皆さんこんにちは。
いかがお過ごしでしょうか。今回は韓国や朝鮮の人々にとっておそらく屈辱的であろう記念碑のひとつ三田渡碑(삼전도비)について紹介します。
以前、南漢山城をご紹介したことがあります。南漢山城(남한산성)は韓流時代劇に良く登場する場所でもあり、近年ではイビョンホン主演の天空の城(原題:남한산성)でも最後にこの記念碑が登場しました。
16世紀末、秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)後、東アジア情勢は急変します。日本は豊臣氏に代わり徳川氏が征夷大将軍として江戸に幕府を開きます。
その頃、中国では漢民族の明王朝に代り、女真族のつくった後金(1636年 清と改める)が勢力を伸ばします。後金の覇権が決定的な状況になっても、朝鮮は以前の宗主国である明に忠義だてし、後金に従おうとしません。それでも宣祖の後を継いだ光海君は、中国での状況を見て中立を保とうとしますが、明への忠義だてという名分論にこだわる重臣たちは光海君を退位させ、仁祖を王位につけます(仁祖反正)。仁祖は光海君の政策を否定し、親明排金政策へと舵を切ります。
これは後金を刺激し、二度の後金の侵入を招くことになります。1627年(仁祖5年) の丁卯胡乱(정묘호란)と1634 年(仁祖14年)の 丙子胡乱(병자호란)です。
2回目の丙子胡乱の際には、国王の仁祖が南漢山城にたてこもるなど徹底抗戦の構えを見せます。しかし相手は激戦を勝ち抜いてきた百戦錬磨の軍です。籠城したものの、冬の厳しい寒さに飢餓が襲来、絶体絶命の状況の中で、47日間も経過します。結局は持ちこたえられず、清と屈辱的な和睦を結ぶことになります。
そして漢江の三田渡で仁祖が清太宗に謝罪したことを記念する碑がいわゆる三田渡碑で正式には「清太宗功徳碑」(청태종공덕비)と言います。
三田渡碑は1963年の文化財指定当時の地名にちなんで三田渡碑とされました。三田渡は漢江の渡し場でしたが、1970年代以降、漢江開発のためになくなりました。
碑は現在はロッテワールド近くの人造湖石村湖を見下ろす丘の上に立てられていますが、本来の位置は湖の中だと推定されています。この記念碑は、大理石の系統の石で作られており、亀趺 上に碑文を刻んだ塔身を立てています。
碑文は朝鮮仁祖が清に降伏した経緯と清太宗の功徳を称賛する内容で、前面 左側にはモンゴル文字、右には満州文字、裏面は漢字がそれぞれ刻まれており、17世紀の三国の言語研究に重要な資料でもあります。
しかし朝鮮の人々にとって、碑文の内容は実に屈辱的な内容です。1895年(高宗33年)高宗は三田渡碑を地面に埋めさせましたが、植民地時代の1913年、日本は再び三田渡碑を立て、1956年には文教部の主導で再び埋められるなど記念碑の受難は続きました。1963年に起きた洪水で記念碑の姿が明らかになった後、史跡第101号に指定されました。 1983年石村洞に近いこの場所石村湖の周りに移されました。
南漢山城とならび17世紀の東アジアの動乱の様子をしのばせる遺跡をめぐるのはいかがでしょうか。