(天橋立神社の一の鳥居から「阿蘇海」を)





◆ 丹後の原像【36.「丹後史料叢書」 ~緒言 1】





私が愛してやまない憧憬の地「丹後」。


人生の集大成として

丹後の深淵を深く知り、できればその魅力を伝えたい…


そのための準備段階の素描程度に始めた「丹後の原像」テーマ。


思い付きに任せ恣意的に題目を上げては

放埒なままに記事を綴ってきました。


そろそろちょっぴりと筋の入ったものを…

取り上げるのは「丹後国叢書」。





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昭和二年に郷土史家 永濱宇平氏らにより編纂された著書。「丹後全般の史料公開」を強く望む、

熱き心の持ち主たちの手により編まれました。


それまで散逸していた文献を一冊にまとめ上げたもの。「丹後風土記」や「丹後舊事記」といった超一級資料が含まれており、その恩恵を有り難くお受けします。



折しも発刊時に「北丹後大地震」が…。


マグニチュード7.3

広島県ですら震度5

大阪でも液状化現象が起こったというもの。


丹後が壊滅状態になったことは想像に難くありません( → Wikiはこちらを参照)


大変なご苦労をなされたことは想像に難くありません。





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現在は国立国会図書館にてオンライン公開されています。なんと有難いことか。


しばらくはこの書を教科書として

このテーマ記事を作り上げていきます。



まずは「緒言」から。

イントロダクションですね。好きな言葉。




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「我が丹後國は天橋立の景勝を抱きて北海に臨み、其の昔田庭と稱して今の丹波國と一國たり、史前豐受大神早くも此地に降臨ましまして水田陸田を定めて五穀桑萱の基を拓かせ給ひし故地なりと云ひ、原史時代に入りては皇室とよ縁故また浅からず國史その尊きを讚ふ」


こちらが冒頭の一文。


冒頭の一文というのは物書きにとって特に神経を使うところ。慎重に言葉を選びつつ無難にスタートを切られているように感じます。


この一文に続いて、これらを記録し伝えるもののあまりの少なさを嘆き創刊に至ったと云々。


実はこの直前に「丹後史料叢書の刊行について」というタイトルの文面があり、内容は重複しています。著者と編集者とがそれぞれ記したものであり、同じような内容になってしまったのかと。



ところで…注釈が設けられており、

有り難く引用することにします。


丹後国はかつて丹波国に属していました。

原初は「田庭」と称され、「丹波国」も「たにはのくに」。


和銅六年(713年)に北部の五郡が分割され(切り離され)、それが「丹後国」に分国しています。




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このまだ「田庭」と称されていた時代については国史等の文献資料がなく、遺跡遺物に頼るしかないと。


それらを見てみると、

「殆んど總てが野見宿禰系の彌生式土器で、アイヌ系の縄紋土器で無い所から見て石器を使用した時代の住民がアイヌ族では無くて、矢張り我が天孫民族の先驅者たる所謂國津神の系統であった (中略)」と。


野見宿禰系の弥生式土器、アイヌ系の縄紋土器というのは議論の余地があるところですが。


続けて、

「丹後風土記に天孫及び豐受大神降臨以前に天火明神降臨の地なるとあるのは此の邊の消息を齋らした神話ではあるまいか」と。


この辺りの歴史についてはまだまだ自身の勉強が及ばず、

豐受大神と天火明神の降臨に関しては生涯をかけてでも解き明かしてみたいところ。



さらに続けて、

「函石濱(記事未作成)は場所柄だけに早くも朝鮮支那と交渉が開けて銭貨硬玉の類を傳へ、銅を得て夫れを使用し更に鐵器を用ふる事に至るまでの縮圖(縮図)であると謂はれて居り、(中略) 」


「函石濱」とは「函石濱遺物包含地」と称される国の指定遺跡。

京丹後市久美浜町湊宮の「久美浜湾」を囲むように突き出た半島の根元辺り。5年ほど前に訪れていますが記事未作成。


こちらを含めて「久美浜湾」周辺は、

丹後の中でも大変に重要な地。


四道将軍の一人丹波道主命が河上麻須郎女を娶り日葉酢媛が生まれ、垂仁天皇の後宮入り。それを喜んだ丹波道主命が熊野の神を勧請してきたと伝わる地(熊野神社甲山雲晴神社神谷神社等の記事参照)。


籠神社の社家である海部氏の出身地でもあり、ここから丹後が始まったとしても過言ではないほどの地。



(海部氏の神奈備山であったと思われる甲山と、雲晴神社の鳥居)





脱線しましたが…

少々地理的にあちこち飛びますが…


続けて、

「中郡三重村の學校跡地から出た彌生式土器の渦巻紋様が銅鐸の紋様から来たものであらう…(中略) 其の銅鐸は前記の如く三河内村(みごうちむら)にも明石村にも保存されているから頼母しい。(中略) 本庄上村野尻の鍬の發見の一事は我が丹後史上に重大な意義を齋すまいか。(中略) 遠く神代の遺物であるとのことであった」と。


「三重村の學校跡地」とは、三重神社から東300~400mの辺りかと思います。そこは旧社地に近い所であり重要な社。


「三河内村」は「加悦谷(かやだに)」の西部、こちらも丹後発祥とも言われる大変に重要な地。倭文神社という重要社が鎮座します。


「明石村」は須代神社の境内にて銅鐸が発見されています。


「本庄上村野尻」は宇良神社(浦嶋神社)の南方すぐの辺りかと思います。

こちらは浦島太郎ゆかりの地。浦島太郎は宇治土公(ウジトコ)の裔ですが、西方遥か山奥の「寺領(じりょう)」という地に猿田彦神社が鎮座しており、ここから伊勢へ移ったという伝承も。





少々長くなってきたので今回はここまで。


まだ「緒言」からなかなか前に進みませんが

ぼちぼちと記事にしていきたいと思います。





(伊根町野村寺領の猿田彦神社)