◆丹後の原像
【31.謎の大宮売神社にじわりと…5】



令和二年 12/7~8に再び丹後を訪れました。
旅行の最後に参拝したのが大宮売神社

宮司さんがたまたまおられ、
資料館の展示物を見学、長時間に渡り多くのことを教わりました。

一旦終了させた大宮売神社シリーズですが、追加記事を。




既に資料館の展示物をアメンバー限定にて記事を上げています。展示物の写真を載せた程度で詳しくは触れていません。

「スピリチュアル系を気取る輩」
「仏教関係者」
「未だ記事を上げていない方」
「その他、相応しくない記事を上げている方」
これらの方以外は概ね申請に下さることに対し了承しています。


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◎大宮売神社遺跡について

遺物が多く出土しているのは二の鳥居近辺。冒頭写真に写る鳥居のこと。これは既に書いてきました。
ご本殿背後の「禁足の杜」については、これまでほぼ発掘等はなされていません。おそらくはここが遺跡の中心であり、とんでもないものが眠っているのであろうと思われます。現在は歴史遺産認定がなされているために、発掘調査は不可。もちろん安易に立ち入るべきですらないとも思いますが。
発掘等が「ほぼ…なされていない」というのは、かつて石灯籠があったが、老朽化したので取り除くために1mほど掘り返したとのこと。案の定、土器などがいっぱい出土したそうです。

遺跡の中心が当社境内であろうとされますが、その範囲を探るのはほぼ不可能。
近隣の田畑などからいくらでも遺物が出土しているとのこと。遺跡と認定されると田畑が続けられなくなるため、隠し持っていることが多いようです。時折、当社へ寄贈という形でこっそり持って来られるとか。これは他の地域でもよくあることで、致し方ないところかと。




大宮売神社の由緒沿革等について

丹後国一の宮は籠神社であり、当社は丹後国二の宮。これは丹後国の歴史を考えれば自明のこと。「たられば」を用いるのは良くないことかもしれませんが、その逆も有り得たのではないかとも。つまり歴史の成り行きにより当社が丹後国一の宮になっていた可能性も。
これまで当たり前が如く受け入れてきましたが、ふとそんなことを考えてみました。

二社の違いは籠神社には古文書が多く残っており、当社にはほとんど残っていないということ。また残っているがために、中世頃からは研究も進みさらに崇敬が高まったのではないかとも思います。

豊受大神は大和王権により、伊勢の外宮へと引っ張っていかれました。一方で大宮売神も大和王権により、宮中などへ引っ張っていかれてます。そしてウズメ神として誰もが知る神、多くの神社で祀られる神となっています。

留意せねばならないことは、当社扁額において「大宮売神」と「若宮売神」と二座が併記されていること。神名帳においても二座であり、二座自体は問題の無いところ。問題は豊受大神が「若宮売神」と記されていること。「大宮売神」の娘という捉え方がなされていたのか、或いは丹後支配の継承者としての「若宮」なのか。


若宮売神とは豊受大神のこと。



長時間に渡る宮司さんとのお話の中から、他にも多くのことを教わりました。

「周枳(すき)」という地名に関して。「主基田(すきでん)」を由来とする説と、古代朝鮮語「村(スグ・スキ)」を由来とする説と。
当社の長い参道の途中に「主基」という小字名があったようです。これは「主基田」説を裏付ける傍証の一つになるかと思います。
だからといって「村」説を取る個人的な考えが揺らぐものではありません。なんだったら当地こそが「主基田」発祥地であり、「村」に因んで付けられた名前ではないかとも。発祥地とするだけの材料も多くあるわけですし。

また当社宮司さんは宇良神社和貴宮神社竹野神社それぞれの宮司さんと同族であるそうです。いずれも丹後の原像を語る上で外せない主要社。籠神社と同様に祭祀氏族だったようです。


◎最後にこの場をお借りし、お忙しいにもかかわらず、長時間に渡りお話を頂いた宮司さんに深謝致します。