◆ 丹後の原像
【30.謎の大宮売神社にじわりと…~4】



前回9/30に記事を上げて以来、ずいぶんと日にちが開いてしまいました。

本来は遅くとも一週間以内に上げる予定だったのですが…。

その間いろいろとありました。
熊野へも行き~、近江へも行き~、丹生の奥地へも行き~

記事作成にちょっぴり余裕ができたので久しぶりに。この記事を作ることでまた余裕は失くなるのですが(笑)


この「丹後の原像」テーマは自らに課した宿題のようなもの。

いずれ書籍にでもしてみようかななどという、
淡~い夢の、その準備段階の、そのまた予備的なものでして…。

しっかりとやりきらないと!!!


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あまりに開き過ぎたので、おさらい的なものを冒頭に。


【謎の大宮売神社にじわりと…】

~1 → 大宮売神社の概要
~2 → 大宮売神とは
~3 → 「大宮売神社遺跡」に焦点を

以上のように記事を起こしてきました。
第4回目は「周枳(すき)」について。



当地周辺を「周枳(すき)」と言います。

誰が唱えたか…どなたかは忘れましたが、「スキ」とは古代朝鮮語で「村」のことであると。

この「スキ」は「須伎」や「宿」にも見られます。
「須伎」は丹波国の阿須須伎神社、伊勢国の須伎神社(いずれも記事未作成)など。「宿」は「指宿(いぶすき)」の地名などに名残があるかと思います。

「スク」「スカ」などもそうであろうと考えられています。
「スク」は筑前国那珂郡の「須玖」や「村主(スグリ)」など、「スカ」「阿須賀・飛鳥・明日香」などに見られます。「スガ」も当てはまるのでしょうか。

いずれにしても弥生時代以前に遡る言葉なのであろうと思われます。弥生時代となるとどうしても「鉄」との関連を考えたくなりますが、例え間接的にであっても関係があるのかもしれません。

「丹後旧事記」には「主基村」という記述が見られます。「主基(すき)」とは大嘗祭の時に新穀を献上する地のこと。悠紀とセットになっています(「斎田定点の儀」の記事参照)。

安房国安房郡に「主基村」という地名が残っているようです。「周枳」がこの「主基」を由来とするには、あまりに時代がかけ離れているように思います。

したがって古代朝鮮語の「村(スキ)」を由来とするものと考えて良さそうです。



この「周枳」地区についての案内が、大宮売神社の駐車場に掲げられています。

「『周枳』という地名は平安時代に編纂された『倭名類従抄』という書物に記された『周枳郷』が元になっています。弥生時代には多数のガラス玉や鉄製品を出土した左坂墳墓群が、古墳時代には丹後地域有数の密集度をほこる左坂古墳群が造られます。また飛鳥・奈良時代には横穴墓が密集して造られます。(中略) 神社は大宮売神社のほかに荒塩神社・名所賀稲荷神社などがあります。また大宮売神社のお旅所となっている石明神はもともとは古墳であったものです」

「左坂墳墓群」では一万余点のガラス玉が出土したことで知られます。すべて青色。勾玉・管玉・小玉と形はバラバラで、これらを繋げて首飾りや腕飾りにしたと考えられています。


石明神は冒頭の写真にも示したように、石室が剥き出しになった古墳(墳墓)。既に石室は崩れており、現在のものは寄せ集めて石室風にしたもので往時の形状は分かりません。

大宮売神社の一の鳥居から南へ500m程度、御旅所ともなっていることから、関連した墳墓とみなされるでしょうか。築造時期はまったく不明ながら、大宮売神の墓?という想像もしてみたくもなります。

本当のところはどうなのか分かりませんが、それくらいの大変重要な遺跡かと思います。



最後になりましたが、こちらも大変重要な社である荒塩神社

「丹後国風土記」残厥の「羽衣伝説」には以下のように記されます。

水浴している間に羽衣を隠され帰られなくなり、育てられた老夫婦の元を追い出された天女(豊受大神)が向かったのは「荒塩村」、次いで「哭木村(なきぎ村)」、そして最後に「奈具村」(弥栄の奈具神社由良の奈具神社)に鎮まったとあります。

この天女の「荒塩村」にまつわるのが当社ではないかと考えられます。

そのように考えると当社が信仰の対象であり、大宮売神社が神籬を立てたりした祭祀場であったのではないかとも思っています。

「丹後旧事記」などには当社を阿良須神社とする記述が見られます。「荒塩」は「阿良須」からの転訛なのでしょうか。

そうすると阿良須神社(舞鶴市)阿良須神社(大江町)の両「阿良須社」と何らか関係がありそうにも思います。

この「アラス」という、いかにも弥生時代のものと思われる言葉から、都奴賀阿羅斯等(ツヌガアラシト)を連想させます。都奴賀阿羅斯等はアメノヒボコ神と同神とする説が有力。丹後では数少ない痕跡の一つなのかもしれません。


ほとんど誰も訪れない寂れた小社ですが、
丹後の古代を探る上で鍵を握る社であると考えています。



この記事をもって一旦このシリーズを終了させます。また自身の知見が深まれば、追加記事を掲載するかもしれませんが。

おそらく年内に丹後へ敬神旅行を行うと思います。その時にまた新たなシリーズを組むことになると思います。




■【丹後の原像】過去記事