(大和国高市郡 鷺栖神社)



【古事記神話】もの言わぬホムチワケ皇子のためなら…


【古事記本文の前に…】
本牟智和気御子が生まれました。倭(大和)の「市師池」や「軽池」に小舟を浮かべたりして遊んでいました。


これに続いて以下本文。


「然るにこの御子、八拳髭(やつかのひげ)心前(むなさき)に至るまで真言とはず。彼れ、今、高往く鵠(クグヒ)の音を聞きて始めてあぎとひしたまひき」

【意訳】
本牟智和気御子は髭が胸元にまで伸びても言葉を発することができなかった。
鵠(=白鳥)の飛ぶ音を聞いて初めて言葉を口にしました。


続き。


「ここに山邉之大鶙(こは人の名なり)を遣はして、その鳥を取らしめ給ひき。彼れ、この人その鵠を追ひ尋ねて、木國(紀国)より針間國(播磨国)に到り、また追ひて稲羽國(因幡国)を越へ、すなはち旦波國(丹波国)・多遅麻國(但馬国)に到り、東の方に追ひ廻りて近つ淡海國(近江国)に到り、すなはち三野國(美濃国)を越へ、尾張國より伝ひて科野國(信濃国)に追ひ、遂に高志國に追ひ到りて、和那美の水門(みなと)に網を張り、その鳥を取りて持ち上がりて献りき。彼れ、その水門を号けて和那美水門(わなみのみなと)と謂ふ。またその鳥を見たまはば、物事はむと思ほししに、思ほすが如く言ひ給ふことなかりき」

【意訳】
山邉之大鶙という者にその鵠を捕まえさそうとしました。
鵠を追って紀国、播磨国、因幡国、丹波国(記の編纂時は丹後国は未分裂)、但馬国、近江国、美濃国、尾張国、信濃国、高志国へと。
そして遂に「和那美の水門」で捕まえたようです。
ところが御子が口を聞くことはなかった。


◎本牟智和気御子が話せるようにと、山邉之大鶙は西へ東へと鵠を追いかけます。多少は盛られたお話になっていると思いますが。
◎「和那美の水門」についてはどこなのか、未だ定説は無いようです。文脈から高志国のように思えます。新潟県長岡市に「川口和南津」という地名があり、候補地の一つとなっています。ところが但馬国に和那美神社が鎮座しており、そちらが最有力でしょうか。丹後国の網野神社に網を張って捕まえようとしたという伝承がありますが。
◎紀の方にも同様の話が掲載されています。
・本牟智和気御子は30歳になっても話すことができなかった。
・鵠を追ったのは湯河板舉(アメノユカワタナ)で、鳥取氏の祖。鍛冶氏族であるとみるのは谷川健一氏。
・西へ東へと…の記とは異なり、紀の方では出雲国あるいは但馬国へ追ったのみ。
・捕まえた鵠と遊ぶうちに御子は話すことができるようになった。
・本牟智和気御子が話せるようになるために…というのが主題ではあるものの、湯河板舉が論功行賞により鳥取姓を賜ったという内容で話は締め括られています。紀のいつものパターンではありますが。
◎本牟智和気御子が話すことができないのは水銀中毒ではないか、と勘ぐっておられるのは谷川健一氏。つまり「唖児」であったのではないかと。そこにこれまた鍛冶氏族ではないかと勘ぐっておられる鳥取氏の祖神である湯河板舉が絡み…と。個人的に付け足すなら、西へ東へ奔走したのは「鉱山」を求めたものでないかと。

◎結論として、湯河板舉に鳥取姓が与えられた理由を記すために作った話ではないのか!…などと想像しています。
もちろん湯河板舉は「鉄」探しに東奔西走していたであろうし、本牟智和気皇子は「唖児」であったのであろうしと。

※冒頭の鷺栖神社の写真は紀の記述にゆかりのあるもの。
父垂仁天皇の夢に「出雲大社へ向かうように」と神託がありました。その神託が正しいものかどうかを「鷺栖池」で誓約(うけひ)したと記されています。



(近江国甲賀郡 川田神社)

(和泉国日根郡 波田神社)


(河内国大県郡 天湯川田神社)