「日田」~「中津市」辺りが邪馬台国の候補地となる理由の一つ、中津市の「耶馬溪」。*画像はWikiより






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (18)







ここに来るまで半年はかかるかな…

などと思ってました。


まさか秦氏について
多少ながらも触れるとは…。



でもまだまだ最後までには至りません。

秦氏よりも謎めき
秦氏よりも古い時代からの氏族が見え隠れしていました。

忌部氏かな~などと目処を立てていたら
まだその後ろにとんでもない氏族が隠れていました。


大慌てで勉強中です(笑)


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■過去記事
(1) … 序章・「阿蘇ピンク石」石棺例一覧
(2) … 「阿蘇ピンク石」とは・石棺例一覧の訂正
(3) … 「大王のひつぎ航海実験」
(4) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~1
(5) … 「阿蘇石」と「舟型石棺」 ~2
(6) … 「阿蘇石」と「磐井の乱」
(7) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~1
(8) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~2
(9) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~3
(10) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 (追加修正)
(11) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~4
(12) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~5
(13) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~6
(14) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~7
(15) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~8
(16) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~9
(17) … 「阿蘇ピンク石」製の石棺例 ~10

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紀伊国造家の首長墓とみられる大日山35号墳(岩橋千塚古墳群内)の鳥型埴輪。 




■ 紀氏と秦氏

◎紀氏と秦氏の起こり

かつて紀氏(紀朝臣系統 →詳細は第5回目の記事にて)の配下にあった秦氏。葛城氏や蘇我氏とともに、いずれも武内宿禰の御子たちから出たとされる氏族。

それぞれに上下関係がみられます。当初勢力を伸ばしたのが葛城氏。没落後は平群氏、さらにその後は蘇我氏。

一通り整理しておきます。武内宿禰の御子たちと、その後裔氏族。安易に鵜呑みにはできませんが(Wiki掲載の系譜より)。

*羽田八代宿禰 → 波多氏(秦氏)
*許勢小柄宿禰 → 許勢氏(巨勢氏)
*石川宿禰 → 蘇我氏
*平群木菟宿禰 → 平群氏
*紀角宿禰 → 紀氏
葛城襲津彦 → 葛城氏

そもそも武内宿禰そのものが怪しい存在であり、実在したとしても5代の天皇に仕え(神功皇后を含めると6代)、330歳まで生きた…と、少なからず虚構が含まれます。

ここではその考証は控えますが、いずれの氏族も、連なる生駒・葛城・金剛山麓から同時期に発生していることから、系譜上の繋がりはあるのだろうと思います。

この時点で秦氏は紀氏の配下。紀氏は葛城氏の配下。後に没落した葛城氏の代わりに、そのまま平群氏が取って代わります。平群氏はすぐに没落、最後に蘇我氏が取って代わりました。

後に生まれた子から出た氏族の方が優位となったのは、末子相続制の名残によるものではないかと密かに考えていますが、未だこれについて論じられたものは見ません。



◎紀氏の衰退

紀氏は衰退していく運命にありました。代わるように勢力を広げたのが秦氏。立場は逆転します。

その典型的な一例が伏見稲荷大社。秦氏の権勢の象徴の一例としてみられる社ですが、創建に携わったのは紀氏。それ故がため鎮座地が属するのは紀伊郡。ところが秦氏の思うままに麓への遷座などがなされました。

紀氏の衰退と秦氏の興隆はさまざまな要因が絡み合い、一言では到底言い表せません。平安時代の初めには藤原氏により、大伴氏とともに完全に排除されました。



◎秦氏について

秦氏について語ることができるほどの域には達していません。また到底一記事やそこらで収まるほどの氏族でもありません。
ここではこのテーマ記事「阿蘇ピンク石」製石棺に多少なりとも関わることのみに留めます。

*紀の記述
応神天皇の御代、弓月君(ユヅキノキミ)が百二十県の民を率いて渡来し帰化したとあります。
これには葛城襲津彦や平群木菟宿禰(ヘグリノツクノスクネ、武内宿禰の子)、的戸田宿禰が助けを出しています。

「新撰姓氏録」においても同様に弓月君を祖としています。



*「豊前国風土記」逸文の記述
━━昔、新羅国の神渡り来りて「鹿春」(かはる、後に「香春」)の郷に住みき。名づけて鹿春の神と曰う。郷の北に峰あり、頂きに沼有り、黄楊(つげ)樹生ひ、又、竜骨あり。第二の峰には銅あり…(以下略)━━

