(新井崎神社の鳥居から「冠島・沓島」を)



◆ 丹後の原像【4. 郡別概史 ~與謝郡(後編)~】


(前編)からの続き(後編)を。


◎冠島・沓島

ともに若狭湾内にある無人島。現在の管轄は舞鶴市になるようですが、籠神社の奥宮とも考えられ、また眞名井神社の神域内とも考えられることから判断すると與謝郡に。「丹後風土記」残欠の記述は加佐郡に属します。

*「冠島」データ
雄島、大島、竜宮島、常世島などとも呼ばれています。長辺1300m余り、ほぼ岩山でできた島であるがわずかに平地があり、そこに老人嶋神社が鎮座しているようです。「立神」という垂直に屹立した島が隣接しているとか。海底には弥生時代の遺跡(神殿跡か)があるとされています。
「オオミズナギドリ」の繁殖地であり、天然記念物に指定。基本的に入島は禁止。年数回の調査のためと、地元民による年一回の「雄島参り」のみとが許可されています。

*「沓島」データ
女島、履島などとも呼ばれています。「冠島」の北北東2km余り。釣鐘島と棒島が合わさっているらしく、全島が岩盤でできており漂着はできないとか。ウミネコの繁殖地となっているようです。



(右が「冠島」、左が「沓島」)



「冠島」には男神が鎮まっているとも、女神が鎮まっているとも、資料によりまちまち。「沓島」は概ね女神が鎮まるとされているようです。
「丹後国風土記」残欠は、それぞれ天火明神と日子朗女。海部直並びに凡海連らが祖神を祀る社であるとしています。「丹哥府志」は陰陽二神として具体的な神名の記載は無し。その他それぞれ天火明神と市杵島姫神とするものも。いずれも夫婦神を祀るという捉え方をしているかと思います。

あくまでも伝承としては、天火明神が「冠島」に降臨、後に籠神社へ遷ったと。地理的にもこのような伝承が起こるのは当然のことのように思います。

「冠島」にはわずかな平地に老人島神社が鎮座しているらしく、こちらへの参拝が上記の地元民の「雄島参り」。「丹哥府志」には洲先大明神が鎮座していると記載されますが、こちらは不明。既に廃絶してしまっているのでしょうか。

「冠島」「沓島」が陸地からもっとも美しく見えるのは、陸地に限ると伊根町に鎮座する新井崎神社からかと思っています。冒頭の写真のように断崖絶壁の間際に立てられた鳥居は、二島を意識したものであることは明白で、春秋分の日には冠島から朝日が登るそうです。


◎加悦谷(かやだに)

丹後国発祥地とも考えられる非常に重要な地。丹後と言えば籠神社や眞名井神社がメジャーであり、マイナーな「加悦谷」にスポットが当たることはありませんが。「ちりめん街道」としては多少取り上げられることも。


(「ちりめん街道」、加悦天満宮の社前) 


「加悦谷」は「野田川」流域に発達したいわゆる谷間の地域。日本の原点でもある飛騨地方などをみても明らかなように、大きな河川の山合いの谷間に上古からヒトが生活を営み始めました。今よりも船での移動が主流。交易にも利便が良く、狩猟採取生活を行うには格好の地であるとも。また津波などが押し寄せても大丈夫であることを知っていたのかもしれません。

そう広くはない地域ですが、ひとまずいくつかのエリアに分けて概視していくことにします。点が線となり次々と結ばれていき、やがて面として捉えられるようになる…これは実に古代史を紐解く醍醐味。点は主に神社とその社伝など。線はその神社を奉斎した氏族の移動、そして支配。面とまでになると古代の辿った歴史そのもの。そのような段階にまで足を踏み入れ始めた感触が出てきたので、こういった記事を起こしているのですが。

まずは「与謝」地区周辺から。知名通りに「与謝」発祥地、与謝の原点がここにあるのだろうと考えています。古代は「與佐村」。
シンボルとなるのは二ツ岩社。丸い巨岩が二体、その前に小祠を設けたシンプルなもの。古く小さな集落内に、ゴロンゴロンと佇んでいます。まさかここから丹後の歴史が始まったなどとは誰もが想像し得ないもの。




この「二ツ岩」はおそらく、いつの頃なのか山から転がり落ちて来たのでしょう。原初は山中で祭祀が行われていたと想像されます。始まりは付近の遺跡等から考えて、縄文時代からでしょうか。
この二岩にこのような古代のロマンを感じるのは私だけなのかも。初めて訪れた時の震え上がるような感動は未だに記憶に新しいもの。
そしてここにイザナギ・イザナミ神が降臨したとされます。神名が宛てられたのはもちろん後の時代のこと。当時はとにかく最上の神(夫婦神)が降臨する霊石として考えられていたものかと。そこにナギ・ナミ神が宛てられたのは自然な流れであったかと。
なおナギ神のみ、近くの柴神社(記事未作成)へ江戸時代に遷座されています。

