◆ 丹後の原像
【34.弘計皇子・億計皇子の丹後潜伏 ~2】
自身に課したルール
「一ヶ月以内に記事をUP」を何とか守ることができました。
このような拙いブログでも、お読み下さる方のことを考えれば、本来は一週間以内なんでしょうけどもね…
現状ムリ!
お許し下さいませ。
丹後へ逃亡潜伏記事をスタートさせました。
その第2回目。
前回の記事では紀の記述から始めました。
ここでは播磨国での両王子の発見と大和に迎え入れられる様子が記されます。
今回は「丹後国風土記」残闕より。
そもそも「丹後国風土記」残闕とは何なのか?を。
「丹後国風土記」は現存していません。
残されているのが
*「逸文 丹後風土記」 … 「丹後国風土記」逸文とも
*「丹後国風土記」残闕 … 「丹後国風土記」残欠、または残缺とも
「逸文」は、「釈日本紀」などのいくつかの書に記される断片記述を集めたもの。
「残闕」は、智海という僧侶が鎌倉時代辺りに記した書。「丹後國一宮探秘」でも知られます。偽書説も根強いですが…。
どちらも断片的なもので
文量としては多く残されていません。
弘計王・億計王に関する記述もわずかなもの。
次のシリーズは「残闕」の翻訳にしようかな…。
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
【大意】
大内郷
大内郷と名付ける所以は、往昔穴穂天皇(第20代安康天皇)の御宇に市辺王子らと共に億計王(第24代仁賢天皇)・弘計王(第23代顕宗天皇)がこの国に来ました。そこで丹波国造稲種命らが安宮を密かに作り、此処で奉仕しました。故にその旧地を崇めて大内と名付けたのです。後に与佐郡の真鈴宮に移し奉りました。(以下3行虫食い)
【補足】
◎「大内郷」は西舞鶴市街地の東半分辺りだろうと思われます。ちなみに西半分は田邊郷。
◎丹波国造の稲種命は天火明命十二世孫。建稲種命のこと。資料により十三世孫であったり、尾張国造であったりとまちまち。もちろんここでは深追いしません。
日本武尊の妃である宮簀媛(ミヤズヒメ)の兄。日本武尊の東征に副将軍として随伴したと言えば分かりよいでしょうか。
◎「安宮」については資料が見当たりません。おそらく伝承等がもう残っていないのでしょうね。
◎「真鈴宮」の推定地は須津彦神社・須津姫神社。「すず」と「すづ」。
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
前回の記事でも記したように
知り得る限りの両王子の伝承があるところは、くまなく訪れました。
どうやら「残闕」に記されるのはごく一部の情報のみで、実際には丹後のあちらこちらに隠棲していたようです。
次回は、伝承地一覧と伝承内容に付いての記事にしたいと思います。