(大和国城上郡 野見宿禰塚跡)



■表記
野見宿禰、襲髄命(カネスネノミコト、出雲国第13代国造)、土師弩美宿禰(ハジノノミノスクネ、「播磨国風土記」)


■概要
天穂日命14世の孫、土師氏(はじのうじ)の祖とされています。第13代出雲国造 襲髄命(カネスネノミコト)と同神ともされます(「先代旧事本紀」では第2代、千家氏の「出雲国造伝統略」においては第17代を初代とする)。第11代垂仁天皇に仕えていました。伝説上とみなされることも多い人物です。
◎主な事蹟は二つ。まずは當麻蹶速(タギマノケハヤ)との日本初の天覧相撲。書紀の垂仁七年の条に「當麻蹶速者 天下之力士也 若有比此人耶 一臣進言 臣聞 出雲國有勇士 曰野見宿禰 試召是人 欲當麻蹶速 即日 遣倭直祖長尾市 喚野見宿禰 於是 野見宿禰 自出雲至 則當麻蹶速與野見宿禰令角力 (原文書き下し)」とあります。つまりもっとも強いと豪語していた當麻蹶速に、「出雲國」より野見宿禰が召喚され「角力(相撲)」を執り行ったというもの。結果は野見宿禰が勝ち、當麻蹶速は腰の骨が折れて亡くなっています(当時はどちらかが死ぬまで戦ったか)。ここで解釈が分かれるのは「即日」、「出雲國」より野見宿禰が召喚されたと記していること。一日で出雲国より大和まで来れるはずはなく、大和国城上郡の「出雲」から連れて来られたのではないかという説が出されています。あるいは出雲国出身の野見宿禰が、大和の出雲にいたのではないかととも捉えることができます。当地は野見宿禰に非常に縁が強い地であり、多くの伝承が残されています。ただし後述の内容から、この説を採るには難があるでしょうか。
もう一つの事蹟は、日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)が崩御しその陵墓へ殉死者を埋める代わりに埴輪を造って埋めるのを提案したこと。書紀の垂仁三十二年の条に「喚上出雲國之土部壹佰人 自領土部等 取埴以造作人馬及種種物形(原文書き下し)」とあります。つまり「出雲國」から土部(はじべ)100人を呼び寄せ、人馬など種々の物の形をした埴輪(形象埴輪)を作らせようとしたということ。こちらも大和国城上郡の「出雲」ではなく「出雲国」からとあります。ところが埴輪の起源は吉備国と考えられており、記述の内容とは今のところ合致していません。日葉酢媛命の陵墓に治定されている「佐紀陵山古墳」(4世紀末頃)には、すでに製作技術が高まった埴輪が据えられています。3世紀中頃の古墳から形象埴輪は見られています。
◎「野見」とは。いくつか説は出されているようですが、根拠も乏しくおおよそ定説には程遠いもの。「襲髄」などから連想される、工具の「鑿(ノミ)」説。古墳に適した地(野)を見る職業から説などがあるようです。
「鑿」に関しては當麻蹶速との説話から、古墳築造職に携わる権利を奪ったものと考える説もあるようです。
◎出身地・根拠地についての問題。まず上記の通り出雲国、あるいは大和城上郡の出雲が挙げられます。墳墓とされる伝承地はいくつかあります。摂津国上島郡「宿禰塚古墳」、大和国城上郡「野見宿禰塚跡」、因幡国の大野見宿禰神社境内の円墳など。こちらも一定していません。


■系譜
垂仁天皇への埴輪提案の功績により「土師」姓を賜っていますが、後裔は土師氏を名乗っています。後に土師氏の血を引く桓武天皇に姓を与えられ、大枝氏(後に大江氏、山城国乙訓郡)・菅原氏(大和国添下郡)・秋篠氏()に分かれていきました。大江氏からは大江匡房や大江広元、菅原氏からは菅原道真などが輩出されています。


■祀られる神社(参拝済み社のみ)
北野天満宮(境内社に野見宿禰社)
片埜神社(野見宿禰創祀)
石津神社(初代神主、境内社に野見宿禰社)
菅原天満宮(大和国添下郡)
相撲神社(當麻蹶速との試合会場)
十二柱神社(大和国城上郡 隠口、野見宿禰塚が元あったところ、他にも伝承あり)
神魂神社(裏山の岩を用いて修行した)
野見宿禰神社(出雲国、出雲大社境内)

※関連史跡(訪問済み地のみ)
佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵墓)


(大和国城上郡 相撲神社)