宇に丹波国から丹波郡と余社郡(與謝郡)を割いて、竹野姫の屯倉を置いたとしています。そして建諸隅命(由碁理)は開化天皇に仕えたと記されています。 

◎父の建諸隅命(由碁理)の本拠地は大和国の葛城地方(高尾張邑)であったと考えられます。父の建田背命(竹野媛の祖父)の時代に山城を経て大和へ進出。妃の諸見己姫(モロミコヒメ、竹野媛の母)は大諸見足尼の娘、葛城地方出身。建諸隅命(由碁理)はゆかりのある丹後と尾張とを治めていたのだろうと思われます。

◎晩年は丹後に移り竹野神社で天照皇大神を奉斎したと伝わっています。
なお竹野媛を卑弥呼の後を継いだとされる、臺与とする説があることを付記しておきます。


■系譜
母 … 諸見己姫
夫 … 開化天皇
子 … 彦湯牟須美命


■祀られる神社等(参拝済み社のみ)
[丹後国竹野郡] 竹野神社・齋宮神社

*関連社
[丹後国竹野郡] 依遅神社

[山城国乙訓郡] 羽束師坐高産日神社(祭神 竹野媛説有り)

*陵墓
[丹後国竹野郡] 神明山古墳 … 竹野媛説有り