須代神社


丹後国與謝郡
京都府與謝郡与謝野町字赤石599
(境内に駐車可)

■延喜式神名帳
須代神社

■旧社格
村社

■祭神
天明玉命 天太玉命 倉稲魂命


「野田川」流域に広がる「加悦谷」の北部「明石」に鎮座する社。ここは「丹後王国」の前段階の中心地。東側、南側に国内第2・3位の規模の「方形貼石墓」(30m超)、また古墳時代前期後半の蛭子山古墳は日本海三番目の規模。神奈備山「大江山」の北西裾でもあり、また当社神域において銅鐸が出土しています。
◎「須代銅鐸」の概要については案内板を撮影した下部写真にて。出土地は社殿の東80mほどの辺り、御神体山と思われる背後の裏山で発見されています。この場所は花崗岩巨岩が露出しているらしく、祭祀対象であったのかもしれません(現地未確認)
◎この銅鐸出土地をおそらく含むであろう「須代遺跡」が発見されています。三棟の縦穴式住居の他、大溝で囲われた環濠集落。当社はその遺跡内であろうとされ、祭祀場跡から神社へと変遷したと考えることも可能かと思います。
また上述の方形貼石墓一基、蛭子山古墳の他に総数100基近くの古墳が密集する「日吉ヶ丘遺跡」は当社より南方500m程度。どうやら「日吉ヶ丘遺跡」から「須代遺跡」へ移住したようです。
◎当社創建由緒については不明。かつての鎮座地は北方200m余りの「鹿の谷」であったという説も。これが事実であるなら「明石の玉石」が座す付近という可能性も。仮にそうであるなら玉石は御神体ではなかったかなどと考えるのは、飛躍し過ぎでしょうか。
◎また別説として、当地には元々「坂代神社」が鎮座していたのではないかというものも。つまり須代神社が遷座合祀がなされたと。「日本三大実録」に神階授与の記述がみえるものの、行方不明の社となっています。
◎ご祭神はいずれも気になる四座。須勢理姫命はスサノオ神の娘神であり、大己貴神妃。倉稲魂命は須勢理姫命の兄神。天太玉命は忌部氏の太祖であり、天明玉命は天太玉命に従っていた忌部五部神の一。以上を見る限り二系統に分かれると考えます。つまり須勢理姫命・倉稲魂命グループと天明玉命・天太玉命グループ。どちらかが元当社のグループで、どちらかが坂代神社のグループだったのではないかと。
◎「日吉ヶ丘遺跡」では夥しい量の管玉と朱が出土しています。装飾品ばかりですが、盗掘前は相当数の祭祀用具もあったのかもしれません。これらの祭祀用具・装飾品を作った部族が奉戴したのが天明玉命ではないかと考えます。一方の須勢理姫命についてはまったくもって不明。
神名帳においては一座。原初は四座のうちのいずれかだったのであろうと思いますが。






境内は荒れ放題。蛇に噛まれる危険もあり、さすがにこの草むらを掻き分けて進む勇気はありません。



境内の各所に磐座らしきものが散在しています。