◆ 丹後の原像【14. 「丹後國一宮深秘」 (大意 ~その3)】 


 「丹後國一宮深秘」という室町時代に著されたと考えられる、智海という社僧が興した海部家(籠神社社家)代々の秘蔵書。
今回はその書の大意を掲載する第3回目。

前回の記事では、仏教などという外来の新興宗教の観点からのあまりに横暴極まりない身勝手な記述に、文調も少々荒々しくなりましたが…。

まだまだ出てくるので、それらに耐えつつ続けていきます。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


一社を賛嘆して奉ることは、萬神を賛嘆し奉るこことなり、当社参詣は諸神に参詣することとなります。当国の籠大明神は日本第一の神明であり、鎮護国家の霊社であり、伊勢豊受宮外宮の本社なのです。初めて御影向(ようごう)されたのは、與佐の入海である天橋立の松の梢。その形はまるで大いなる籠(かご)のよう。その光は十万を照らしており、日影すらも覆っています。その後、北の青山に飛び移りなされました。常に空中に顕れ、化身は雲外に現れます。見た者は驚き不思議に思い、それを聞いた者はおののき恐れます。



【ちょっと一服して補足を…】

◎大して中身の無いものですが重要なのは二点。一つは大神が降臨したのは「天橋立」の松の梢であると記されていること。「降臨」を「影向(ようごう)」などという仏教用語を用いて表現していますが。
もちろん何よりも先ず「冠島」に坐すという前提があってのこと。容易く船で移動していた古代とは異なり、この時代になると身近には感じられなくなってきて、「高天原」並みの捉え方がなされていたのでしょうか。それにしても磐座などが設けられず「松の梢」というのが「天橋立」らしいところ。

今一つは「籠(かご)」というワード。籠神社の本来の読みは、「このじんじゃ」ではなく「かごじんじゃ」ではないのかという説が古来よりあります。避けては通れない課題ではないかと。深淵に関わるので大変なことですが。
すると「かごめ歌」にも触れてみたくはなりますが、またいずれ…。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


大明神の弟は彦火明尊。明神が彼に示して言うには「私には人の姿となり俗界に出て恵みを与えたいという願いがある。お前は神官となり私を崇敬しなさい」と。そしてその山を大谷寺天蓋山と名付けました。御在所が定まり明神はまた言うには「私はここに坐しても何の良いことは無い。どうして大伽藍があるところで末世相応の大法会を行う理由があろうか」と。その後御在所を引き下げて真井原に遷宮されました。その地は「府中」と言います。以来、神威は四海の外に振るい、灌威(※)は天下の内に響かされました。和光松壖(わこうしょうせん)の前には僧侶も一般人も歩みをなしており、垂迹柏城の砌には身分の高低に関わらず命を繋ぎ、皆等しく財も心も分け与えられ、これは時を経ても変わらずに。五穀を頻繁に供えは日毎に盛んになっています。皇室の崇敬は他とは異なり、武門からのお慕いは餘社を越えています。垂迹なされた最初は御本地が怪しまれるという厳しい状況、僧侶は法燈をかかげて明神に楽しんで頂こうとしている時、ご本尊の後ろの明かり障子に、筵(むしろ)を掛けていたところに、御神像を移しました。そしてこれを拝み奉っていましたが、三身円満の尊容は極楽世界の教主であり、阿弥陀如来がおられました。誠に六十八超世の悲願、無空即便往生の大導師です。講経(※)の時、明かり障子に筵を掛けてこの講経を季の講と名付けました。


【ちょっと一服して補足を…】

◎仏教用語に対して関心も無ければ知識も持ち合わせていないので、少々厄介でした。
◎記述に従うと、最初「天橋立」の松の梢に降臨した大神は北山に遷り空中にいたと。その山を「大谷寺天蓋山」と名付けたが、府中の「真井原」に遷ったと。
もちろんその当時に「大谷寺天蓋山」などと名付けられるはずはなく、仏教に支配されてからのこと。
◎「神威」と「灌威」とありますが、これは自動的に放たれる威力と自発的に放たれる威力ぐらいの意味でしょうか。「灌」は「そそぐ」という意味を持ちますし。
◎「講経」とは経典の講義を行うことのようです。


まだまだ仏教に穢された記述が続きます…。