実はこの「与謝」には「とんでもない伝承」があると「加悦町誌」は伝えています。なんと「吉佐宮」がここにあったと。「段ノ坂」という地に「吉佐宮跡」の石碑が建てられていたが、明治新政府になった時に「お上に見られたら大変なことになる」と、急いで地中へ埋めたというもの。絵地図なども残されているそうですが、この推定地は未だ自身で特定できていません。
似たような話をどこかで聞いたことがありますが(神武天皇社の記事参照)。本当に文明が開化し、人々は自由になったのでしょうか。

続いて大虫神社小虫神社の名神大社が二社も鎮座する「温江」(あつえ)地区界隈。南には伝説の「大江山」が控える丘陵地、縄文時代の遺跡や銅鐸出土、日本海No.3の蛭子山古墳の他、100基近くの群集墳が築かれたという、丹後屈指の重要な地。丹後発祥地とされる「与謝」とはひとくくりで見るべきかもしれません。


地名から何かあるぞと感じるのは一種の病気でしょうか、案の定「何か」が出てきました。元は「アチエ」と呼ばれたと考えられ、阿知使主(アチノオミ)が関係するのだろうというもの。阿知使主は東漢氏(ヤマトノアヤウジ)の祖であり、応神天皇時代の新羅からの渡来人。半島由来の多くの技術を伝えたことと思います。「大江山」の麓で製鉄鍛冶に携わっていたのかもしれません。大虫神社小虫神社は彼らが奉斎していたのでしょうか、社伝等には名神大社となり得る所以は見当たりませんが。大虫神社の境内には磐座が座しており、古代からの霊地であったことは分かりますが。


(大虫神社の磐座)


次に「加悦」地区界隈。「ちりめん街道」が南北に走っています。現在はここが中心地のようであり、古代にもそのような時期があったのかも。そう思わしめるのは加悦天満宮の存在。長い石段を必死に登った先に現れるのは、菅原道真公を祀る立派な天満宮ですが、肝心なのはまだ少し先の境内社 吾野神社。



(加悦天満宮 境内社 吾野神社)


神名帳においての読みは「ワカヤノ」。接頭接尾辞を取り除くと「カヤ」。まさに「加悦」そのものであり、「加悦」の発祥がここではないかと思われます。
当社のご祭神は我野廼媛(カヤノヒメ)。ナギ・ナミ神の神生みの段で生まれた神で、「茅」や「野」の精霊とされています。ところがこの神名から連想されるのは「伽耶国」。渡来系氏族が奉斎した神である可能性も。渡来系氏族をなんでもかんでも製鉄鍛冶と結び付けるのは危険ですが、その可能性もあるように思います。西側には「安良山」もあることですし。

続いて「加悦谷」北部の「白川」。ここには物部神社や矢田部神社(記事未作成)などが鎮座します。いずれも式内比定社。「矢田」とくれば物部氏、もちろん当社もそのようです。矢田部氏は伊香色雄命の後とされ、ご祭神もそうであろうとされます。当地もまた製鉄鍛冶が行われた地であることが窺えます。

「加悦谷」からは但馬国への山越えルートが古代からあったようです。「幾地」や「岩屋」を通る現在の県道2号線と、「加悦奥」を通る現在の県道705号線と。
「幾地・岩屋」ルートには阿知江いそ部神社(「いそ」は山扁に石)が鎮座し、その旧社地とされる背後の山頂には「雲岩」と称される巨岩が座しているようです(現地未確認)。太古からの信仰の対象であったのかもしれません。
また「阿知江」は「温江」と語源は同じ可能性も。そう考えると、前述の「温江」を拠点としていた新羅からの渡来人というものが現実味を帯びます。新羅で思い出されるのは金閼智(キン・アッジ、キム・アルチ)。紫色の雲が空から垂れ下がり、その雲がかかった木の枝にぶら下がっていた黄金の櫃から生まれたとされます。「雲岩」と閼の「雲」伝説と、繋げてしまうのは飛躍し過ぎというものでしょうか。



書き始めると、あれも書きたいこれも書きたいで、ついつい長くなってしまいました。丹後への抑え切れない熱い思い…などとかっこよく濁しておきましょうか。

次回は「丹波郡」を。