この「新羅国の神」というのが、天日槍神のこと或いは妻神とされる比売許曽神(赤留比売)ではないかと。そしてその後裔が秦氏ではないかとする説があります。


「香春岳」 *フリー画像より



*香春神社
祭神/辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比咩

辛国息長大姫大目命は神功皇后を連想させる神名。「続日本後記」には息長比咩(神功皇后)のことを「辛国息長火姫大日命」と記しています。息長氏の遠祖は天日槍神

忍骨命は天忍穂耳命、豊比咩は豊玉姫のこととされるも詳細不明、諸説あり。

「豊前国風土記」逸文には、
━━田川郡 鏡山。昔、気長足姫尊(息長足姫、=神功皇后)が此の山に登り、天神地祇に新羅征討の成功を祈って鏡を安置した。その鏡が石と化し現に山の中にある。それで鏡山という━━とあります。

*「香春社縁起」の記述
━━新羅神は比売許曽神(ヒメコソノカミ、赤留比売・アカルヒメ)の垂迹で、摂津国東生郡・比売許曽神社と同体也━━

比売許曽神は新羅にて日光感精による卵生型神話を持ち、豊前国姫島に降臨(比売語曽神社社)、後に摂津国東生郡へ移ったというもの。


香春神社 *画像はWikiより



*秦氏の出身は?
上記を史実とすると出身は「新羅」。「新撰姓氏録」においては弓月君は「秦」(始皇帝の後裔)。弓月君は古代朝鮮語では「クンダラ」であり、「百済」を出自とするのではないかと。
このように説が分かれています。天日槍神は元新羅王子とみられています。


◎赤三角 … 左上/香春岳、右上/宇佐神宮、左下/英彦山
◎紫三角 … 左上/宮地嶽神社(筑紫君磐井の墳墓)、右上/比売語曽神社、真ん中/阿蘇山
◎左下のピンポイントまみれ…宇土半島



*秦氏と豊前・豊後国
秦氏が「香春岳」や「英彦山(ひこさん)」、宇佐神宮(記事未作成)など豊国を拠点としていたという説は多く見受けられます。

なかでも「銅」が鍵になると見出だし、豊国においての秦氏との繋がりを導き出した説があります。卓見に値すると思っています。

ところがこれを実証し得る文献等は存在せず、一説という度合い。

「(豊国には)秦部や氏名が横溢している」とするのはWiki。これは「秦部」という部民と、それを在地管理した「勝」姓が横溢しているというもの。さらにこの「勝」姓を管理していたのが秦氏。



*「英彦山(ひこさん)」
豊前国西端に聳える山。縄文時代からの遺跡もみられ、原始より霊峰として崇められていたようです。

開山は継体天皇二十五年(531年)、北魏の僧によるもの。「磐井の乱」の4年後のこと。

かつては「日子山」と称され、「英彦山」と呼ばれるようになったのは江戸時代。天忍穂耳命が鎮まるとされたことから、「日(天照大神)の子の山」という説話がありますが、山名は太陽信仰の名残りではないかという思いを隠せません。

大和岩雄氏は「秦氏の研究」の中で、
━━朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承では語られていたが、それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命となり、香春神社の祭神の忍骨命となったのである━━
としています。

なお「彦山修験道縁起」という書には、宗像三神が「英彦山」より宇佐へ移ったとしています。

━━宗像三神は日の神を奉り、勅命により最後に宇佐に降りた。大己貴神が娶った田心姫命・瑞津姫命は「英彦山」の北峰に鎮座し北峰の主となった。市杵島姫命は「英彦山」の中腹に鎮座。忍穂耳命の霊は、鷹と一つになって、東から飛来してこの嶺に止まった。大己貴神は、北峰を忍穂耳尊に献上したのでこの山を「日子」という。田心姫命、瑞津姫命は、北山を降りた。宗像三女神と大己貴神は、「許斐山(このみやま)」に移った━━

この辺りには「鷹」の伝承が多く、何らかを示唆しているのだろうとして、いろいろな研究がなされているようで関心を持っています。
現時点では直接関係がなさそうに思うので、触れずにおきます。


「英彦山」と山頂に鎮座する英彦山神宮上津宮
*フリー画像より



*比多(日田)国
「英彦山」の南麓にあたるのが日田市。小迫辻原遺跡など邪馬台国説も根強くある地。

続紀にはこの「比多(日田)」が「日向」であると記されています。太陽信仰のある「英彦山」に向かって…ということなのでしょうか。


景行天皇の九州遠征の際に、「會所山」にて久津媛が出迎え「土蜘蛛」を征伐したことなどが、「豊後国風土記」等に記されます。會所神社が鎮座します(山頂には久津媛神社が鎮座)。
(参照→ 土蜘蛛 十八顧)


