(再録)わが家のルーツ | 野球少年のひとりごと

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(再録・2019.8.9既出)

夕方になってから、隣に住む次男の車で女房と次男のところの4年生になる男の子と一緒に、お墓参りに行く。お墓は車で10分足らずの流木墓苑(岸和田市墓苑)で、半世紀ほど前に出来た当時は近畿でも有数の広大な墓域をもつことで知られていた。わが先祖代々の墓も祖母が存命の時代に貝塚市の津田にある堀新墓地から流木墓苑に移した。津田のほうのお墓もおそらくお盆かお彼岸であったと思うが、子供の頃に母と一緒にお参りしたことを覚えている。日中の暑い盛りをさけてのこの時間帯のお参りははじめてのことであるが、他に参っている人も少なく落ち着いてお参りすることができる。帰宅して玄関で、孫たち(小学2年生になる双子の女の子)に連れて帰ってきた父母、祖父母、祖祖父母らを背負わせて仏壇(書斎にある)で降ろさせる。

 

わが家のルーツであるが、曾祖父母・弥七、うたに始まる。岸和田の土生で「ごへい」という屋号を持つ百姓が本家であったらしいが、どうも逼塞し貝塚市の堀之町に落ち延びたらしい。祖父母である、弥七夫婦の長男である市太郎は最初は床屋、途中から魚屋に転じたようであるが、そのことは祖母コノからよく聞かされた話で、昔(明治から大正のはじめにかけて)は床屋に町の不良が集まるようなことが多く、子供の教育に悪いので床屋をやめ魚屋をはじめたという。そのときに必ず、子供であるわたしなどに「孟母三遷の教え」などという難しいことわざとともに教えてくれたものである。

 

その祖母は、和歌山の日高郡日高町比井(通称アメリカ村の近く)の出で、実家は漁船をつくる造船所を経営していて江戸時代から「名字帯刀」とか和歌山の高額納税者に名を連ねていたとか話していた。祖父は滅法喧嘩が強く、大抵の侠客など相手にしないくらいの腕っぷしだったようだが、どうして祖母と知り合ったのか不思議である。祖母は娘時代に岸和田の浜の網元の家に行儀見習いで来ていたところが、おそらくどこかでこの不良青年に見込まれたのであろう。ふたりが暮らし始めた直後に、和歌山から兄たちが連れ戻しに来たときに祖母は部屋のどこかに隠れて連れ戻されなかったそうである。後年、わたしの妹が盆踊りにゆくことなどを祖母は大変嫌っていたので、その辺にヒントがありそうである。

 

祖父の侠客まがいの生活ぶりは、曾祖父の弟が明治から大正にかけて泉州地区でいちばん名の通った博徒組織の親分であったことも影響しているかもしれない。その祖父も、長男である父が朝日新聞に勤めるようになってからは随分大人しくなり、最晩年に喧嘩しそうになりふと傍にある電柱に朝日新聞の広告が貼ってあるのが見えたときに、息子のことを考えて自重したなどと話していたらしい。

 

貝塚市で祖父は魚屋を祖母は呉服屋を営み少し羽振りがよくなったのだと思うが、岸和田の商店街に店舗付き住宅を購入しそこで祖母が呉服屋(後に、画材店)を営み、もう1か所当時としたら少し大きい家を(わたしが生まれ育ったところ)購入した。その家の2階を増築し父のアトリエを作った。父はそこで37年暮らし死んだ。母はアルツハイマーで急激に衰え、最後は貝塚市にある老人ホーム「水間が丘」で亡くなることになるが、母をそこに入所させた帰りに通った造成中の当地に引っ越しすることを決めたのも、母の暮らすところと至近のところであることが大きかった。

 

母は宮崎の生まれで、子供の出来なかった叔母夫婦の家に貰われていったがその東京の家がわりと大きい鉄工所を経営していて、千葉の千倉に別荘を持ち戦時中は海軍に零戦を何機か献納したり、出身地の茨城の小学校に講堂を寄付するなど、経済的には大変に恵まれたようだが家庭的な暮らしとは縁遠く、娘時代(女学校をやめて)に家出し神戸で暮らしていたときに、父の姉に望まれて15歳も年長の父のもとに嫁いできた。育った環境が大きかったと思うが、家庭を大変大切にした。実家と比べて裕福とはいえない絵描きの暮らしを明るい性格で支え、わたしら3人の子供を育てあげた。晩年アルツハイマーに捉われなかったら、もう少し親孝行めいたことができたのにと思う。……と言うようなことをあらためて考えさせられる、お墓参りでありお盆である。