失って知る本当の価値/国民の意識改革を求める裁判員制度 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

投票率が低いからといって、20代の人の選挙権の在り方を見直そう、などと言ったら、おそらく20代の人は、馬鹿にするな、と声を上げるのではないか。


他人が棄権しようがしまいが、自分たちに選挙権が与えられていることに大きな意義がある。

一旦選挙権を失ったら、いつ選挙権を取り戻せるか分からない。

自分たちの国政参加の権利を、大事にしようではないか。


多分、そういう声が主流になると思う。


さて、ここに来て、裁判員制度が持っている重大な意義をどこかに置き忘れて、ごく自分の個人的な観点から裁判員制度の実施に反対の声を上げている人を見かけるようになった。


自分は、人を裁くというような大それたことは出来ません。

そういう声を聞く。


その気持ちも分からないではないが、それでは、何故裁判官は人を裁くことが出来るのか。

そう質問してみたい。

司法試験に合格して、専門的な勉強をしているから?

どこかに人を裁く基準が定められており、裁判官はその解釈や基準の当てはめに熟練している専門家だから?


確かに一理は、ある。

しかし、よく考えると、「人を裁く基準」はどこにあるのか。

その基準の妥当性はどこにあるのか。

その基準の権威はどこから来るのか。

そういった問題にぶち当たるはずだ。


「人を裁く基準」は、結局、法である。

その法は、どこからくるのか。


専制君主制国家であれば、王という答えがあるかも知れない。

しかし、日本は議会制民主主義国家である。

法は、国民に由来するものである。

その法を具体的に条文にしたものが、法律である。


国会議員が法律を作ることができるのは、国会議員が国民から選ばれているから。

すなわち、国民に基盤を置いているから、国会議員は立法に携わることができる。

裁判も、本来国民に基盤を置くものでなければならないはずだ。

裁判に関する制度は、すべて国会が定めている。


だからそれでいい、ということになるか。

世界を見渡すと、陪審制度やや参審制度が当たり前になっている。

司法にも直接国民が関与するのが、当たり前の国と、日本のように裁判官にまかせきりの国。

どちらがいいか。


私は、やはり司法はもっとしっかり国民に基盤を置くものでなければならない、と思っている。

折角の裁判員制度を先送りしよう、止めよう、などというのは、どうにも筋違いの議論のように思えてならない。


あなたは、それでも裁判員制度を先送りしたいですか。