この比多(日田)国の初代国造となったのは鳥羽宿禰(止波宿禰)。「會所宮」に住み、景行天皇と久津媛を會所神社に祀りました。
元々は「會所宮」に鎮座、後に遷座されたのが石井神社。鳥羽宿禰が祀られています。ご神宝に銅戈があるとのこと。

「石井」が「磐井」、つまり「阿蘇ピンク石」石棺にも大いに関わる「筑紫君磐井の乱」の磐井に繋がるのではないか?妄想に過ぎませんが…。

「先代旧事本紀 国造本紀」には、「成務天皇の時代に葛城国造と同祖である止波宿禰を比多国造に定めた」とあります。

「葛城国造と同祖」に注目!




「會所山」と久津媛神社



*剣根命
大和国の初代葛城国造。大和国内では葛城地方にかかわらず、いくつかの場所で祀られています。

「先代旧事本紀 国造本紀」に止波宿禰と同祖である剣根命が、神武天皇即位二年に葛城国造に定められたとあります。

一方、紀の神武天皇二年春二月の段には、
━━神武天皇は論功行賞を行った。道臣命は宅地を賜り築坂邑に居らしめた。ことのほかの寵愛ぶりだった。また大来目を畝傍山の西、川辺の地に居らしめた。今来目邑と名付くのはこれがその縁である。珍彦(椎根津彦)を倭国造と為した。また弟猾(オトウカシ)に猛田邑を給うた。因りて猛田の縣主という。これは菟田主水部(ウダノモヒトリラに)の遠祖である。弟磯城、名は黒速を磯城の縣主と為す。また剣根を葛城国造と為した。また八咫烏も行賞のあった一人。その子孫は葛野主殿縣主(カドノトノモリノアガタヌシラ)がこれである━━

・「築坂邑」 … 「畝傍山」の南西外れ辺り(→ 鳥坂神社境内に比定)
・大来目の畝傍山の西、川辺の地 … 久米御縣神社や久米寺がある辺り(「畝傍山」の南側麓なので西池尻町や吉田町辺りも含んでいたか)
珍彦(椎根津彦)の倭国 … 大和神社(山邊郡)の旧社地(現社地の東方か)
・「猛田邑」 … 詳細地不明、「菟田野宇賀志」辺りか(宇賀神社が鎮座)
・「磯城」 … 詳細地不明、城下郡・城上郡・十市郡のいずれか
・「葛野」 … 山城国葛野郡(京都市内の中心部)

補足として一応すべての場所の簡単な説明を施しておきました。このテーマ記事に関わるのは道臣命・大来目・剣根辺りでしょうか。

剣根命のみ神武東征時の活躍譚は無し。一切の事蹟の記述がありません。

特記するほどの華々しい活躍はないが、東征全般的に堅実な活躍をしていたということでしょうか?

この後裔が葛城直(カツラギノアタヒ)。「新撰姓氏録」には高魂命(高御産霊神)五世孫と記されます。

ちなみに2代前は陶津耳命(スエツミミノミコト)。

一般に「葛城氏」とされる氏族は異なる氏族。「葛城氏」は「葛城臣」とも称されます。ただし葛城襲津彦は、葛城直荒田彦の娘である葛比売を母とします。



大和国葛下郡 葛木御縣神社



*葛城直
初代葛城国造である剣根命を祖とする氏族。氏神は葛木御縣神社葛城一言主神社といったところ。


「姓氏家系大辞典」に、「(葛城直は)九州日田の豪族として神武天皇の東征に従」とあります。

そうなのです!日田に住んでいたのです!
だから鳥羽宿禰と同祖(高御産霊神)なのです。

東征を始めたばかりの神日本磐余彦(神武天皇)にとって、剣根命は良き相棒だった?
或いは剣根命と一緒だから東征を決断した?

