◆ 丹後の原像【12. 「丹後國一宮深秘」 (大意 ~その1)】 



「丹後國一宮深秘」という書が存在します。
籠神社の由緒を探る上では大変重要であり、その拠り所の一つともなっている書。

海部家に代々秘蔵されてきました。

海部直八十一代当主の故海部穀定氏の「元初の最高神と大和朝廷の元初」に掲載され、また八十二代当主の光彦氏の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」にも掲載されています。

この書は海智という僧侶が記したもの。南北朝時代に一度起こされた書が動乱により損焼、それを再興させています。
当時は後醍醐天皇の要請を受け南朝方に組みした当社は、光彦氏が言うように「受難の時代」であったと。おそらくそれに乗じて僧侶たちが入り込んでしまい、神仏混淆により当社が再興されるという余儀ないことに。海智は社僧であったといいます。

したがって当書は、神仏混淆の観点から記されるという非道極まりない内容となっています。
ただしこの書から得られるものは甚だ多く、当社縁起に関わる重要な記述、当社こそ元伊勢 吉佐宮であるという点、徐福についてまでも僅かながら触れている点などは、日本古代史を紐解く上で大変貴重な資料であると言えます。

前置きはこの辺にて。
そのまま掲載してしまうのは憚られますので、恐縮ながら大意という形で。



◎「丹後國一宮深秘」(大意)


神代に塩土翁という一人の翁がいました。あるとき八人の天女が降って「粉河」で水浴びをしていました。「粉河」と称するのは粉が流れるように美しいから。天女たちはこれで酒を作っていました。ところが翁は欲を起こし天女の衣を隠してしままったので、天女は天に帰ることができなくなりました。仕方なく夫婦となり、酒を作って生活をしていました。伊勢の酒殿明神は丹後国より勧請したものであり、朝廷の酒の根本はこれであります。

その天女がいた所というのは口伝があります。虚空に常に光を放ちながら飛ぶ様は、まるで鳥の籠から光を放つよう。この天女が降臨し勧請され丁重に斎き奉りました。

これは神代七代のうちの第一、國常立尊として坐す神。與佐郡に宮を造り「與佐宮」と言います。籠より光を放っていたので籠宮と名付けられました。天女は天に昇られなくなったことを嘆き悲しみ、一首の歌を詠じました。それで明神は光を放ちこの地に降りて来たのです。天より種々の供物が捧げられました。


【ちょっと一服して補足を…】

◎冒頭から大変なことのオンパレード。補足程度では済まなさそうですが、なるべく簡潔に留めます…。
◎まず天女の羽衣が載せられています(京丹後の二つの「羽衣伝説」参照)。ここではなんと!塩土翁となっているのです。「丹後国風土記」残闕では和奈佐の老夫婦となっているのですが。
眞名井神社の磐座の左手(向かって右手)に、数柱の神々が小さな磐座に祀られる特別な場所があります。その一番手前に鹽土老翁が祀られています。現在は閉ざされかなり見えにくくなっていますが、かつては鳥居を潜り直接拝することができました(アメンバーさん限定→眞名井神社 秘蔵写真参照)。
◎「朝廷の酒の根本はこれであります」の部分、読み下しは「和朝の酒の根本是なり」。「和朝」を「大和朝廷」としましたが、「日本」と解してもいいのでしょうか。すると酒の発祥は丹後ということになります。十分にあり得ることですが。
◎天女、すなわち豊受大神は國常立尊と同神という記述になっています。
◎「鳥が籠から光を放つ」から籠神社と名付けたと言及されています。説明もなされているものの、あまりに不自然としか言いようのないもの。やはり「かごめ唄」となりユダヤと繋がるのか…?(これ以上は言いません、ググれば山のように出てきます)

この程度に抑えておきましょう!
この後しばらくは、目を覆いたくなるような仏教観点からの神を冒涜したような記述となります。ところがさらに重要な記述があるのです。


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種々の宝花が捧げられ、紫雲(仏が来迎するという雲)中から降ってきた天の宝蓋で覆いました。それが今の大谷寺北山(不明、「東山本願寺」のことか?)にあります。
第10代崇神天皇の御宇、天照大神が與佐宮に行幸されました。天照大神・國常立尊・籠宮大明神を敬い詞にしました[その後、養老二年丁巳三月二十一日寅刻に御遷宮あり]。一心我頂禮 久住舎尊 本来我一心 衆生共加護と。國常立尊・天照大神を敬い詞にしました。天宮誓願 久遠正覺  法性如如 同在一所と[このように一社に鎮まっていました]。そのときこの神を豊受大神宮と名付けました。豊者は國常立尊、受者は天照大神であります。両宮の御名前です。そうとは言っても伊勢においては天照大神[内宮胎蔵]・豊受[外宮金剛]を両大神宮と言います。伊勢国に御鎮座以前は丹後国一社に並んでご鎮座されていたという神秘口伝がありました。ということは伊勢の根本は丹後一宮與佐社なのです。第11代の垂仁天皇の御宇、伊勢国度会郡宇治郷御裳濯河(みもすそかわ)の川上に遷宮しました。第22代雄略天皇二十一年、勅命で丹後国與佐宮を山田原に遷し奉りました。


【補足】
◎忌々しい仏教観点から記された冒頭部分は略します。「第10代崇神天皇の御宇…」以降は当社が元伊勢であることが記されます。
要約すると國常立尊と天照大神は「同在一所」であったと。豊受大神というのは両神の合わさった神名であり、「豊」は國常立尊、「受」は天照大神のこと。ところが伊勢では天照大神(内宮)と豊受大神(外宮)となっていると。
伊勢国に鎮座する前は、丹後国一社に並んで鎮座していたという神秘口伝があり、ということは伊勢の根本は丹後一宮與佐社であったと。
◎豊受大神が國常立尊のことであるというのは、しばしば見受けられます。ところが豊受大神とは國常立尊と天照大神が合わさった神名であるというのは、他ではみられません。
当書はこのことを元伊勢である理由として挙げていますが、これ自体がそもそもどうなのでしょうか…。

豊受大神宮(外宮)