2人のいきさつは分かりようもないので、妄想を楽しんでみたりしていますが…。

剣根命7世孫が荒田彦命。この娘、葛比売を武内宿禰が娶って生まれたのが葛城襲津彦(「紀氏家牒」より)。


鳥羽宿禰は荒田彦命の子とみられます。これを史実とするなら、大和国あるいは紀伊国から葛城直の出身地「比多」に国造として任命されたということになります。




◎肥後国の媛社神社(ひめこそじんじゃ)

舞台はようやく「豊国」から「火の国」へ戻ります。肥後国に媛社神社(未参拝)が鎮座します。



*媛社神社

肥後国基肄郡(現在の福岡県小郡市)に鎮座。通称「七夕神社」。全国から寄せられる30万枚もの短冊飾りで彩られる「七夕祭り」で知られる社。

祭神/栲幡千千姫命(織姫)・天火明命(織姫の長男)・高御産霊尊(天帝 織姫の父)・宗像神


小郡市観光協会などは天火明命を饒速日命としていますが、これは「先代旧事本紀」が同神としてしまったことによるもの。まったくの別神です。

「社(こそ)」というのは古代においてたびたびみられる用例。丹後国の藤社神社(ふじこそじんじゃ)なども。

願望の意を表す助詞「こそ」。これは現代でも使われますが(「次こそ成し遂げる」など)、社に祈願することから「社」の字が宛てられました。「比売許曽神」は「比売に祈りを捧げる」ということから生まれた言葉とされます。

豊前国姫島の比売語曽神社や摂津国東生郡の比売許曽神社は、赤留比売に対して、当社に関しては栲幡千千姫命に対して祈りを捧げる…ということからの「社(こそ)」。

*「肥前国風土記」の基肄郡「姫社の郷」の記述

━━「姫社の郷」 この郷の中に川がある。名を山道(やまじ)川という。その源は郡の北の山(基山)から出て、南に流れて御井の大川(筑後川)とであっている。昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合であった。そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、そのト占のしめすところでは、「筑前国宗像郡の人、珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられれば祟らない」とお告げがありました。宗像の珂是古が幡を捧げて「私に祀ってほしいならこの幡よ順風に飛んで祈る神の辺りに落ちよ」と祈祷し、幡を飛ばして占ってみると御原郡の姫社の杜(七夕神社)に落ち、また還り飛んで山道川の辺りに落ちました(姫古曽神社)。その夜に、夢に機織り道具が回りながら出てきて珂是古を押さえ、そこで祟る神様が女神様で有ることがわかり神社を建てて祀った━━(Wikiより引用)

珂是古(カゼコ)とは水沼君の祖。水間氏とも。水沼氏は景行天皇第3皇子 国乳別皇子を始祖とします。宗像大社を奉斎した氏族。

「先代旧事本紀」に、「物部阿遅古連(モノノベノアヂコノムラジ)は筑紫の水沼君の祖なり」とありますが、物部阿遅古連が珂是古のこと。「磐井の乱」の後に筑紫国を支配した物部麁鹿火の配下になったことから、物部氏に組み込まれたのでしょうか。

この説話により、本来は宗像神を祀る社であったことが分かります。

さて…宗像神ですが、少なからず秦氏と関わるのは明白。秦氏が奉斎した山城国葛野郡の松尾大社のご祭神は大山咋神と市寸嶋比売命。


媛社神社(七夕神社) *画像はWikiより



*比売許曽神と下照比売とは同神か?

いずれそれなりのレベルまで自身を高めて、言及していきたいとは考えてはいますが、現状では「比売許曽神と下照比売とは同神か?」その可能性を考えている…というレベルまで。

事代主神の娘とされている一方で、渡来人が奉斎した神でも。こちらも別々の神が習合した可能性は比定できないのですが。

媛社神社の扁額には「磐船神社」と「織物神社」と二つが掲げられています。また通称「七夕神社」であること。

一般に「七夕」というのが中国から流入したのは奈良時代とされ、日本古来の「棚機津女」と習合し、独自の文化が生み出された…などと言われます。

大和国葛下郡に棚機神社が鎮座。ご祭神は棚機神ですが、下照比売が祀られているとも言われています。境内には下照比売の伝承墳墓も。

機織と言えば倭文氏(シズリノウジ、シドリノウジ)、秦氏などが関わってきます。棚機神は棚機神社から遷され最終的に葛城倭文坐天羽雷命神社に鎮まっています。また葛城倭文坐天羽雷命神社は「染野」という地に、その北方には秦氏の名残を残す「畑」という地名が残ります。





今回はここまで。

記事作成を始めてから計10日ほどかかりました。UPが大変遅れましたが…

元々は紀氏と大伴氏のことを書いていたのが、
どうしても先に挟み込まねばならないことがいくつも出てきてしまったのが原因。

いろんなことを調べまくりました(笑)

既に忘れてしまっていたことも多く見つかり、10年ほど前のレベルと大して変わっていない?…なんてことも。

総じて今回は特に
レベルアップできているかな…と思っているのですが。


既に紀氏と大伴氏の記事はいくぶんかできてはいますが、またかなりの時間を要するかもしれません。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。